礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山内進著『決闘裁判』(2000)を読む

2017-11-28 08:16:28 | コラムと名言

◎山内進著『決闘裁判』(2000)を読む

 最近、読んだ本で、ひときわ印象的だったのは、山内進氏の『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景』(講談社現代新書、二〇〇〇)であった。こういう示唆に富む名著に気づくのが遅くなったことを悔やんだ。
 この本で言う「決闘裁判」とは、一対一の「決闘」という形で決着がつけられる「裁判」である。それは、中世ヨーロッパで採用された裁判の一態様であり、「神の裁き」という性格を持っていた。著者によれば、「神の裁き」とは、神前において、「生死を賭する戦い」によって、訴えの当否を決定する裁判である(一〇ページ)。
 この本は、きわめて専門的な内容の本であって、「新書」が求めているであろう通俗性には、やや欠けるところがある。しかし、私はこれを、きわめて通俗的に読んだ。すなわち、中世ヨーロッパにおいては、「正義」というのは、客観的なものではなく、戦いに勝ったものが「正義」とされたのである。そして、この論理は、中世ヨーロッパ特有のものというより、今日においてなお、欧米世界に貫かれている論理ではないのか、と考えさせられた。
 それ以上に「通俗的」なことも思い浮かんだ。アメリカの西部劇映画には、やたら、『○○の決闘』というものが多い。それらの映画のラストシーンは、主人公とその敵対者との「決闘」である。戦いに勝った主人公が、やはり「正義」だったという結末になるのである。
 また、西部劇でなくても、映画の結末近くで、主人公とその敵対者とが、一対一の格闘にモツレコムという展開になるものが多い。映画『エアフォースワン』でも、結末に近いところで、ハリソン・フォード演ずる大統領が陰謀団のリーダーと格闘するシーンがあったと記憶する。
 アメリカ映画における、こうした「決闘」や「格闘」も、おそらくは、中世ヨーロッパの「決闘裁判」に、その起源を求めてよいのだろう。もちろん、山内進氏の著書には、そんな通俗的なことは説かれていない。

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