活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

人力でロール印刷機をまわした新聞社

2011-06-09 18:11:02 | 活版印刷のふるさと紀行
三代目の広重が描いた「東京名所銀座通朝野新聞社盛大之真図」はよく見かけます。
明治の大新聞「朝野新聞」の社屋は、いまの銀座4丁目の服部和光のところで、和光が
この跡地ということから和光のホームページにも紹介されていたはずです。

 文明開化の波の中で、もっともハイカラな建物として当時の銀ブラ族の目を奪いました。
新聞のあり方に変革をもたらしたのが、日清・日露の戦争だというのが定説ですが、もっ
と以前の西南戦争、とりわけ西郷隆盛の消息を知りたくて、新聞購読が増えたのが新聞ブ
ームを招いた第1波といえるのではないでしょうか。

 東京日々、郵便報知、朝野新聞、読売新聞、各紙競って従軍記者を派遣して戦況を刻々
と報道したようです。その競争もあって、明治10年の1日の発行部数は朝野新聞が1万
8000部、読売新聞同じく1万8000部、東京日々新聞1万1000部、郵便報知が
8000部でした。

 では、新聞の印刷はどうしていたかといいますと、原版刷りで印刷機は四六判16ペー
ジ掛けのロール印刷機でした。2人がかりの人力運転で、1時間に片面7~800枚の能
力でした。人力ではなくて、ガス・エンジンでロール印刷機を動かし、原版刷りではなく
.4ページ建ての紙面を鉛版にとって印刷したのは、読売新聞(日就社)だけでした。 

 その生産能力も効果があったのか、読売新聞は翌年明治11年には1日2万1900部まで
印刷部数を伸ばしています。新聞社の中には自社に印刷設備をもたずに、折からその数を
増し始めた活版印刷所に印刷を委託するところもありました。

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印刷文化史のカゲの人 岸田吟香

2011-06-08 10:58:10 | 活版印刷のふるさと紀行
 「東京日々新聞」といいますと、つい、色刷りの錦絵新聞をイメージ
する人が多いと思いますが、同名の「東京日々新聞」や「朝野新聞」・
「郵便報知」・「日新真事誌」のような活字の新聞がとって代わるとき
が到来します。それが明治5、6年です。

 その理由としては、活字の普及、印刷術の進化もありますが、大きな
理由として明治政府の政策がありました。政府の動きに反対する新聞は
弾圧しますが、政策展開に役立つ新聞はあからさまに援助したようです。

 「東京日々」は政府派とされていましたが、東京最初の日刊紙として
で岸田吟香や福地源一郎が論説で活躍しました。
 さて、私が≪印刷文化史のカゲの人≫というのは、この、岸田吟香の
その人です。みなさんご存知の洋画家岸田劉生のオヤジさんです。

 「挙母」あなたは、この地名が読めますか?
コロモ、そうです。いまの豊田市です。岡山生まれの吟香は三河の挙母
藩に召し抱えられますが、文久元年に脱藩、江戸に出て眼病治療でヘボ
ンと知り合います。これが吟香と「印刷」との出会いになりました。

 30歳でした。彼はヘボンの『和英語林集成』の編集を手伝うことか
らジョセフ・ヒコに英語を習い、ヒコとともに新聞発行を考え、『新聞
紙』を実現させます。

 しかし、『和英語林集成』の印刷を進めるために、ヘボンに同道して
上海の美華書館に赴き、カナの鉛活字を造らせます。『和英語林集成』
を刊行したのち、横浜でヴァン・リードと『横浜新報もしお草』を出し
ますが、明治5年『東京日々新聞』創刊に手を貸します。
  
 1号は木版でしたが、2号から活字片面刷りになります。イラストは
銅版、定価は1枚140文。翌年、吟香は主筆になり、台湾出兵に従軍
したり、明治天皇の巡幸に随行したり、ジャーナリストとして大活躍し
ますが、平野富二と同じように、実業家としての活躍や教育界への貢献
が目だって、吟香は印刷文化史上ではカゲの人になっています。









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「錦絵新聞」の全盛から活字新聞誕生まで

2011-06-07 16:32:56 | 活版印刷のふるさと紀行
 そうはいっても明治5年の東京ははまだ風景的には幕末とほとんど変わって
いなかったようです。銀座大火のあとの煉瓦街はよくひきあいに出されますが、
明治4年でしたか、イギリス人ウォートルスが竹橋の兵営に時計塔を作ったら
見物客が押し寄せたといいますから推して知るべしです。

 では、このころ、メディアはどうだったでしょう。
 メディアというのは大袈裟ですが、明治7年になると瓦版に変わって「錦絵
新聞」が登場してきます。浮世絵師歌川国芳の門下の落合芳幾、月岡芳年のよ
うな達者な絵師の錦絵が人々をひきつけたようです。
 殺人事件・情痴事件・怪談やお涙ちょうだいの美談が記事つきでセンセ-ショ
ナルに扱われていますので、刺激を求める庶民に引っ張りダコ、相当な売れ行き
を示しました。
 片面刷りで色数は結構たくさん使っています。

 
ちなみに、この東京日々新聞(明治8年5月17日)であたってみますと、
赤、緑、紫、紺、茶、ネズミ、浅黄、白、スミ、肌色と10色でした。
 しかし、この「錦絵新聞」も明治10年を過ぎるとほとんど姿を消します。
 理由はただ一つ活字による本格的な新聞が出てきたからです。
 


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明治5年にタイムスリップすると

2011-06-06 11:07:15 | 活版印刷のふるさと紀行
 もし、明治5年(1872)にタイム・スリップするとしたら場所を
どこにするかです。やはり、新橋あたりにしたい気がします。銀座の大
火のあった年ですから銀座は敬遠しましょう。そうでなくとも、当時は
銀座よりも新橋の方がはるかに新興都市東京の中心でした。

 鉄道が出来て横浜からの列車が着くとチラホラ外人さんが降り立つ
光景が見られるようになりました。外人さんがいちばんびっくりしたの
は街路にひびく「カラン、コロン」という下駄の音だったといいます。
たしかに、日本人にはめずらしい汽車や馬車などは彼らにとっては目新
しいものではなかったでしょう。

 印刷はどうだったでしょうか。色刷りでおどろおどろしい絵入りの
「錦絵新聞」が明治初年のメディアとして人々をひきつけていましたが、
活版印刷の書籍などはまだまだ限られた人のものでした。

 第一、活版印刷所としては東京にはまだ、文部省の活版所、平野活版
所(長崎新塾出張活版製造所)、博聞社、啓蒙社ぐらいしかなく、日就
社(のちの読売新聞)もまだ社屋は横浜にありました。


 砂埃と馬糞の臭いがただよう道路を歩く日本人は大半が着物姿、ザン
ギリ頭が目立ちました。ガス灯が東京に点いたのは横浜に遅れること2
年、明治7年になってからでした。(写真のガス灯)
 明治5年2月の「銀座大火」は銀座をひとなめにしましたが、翌年に
は銀座に煉瓦街が出現していますから、復興のスピードは早く、むしろ、
その火事が印刷・出版の町、銀座を生んだともいえます。

 
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