活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

ヤン・ヨーステンと印刷前史

2011-10-04 08:46:05 | 活版印刷のふるさと紀行
折も折り、ヤン・ヨーステンにとって好都合で家康がオランダ贔屓になるような事件が次々におこります。
秀吉の時代に既に起きていたサン・フエリーぺ号事件でスペイン人嫌悪の下地があった上にオランダ国王から
リーフデ号厚遇のお礼とポルトガル人とスペイン人に対する悪口雑言がしたためられた手紙が家康宛に届いたのも
きっかけになったといえます。
そのどちらにも「日本を植民地にする尖兵がキリシタン 宣教師」というのが基調としてありました。
宣教師の多くがポルトガル人やスペイン人でした。 そのことから宣教師受難が始ります。

かつて一向一揆で痛い目にあった家康にはキリシタン一揆の予感さえ生まれたかもしれません。
天正少年使節の後ろ盾の一人、有馬晴信が岡本大八事件で切腹させられ、キリシタン禁令が出たのが、
この同じ年だったと思います。
やがて1614年,日本で最初に金属活字を使って活版印刷でキリシタン版を印刷したコンスタチノ・ドラードも
高山右近と同じように国外追放に処せられます。

ヤン・ヨーステンの来日が1600年でしたからオランダ国王の手紙を家康に見せられ、ひょっとして彼は追放劇の
相談に預かっていたかもしれません。彼もアダムスも家康の外交顧問でしたから。
家康はいままで貿易で恩恵を受けていたイエズス会の思惑など氣にしなくてはならなかったことがたくさんありました。

とにかくポルトガルやスベインにとって変わってオランダやオランダ人、オランダ語、はては蘭学とオランダ時代が
現出したのは皆さんご存知の通りです。
オランダ政府から徳川家慶にスタンホープ印刷機と活字込め物、インテルなど印刷器具一式が献上されたのが1850年
(嘉永3年),江戸に蕃書調所がつくられてオランダから活版技師ゲーインデルマウルが来日したのが1857年(安政4)でした。

八重洲口やヤン・ヨーステンが日本の印刷史前史の萌芽にどこかで繋がっているかもというお粗末でした。











コメント
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