住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
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日本仏教の歩み3

2005年10月29日 13時12分39秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
(以下に掲載する文章は、仏教雑誌大法輪12月号よりカルチャー講座にわかりやすい仏教史と題して連載するために書いた原稿の下書です。校正推敲前のもので読みにくい点もあるかもしれませんが、ご承知の上お読み下さい)

前回は、律令国家としての形成期に仏教の理念をもってその礎が築かれていく様子を述べました。今回は、天皇親政による律令制がしだいに衰退し、藤原氏系の貴族が政治の実権を握る時代が続き、その後院政を経て武士階級の台頭を迎える平安時代の仏教を見てまいりましょう。

平安仏教の二大巨人①最澄

桓武天皇(在位七八一ー八〇六)は即位後都を長岡に遷し、さらに七九四年平安京に遷都して人心の一新とともに仏教界の刷新を図りました。

後に天台宗を開宗する最澄(七六六-八二二)は、近江に生まれ受戒の後、世俗化した奈良の官寺をさけて比叡山に草庵を結びました。この参籠行の間に、宮廷の仏事に奉仕する「内供奉十禅師」に任ぜられ、社会から一流の宗教者として公認されるようになりました。

そして八〇四年、還学生として入唐し、九ヶ月半ほどの間に天台山の行満に天台、また霊厳寺順暁からは密教を伝授されるなど多くの高僧から教えを受け、さらに多くの典籍を入手して帰朝。

桓武帝から熱烈な歓迎を受け、翌八〇六年には、円(天台の教え)密(密教)禅(禅の行法)戒(戒律)の四つを兼学する一大仏教センターとして[天台法華宗]の立宗が許されました。

最澄は、様々なこの世の中の表れである現象をそのまま真実の姿であるととらえました。そのため、さとりと迷いの世界の同一性を強調し、さとりについてもその機根を問うよりはすべての人にさとりを開く能力があるとして、無差別平等の思想を形成していきました。こうした最澄の思想は法相宗との論争にも発展しましたが、後の日本仏教は最澄的な立場が主流となり、日本仏教を性格づけることになりました。

さらに最澄は、南都仏教が支配する東大寺での四分律(二五〇戒)に基づく受戒を小乗戒と否定、僧侶も大乗菩薩であるべきとの信念から、本来在家者のための戒を説く「梵網経(十重四十八軽戒)」を大乗戒として出家者に受戒させる大乗戒壇を設けることを上呈しました。こうして最澄の死後、八二八年それまでの三戒壇に加え、他国からは認められないもう一つの国立戒壇が比叡山に成立しました。このことはその後、最澄の意に反して戒律軽視の傾向を助長することになりました。

平安仏教の二大巨人②空海

最澄が入唐した第十二次遣唐使第一船に乗っていた空海(七七三-八三五)は、讃岐に生まれ、後に都にのぼり大学に学ぶものの仏道に志し、四国で虚空藏求聞持法を修すなど山林での苦修練行に加え、詩文や語学、書道の才に卓越していたことも幸いし留学僧として入唐を果たしました。

空海は、時の世界都市長安でインド僧般若三蔵や牟尼室利三蔵らに梵語を習い、正統な真言密教の継承者であった青龍寺の恵果阿闍梨に遇い、密教の大法を悉く伝授され、経論、曼荼羅図、密教法具などを授かりました。在唐二年ほどで帰朝した後、これら密教の典籍や絵図など二一六部四六一巻を記録した「御請来目録」を朝廷に奉り、密教思想の体系化に着手しました。

最澄は、自らの密教を補完するために度々経典類の借覧を空海に申し入れています。嵯峨天皇(在位八一〇-八二三)が即位すると、空海の文人としての才と密教の祈祷が宮廷や貴族に受け入れられ重用されました。そして八一二年、高雄山寺にて、最澄の依頼により最澄とその門弟泰範、円澄らに金剛界、胎藏界の結縁灌頂を授けています。

空海は宇宙的スケールのもとに南都仏教や天台の教えをも含む総てを包摂する密教的思想体系を作り上げ、その実践法表現法をも兼ね備えた真言教学を大成しました。

空海は、八一二年「真言宗」を開宗し、この広大な実践的思想体系を体現する道場として、八一六年、高野山が下賜され、八二二年には東大寺に真言院を建て、翌年には京都東寺を勅賜されています。さらに正月に宮中で行われる最勝王経を読誦する法会に真言密教による御七日御修法を併せ行う勅許を得て、南都諸大寺ばかりか宮中での修法も密教化することに成功していきました。

密教化する南都仏教

南都の諸大寺は、九世紀半ば頃から律令制の崩壊から経済的援助を貴族に求めざるを得ず、彼らの要望する密教の修法を行うために真言密教を兼学する必要に迫られました。

そしてそのために官寺ではそれまでの上座・寺主・都維那といった三綱組織を廃して、貴族の子弟が迎え入れられる貴族化密教化を余儀なくされました。

最も勢力のあった法相宗では、新興勢力であった天台の最澄と一切の衆生に仏になる可能性(仏性)を認めるか否かという論争を行った会津の徳一や大乗戒壇建立に反対した護命らをはじめ多くの優秀な学僧を輩出し、藤原氏の氏寺であった興福寺を中心として栄えました。

律宗では、東大寺戒壇で受戒した僧が唐招提寺で一年から五年戒律を学ぶ規則があり隆盛を誇りますが、比叡山に大乗戒壇が出来た頃からこの風習は廃れ衰微しました。

天台宗の発展

天台宗では、円仁(七九四-八六四)が入唐して五台山や空海が修学した長安の青龍寺で密教を学び帰朝して、文徳天皇に灌頂を授けました。天台の教えと密教は理論的には同等であるが実践に於いては密教が勝れているとして、天台宗は密教化していきました。

また円仁は、比叡山に実践法として中国天台山の「四種三昧」の行法を取り入れ、中でも常行三昧に五台山の五会念仏の節と作法を採用し、その後弟子らによって不断念仏法となり日本浄土教の起源となりました。

また有名な回峰行(一定期間比叡山の西塔東塔横川の三塔を巡る行)は、円仁の弟子相応が創始し、さらに彼の努力により最澄と円仁に伝教、慈覚の両大師号を賜りました。

その後天台宗も貴族の子弟が登山して生活が貴族化したり、円仁円珍の両派の反目があり、十世紀後半頃からは僧兵が跋扈する時代を迎えました。
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