住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

日本仏教の歩み12

2006年01月26日 07時28分43秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
不受不施派の弾圧

法華(日蓮)宗に不信者から布施を受けず法を施さないとする一派があり、京都妙覺寺の日奥はこの義を頑なに守り秀吉の催した千僧供養を拒否。池上本門寺など関東の諸寺院に不受不施派の勢力が強まります。そして国主の供養は別であるとする受不施派の身延山と対立します。

法華の信者でない者を謗法者として、国主からの布施を受けないということは国主を誹謗者扱いすることになり、国家に対する反抗であるとして、幕府は一六三〇年、不受不施義の唱導を禁止。しかし、その後も勢力が衰えなかったため寺領も布施であるとして、一六六九年不受不施派の寺請が禁止され、寺院からも追い出されて地下に潜伏しました。

隠元の来朝と黄檗宗

新しい宗派の設立が制限された江戸時代に唯一黄檗宗の開基が認められています。
貿易のため長崎には中国人が渡来して興福寺、崇福寺などが建てられていました。渡来僧の招請により、一六五四年、中国黄檗山万福寺住持隠元隆(一五九二ー一六七三)が来日。明末の禅風と浄土教を兼修する禅浄双修禅を伝えます。

隠元は京都宇治に黄檗山万福寺を建立、日本黄檗宗の開祖となりました。

隠元の日本人の弟子に鉄眼道光があり、漢訳経典を総集した大蔵経の開版を決意。諸国を巡遊して広く道俗に募財し、一六八一年大蔵経六七七一巻を出版。鉄眼版一切経とも言われ、印刷部数が多く仏典研究の進歩に貢献しました。

綱吉と護持院隆光

五代将軍綱吉は、世に悪法とされる生類憐みの令(一六八五)を発布し、犬にかぎらず動物の殺生を禁じます。綱吉は仏教に帰依して、護国寺、寛永寺などを修築し、また筑波山知足院を移転して護持院と改称し神田橋外に大伽藍を造営。特に護持院の隆光には、生母桂昌院ともに帰依して毎年二回護持院に参詣するのが定例でした。

隆光(一六四九ー一七二四)は、真言宗新義派の祖・覚鑁に諡号奏請のために尽力し、興教大師号を賜っています。護持院は幕府の祈願所となり寛永寺、増上寺と鼎立し、隆光は真言宗新義派の僧録司に任ぜられ、将軍の外護のもとに熱田神宮、須崎弁天、室生寺などを復興。日々登城して権威を振るい、多くの真言寺院が新義派へ転じ、関東の真言宗新義派の教線拡張に貢献しました。

各宗における教学の振興

各宗派の自由な活動を制限する一方幕府は学問の振興を奨励します。各宗法度に一山の住職たる者には一定期間の修行や学問を義務づけ、さらに諸大寺に対して寺領や金子を供して学問を奨励しています。

檀林、学寮、談義所など各宗の学問所が整備され、宗祖研究、経典解釈など教学が促進されました。

浄土宗では、源誉慈昌(一五四六ー一六二〇)が家康の信任を受け、増上寺を現地に移して伽藍を整備。徳川氏との師檀関係を結びます。

源誉は関東に十八檀林を興して弟子らの修学に寄与。のちに湛慧信培、普寂徳門の師弟が出て、各宗を兼学。湛慧は、倶舎論や唯識を講じ、自誓受戒して洛西長時院を復興して律院となして持戒念仏につとめ、普寂は、天台華厳、唯識にすぐれ江戸に律院を起こし、増上寺などで多くの講席を開きました。

浄土真宗では、信長に屈した石山本願寺の門主顕如に対して、秀吉は京都六条堀川に土地を与え本願寺を再興させます。関ヶ原の合戦(一六〇〇)の後、顕如に義絶された長子教如は家康に協力し、一六〇二年家康は京都烏丸七条に土地を寄進して、教如が東本願寺を建立し、本願寺は東西に分立していました。

西本願寺では、西本願寺学黌を創設して宗学研究を奨励。しかし、宗義の正邪を争い紛議が続き、学黌は廃止され、後に学林と称して宗内徒弟の修学に寄与しました。東本願寺では、学寮と称して真宗学と南都の仏教や天台の学問を学ぶ兼学制度により盛大となり、すぐれた学者を輩出しています。

また曹洞宗では、早くから江戸に栴檀林が設けられ、祖録、仏典研究、漢学詩文の学問が学ばれ、儒学の研究の昌平黌と並ぶ江戸の二大学問所として名を馳せ多くの碩学を生み出しました。

臨済宗では五山は振るわず、妙心寺に教勢を奪われます。至道無難は禅を平易に表現して生活に即した禅を説き、一絲文守は天才的な禅説法により多くの人の菩提心を喚起、後水尾上皇の帰依を受けました。

この一絲文守の系統に盤珪永琢があり、人はみな生まれながらに不生の仏心を持っているとして、その純粋無垢な心を平明な言葉で説き多くの人を悟らしめたと言われています。

無難の孫弟子に白隠慧鶴(一六八五ー一七六八)があり、妙心寺第一座となるも名利を離れ諸国を遊歴して三島龍澤寺の開山となりますが、終生沼津松蔭寺で弟子らを指導。平易な言葉で喩えを用いて禅を説き、禅の民衆化に努めました。今日臨済宗の僧徒のほとんどがこの白隠の法流に属すと言われるほどの影響力を及ぼし、臨済禅の中興と言われています。つづく
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