秀英舎、現在の大日本印刷創業の地はいまの数寄屋橋交差点の近くです。交差点から
築地に向かう晴海通りのとっかかり左手、いまの不二家やその隣のヒューリック数寄屋橋ビル
あたりです。
秀英体の製造にあたっていたのは道路隔ててその反対側、いまのソニービルの横、
ヘルメスや赤レンガのあるあたりにあった活字製造部門としの製文堂でした。(写真のところ)
ところで「秀英舎」という社名を考えついたのは2代目舎長になった保田久成で、初代社長の
佐久間貞一が勝海舟に看板の文字を書いてもらったといいます。ウガッタ話としては勝の
看板用の活字っぽい書風が秀英体のモトになったというのがありますが、マサカ。保田は
活字の自家鋳造に熱心でした。
秀英体初号から七号まで号数活字を整備し、ポイント活字もそろって一応、秀英体が
完結を見たのは大正年代です。日清・日露の戦争を経て近代化に向かって始動しはじめた
国情を背景に出版活動が盛んになるにつれ、活字鋳造や改刻に追い回される時期が続いた
と思われます。秀英舎もいまは埋め立てられて沿う想像もつきませんが、数寄屋橋の運河
ぎりぎりまで三階建て鉄骨赤レンガ造りの大工場になっていました。
秀英舎の前の道路ぞいに二本の日の丸を交差してたてた旗飾りが何箇所かつくられて
行進してくる日露戦争の凱旋兵士を出迎えた話をしてくれた方がおりました。
関東大震災の被害を受けて、秀英舎は市ヶ谷に移ることになるわけですが、
秀英体は銀座生まれ、銀座育ちというお話。
築地に向かう晴海通りのとっかかり左手、いまの不二家やその隣のヒューリック数寄屋橋ビル
あたりです。
秀英体の製造にあたっていたのは道路隔ててその反対側、いまのソニービルの横、
ヘルメスや赤レンガのあるあたりにあった活字製造部門としの製文堂でした。(写真のところ)
ところで「秀英舎」という社名を考えついたのは2代目舎長になった保田久成で、初代社長の
佐久間貞一が勝海舟に看板の文字を書いてもらったといいます。ウガッタ話としては勝の
看板用の活字っぽい書風が秀英体のモトになったというのがありますが、マサカ。保田は
活字の自家鋳造に熱心でした。
秀英体初号から七号まで号数活字を整備し、ポイント活字もそろって一応、秀英体が
完結を見たのは大正年代です。日清・日露の戦争を経て近代化に向かって始動しはじめた
国情を背景に出版活動が盛んになるにつれ、活字鋳造や改刻に追い回される時期が続いた
と思われます。秀英舎もいまは埋め立てられて沿う想像もつきませんが、数寄屋橋の運河
ぎりぎりまで三階建て鉄骨赤レンガ造りの大工場になっていました。
秀英舎の前の道路ぞいに二本の日の丸を交差してたてた旗飾りが何箇所かつくられて
行進してくる日露戦争の凱旋兵士を出迎えた話をしてくれた方がおりました。
関東大震災の被害を受けて、秀英舎は市ヶ谷に移ることになるわけですが、
秀英体は銀座生まれ、銀座育ちというお話。