活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

気になるヴァリニャーノとハビヤン

2011-10-14 12:10:39 | 活版印刷のふるさと紀行
 すっかり秋めいて来たのに、落ち着けない毎日です。放射能の問題も
ありますが、ここ3,4日、中日―ヤクルト戦にいささかペースを乱されて
いたのも事実です。

 話は飛びます。私が日本最初の金属活字を使った活版印刷やその成果である
キリシタン版のからみで、とくに興味のあるの人物をあげるとしたら、イエズ
会の巡察師イタリア人、アレサンドゥロ・ヴァリニャーノと日本人不干斎ハビ
ヤンの二人です。

 ヴァリニャーノに指名されて4人の天正少年使節の従者として渡欧に随行し、
もう一つの役割、活版印刷術を習得して帰国、キリシタン版を印刷した日本人で
最初の活版印刷人コンスタンチノ・ドラードについては本にしましたし、
その取材中、私がいちばん興味をおぼえた千々石(ちぢわ)ミゲルについても
本にしました。そうなると、このヴァリニャーノとハビヤンの二人が気になります。

 というわけで、そこで、次回から、この二人について書きたいのですが、その前に
印刷懇話会神田川大曲塾の研究会についてご案内させてください。


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久能山東照宮の鉛筆

2011-10-09 13:50:25 | 活版印刷のふるさと紀行
 体育の日を明日に控えて三連休の中日の日曜日です。
昨日、日本平から帰ってきた一家からおみやげをたくさんもらいました。
日本平というと一つ思い出すことがあります。

 ずいぶん前ですが、日本平の久能山東照宮に取材に行ったことがあります。
カメラは当時流行っていたゼンザブロニカECを持って行きました。
同行は三菱鉛筆の本郷さん、つまり、「三菱鉛筆の社史」で徳川家康が使っていた
日本最古の鉛筆を取り上げることになってのことでした。

 家康の鉛筆は古色蒼然とした蒔絵硯箱に細筆などとともに無造作に入っておりました。
まだ文化財感覚がいまほどではなかった時代だったせいにせよ撮影も簡単に許されましたが、
当の鉛筆がわずか10センチちょっとで、軸木も無表情でしたし、軸木の先端に丸っこくて、
太い黒鉛の芯が不細工に出ていて、どう見てもパッとしない代物で拍子抜けしたことを
おぼえています。
 
 もちろん、この鉛筆がどこから、どういう形で入ってきたものかはわかりませんが、
おそらく1600年前後に南蛮船経由でインドかマカオから宣教師によってもたらされた
ものでしょう。

 伊達政宗が鉛筆に愛着を示し、国産鉛筆を製造させた話が近年出て来ましたが、家康には
そこまでした形跡はありません。「印刷」ほどには興味をしめさず、無頓着だったのでしょう。
 結局、日本で最初に鉛筆を量産したのは三菱鉛筆の前身、真崎鉛筆で、逓信省(いまの郵政省)が
「局用鉛筆」として採用したことで、1900年すぎから需要が増えたといいます。日本の鉛筆の
歴史100年ということでしょうか。

 しかし、筆記具としての鉛筆はボールペンにとってかわり、さらに、パソコンの普及で需要は
かなり、斜陽であろうかと想像できます。

 



 
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ギンザ・グラフィック・ギャラリー25周年 2

2011-10-07 16:27:37 | 活版印刷のふるさと紀行
 オープニングパーティで最初にスピーチに立ったのがグラフィック
デザイナーの服部一成さんでした。今をときめくというか、新進気鋭の
服部さんは、

《このGGGができたときは芸大の2年で銀座でアルバイトをしていたもの
ですからよく足を運んで来たものです。美術画廊でなくて、グラフィック
専門というのはほかにありませんでしたから、ここで先輩たちの作品に接し、
おぼろげながら「自分もグラフィックデザインの道に進みたい」と思ったものです。
そうして、何年かの後にここで展覧会を開くことができました。
本日、ここにもたくさんの学生さんがいらっしゃいますが、あなたの作品ををいつか
このGGGで拝見できたらと願う次第です》

 このスピーチはうれしいスピーチでした。設立の企画趣意書には最初、発表の場が
ない若いデザイナーの登竜門的なギャラリーにする構想がありました。
 それはともかく、ADCやJAGDA、TDCなど,賞という賞を総なめにして、大活躍の
服部さんのユーモアを交えた親しみやすいスピーチは来場中のデザイナーの笑いを誘い、
会場の学生さんの意欲を鼓舞したようでした。

 そして次にマイクの前に立たれたのは大御所、勝井三雄さん。風邪を押して参加された
ようですが、gggブックスを片手に、

《B全1枚から64ページの1冊に仕上げるというアイデアがいい。ほとんどの
ポスターがオフセットで印刷されてきましたが、4色という制約はあっても同じ
オフセットで克明に原作を再現している点で世界のグラフィツクデザインの歩み
を知るのに好適な100冊になっている》

 この25周年の記念に展覧会名と同じ『100gggBooks 100Graphic
Designers』 というタイトルでgggブックスの別冊(写真右参照)が出ていますし、
電子書籍版も刊行されるといいます。この見逃せない展覧会の会期は今月29日までです。

 
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ギンザ・グラフィック・ギャラリー25周年 1

2011-10-07 11:13:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 10月5日の夕方、かなりの雨足の中を銀座に出ました。そのために
急いで房総から帰って来たというわけです。
大袈裟にいうと、「自分の足跡さがし」にです。

 行先は7丁目、ギンザ・グラフィック・ギャラリー。
 GGGの25周年とここで企画展を開いたデザイナーの作品を小冊子
にしたgggブックス100タイトル刊行記念の「ggg25周年記念展」
のオープニングです。

 100gggBOOKS
 100Graphic Designers


 横文字だけの催事タイトルはスッキリしていますが、私の頭の中では
「ggg25周年」の方がずっしりと重く響いてくるようです。
  「あれからもう25年か」


 会場入り口に立つと100冊のgggブックスが壁面展示されているのが
目に飛び込んで来ました。
 そして1階と地下の展示会場に企画展出展作品が100点並んでおります。
 
 ひとくちで25年といってしまえば、それまでですが、その間に300回の
企画展を行い100冊のgggブックスを刊行するにはかなりのエネルギーを
要します。社会貢献のひとつとして中断することなく続けて来たDNPに私は
心から敬意を表したい気持ちでいっぱいです。

 銀座にはファインアートの画廊は数えきれないほど存在します。しかし、
内外のグラフィックデザインをこれほど間近かに観られるところはありません。

 25年前、このGGGの設立やgggブックスの発刊計画に携わった1人と
して味わった感慨とちょっぴり感じた誇りが見えない自分の足跡かなと思った
パーティでした。



 

 

 
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ヤン・ヨーステンと印刷前史

2011-10-04 08:46:05 | 活版印刷のふるさと紀行
折も折り、ヤン・ヨーステンにとって好都合で家康がオランダ贔屓になるような事件が次々におこります。
秀吉の時代に既に起きていたサン・フエリーぺ号事件でスペイン人嫌悪の下地があった上にオランダ国王から
リーフデ号厚遇のお礼とポルトガル人とスペイン人に対する悪口雑言がしたためられた手紙が家康宛に届いたのも
きっかけになったといえます。
そのどちらにも「日本を植民地にする尖兵がキリシタン 宣教師」というのが基調としてありました。
宣教師の多くがポルトガル人やスペイン人でした。 そのことから宣教師受難が始ります。

かつて一向一揆で痛い目にあった家康にはキリシタン一揆の予感さえ生まれたかもしれません。
天正少年使節の後ろ盾の一人、有馬晴信が岡本大八事件で切腹させられ、キリシタン禁令が出たのが、
この同じ年だったと思います。
やがて1614年,日本で最初に金属活字を使って活版印刷でキリシタン版を印刷したコンスタチノ・ドラードも
高山右近と同じように国外追放に処せられます。

ヤン・ヨーステンの来日が1600年でしたからオランダ国王の手紙を家康に見せられ、ひょっとして彼は追放劇の
相談に預かっていたかもしれません。彼もアダムスも家康の外交顧問でしたから。
家康はいままで貿易で恩恵を受けていたイエズス会の思惑など氣にしなくてはならなかったことがたくさんありました。

とにかくポルトガルやスベインにとって変わってオランダやオランダ人、オランダ語、はては蘭学とオランダ時代が
現出したのは皆さんご存知の通りです。
オランダ政府から徳川家慶にスタンホープ印刷機と活字込め物、インテルなど印刷器具一式が献上されたのが1850年
(嘉永3年),江戸に蕃書調所がつくられてオランダから活版技師ゲーインデルマウルが来日したのが1857年(安政4)でした。

八重洲口やヤン・ヨーステンが日本の印刷史前史の萌芽にどこかで繋がっているかもというお粗末でした。











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オランダ人ヤン・ヨーステン

2011-10-03 20:00:30 | 活版印刷のふるさと紀行
最近東京駅の八重洲口から出る地方都市行きの高速バスの数の多さには驚かされます.行き先の表示を見て、あれこれ想像しているだけで楽しくなります。
一昨日、私もその八重洲から高速バスで房総までやって来ました。

バソコン代わりに持って来たタブレツトで不慣れな手つきで八重洲について思いついたことを書いてみることにします。

「八重洲」がヤン・ヨーステンというオランダ人の名前に由来することはよく知られています。ヤン・ヨーステンなんて発音が当時の日本人に馴染めるはずがありません。ヤン・ヨーステンがヤン・ヨースになり、
それがヤエスになったというのです。
家康の覚えめでたかった彼はこの「八重洲」あたりに大きな屋敷を賜っていましたから、ヤエスが町名になったというわけです。

ヤン・ヨーステンはもともとオランダの商船リーフデ号の船員でした。遭難一歩手前で豊後に上陸を果たした彼は同僚イギリス人ウイリアム・アダムスとともに家康の外交顧問に任じられていたからです。

ちようど関ヶ原の戦いの直後のことと思ってください。
貿易相手としてはとボルトガルやスベインが重用されていた時代が長かっただけに、家康がなぜオランダを贔屓にしたのかわかりませんが、豊後にヨレヨレ状態で着いたリーフデ号を堺から江戸へ矢継ぎ早やに回航させたことから見ても最初からオランダに関心があったうえに、ヤン・ヨーステンやウイリアム・アダムスが氣にいってのことだったのでしよう。

少しまわり道になるかもしれませんが、もとはオランダ商船の乗組員だった彼らふたりが家康にもたらしたものは意外に大きく、果ては日本の「印刷史」にも関連があったと私は考えます。
そのことは次回に。
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