活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

GGGで秀英体100展がオープン

2011-01-12 15:11:30 | 活版印刷のふるさと紀行
 さすがに、正月休みが終わって、成人の日を含む3連休も終わったせいか銀座通りの
人ごみもいくらか空いているようでした。
 ライオンビャホールを背に銀座通りを交詢社通りに入ったとたん、夜目にも『秀英体』の縦文字と
100の横文字がクッキリと飛びこんできました。

 秀英体?なんじゃらホイと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、出版や印刷に携わった
人にはうれしい、懐かしい展覧会ですから、ぜひご覧いただきたいと思います。。
 
 書かずもがなではありますが、念のために申し添えますと、「秀英体」とは明治の中ごろに、
秀英舎、いまの大日本印刷が活版印刷のために開発した活字書体のことで、以前にもこのブログで
取り上げた築地活版の「築地体」と並んで日本の代表的な活字書体です。

 人に歴史があるように、秀英体にも歴史が刻まれております。出版や広告にもてはやされた
明治・大正・昭和の時代、しかし、昭和も戦後になると写植の時代、次に電算活字のCTS
の時代、そして平成になるとデジタルフォントの時代とそれぞれ対応を求められてきたからです。

 秀英体がいままでの100年間に果たしてきた役割を検証し、そしてこれからますます深化する
デジタル時代にどのような変革・改刻をしてゆくべきかをいかにもグラフィック・ギャラリー
らしい視点と構成でとりあげた内容は出色の出来でありました。

ちなみに、監修は永井一正さん、もうひとつちなみにこのGGGのあるDNP銀座ビルは、その
昔、戦前までは秀英体活字を大日本印刷が売っていたところです。




 
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湧水をあとに直行したのは鰻屋でした

2011-01-08 15:39:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 前回紹介した柿田川の湧水にもここに至るまでいろいろ苦難があったらしいのです。
というのは、毎秒12トンも湧き出すこの世界一の水質の湧水が一時は繊維工場の独占するところとなり、薬剤や汚染した廃水処理で魚も住めない死の川になっていたといいいます。

 そこで地元の人たちが両岸の土地を買い、いわゆるナショナルトラスト運動を展開して
23年の歳月をかけて現在のような清冽な柿田川を蘇らせたのです。イギリスなどでナショナルトラストの土地に接したことはありますが、日本での事例は知りませんでした。
なんでも、昭和63年に日本で2番目のナショナルトラスト「公益法人柿田川みどりのトラスト委員会」が設置され今日に及んでいると聞きました。

 湧水や周辺の自然を目にする展望台は第1から第3までありましたが、写真は第2展望台ののぞきこんで見た直径4メートルほどの湧水井戸、コンコンと湧き出る青い水にしばし見とれてしまったほどです。

 途中から幸い雨はすっかりあがってきました。
 神田川大曲塾の面々の次なる目的地は三島の鰻の代表格の「桜家」、店の脇を流れる湧水でしめた味は抜群です。この店で旧友中川和郎氏に登場願って三島の歴史を拝聴。
彼も三島市内を流れる川の水質浄化に取り組んだひとりです。
「三島女郎衆ァノーエ」まさしく富士の白雪は溶けて流れて三島に注いでいました。



 
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三島の水と富士山

2011-01-08 10:52:29 | 活版印刷のふるさと紀行
 沼津の2日目は雨でした。神田川大曲塾の塾生には愛酒家が多いので前夜の宴会のせいでしょうか。
 「小雨決行」というわけで、向かった先が「柿田川」、ちょうど三島と沼津の中間の清水町の柿田川公園でした。
 富士山が造った東洋一の湧水が売り物ですが、聞けば川幅がせいぜい40メートル、総延長が1200メートルというかわいらしさ。

 でも、これが全部、富士山系の伏流水なのです。
 富士山周辺に降った雨や雪が、かの8500年前の大噴火の名残の溶岩の間を地下水となって縫って流れ、ここでコンコンと湧水となって湧き出てかわいらしい川になっているのです。1日の湧水量は100万トンと聞きましたが、どのくらいの量か私には見当がつきません。

 写真の展望台から川面を眺めると、あちこちで水が湧き出しているのがみてとれます。
それにしても、公園内を歩いて行くと水辺の草花や頭上の木々の緑の美しさに心打たれます。自然や生態系を守り続けている清水町の人たちには頭がさがります。

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牧水や一葉の時代と出版・印刷

2011-01-06 11:31:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾は印刷文化の研究サークルです。
 だからというわけではありませんが、若山牧水記念館の展示室で私の目に止まったのが
これです。(上の雑誌のことです。、下は若山牧水記念館に復元されている牧水の書斎です)

  牧水の短歌の掲載された明治38年10月1日発行の雑誌『新聲』です。この雑誌はいまの新潮社を明治29年に創業した佐藤義亮が出して、当時、評判になったものです。
佐藤は秀英舎(大日本印刷の旧社名)で働いていて、志を立て秀英舎の応援のもと出版界に乗りだしました。

 最初は社名も「新聲社」でした。当時、日清戦争が終わって、日露戦争までの間、日本の印刷も大きな飛躍を見ました。博文館の『日清戦争実記』のようなベストセラーや雑誌
『太陽』、樋口一葉の名をたからしめた同じく博文館の『文芸倶楽部』が気を吐きました。若山牧水は『新聲』によったわけです。
 金港堂、春陽堂、冨山房、三省堂、丸善、経済雑誌社、民友社、実業之日本社とぞくぞく出版社が生まれたのもこのころですし、博文館の大橋佐平が息子とともに印刷工場をおこしたのが明治30年(共同印刷の前身)、明治33年には凸版印刷が凸版印刷合資会社としてスタートをきっています。

 
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幾山河こえさりゆかば

2011-01-06 10:36:54 | 活版印刷のふるさと紀行
 沼津市若山牧水記念館のラウンジから展示室に歩みを進めます。
 すると、入り口右手で入館者が、真っ先に目にするのがこの「幾山河」の掛け軸です。
     
     幾山河
     越えさりゆかば
     寂しさのはてなむ国ぞ
     けふも旅ゆく 牧水

 牧水の没後1年、昭和4年沼津千本松原に短歌史上あまりにも有名なこの歌の碑が建てられました。しかし、この歌の誕生は明治40年の夏ですから22年も前のことでした。
早稲田の学生だった彼が宮崎への帰省途中に立ち寄ったいまの岡山県新見市哲西町で詠んだといわれております。この地にも幾山河の歌碑がありますが、当時は備後と備中の国境、かなりの僻地であったにちがいありませんから、いささか感傷的になって、思わずこんな詩情にかられたと推察できます。

 この歌は明治41年刊行の第一歌集「海の声」におさめられました。
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若山牧水記念館へ

2011-01-05 11:49:42 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の沼津研修旅行2番目の訪問先は若山牧水記念館。
沼津といえば、千本松原、その一画の瀟洒な建物に辿りつくまで一行は結構苦労したのでありました。

 牧水は九州日向が生誕の地ですから沼津と直接のかかわりがあったわけではありません。酒と旅を愛した彼が愛鷹山の峰越しに眼に飛び込んでくる端麗な富士山と千本浜の
浜辺にこよなく魅かれたからにほかなりません。大正12年の関東大震災が招いたトタン屋根だらけの東京に愛想をつかしたこともあったでしょう。

 それにしてもイケメンではありませんか。これは沼津兵学校に集まった明治の顔とは明らかに違います。都会的で自信に満ちた顔で、彼の詩歌の憂愁には程遠い印象を受けます。

 眼の輝きはたぶん、「円熟期」にさしかかって、さらに羽ばたこうとする意欲を秘めているのでしょう。
 ペンは一本、箸は2本、文士ではなかなか暮らしが立ち行かない時代に、牧水には「揮毫旅行」という奥の手があったのです。その話は次回。


 
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