礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

馬場辰猪『日本文典初歩』(1873)の「序文」

2013-06-20 08:49:08 | 日記

◎馬場辰猪『日本文典初歩』(1873)の「序文」

 馬場辰猪が英文で書き、一八七三年(明治六)にロンドンで出版した『日本文典初歩』(『日本語文典』ともいう)は、『馬場辰猪全集 第一巻』(岩波書店、一九八七)に収められている。ただし、これは英文のままであって、序文のみ、日本語訳が付されている。
 また、明治文学全集第一二巻『大井憲太郎 植木枝盛 馬場辰猪 小野梓集』(筑摩書房、一九七三)にも、「『日本語文典』序文」が収録されている(西田長寿試訳)。
 本日は、明治文学全集所載の「『日本語文典』序文」の冒頭部分を引用してみる。また、『馬場辰猪全集 第一巻』から、それに相当する部分の英文も引用しておこう。

『日本語文典』序文
 この本を著わす目的は二つあります――第一に、口語日本語に関する全般的知識を与えること、第二に、多くの日本人、また、わが国に関心のある外国人のあいだに広く行きわたっている考え方に異議を唱え、その理由を示すことです。わが国の言語はたいへん不完全であり、そのような言語を用いた正規の体系的教育課程の確立は不可能である、という考え方が肯定されています。また、最良の方法とは、日本語を根絶して代りに英語を採用することである、とも言われています。こういった見解を抱く人々は、これまでに日本語を十分吟味し、それが知的な思考や表現の手段として不完全であることを証明すべきであったのですが、われわれの知るかぎりではこれはまだなされていないようです。
 たとえば、森〔有礼〕氏は英文『日本の教育』の序文で「漢語の助けなくしては、わが国の言語を伝達という目的のために教え、あるいは用いることはできないだろう。これは“わが国の言語の貧しさを示すものである」と述べています。
 この言明は、われわれから見るとあまりにも中庸をはずれたもの、まさに、まったく唐突で十把ひとからげの言明と思われるものであり、われわれは強く異議を唱えざるを得ません。漢語の伝来以前にも、われわれは伝達手段として何らかの言語を持っていたはずです。漢籍、漢文学等の伝来以後、われわれは、やまと言葉では表現不可能な漢語の使用を余儀なくされ、その結果、自国語を教えるにも漢語の助けを必要とするようになりました。これは、一国が他国から古典文学をとり入れるときに概して起ることです。というのは、後者には、前者の言語範囲内に同義語や相当語句を見出せない言葉がつねに数多く存在するからです。【以下略】

PREFACE
 WE have two objects in publishing this book-the flrst, to give a, general idea of the Japanese language as it is spoken ; and the second, to protest against a prevalent opinion entertained by many of our countrymen, as well as foreigners who take some interest in our country, and to show the reasons why we do so. It is affirmed that our language is so imperfect that we cannot establish a regular and systematical course of education by means of it ; and that the best way is to exterminate the Japanese language altogether, and to substitute the English language for it. Those who maintain this opinion ought to have examined the language and proved its imperfection as a medium of intellectual thought and expression, but so far as we are aware they have not done so.
 For example, Mr. Mori, in his introduction to “ Education in Japan,” says,“without the aid of the Chinese, our language has never been taught or used for any purpose of communication. This shows its poverty.”
 From this statement, which seems to us to be too little qualified, indeed, to be altogether much too extravagant and sweeping, we are compelled emphatically to dissent. Before the introduction of Chinese we must have had some sort of language which served as a means of communication. Since we introduced the Chinese classics, literature, &c., we have been obliged to use Chinese words or phrases which we could not express in Japanese, and so it became necessary to teach our language with the aid of Chinese. This is generally the case when one nation introduces the classical literature of another country ; because there are always many words in the latter, for which the language of the former cannot find synonyms or equivalents. 【以下略】

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