住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
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日本仏教の歩み2

2005年10月07日 07時05分24秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
僧尼の統制
 それまでに大陸から流入していた外来思想である儒教道教の類が文字の修得や文学の理解に役立つものでしかなかったのに比べ、仏教は、あらゆる文化芸術にいたる諸々の人々の生活水準向上に繋がりました。

 金銅や木彫の神秘的な相貌、流麗な肢体をもつ仏像は精緻な彫刻技術、瓦葺き、重層、丹塗りの複雑な仕組みの伽藍は精密な建築技術を、調度類である、天蓋、仏壇、厨子、仏具は精巧な工芸技術をもたらし、さらには、その寺院で催される法会には伎楽が演奏され、経典を写すための筆の製法に至るまで、仏教は大陸の数多の新文化技術をわが国に一度に導入する礎となりました。

 そして、公伝から百年経った推古天皇の時代には飛鳥地方を中心に四十六もの氏寺がその壮麗さを競い、僧八一六,尼五六九と記録されています。次第に増えていた僧尼の統制を要することになり、六二四年に僧正、僧都、法頭の役がはじめて置かれました。氏族社会から律令体制への転換を意味する大化の改新後は、中央に「十師」の制を置いて衆僧の監督をさせ、諸寺には寺司、寺主を置かせました。そして、七一八年僧尼令二十七条が定められて僧尼統制の規則が完備しました。

 それによれば年間の出家者の数に制限を設け、希望者は試経を受けねばならず、そこで教学の素養と「金光明経」などの音訓読誦が試験されました。得度後は十戒の護持を制約され、寺院に住し、護国経典である「金光明経」や「仁王経」「法華経」などを読誦して鎮護国家、風雨順次、五穀豊穣などを祈祷する責務がありました。

 また許可なく山林に入って修行することや寺と別の道場を設けて民衆を教化したり、天文災禍を説いたり、吉凶を占ったり、巫術療病することも禁じ、違反者は還俗させられました。中国にあっては伝来から五百年も後に行われたものが、わが国ではこうして伝来百年ほどにして仏教は国家の統制の中に管理されることになりました。

大仏建立
 大化の改新後、政府は仏教に対して消極的態度を示し、寺院の造立よりも僧尼の統制に関心があったようですが、壬申の乱による政変を経て、天武天皇は一切経の書写、放生会を行う詔、大官大寺の造営や薬師寺の造立発願など積極的に関連事業を行いました。また使を諸国に遣わし金光明経や仁王経を説かし、公卿等には各家に仏殿や経蔵を設けさせて月毎に六斎を行わせたということです。

 天武の死後皇位を継いだ皇后持統も、金光明経百部を諸国に送り、毎年正月に読誦することを命じて国家の公の行事とするなど天武の施策を継承しました。こうして律令国家として強力な実権を掌握したこの天武、持統の政府において、正に仏教が国家の宗教的支柱としての重要な位置を与えられることになったのであります。

 次の文武天皇時には旱害、風害、疫病、飢饉が相次ぎ治安も乱れ、さらには政情不安に陥ったため平城遷都の大事業がなされ、七一〇年、律令体制の充実を誇示し飢饉や疫病に対する除災招福の意を込めた奈良遷都がなされました。そうして聖武天皇が即位すると、七三七年に国毎に釈迦仏一躯、脇侍菩薩二躯を作り大般若経の書写を命じる詔勅が出され、続いて国毎に法華経十部の書写と七重の塔の建設を命じ、七四一年に國分寺制度の詔勅が発せられました。

国分僧寺には僧二十人、尼寺には尼十人を置き、水田二十町を施入することと規定され、金光明経の読誦によって天神地祇が国家に永く慶福をもたらし、五穀豊穣で、先祖の霊魂をも含め平和安穏と後生の安楽を祈念し、国家を守護することがその目的でありました。

 そしてそれら國分寺の総國分寺として大和國分寺を東大寺とあらため毘盧舎那仏を祀り、諸国國分寺と相応じて全国に毘盧舎那仏の世界を現前させ、天皇を中心とする中央政府と国司、国民との繋がりにおいて理想的国家の建設を目論んだのでありました。

 その理想国家の象徴が毘盧舎那仏であり、身の丈は一四.七㍍もあって当時世界最大の金銅仏でありました。七五二年、既に皇位を譲られた聖武先帝は、文武百官とともに毘盧舎那大仏の開眼供養にのぞみました。一万の僧が列席し、大導師の座には唐から来朝したインド僧菩提僊那が着し、呪願師を唐僧道璿が勤め、またベトナム僧仏哲が伎楽を披露する中、華厳経が大仏宝前にて読誦され、正にかつてない盛大な儀式が執り行われました。

 この大仏の造立には、官僧から離脱して民衆を教化し様々な土木事業をはじめ社会活動に尽力した僧行基を勧進職に任命し、彼の組織した公的得度を経ていない私度僧集団を公認し、勧募に協力させました。かつて民衆に罪福の因果を説いて様々な事業に民衆を駆り立てた罪で朝廷の迫害にもあった行基ではありましたが、交通の開発農業生産の向上の他民衆の精神的安定にも貢献し、この大仏造立の功績から大僧正の最高位に任ぜられました。

南都六宗
 日本に伝えられてから、徐々に蓄積されてきた仏教が、奈良の諸大寺において、その専門の科目ごとに出来上がった集団を南都六宗と呼びます。今日のような教団組織としての宗団ではなく、あくまでも専門分野ごとの研究グループという意味合いであったようです。

 最も早く伝えられた三論宗は、龍樹の「中論」と「十二門論」それに提婆の「百論」の三論に基づいて大乗仏教の中心課題である空思想を中心に研究する学派でした。正倉院文書によれば天平年間に般若心経の写経が多く作成されており、これらは天平写経と呼ばれています。当時の皇族貴族が発願した写経も大量に含まれており、心経に対する関心が早くもこの頃から芽生えていたことが窺われます。三論宗の学僧智光はわが国最初の般若心経注釈書「般若心経述義」や「大般若経疏」などの著作を残しています。

 この三論宗に付随して研究された成実宗は、インド部派仏教の学派にあたり、現在時における外界の対象は実在と見るが心やその作用は実在と認めないとする、訶梨跋摩の成実論を中心に研究する学派でした。

 また法相宗は、インド大乗仏教の唯識学派にあたり、入竺沙門玄奘三蔵によって中国に伝えられ、入唐した道昭は直接玄奘から学びました。意識下に潜在する心の分析に特徴があり、菩薩は輪廻を繰り返し修行する必要があり、それには永遠に近い時間を要すること、さらには気根により仏となれない人があることなど、三国伝来の正説を主張しました。

 道昭は諸国を遍歴し社会事業をもなし、わが国で初めて火葬に付されたことでも有名です。後に入唐した学僧玄は、唐の玄宗皇帝から紫の袈裟の着用を許されるなど重んじられ、帰朝後も國分寺の創建に関わるなど聖武帝に重用されましたが、それが為に政治に関わり遂に筑紫の観世音寺に左遷されてしまいました。しかし彼の将来した経論五千余巻は興福寺に勅蔵され後のわが国仏教学の発展に大きな役割を果たすことになりました。

 倶舎宗は、法相宗に付随し、世親の倶舎論を中心に学ぶインド部派仏教の学派に相当するのですが、倶舎論の中で規定する諸概念によって唯識説が成立することから、法相宗の基礎学として学ばれたのでありましょう。

 華厳宗は、初期大乗を代表する華厳経を学ぶ学派であり、大仏開眼の大導師菩提僊那とともに来朝した唐の道璿が初めて伝えました。中国の法蔵によって大成された思想に基づいた教えを説き、一つのものが世界の一切を含み、また一つのものには全てのものとの関係のもとに成り立っているとする華厳の教学は、律令体制の目指す統一国家の原理としてこの時代特に重要視されました。

 また律宗は、遣唐僧普照らの招請に応えて渡日を決意し、苦難の末七五四年に来朝した鑑真によって伝えられました。当時の僧尼は官僧とはいえ、正式な三師七証という受戒を受けておらず、他国で承認されるものではありませんでした。そこで、当時中国で主流であった四分律に則った授戒制を導入する必要に迫られていました。

 鑑真が来朝するとその年のうちに東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、そこで、聖武太上天皇、光明太后、孝謙天皇はじめ四百余人が菩薩戒を受け、既に官僧であった八十名あまりが旧戒を捨てて鑑真から正式な大戒を受けたということです。さらに下野薬師寺と筑紫観世音寺にも戒壇が設けられ、僧はこれら三戒壇のどれかで受戒することが必須となりました。
 
 こうして華やかな燦然たる仏教文化が咲き誇るかに見えるこの時代は、政治的には様々な内乱クーデターが続発する時代でもありました。仏教に傾倒し仏弟子との意識の強かった称徳女帝は、道鏡を極官に押し上げ、政治の混乱を招きました。国家と仏教の結合から生じていた積弊の打開に迫られる時代を迎えていました。つづく
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