礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

青木茂雄自伝・その2「最初の移住」

2017-11-18 04:25:52 | コラムと名言

◎青木茂雄自伝・その2「最初の移住」

 昨日に続いて、青木茂雄氏の「自伝」を紹介する。本日、紹介するのは、「わたしの幼少期(2)」と題する文章で、「最初の移住」という見出しがある。
 なお、この「自伝」は、このあとも、折を見て断続的に紹介してゆく予定である。

記憶をさかのぼる    青木茂雄
わたしの幼少期(2)

最初の移住
 昭和26年の6月頃、私たち家族7人は私の生地茨城県日立市から、県庁所在地の水戸市に移住した。新居住地は常磐線の水戸駅から約3キロほど離れた、市街地の外れに位置した当時「新屋敷」とよばれていた住宅地の一角であった。徳川時代に御三家の一つの水戸徳川家には参勤交代がなく、藩の一部が藩主とともに江戸に常駐していた。江戸後期の徳川斉昭の時代に、財政立て直し策として斉昭自身が水戸に居を構えると同時に、江戸詰の藩士(主として上級藩士)を水戸に居住させた。そのために新しく郊外に開かれた藩士の居住地区が「新屋敷」と呼ばれた区域であった。そこは1町歩四方に整然と区画されていた。町名も「〇〇小路」というしゃれた名で、「桜」「花」「松」「楓」「梅」「桃」などを配した。私の住むことになったのは「梅小路」(うめのこうじ)という町名がつけられていた。
 私たち家族が移り住んだ一角は、鵜飼(うかい)という藩士の旧居住地であり、その敷地約300坪ほどが4つに区画されたものの一つであった。戦災で旧住居は灰燼に帰していた。鵜飼家が当時の水戸藩でどのような役職であったかは確認できないが、比較的上級であり、おそらく「処世派」とよばれた水戸藩内の保守派であったろうと思われる。鵜飼家の末裔は、旧敷地内の一角の焼け跡に狭い小屋を建てて、そこに住んでいた。通り抜けに私たちの家のすぐ裏の敷地内を使った。旧上級士族とはとうてい思えない、貧相ないでたちの偏屈な老人で、通りすがりに私達の敷地内に平気で音をたてて痰や唾を吐くという習性があり、人に会うと「瓦解(がかい)だ」と嘆くのを常としていたという。「瓦解」とはすなわち旧勢力から見た「明治維新」のことである。その鵜飼老人もいつの日かいなくなった。
「新屋敷」の一角には元医事掛の菅(かん)氏、元教育掛の名越(なごや)氏などが居住していた。その名越氏の子孫が水戸学の在地の研究グループである水戸史学会の元締である名越時正氏で、私の母校の水戸第一高等学校で日本史の教師をしていた。私も2年生の時に直接に彼の授業を受けた。信条である皇国史観についてはともかく、徹底した細事にわたる人物中心主義(しかも史観に基づいて善玉か悪玉かに2分される)にはいささか、否かなり閉口した。私は最前列で脚を投げ出して、ややふてくされた態度で聞いていたが、そのことが彼の記憶の中にあったからなのか、あるいはテストの答案に古代天皇制国家は奴隷制国家であるなどということを書いたからなのか、ある日、家の近くの路上で自転車ですれ違いに鉢合わせになった際に、彼はくるっと後ろに向きを変えて去ってしまった。彼の目には私は当時から明らかな「左翼」であった。その頃我が高校内にも名越時正信奉者がいて、何人かは新屋敷にあった名越邸で定期的な研究会にも参加していたが、その研究会での定例行事が宮城遙拝であった、ということを誰かから聞いた。同じ教育掛に飯村家があった。しかし、ここは水戸学の継承家ではなく普通の教育掛であったようである。私の長姉がこの家に嫁いだ。根っから平民の出自の青木家にあって唯一士族の嫁となった。
 さて、その引っ越しの日の出来事は今でも良く覚えている。私が一日の行動としてまとめて覚えている最初の一日が、この引っ越しの日である。
 朝、庭先にトラックが着いた。積み出した後、兄2人はトラックの助手席に乗り、私は、母たちとともに鉄道で移動した。これが記憶している最初の鉄道の旅である。「みと」という町へ移るということは、しばらく前に聞いていた。私は「みと」の姿をあれこれと思い描こうとしたが、土台、「街」という概念もイメージもない。私は、平べったい一繋がりの西洋風の城のファサードのようなものを漠然と浮かべていた。このイメージのもとが何であったかはまったく不明である。  
 蒸気機関車に曳かれた列車の旅、薄黒い客車の暗い車中の中からとびきり鮮やかに見えたのが車窓からの移り行く景色である。それは私の心を奪うのに十分であった。水戸駅を降りて、路面電車で移動した。初めて目にした水戸の市街地。商店が連なり、人が行き交っている「街」の姿はとりわけ印象が深かった。路線電車を降りて、わが新居まで歩いた。途中、交差している道路(幅が10メートル以上はあろうかという広い道)の奥には、まるで竜宮城のような独特の形をした建物が見えた。その桃色の線で縁取られたあの建物は何かと私はいぶかった。これが水戸商業高等学校の伝統ある木造建築であった(私の記憶はこの頃から時に色彩を伴うようになった)。
 出生地と異なった世界があるという最初の経験であった。 (つづく)

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