活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

秀英体は銀座生まれ、銀座育ち

2011-01-14 17:30:43 | 活版印刷のふるさと紀行
 秀英舎、現在の大日本印刷創業の地はいまの数寄屋橋交差点の近くです。交差点から
築地に向かう晴海通りのとっかかり左手、いまの不二家やその隣のヒューリック数寄屋橋ビル
あたりです。
 秀英体の製造にあたっていたのは道路隔ててその反対側、いまのソニービルの横、
ヘルメスや赤レンガのあるあたりにあった活字製造部門としの製文堂でした。(写真のところ)

 ところで「秀英舎」という社名を考えついたのは2代目舎長になった保田久成で、初代社長の
佐久間貞一が勝海舟に看板の文字を書いてもらったといいます。ウガッタ話としては勝の
看板用の活字っぽい書風が秀英体のモトになったというのがありますが、マサカ。保田は
活字の自家鋳造に熱心でした。

 秀英体初号から七号まで号数活字を整備し、ポイント活字もそろって一応、秀英体が
完結を見たのは大正年代です。日清・日露の戦争を経て近代化に向かって始動しはじめた
国情を背景に出版活動が盛んになるにつれ、活字鋳造や改刻に追い回される時期が続いた
と思われます。秀英舎もいまは埋め立てられて沿う想像もつきませんが、数寄屋橋の運河
ぎりぎりまで三階建て鉄骨赤レンガ造りの大工場になっていました。

 秀英舎の前の道路ぞいに二本の日の丸を交差してたてた旗飾りが何箇所かつくられて
行進してくる日露戦争の凱旋兵士を出迎えた話をしてくれた方がおりました。
関東大震災の被害を受けて、秀英舎は市ヶ谷に移ることになるわけですが、
秀英体は銀座生まれ、銀座育ちというお話。 

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懐かしい活字のある光景

2011-01-14 12:05:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 『秀英体100』の会場でちよっとおもしろく感じたことがありました。まず、
そのことから紹介しましょう。
 GGGは1階と地下1階が展示に当てられておりましたが、1階の左手奥に活字
の詰まったケースが置いてあり、そばに、親指大の秀英活字のレプリカでスタンピ
ングができる「お遊びコーナー」がありました。見ていますと活版の印刷現場を知
っているような年配の人は入場するや、まず、活字ケースに引き寄せられていきま
した。若い人はスタンピングを楽しんでいるのです。

 大曲の印刷博物館にあるもっと実体験的な印刷工房でもよく見かける光景ですが
鉛の活字の持つ手触り感は人間的であったかいものです。
 ブラックボックスのなかでデジタル処理される近頃の印刷とは大違いですね。

 ところで秀英体100の100は100年でしょうが、どこを起点にしているの
でしょうか。
 秀英舎の創業は1876年、明治9年です。本木昌造に端を発する平野富二の築地
活版製造所については前にとりあげておりますが、創業当初の秀英舎はもっぱら活
字はその築地活版から購入しておりました。日に何度も銀座から築地まで秀英舎の見習工
は活字を階に買いに走らされことでしょう。

 「ウチで活字を鋳造しよう」と、秀英舎が自家鋳造に踏み切ったのは、1881年
明治14年とされています。もちろん、いっきょに達成できるような仕事ではありま
せん。それから考えますと、おそらく100の起点は1912年明治45年に秀英体の
初号から8号までが完成して、胸を張って見本帖(活字のカタログ)が出せる段階に
なってからに置いているように思われれます。



 
 



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