礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

家永三郎、美濃部達吉の『憲法撮要』に出合う

2015-06-13 05:35:44 | コラムと名言

◎家永三郎、美濃部達吉の『憲法撮要』に出合う

 家永三郎の自伝『一歴史学者の歩み』(三省堂新書、一九六七)は、読み直してみると、なかなか興味深い本であった。本日は、その第三章「歴史へのあこがれ――中学校時代の思い出」から、「美濃部達吉氏の著書との出合い」という節の一部を紹介してみよう(五六~五七ページ)。

 美濃部達吉氏の著書との出合い
 【前略】
 ただほかの人たちと少しく違っていた点は、やはり私が早熟のせいであって、大体同じ時期に美濃部達吉博士の憲法書を読んだという経験があるということである。私が中学に入学したころ、私の二番目の兄が東京商科大学に在学していたが、美濃部達吉博士は東京帝国大学教授のほかに、商大の教授をも兼任して、そこでも憲法講座を担任しておられた。兄は美濃部教授から憲法の講義を聞き、教科書として博士の主著である『憲法撮要』を使用していた。私は兄の使っている、この『憲法撮要』を読んで、美濃部博士の、思想内容よりも、むしろその幾何学の証明のような明晰な論埋に深く魅せられ、それ以来この書物は、私の数十年にわたる愛読書の一つとなったのである。初め、兄の書物を借用して読んでいた私は、高等学校に在学していたころ、古本屋で初めて自分の書物として『憲法撮要』を購入した。今でも私の書棚に残っている『憲法撮要』の裏見返しに私の筆跡で「昭和七年五月一日」という購入の日付が記入されているが、いかに私がこの書物から大きな影響を受けたかを物語るものである。
 当時の私にとっては、今言ったように美濃部博士の論理の明晰さのほうに魅せられたのであって、必ずしも国家法人説とか天皇機関説とかの思想的な内容に影響されたとまでは言えないけれども、少くとも美濃部博士の立憲主義の思想が抵抗なく私の心に入っていったことだけは疑いない。それ故に私の心理には、天皇制には忠実であっても、神がかり的な天皇制イデオロギーに陥ることを食いとめる歯どめが、いち早くしかけられたと言える。全く偶然の事情による結果ながら、私が中学一年という早い時期に美濃部博士の著書に接することができたのは、生涯のしあわせであったと言わなければならない。
 ただ、しかし美濃部博士の影響は、私にとって全面的にプラスとなったとも言えない。というのは、美濃部博士は法律学的観点から天皇を国家の機関とし、天皇の大権に限界のあることをはっきりと主張したにもかかわらず、他方で歴史的、倫理的な思想としての国体観念の存在を認め、むしろ国体観念を法律学の世界からしめ出すことによって、天皇機関説の立憲主義を守ろうとする方法をとられたため、法律学者としての美濃部博士はきわめて立憲主義――むしろ今日の民主主義的な態度をさえ発揮されていたが、同時に、心情的には、やはり忠実な天皇制イデオロギーの支持者でもあるという側面をもっていた。それがそのまま私にはね返って、神がかり的な天皇制イデオロギーに対する批判意識を植えつけられた半面、天皇制を客観的かつトータルに批判する態度をとることができず、それが数十年続いて、天皇制の本質を正視する目を開く機会をつかむのをいちじるしくおくらせたというマイナス面をも生じせしめる結果ともなった。【以下略】

 この『一歴史学者の歩み』という本は、その巻末に「著者関係略年表」というものが付いている。それによれば、家永三郎は、一九二六年(大正一五)三月に余丁町小学校を卒業し、同年四月に、第一東京市立中学校に入学し、その年に『憲法撮要』を読んだことがわかる。家永三郎は、一九一三年(大正二年)生まれであるから、そのとき、数えで一四歳であった。

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