住職のひとりごと

広島県福山市神辺町にある備後國分寺から配信する
住職のひとりごと
幅広く仏教について考える

日本仏教の歩み13

2006年01月27日 07時56分36秒 | 日本仏教史、インド中国仏教史、真言宗の歴史など
戒律復興と安楽律

自由な布教活動も制限され、なおかつ寺壇制度ができて生活が安定して安逸に陥った僧界に対する非難が起きると、各宗に僧風の粛正運動や戒律の復古運動が起こります。

最澄の意によって大乗戒壇を建立した比叡山に妙立(一六三七ー一六九〇)が出て、堕落を弁護する口実ともされた梵網戒に加え四分律を護持することによって乱れた僧風の粛正を主張。さらに本来一切衆生はさとりの性を備えているとする天台本覚思想を批判して、中国の正統天台教学への復帰をも目指し、それが祖師の理想に近づく道であるとして比叡山の改革に乗り出します。

弟子の霊空は研究、講演、著述に励み、一六九三年第五代輪王寺宮公辨法親王の帰依を受け、叡山飯室谷の安楽院を律院として与えられ、安楽律と称して宗内の改革に専心して、東叡山、日光山にも律院を設けて安楽律を広めます。

元禄以後は特にこの妙立・霊空の門流が栄え、天台一宗を圧する勢いであったと言うことです。

浄厳と慈雲尊者

一方真言宗では、鎌倉時代に一時盛んであった戒律復興運動が衰退しおよそ三百五十年を経て、明忍が出て、廃れた戒律復興を誓い、栂尾山で自誓受戒。槇尾山を再興して戒律復興の道場とし学徒を集めます。

また浄厳(一六三九ー一七〇二)は高野山で密教を修め梵語を研鑽して、明忍の旧跡槙尾山に登り和泉高山寺で自誓受戒。和泉に延命寺を創建して如法真言律を唱道。

浄厳は、一六八四年江戸に出て講座を開くと常に聴者は千人を超え、多くの帰依を受けます。五代綱吉は湯島の地を与え霊雲寺を建てると、浄厳は関八州如法真言律宗総統職に叙せられ、結縁灌頂を授けた者三十万四千人、菩薩戒の弟子一万五千、剃髪得度の弟子四三六人。

真言密教の巨匠として四十あまりの諸法流を統一して新安祥寺流を大成。戒律、梵学の復興における功績は大きく、多くの著作を残しました。

さらに慈雲尊者飲光(一七一八ー一八〇四)は、お釈迦様在世当時の戒律復興を目指して正法律を提唱します。慈雲は、大阪に生まれ、河内法楽寺で得度、奈良に出て南都仏教や真言宗をも修め、河内野中寺で具足戒を受け律を研究。臨済宗に参禅後、大阪長栄寺に入り、正法律を唱えます。のちに河内高貴寺を正法律の本山として無数の道俗、様々な人々を教化しました。

「十善戒」を人の人たる道と説き、お釈迦様の根本の教えへの復帰を主張。後生の仏教者に大きな影響を与えました。梵学や神道、西欧の事情にも明るく、多くの著作がありますが、中でも日本に伝わる梵学及び梵語学習上の参考資料を蒐集網羅した「梵学津梁一千巻」は今日でも世界の驚異とされています。

巡礼の流行と庶民信仰

江戸時代は移動の自由が制限されていましたが、宗教上の理由があれば比較的容易に旅行が許可されたことも影響し、自由な信仰心をかなえ、かつ物見遊山半分で遠く旅をして聖地に詣る参拝旅行が流行します。

特に元禄時代前後からお伊勢詣りや讃岐・金毘羅詣りをはじめ、富士山、鎌倉・江ノ島、相州大山不動などへの参拝が盛んになります。さらには西国、板東秩父の百観音巡礼や四国八十八カ所遍路が一般民衆にも流行します。

信長の比叡山焼き討ちや秀吉による根来高野山攻めに際して、僧兵や聖が逃げ込んだ地は四国であったとも言われ、彼らが四国の札所を拠点に全国に四国遍路の功徳を唱導したとも伝えられています。

江戸の町では大名屋敷に祀られた神仏が、流行神と呼ばれ驚異的な参拝者を集めました。讃岐生駒家の金毘羅宮や九州柳川の立花家の太郎稲荷など、大名家の国元から勧請された私的な神仏でした。

また、地方寺社の秘仏や霊宝が江戸に出張して公開される「出開帳」が盛んに行われました。両国の回向院には信州善光寺の阿弥陀如来や奈良法隆寺の出開帳が、また深川の永代寺には成田山不動明王の出開帳が行われ、江戸庶民の好奇心も手伝って、それら出開帳には正に群参する民衆で賑わったと言うことです。

排仏論と出定後語

平安時代以降神道や儒教は仏僧の手によって研究され仏教と融合したものでした。しかしこの時代には仏教とは分離して、幕府の学問奨励により儒学が盛んになり、国学が発達し仏教排斥論を醸成します。

江戸初期には藤原惺窩、林羅山ら僧侶として寺院に生活した儒者が仏教の非世俗性、僧侶の堕落を攻撃しました。

中期頃には鉄眼版大蔵経出版に関わった富永仲基(一七一五ー四六)が「出定後語」を著して仏典成立加上説を唱えます。真に釈迦が説いたのは阿含経典の数章に過ぎず後は後人の付加であるとして大乗非仏説論を主張。これは仏教経典成立に関する事情を正確に推論したものとして高く評価されるべきものと言えますが、当時は正当に評価する者はありませんでした。

江戸後期には、わが国の古典文化の研究から国学が起こり排仏論を唱えます。国学者本居宣長や平田篤胤らは仏教伝来以前の古神道を理想とする復古神道の立場から仏教を排撃。平田篤胤は「出定後語」の理論を借用して排仏論を展開し、文章が平易通俗的であったこともあり多くの人に読まれ、明治維新に至る王政復古運動の思想原理になりました。


この時代に出来上がる寺壇制度は檀家との関係を世俗権力が保証するものであり、経済的な安定を獲得した反面、本来仏教のもつ神聖な立場を放棄するものとなりました。この制度は古来からの先祖を敬う信仰心に支えられ、時代が変わっても今日まで存続し、わが国の仏教を拘束するものとなりました。

一方誰もが一檀徒として仏教にまみえ、民衆生活の隅々まで仏教行事が定着。こうして信仰心の有無にかかわらず、全日本人が形の上で仏教徒となることによって、仏教は形骸化していくのでした。
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