永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(装束の具・帖紙)

2008年07月21日 | Weblog
帖紙・畳紙(たとうがみ)
 
 さまざまな用をなす懐紙が儀礼用に変化したもので、束帯や衣冠の際に懐中します。束帯の場合は単色ですが、衣冠の場合は二枚の色を変えて重ね色目を楽しみました。
 現在は白の檀紙または鳥の子紙を用い、若年は紅の鳥の子、壮年は白の檀紙に金箔を散らしたもの(写真)、宿老は白の檀紙を用いるようになっています。


源氏物語を読んできて(112)

2008年07月20日 | Weblog
7/20  

【澪標(みおつくし】の巻  その(5)

 源氏は、紫の上に明石の御方のことをきちんと打ち明けないうちに、他から聞き込まれることもあろうかと、

「さこそあなれ、あやしうねじけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには心もとなくて、思ひの外に口惜しくなむ。……憎み給ふなよ」
――実はそういうことなのです。妙にいじわるな仕業ですね。子供があればと思うあなたには生まれそうもなくて、以外な所にできるとは残念です。おまけに女だそうで、構わず置いておいても良さそうですが、そうも行かず、連れて来てお見せしますから憎まないでくださいね――

 紫の上は、顔を赤らめて、嫉妬をいつもご注意いただくことが、自分でも困ったものと
申し上げます。(嫉妬などいつするものでしょう)

源氏は程よくにっこりなさって
「そよ、誰がならはしにかあらむ。思はずにぞ見え給ふや。人の心より外なる思ひ遣りごとして、もの怨じなどし給ふよ。思えば悲し」とてはてはては涙ぐみ給ふ。
――ほら、それですよ。一体誰が経験させるのでしょう。心外ですね、思いもかけぬことに、気を回しすぎて恨んでおいでだこと、思うだに悲しい。と言ってついには涙ぐんでいらっしゃる――

紫の上は、すべては一時の出来心なのだと、明石の御方のこともお思いになろうとなさいますが、

源氏はつづけてこうおっしゃいます。

「この人をかうまで思ひやりごととふは、なほ思ふやうの侍るぞ。まだきに聞えば、またひが心得給ふべければ」と宣ひさして「人柄のおかしかりしも、所がらにや、まずらしう覚えきかし」など語り聞え給ふ。
――明石の御方をこうまで思いやってお尋ねするのはね、理由があるのですよ。早くお話しすればまた誤解なさるでしょうし、――と、途中で言いさして、――明石の御方の人柄が立派に思われたのも、海辺での淋しい思いからだったのでしょう、などとお話になります。――

◆この箇所は、お互いの心のなかの心理描写。お互いのくいちがいが出ています。

ではまた。


源氏物語を読んできて(男性の装束・直垂)

2008年07月20日 | Weblog
直垂(ひたたれ)

 袖細(そでほそ)とも。平安期には庶民の衣服。
後には武家の装束。
初期の頃は、おくみの無い小袖のようなもの。のちに、垂領(たりくび)で、菊綴(きくとじ)と胸紐がつく現代の形になる。長袴とセット。
侍烏帽子(さむらいえぼし)をあわせる。


源氏物語を読んできて(男性の装束・水干)

2008年07月20日 | Weblog
水干 (すいかん)

 狩衣(かりぎぬ)によく似た装束。
民間の男性が着る衣服。
構造は、盤領(まるえり)で袖と身頃がはなれている。
襟(えり)は、首の後ろから出ている紐と、襟に通した紐を結んでとめる。(袍の、古い襟の留めかたに近いと思う)。
袖に2つづつ、袖裏に2つづつ、胸に2つ、菊綴(きくとじ)という飾りがついている。

正式な着方(図左)とくずした着方(図右)がある。

源氏物語を読んできて(111)

2008年07月19日 | Weblog
7/19  

【澪標(みおつくし】の巻  その(4)

 源氏の子としては、めずらしく姫君であったと、お喜びは一通りではありません。占いで源氏の御子は三人で、帝、后、太政大臣の位を極めるでしょうと予言されたことを思い合わせられて、一旦は空しく思われた時期もおありでしたが、御子が帝になられた今、あの相人の予言は空しくなかったと、お思いになるのでした。

 住吉の神の導き給ふところ、明石の御方の世に類なき宿縁があって、さればこそあの頑なな親も、及びもつかぬ高い望みを持ったのであろうか。

「さるにては、かしこき筋にもなるべき人の、あやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけなくもあるべきかな、このほど過ぐして迎えてむ、と思して……」
――そうとすれば、畏れおおい后の位に上るべき人が、あやしげな田舎で生まれたとあっては、いたわしくもったいなくもあることよ。もうしばらくしたら、京へ迎え取ろう、と
思われて、(東の院を急ぎ修理するようお言いつけになります。)――

 源氏は、あのような田舎ではしっかりした乳母もおらぬと、さる、つてを見つけてお申し出になります。訳あってはかない子持ちの若い女で、早速こっそりとその家に行かれます。例によって一夜を共にしてのち、明石へ発たせたのでした。

「入道待ちとり、よろこびかしこまり聞ゆること限りなし。そなたに向きて拝み聞えて、あり難き御心ばへを思ふに、いよいよいたはしう、恐ろしきまで思ふ」
――入道は乳母をはじめとしてもろもろを頂き、限りもなく源氏の御志を感謝恐縮もうしあげます。京の方角に拝み奉って、いよいよ恐ろしいくらいに明石の御方母子を大事にしようと思います――

 乳母は、なるほどこのような田舎ではと、京での夢見心地も醒めてしまいましたが、
「いとうつくしうらうたく覚えて、あつかひ聞ゆ」
――乳母は姫君(明石の御方の子)が大層可愛らしく思われて、お世話申し上げます――

 明石の御方も源氏のご配慮に慰められて、お手紙を書かれます。
源氏は
「あやしきまで御心にかかり、ゆかしう思さる」
――不思議なほど姫君のことがお心にかかり、早く見たいと思われます――

だはまた。

源氏物語を読んできて(装束の具・檜扇)

2008年07月19日 | Weblog
檜扇(ひおうぎ)
 
 平安時代の中期から用いられたもので、笏だけではメモ欄が少ないという理由からか、薄い檜板を糸で綴って扇の形にしたものです。
 これは日本独自の物です。
 束帯、衣冠など冠を着用する場合には必ず用いました。ただし束帯の場合は懐中するだけのもので、衣冠の場合は笏を持たないのでこれを笏の代わりに右手に持つことになりました。
 狩衣でも冬場は持つことがあります。

源氏物語を読んできて(装束の具・蝙蝠扇)

2008年07月19日 | Weblog
蝙蝠扇(かわほり)
 
 蝙蝠は夏の持ち物で、直衣や狩衣の際に用いました。この目的は現在の扇子とほぼ同じで、酷暑冷却用のものです。
 今日の扇子と異なるのは骨が5本程度と少ないこと、骨の片面しか紙が張られていないことです。
 かつての宮中での蔵人などの活動的廷臣は冬の束帯でも檜扇でなくこれを用いたそうです。 非常に軽便なために多用されました。


源氏物語を読んできて(110)

2008年07月18日 | Weblog
7/18  

【澪標(みおつくし】の巻  その(3)

 故葵の上のお産みになった若君の夕霧は、だれよりもお美しく、宮中にて童殿上(わらわてんじょう)をなさっています。
 源氏の左大臣邸に対するお気持ちは昔と同じで、

「折節ごとに渡り給ひなどしつつ、若宮の御乳母たち、さらぬ人々も、……幸い人多くなりぬべし。」
――折りある毎にお出でになっては、夕霧の乳母たちや、それほどではない人までも、何か機会のある毎に便宜をお与えになろうと心がけられておられますので、幸いを得る人が多ございました。――

「二條の院にも、同じごと待ちきこえける人をあはれなるものに思して、年頃の胸あくばかりと思せば、中将、中務やうの人々には、ほどほどにつけつつ情けを見え給ふに、御暇なくて、外ありきもし給はず」
――本邸の二條の院にも、同じように源氏のご帰京を心待ちにしていた女房たちをけなげなものとお思いになって、この数年の憂さ晴らしになるほどにはと思われて、中将や中務の人にはそれぞれの程度に情愛をお見せになりますので、お暇もなくて外歩きもお出来になれないのでした――

「まことや、かの明石に心苦しげなりしことはいかに、と思し忘るる時なければ、……三月朔日のほど、……御使ありけり」
――ああそうそう、あの明石でいたわしげに見えた懐妊のことは、とお忘れになることはなく、三月一日のころに、使者を送ります――

使者が急ぎ帰って
「十六日になむ、女にてたひらかにものし給ふ、と告げ聞ゆ」
――三月十六日でした。女で、ご安産でいらっしゃいます、と報告申し上げます――

◆童殿上=男子は、幼児期、元服前は童(わらわ)といって、髪も服も大人と違い、姉妹のところにも入って行けた。公卿の子は元服前、十歳頃から童殿上といって、清涼殿の殿上の間に伺候を許され、見習いをする。

ではまた。

源氏物語を読んできて(男性の装束・冠)

2008年07月18日 | Weblog
冠(かんむり)

 奈良時代の令制度の頭巾(ずきん)が変化したもので、髪の髻(もとどり)を巾子(こじ)で包み、また頭巾の結び余りを垂らしたのが冠の形となった。

 被(かぶり)物としての前頭部の額と髷(まげ)を入れる後頭部の巾子、そして後ろに垂れた纓(えい)で構成され、紋羅(もんら)などの薄織物に漆(うるし)を塗って作った。

 初期の纓の形は裾開きで柔らかく燕尾(えんび)形だったが、強装束となるに従って長方形の堅いものとなった。身分や官職、年齢によって形や文様が異なる。

◆写真:冠 風俗博物館

源氏物語を読んできて(男性の装束・笏)

2008年07月18日 | Weblog
笏(しゃく)
 
 笏は、中国において、役人が君命の内容を、忘れないようにメモを書いておくための板「手板」であったと言われています。日本においては、笏に必要事項を書き記した紙「笏紙」を裏面に貼って用いていました。のちには威儀を正すために右手に持つ小道具となり、束帯の時および神事に際して用いられました。
 
 律令の定めでは五位以上は象牙製の牙笏(げしゃく)ですが、日本では入手が困難なため、今はすべて木製です。櫟(いちい)が一般的で、そのほか椎、樫などでつくられています。

◆写真:笏(しゃく)