住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

放下ということ

2005年10月21日 14時37分28秒 | 仏教に関する様々なお話
放下(ほうげ)とは捨てるということ。思い計らいを捨てるということ。ものたりない、おもしろくない、つまらない、そんな心を捨ててしまえということだ。禅の言葉であり、茶道でもよく使われたりする。

チベットの仏教では、在家の人たちでも五体投地礼をする。両膝両肘それに額を地につけてする礼拝を五体投地というが、彼らは身体全てを地に投げ出してベタッと地に伏せてしまう礼拝をする。その場合の礼拝とはそれこそ自分のすべてを仏様に投げ出し捨ててしまうことを意味している。

チベットの人たちは、そうした礼拝を法要の時とかでお坊さんたちが本堂で読経している間中外で繰り返したりする。それを何万回も繰り返す行もあるという。カイラスだったか聖なる山を巡礼するときには、そのすべての行程をその五体投地礼によって、つま先から腕を伸ばした指先までを一回の礼拝として前進しつつ巡る人たちもある。

高野山で私たちがした礼拝行は、四度加行の初期に2週間ほど、一日三座の行の前に百八礼するというもの。その場合はチベットのような礼拝ではなく、樒の枝を持って両膝両肘と額を床に着け礼拝する。

天台宗の比叡山延暦寺では、相好行と言って、一日中礼拝する行があり、それを何日も続けて仏の姿が立ち現れるまでするという。3ヶ月も4ヶ月もかかる人があると何かの本に書いてあったのを記憶している。大変な修行をしている。

この放下というのは礼拝行に限らず、念仏ということの根本にあらねばならない心でもある。すべての思い計らいを阿弥陀さまにあずけてしまうということが大切であって、本来はただ極楽に行きたいという思いだけの念仏は成り立たないことになる。

だからこそ阿弥陀さまの功徳力によって弥陀の浄土に往生する。法然さん親鸞さんの念仏には、己に対するものすごい自己内省がもとにあって、そこから己を捨てる、つまりこの放下という心境にいたって初めて信心が確立するというものであろう。

ここに今日沢山の御祈願をいただき焚いた護摩の修行も、皆さんの思い願いを本尊様お薬師さまにすべておあずけする、火の中にすべての思いを焼いて手放してしまうことによって、心の中に何もないすがすがしい心、何のわだかりもない清らかさを得てもらうものではないかと私は思っている。

私たちはいつも様々な思いをかかえ、つい不平不満が先に立ち、周りを見渡せばすぐに文句が出たり、陰口ばかりが心にのぼりがちな私たちではあるけれども、月一回こうして護摩の火にそうした思いをみんな焼いてもらって心の中をきれいさっぱりにする、つまりはこの放下ということがこの護摩の修行の大きな意味するところなのではないかと思う。(本日午前8時からの護摩供後の法話にて)
コメント (1)
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