(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座に連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)
伝来前夜
二千五百年前にお釈迦様がおさとりになり、その教えをお説きになったことに始まる仏教は、その後様々な時代の変遷に翻弄され変容を遂げていきました。経と律という教えと規範にくわえ、教えを体系化し、より精緻にまとめ上げた論が登場し、僧団の分裂やお釈迦様の神格化を経て、仏像が登場し、大衆のための新しい大乗の教えが作られていきました。
中国には仏滅後四五百年、西暦前後には早くも仏教が伝えられ、異国情緒に溢れた儀礼がもてはやされ、瞬く間に中国社会に浸透していきました。しかし既に文化的素養のあった中国では仏教がそのまま受け入れられたのではなく、かなりの中国化を経て広まり、彼らの気風にあった教えが尊重されたのでした。
このことは我が国に伝えられた仏教が既にかなり異質なものであった事実を物語っているのであり、様々な時代に作られた経典類もみな同等にお釈迦様の教えであるとして受け入れてしまいました。当然のことながら当時文献史的価値付けをすることもかなわなかったのであり、そうした背景を私たちは知りつつ、その歩みを見ていく必要があるようです。それではまず伝来時の事情から歴史を紐解くことにいたしましょう。
仏教伝来
日本へ仏教を伝える百済には四世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。その後百済は新羅高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産に金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦五三八)と伝えられています。欽明天皇七年のことでした。
既にインドでは仏滅後一千年が経ち、唯識説が確立しそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。
欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。当時は仏を「他国神」「蕃神」などと記し、日本の神と同等のものとして仏を捉えていたようです。
仏を招福神とみるか災厄神として捉えるかで争われたこの崇仏排仏に端を発した両者の抗争は政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。
その後百済や高句麗から仏像や仏舎利などが移入され、それら仏像などに仕える修行僧を必要としたため、蘇我氏の後の氏寺法興寺にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の三人の尼僧が誕生し、大会と設斎が行われました。
これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀には「仏法の初め、これよりなれり」と記されています。おそらく当時既に複数の僧が朝鮮から渡り数々の儀礼も行っていたのでありましょう。後に善信尼等は正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。
聖徳太子の仏教
推古天皇は即位(五九三)とともに兄用命帝の子聖徳太子を摂政として指名しました。日本の国家的黎明期における先覚者である太子は、かつて物部氏との戦いに先勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、摂政になると、翌年には「三宝興隆」の詔勅を発し仏教を基礎にした国民の道徳精神を高め、高麗僧慧慈と百済僧慧聰を三宝の棟梁として二人から親しく教えを受けられました。
太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。
この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせました。これによって、それまで朝鮮半島を経由して流入していた仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。
六〇六年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は政務にあまり関わらず仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残されています。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論があるところではありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。
これらの著作で注目されるのは、大乗の教えをも越えた絶対的一大乗を唱え、世俗を離れ一人山中坐禅に専念することを小乗と戒めるなど。広く人々を救うとする大乗教の重視、在俗の身による修行を尊重するこれら太子の思想傾向は後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。
六二二年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。つづく
伝来前夜
二千五百年前にお釈迦様がおさとりになり、その教えをお説きになったことに始まる仏教は、その後様々な時代の変遷に翻弄され変容を遂げていきました。経と律という教えと規範にくわえ、教えを体系化し、より精緻にまとめ上げた論が登場し、僧団の分裂やお釈迦様の神格化を経て、仏像が登場し、大衆のための新しい大乗の教えが作られていきました。
中国には仏滅後四五百年、西暦前後には早くも仏教が伝えられ、異国情緒に溢れた儀礼がもてはやされ、瞬く間に中国社会に浸透していきました。しかし既に文化的素養のあった中国では仏教がそのまま受け入れられたのではなく、かなりの中国化を経て広まり、彼らの気風にあった教えが尊重されたのでした。
このことは我が国に伝えられた仏教が既にかなり異質なものであった事実を物語っているのであり、様々な時代に作られた経典類もみな同等にお釈迦様の教えであるとして受け入れてしまいました。当然のことながら当時文献史的価値付けをすることもかなわなかったのであり、そうした背景を私たちは知りつつ、その歩みを見ていく必要があるようです。それではまず伝来時の事情から歴史を紐解くことにいたしましょう。
仏教伝来
日本へ仏教を伝える百済には四世紀の中葉、インド系の僧摩羅難陀が海路百済を訪れ仏教を伝えたといわれています。その後百済は新羅高句麗連合軍との戦時下に入り、任那を領有していた日本に援軍を頼む際の土産に金銅の釈迦仏像と経巻ならびに僧をわが国の朝廷に贈ったというのが仏教の公伝(西暦五三八)と伝えられています。欽明天皇七年のことでした。
既にインドでは仏滅後一千年が経ち、唯識説が確立しそろそろ密教が勃興してくる時代。中国では鳩摩羅什が法華経、華厳経といった重要経典を含む膨大な経典を翻訳し終わった時代のことでした。
欽明天皇の「西蕃の仏を受け入れるべきや否や」との問いに、蘇我氏は諸国の例に倣うべきであるとして賛成し、物部氏は古来の天神地祇の怒りを招くとして反対したと言われます。当時は仏を「他国神」「蕃神」などと記し、日本の神と同等のものとして仏を捉えていたようです。
仏を招福神とみるか災厄神として捉えるかで争われたこの崇仏排仏に端を発した両者の抗争は政治的社会的権力争いの様相を呈し戦闘にまで発展しました。結局崇仏派の蘇我氏が勝利したことによって仏教は豪族たちの間で採用され、競って氏寺を建立し、美しい仏像や経典類の調達に奔走することになりました。
その後百済や高句麗から仏像や仏舎利などが移入され、それら仏像などに仕える修行僧を必要としたため、蘇我氏の後の氏寺法興寺にて、高句麗僧恵便を師として司馬達等の娘らが出家して善信、禅蔵、恵善の三人の尼僧が誕生し、大会と設斎が行われました。
これをもって日本仏教史上の起点と位置づけ、日本書紀には「仏法の初め、これよりなれり」と記されています。おそらく当時既に複数の僧が朝鮮から渡り数々の儀礼も行っていたのでありましょう。後に善信尼等は正式な受戒のために百済に渡っています。その際百済からは僧恵聰はじめ数名の僧侶の他、造仏工、造寺工、露盤博士、瓦博士、画工などの技術者が来朝しています。
聖徳太子の仏教
推古天皇は即位(五九三)とともに兄用命帝の子聖徳太子を摂政として指名しました。日本の国家的黎明期における先覚者である太子は、かつて物部氏との戦いに先勝祈願した四天王を祀る寺を難波に造り、摂政になると、翌年には「三宝興隆」の詔勅を発し仏教を基礎にした国民の道徳精神を高め、高麗僧慧慈と百済僧慧聰を三宝の棟梁として二人から親しく教えを受けられました。
太子は、氏姓による社会階級の他に個人の力量に応じてその身分を表示する階位制度である「冠位十二階」や社会の秩序を制約する道徳法である「十七条憲法」の制定、遣隋使の派遣など内外の政治外交に活躍され、その後の国家の道筋を形作りました。
この遣隋使の主目的は、仏教文化の摂取にあったとも言われ、学問僧を随行させ仏法の修得や経典の蒐集にあたらせました。これによって、それまで朝鮮半島を経由して流入していた仏教を本場中国からも直接摂取するなど、自発的計画に基づく積極的な大陸文化の輸入が計られていきました。
六〇六年、太子は推古帝に勝鬘経の講義をし、翌年には法隆寺を建立。この頃から太子は政務にあまり関わらず仏教研究に専念されたと言われています。遣隋使によってもたらされた仏教書に基づいて太子は勝鬘経義疏や法華義疏などの経典注釈書を残されています。これらは古来太子の真撰か偽撰かの議論があるところではありますが、いずれにしてもこれらの著作を日本仏教として重要視してきた事実に代わりはありません。
これらの著作で注目されるのは、大乗の教えをも越えた絶対的一大乗を唱え、世俗を離れ一人山中坐禅に専念することを小乗と戒めるなど。広く人々を救うとする大乗教の重視、在俗の身による修行を尊重するこれら太子の思想傾向は後々まで日本仏教の性格を規定するものとなりました。
六二二年太子が斑鳩宮で逝去すると、妃橘大郎女は天寿国繍帳を織らせ、太子の来世に天寿国(弥陀の浄土)への再生を願ったと言われています。この聖徳太子の時代を経て、仏教は日本に定着し国家仏教として繁栄していく基礎が出来上がりました。つづく