永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(平安時代という時代 1 )

2008年07月27日 | Weblog
平安時代という時代(1)

律令制度

 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年頃)とは、794年に桓武天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称する。

 
概観
 
 平安前期は、前代(奈良時代)からの中央集権的な律令政治を、部分的な修正を加えながらも、基本的には継承していった。

 しかし、律令制と現実の乖離が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。

 この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制という。

 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されている(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられている)。

源氏物語を読んできて(遊女)

2008年07月27日 | Weblog
遊女

 あそびめ、またはうかれめともいわれ、古い頃の巫女(みこ)が神性、司祭性を失ってから流浪性、遊行性、娼婦性を発展させたのが奈良時代の遊行女婦であって、平安時代以降はそれをつづめて遊女と表現された。
 
 平安時代の遊女は教養もあり、彼女らの和歌が勅撰歌集に入っているものもある。
 
 これは袿姿での遊行の為、裾を腰の小紐にはさんだ姿とした。正式の旅姿の壺装束と異る略の装いである。

◆写真:遊女 風俗博物館

源氏物語を読んできて(118)

2008年07月26日 | Weblog
7/26  

【澪標(みおつくし】の巻  その(11)

 源氏は、明石の御方のことは夢にもご存じなくて、その夜は、神のお喜びになるであろうことの限りを尽くして、神事を行います。源氏はもちろんのこと、明石の浦までお供をし、辛苦を共にしたものは、特に神の御徳をしみじみ有り難く思うのでした。

 惟光から明石の御方の船が、この賑やかさに気圧されて立ち去ったことをお聞きになった源氏は、
 「知らざりけるよ。神の御しるべを思い出づるも疎かならねば、いささかなる消息をだにして心なぐさめばや、なかなかに思ふらむかし、と思す」
――知らなかったことよ。これも神のお導きだと思われれば、良い加減には出来ない。どうにかして居場所を見つけて慰めねば。なまじこの日に巡り合って悲しく思っていることだろうとお思いになります――

源氏はうたを託し、
「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」
――身を尽くして恋い慕う甲斐があって、ここまでも来て巡り合った二人の縁は深いことだ――

明石の御方のうた
「数ならではにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」
――数ならぬ身とて、何事にも甲斐無い私ですのに、なぜ、あなたのような身分の高い方を深く思うようになったのでしょう――

神事のお帰りの道中は、遊女などと戯れ遊ぶ供びと達をよそ目に見て、源氏は疎ましく思われます。

 明石の御方は
「かの人は過ぐし聞えて、またの日ぞよろしかりければ、幣帛(みてぐら)奉り、程につけたる願どもなど、かつがつはたしける」
――源氏と入れ替わって、次の日に幣帛を捧げて願ほどきなど、お参りをどうにか果たしたのでした――

 明石の御方は、源氏は頼もしそうに自分を数の中にお入れくださるようですが、さあどうでしょう、このふるさとを離れてもっと心細いことになるのではと、明け暮れ口惜しい身の上を嘆いております。

 明石入道は、そのように姫君を都へ差し出して、母と子が離ればなれになることは、ひどく心配であり、かといって、このまま二人とも田舎に埋もれてしまっては、と、源氏に明石の御方をお逢わせしなかった以前の、あの時以上に気が揉めるのでした。

「まことや」
――そうそう――、
 御代が替わり、かの伊勢の斎宮もお役目を終えられて、六條御息所と京にお帰りになりました。

ではまた。


源氏物語を読んできて(住吉神社)

2008年07月26日 | Weblog
住吉神社

「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三柱の神です。
 
 神功皇后三韓征伐の際、住吉三柱の御守護により無事達成され、その帰途、摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)にて、住吉三柱を遥拝なさいました。これが大阪佃の住吉の社(現 田蓑神社)の起こりです。
 
 その後、天正年間より大阪田蓑島の人々と徳川家康公とが深い関わりを持つようになり、家康公の漁業の傍ら田も作れとの命により、村名を田蓑から佃へと改め、また田蓑の名を残すため神社名を住吉神社から田蓑神社へと改めることとなりました。

 その後、家康公が関東下降の際、摂津国佃の漁夫33人と住吉の社の神職平岡権大夫好次が分神霊を奉載し江戸へ下り、寛永年間に幕府より鐵砲洲向かいの干潟を賜り築島しました。そして故郷の名をとり佃島とし、この地に社地を定め、正保3年(1646)6月29日 住吉三神、神功皇后、徳川家康の御神霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起源です。

 佃島は江戸湊の入口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。
 その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行なわれ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています
 
◆参考:住吉神社ホームページ

源氏物語を読んできて(幣帛)

2008年07月26日 | Weblog
幣帛(みてぐら・へいはく)

 幣帛(へいはく)とは、神道の祭祀において神に奉献するもののうち、神饌以外のものの総称である。広義には神饌も含む。「みてぐら」「幣物(へいもつ)」とも言う。

「帛」は布の意味であり、古代においては貴重であった布帛が神への捧げ物の中心となっていたことを示すものである。

 『延喜式』の祝詞の条には、幣帛の品目として布帛、衣服、武具、神酒、神饌などが記されている。幣帛は神への捧げ物であると同時に、神の依り代とも考えられ、これが串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻となり、これらのことも幣帛と呼ぶ。

源氏物語を読んできて(117)

2008年07月25日 | Weblog
7/25  

【澪標(みおつくし】の巻  その(10)

この様子を遙かに見上げて明石の御方は、このように思うのでした。

「げにあさましう、月日もこそあれ、なかなかこの御有様を遙かに見るも、身の程口惜しう覚ゆ。……いと悲しうて、人知れずしほたれけり」
――まったく、あいにくなこと、月日も多いのに、よりによって今日という日に、源氏の華やかなご様子を遙かに見やるにつけても、数ならぬ身の程が思われて恨めしい。(源氏との切れぬご縁ながら、このようなつまらない身分の者さえ、満足そうにしてお供を光栄だと思っているのに、自分はどのように罪深いのでしょうか、源氏のことを始終気にかけていながら、源氏のこうした盛んなご参詣の噂も知らず、ここまで出かけて来たものか、などと思いつづけていますと、)しみじみ悲しくて、人知れず涙に袖を濡らしております。――

「松原の深緑なるに、花紅葉をこき散らしたると見ゆる、袍衣(ほうい・うえのきぬ)の濃き薄き数知らず。六位の中にも蔵人は青色著く見えて、」
――松原の深緑に、花や紅葉をまき散らしたように、袍の濃淡さまざまの色が数知れず見えます。官位が六位の者でも、蔵人は帝の御袍と同じ青色(山鳩色)が鮮やかに際だって――

 源氏のお供で須磨に一緒にいらした、右近の将監(うこんのぞう)は、衛門の尉(えもんのじょう)の蔵人であり、良清も同じ役所の佐(すけ・次官)になって、特別、晴れ晴れとした上機嫌で、仰々しい緋色の袍(五位)がまことに清々しい。

 いずれも、明石で見た時とはうって変わって立派に装い、馬や鞍まで飾り整えて美しく磨き立てているのを、明石から来た供びとは、世にも珍しい見物だと、田舎びた心におもうのでした。

 若宮(夕霧)も供びとにかしずかれて一緒にお参りになって居るご様子を、尊く拝されますにつけても、我が子(明石の御方の姫君)が、数ならぬ身に思われ、ますます御社の
方角に向って拝むのでした。

明石の御方はきまりの悪い思いで、漕ぎ離れて行かれました。




源氏物語を読んできて(数ならぬ身)

2008年07月25日 | Weblog
数ならぬ身
 
 この時代の結婚と男女交際については、おいおい見ていこうと思いますが、ここでは、「数ならぬ身」と嘆く意味を調べました。

 貴人にとって、女房は性のはけ口でした。まして行きずりの女、遊女は、貴人にとって「ものの数」ではなかったのです。源氏を取り巻く女性の中で、時折女房が出てきます。正妻葵の上付きの女房とも、長い間、関係をもっています。この時代は公然と、また当然のこととして、ごく当たり前のことでした。

 源氏が紫の上の養育のひとつとして、「嫉妬をしない」女性像を目指していることが語られます。気位の高い明石の御方が、「数ならぬ身」を嘆き、「ものの数」にも扱われないとしたら…という悩みはそこにあります。

 女性にだけ嫉妬を封じる世の中を、その挙げ句行き場のない女性の心理と生涯を、紫式部は当時にあって、するどく見つめています。


源氏物語を読んできて(蔵人)

2008年07月25日 | Weblog
官職としての蔵人

 蔵人(くろうど、藏人)は日本の律令制下の令外官の一つ。天皇の秘書的役割を果たした。秘密が漏れないように。

職掌
 蔵人所はもともと天皇家の家政機関であるが、殿上一切のことを取り仕切る公的な機関となった。平安時代中期になると内豎所・御匣殿・ 大歌所・楽所・作物所・御書所・一本御書所・内御書所・画所など「所」といわれる天皇家の家政機関一切を取り扱うようになる。

職員

別当 1名
頭 2名
五位蔵人 2~3名
六位蔵人 5~6名
非蔵人(見習) 3~6名
雑色、所衆、出納、小舎人、滝口、鷹飼、侯人

◆六位の袍の色は深緑であるが、蔵人六位は、禁色青色山鳩色(天皇の袍色)のゆるしがあった。写真は:禁色青色山鳩色

源氏物語を読んできて(116)

2008年07月24日 | Weblog
7/24  

【澪標(みおつくし】の巻  その(9)

藤壺の宮は、出家の御身で、今更皇太后におつけすることもできませんので、太上天皇(だじょうてんのう)になずらへて、俸禄を差し上げます。役人もお付きになり、重々しさも増して、今は自由に宮中をお出入りされています。

 兵部卿宮(紫の上の父君)は、源氏が不遇の数年間は世間体を気にされて、冷淡無情でいらしたので、源氏がこの宮一門には無情なお仕打ちをされることもあるのを、入道の宮(藤壺の宮・兵部卿宮の御妹)は、兄君のこととて、お気の毒とも、困ったことともお思いになるのでした。

 「世の中の事ただ、半ばを分けて、太政大臣とこの大臣の御ままなり」
――天下の政は、お二人で分け合って、太政大臣(前左大臣・葵の上の御父)と源氏の意のままでございます――

 権中納言(葵の上の兄)の娘は、この年の八月に入内なさり、弘徴殿女御におなりになりました。

 この年の秋、源氏は願ほどきを、なさるべく、住吉明神へお出かけになります。世の中こぞって、上達部、殿上人が我も我もとお供なさって、ご立派な行列を連ねてのご参詣です。

「折しもかの明石の人、年ごとの例の事にてまうづるを、去年今年はさはる事ありておこたりけるかしこまり、取り重ねて思ひ立ちけり。船にて詣でたり」
――折りも折り、あの明石の人も、毎年の例で住吉に詣でていましたが、去年今年と、懐妊や出産があり、怠ったお詫びも兼ねて、参詣を思い立って、船で参りました――

 岸辺について見ますと、にぎやかに参詣なさる人々が渚に満ちあふれ、厳めしい立派な奉納品を持って行列が続いています。

「楽人十列など、装束を整へ容貌を選びたり」
――東遊の舞人が十人で、社殿で舞を奏するために、装束を新たに整えて、容貌(みめかたち)の美しいのを選んでおります――

 明石側の供びとが「どなたさまのご参詣ですか」と尋ねますと、「内大臣様(源氏)が御願ほどきにお参りなさるのを、知らない人もあるものだ」と下っ端の者まで得意気です。

ではまた。


源氏物語を読んできて(後宮の殿舎)

2008年07月24日 | Weblog
弘徴殿・承香殿・麗景殿

●弘徴殿(こきでん)は、清涼殿(帝のお住い)の夜御殿(夜の御殿・寝室)に一番近く、飛香舎(藤壺)を与えられる人と共に、身分高き女性であった。
この巻の弘徴殿女御は、朱雀院に入内した権中納言の姫君の局名(つぼねのな)。

●承香殿(じょうきょうでん)
 この巻の承香殿女御は、朱雀院の新東宮の御母君のこと。

●麗景殿(れいけいでん)
この巻に出てくる麗景殿女御は、故桐壺院の妃で、花散里の姉君のこと。

このように、固有名詞ではなく、清涼殿に与えられた局・部屋の女主人を言う。

◆写真:現在の京都御所の飛香舎(藤壺)。
    寛政時の復興にならって安政時に再建された唯一の後宮殿舎です。
    風俗博物館