永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(749)

2010年05月29日 | Weblog
2010.5/29  749回

四十五帖 【橋姫(はしひめ)の巻】 その(10)

 この宇治の山荘は、

「網代のけはひ近く、耳かしがましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。(……)」
――(山荘の近くには)網代の設もあるようで、宇治川の川音の激しい近くのこの住居では、とても瞑想にふけるという環境ではありませんが、それも仕方がないこと。(ますます北の方と死別した悲しみに日を暮らすばかりだ)――

 ましてや、このような山深い所へは、以前よりもいっそう来訪者もおりません。ときどき田舎びた者が来て、必要なあれこれをして行くのでした。

「この宇治山に聖だちたる阿闇梨住みにけり。才いとかしこくて、世の覚えも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず籠り居たるに、この宮のかく近き程に住み給ひて、寂しき御さまに、尊がり聞こえて常に参る」
――この宇治の山に聖僧らしい阿闇梨がいらっしゃいます。学問がたいそう優れていて、世間の信望も浅いわけではありませんのに、めったに朝廷の法会にも参会せずに、この山に籠っておりましたところ、八の宮がこのような近くにお住みになって、寂しいご様子で仏道に精進されながら、経文を読み習っておられますので、阿闇梨はこの宮をご尊敬申し上げて、ときどき参上なさっていらっしゃるのでした――

「年頃学び知り給へる事どもの、深き心を解き聞かせ奉り、いよいよ、この世のいとかりそめにあぢきなき事を申し知らすれば」
――(八の宮が)年来、学修された仏教上の事柄の更に深遠な教理を、阿闇梨がご説明申し上げ、結局はこの世は仮の世ではかない事をお教えしますと――

 八の宮は、「心だけは極楽の蓮の台(はちすのうてな)に思いあこがれ、浄土の濁りない池に住むつもりでいますが」と、さらにお続けになって、

「いとかく幼き人々を、見棄てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌をもかへぬ」
――このようなまだ幼い娘たちを、見棄てる後ろめたさに、一途に出家することも出来ずにおります――

などと、お心の内を隠さずお話になるのでした。

◆網代(あじろ)=「あ」は網。「しろ」は代わりで、網の代わりの意。魚をとる仕掛け。晩秋から冬にかけて川の瀬の両側に杭を打って水を堰き止め、網の代わりに竹や柴などを編んでならべ、その一端に簾をつけて、氷魚(ひお=鮎の稚魚)をとる。宇治川にかけたものが最も名高い。

◆阿闇梨(あじゃり・あざり)=僧の規範となるべき徳僧をいう。

ではまた。