戦前讃岐の小作百姓の息子に生まれた父には耕す土地もなく1930年代の大阪に働きに出たようです。その青年時代の父はおそらく兵役もあったのでしょうがあまり私たち子どもには多くを語りませんでした。
この写真は今から思うとおもちゃのようなカメラで中学生の私が撮った、1950年代後半の手打ちうどんを作る父と母です。戦後の混乱が少し落ち着き始めた四国讃岐で無一文から始めたうどん屋、私を含めて6人の子どもたちを育てるために本職のうどん屋をしながら賃仕事も含めて露店商、スベ(稲藁の芯)箒作り、アイスキャンデー売り、ありとあらゆる仕事をこなすという働き詰めの一生を終わりました。
戦争では可愛がっていた弟は沖縄戦首里城攻防戦で弾薬尽きる中で押し寄せてくる米軍戦車隊に兵士たちが爆雷を背負い飛び込んでゆくという無謀な特攻作戦に駆り出され戦死、いまも骨も見つからないという弟への思いを心にしまい込んだままでした。(写真に写っている母も海軍の兵卒だった、たった一人の弟を東シナ海の海の底に失いました)
安倍首相が取り戻すという「日本」は庶民に多大な犠牲と苦痛を与える時代だったということをもう一度噛みしめてみる時代に入ったようです。「父の日」に私の父と母の時代を考えています。
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