◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その3
桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」を紹介している。本日は、その三回目。
(3) 国家と学校の信条的中立性をめぐって
西原の所説の柱の一つに、国家の信条的(ないしは価値的、世界観的)中立性についての主張がある。それは近代国家の基本原則であって個人の思想・良心の自由を基礎におく国家としては当然の要請となるという。西原は、ドイツでの議論を踏まえて以下のような原理的言明をおこなう(下線は引用者)。
「倫理的・道徳的な領域における国家の中立性を個人の良心の自由との関係で捉えるなら、国家は特定内容の倫理観・道徳観に同一化することは許されないという原則が成り立つ。個人の良心の自由が保障され、良心内容が個人ごとに異なった形であれ、国家の強制のない自由な私的領域で形成されることが前提とされた以上、国家が道徳に関する監督の任務を引き受けることは許されない。国家が個人の行動を直接に規制する領域では、国家の規律は特定の道徳・倫理といった信条を個人に押し付けることそれ自体を目的としたものであってはならない。国家が強制を及ぼし得るのは、具体的に特定可能な個人的・社会的利益を保護するために限られる。社会の道徳の維持は、正当な国家の任務ではなく、法規の正当な保護法益ではあり得ない。」
「国家の信条的中立性は、国家が特定の道徳的・倫理的立場を意図的に自らの基礎として採用することに対する禁止となる。国家は、それが国家成立の基礎であろうとも、国民の信条に対して意図的に介入することはできず、道徳に関する権限を引き受けることはできない。〔12〕」
この国家の信条的中立性の要請はあくまでも原理的なものであって、現実の国家は決して完全な意味では信条的に中立ではあり得ないという。そもそも国家の行為一般に何らかの価値判断が伴うのは避けられない〔13〕。特に、憲法で下された価値決定についてそれは当てはまる。すなわち
「国家は憲法に基づいて存在するのであり、憲法で下された価値決定と同一化せねばならない。そのため、個人の尊重、自由、生命、平等、生存権、平和などといった価値は国家活動の中で正当な地位を占める。また、憲法に定められた民主的意思形成過程も民主主義の価値を保障する側面を有し、国家が関係する領域における組織原理として機能する。こうした価値選択が国家存立の基礎である憲法によって下された領域では、国家は中立ではあり得ない。〔14〕」
しかし、どこまでが憲法による価値決定として中立性の例外となるかという判断は困難で、広く捉えればあらゆる国家活動が正当化され、厳しく捉えれば現実の国家活動は困難になるという〔15〕。
信条的中立性の要請は国家と同様の根拠で学校にも向けられている。すなわち
「特定内容の道徳やイデオロギーを実現することに向けた目標設定を国家に禁じる原理的な規範としての国家の信条的中立性は、学校の領域においてもやはり重要な意義を展開する。思想・良心の問題として様々な考え方がすでに存在する中で、社会の道徳的な同質性を形成することは、学校の任務ではない。子どもが判断能力を有する自律的な人格へと成長することを援助するのではなく、子どもの思想内容・良心内容に直接働きかけて、特定内容の道徳やイデオロギーを教え込むことそれ自体に向けた教育が行われるならば、それは客観法的な憲法規範としての国家の中立性に反し、憲法上許されないことになる。〔16〕」(下線は引用者)
しかし、学校でも信条的中立性には例外があって、とりわけ憲法で下された価値決定は、国家と同様にその重要部分となる〔17〕。それも含めて信条的中立性は学校においても厳密には実現できないという。すなわち
「憲法上の価値の伝達や知識伝達のための素材選択の中で、憲法から引き出せない価値観の伝達が付随的に発生することが避けられないことまで考慮に入れれば、国家の中立性は学校においては厳密には実現できないことを承認せざるを得ない。〔18〕」(引用者による下線部「国家」は原文のまま)
2006年の著書では、より踏み込んで、学校の信条的中立性という原理から学校活動の3領域区分を導き出している。すなわち、「①子どもに習得を強制できるもの、②学校が関わることはできるが子どもに強制できないもの、③学校が関わってはならないもの」である。「特定宗教を前提とする宗教的教義を子どもたち全員に受け入れるべき真理として伝達」することは、ドイツでも日本でも③、「ドイツでは始業の祈り、日本では国歌斉唱の指導」は②であるという〔19〕。
さらに、学校教育における信条的中立性の例外の全体像については、同じ2006年に発表された論文〔20〕で、一層具体的に、1)「付随的価値」、2)「校内秩序の維持と”生活指導”」、3)「憲法価値の伝達」という3項目を指摘している〔21〕。
西原のこれらの主張は、価値的中立性を原理的に求められながらも現実には厳密にはそれを貫き得ない学校における価値伝達について、議論のたたき台としてはよく考えられた提言ということができる。後論との関係では、学校での「国歌斉唱の指導」は「学校が関わることはできるが子どもに強制できないもの」と分類されている点が重要である。しかし、西原は、訴訟の中で政策自体の違憲性判断をすることには重きを置いていない〔22〕。また、学校の信条的中立性の要請を、学校(公立学校を念頭に置いている)を国家の権力機関と本質規定するところ〔23〕から自明のこととして導いているように見えるが、これも議論のあるところであろう。【以下、次回】
注〔12〕同上p343,344「d 小括―国家の道徳的任務の否定としての信条的中立性」
注〔13〕「法律制定や行政処分を実際に行う場合、付随的な形で国家が個人の信条に影響を与えていくことは避けられない。国家が何らかの形で活動しなければならず、そうした国家の活動がすべて何らかの価値決定を反映したものでしかあり得ないことを考えれば、そうした現実の国家行為の基礎とされる価値決定が問題となる。」(同上p344)
注〔14〕同上p344-345
注〔15〕同上p348
注〔16〕同上p443 この部分のあとに「「君が代」の指導が、国民に特定内容の愛国心を持たせることを目的に行われるなら、「正しい」愛国心の内容を決定できない国家としては、越権行為となる」という文が続く。しかし、「特定内容の愛国心を持たせることを目的」としない儀式における「「君が代」指導」はそもそもあり得るのであろうか。
注〔17〕同上p441-442
注〔18〕同上p442
注〔19〕『良心の自由と子どもたち』(岩波書店2006)p130-131
注〔20〕「憲法教育というジレンマ」(戸波江二・西原博史編著『子ども中心の教育法理論に向けて』エイデル研究所2006)
注〔21〕1)は、「知識や技能の伝達を行うために必然的に付随する価値の問題が生じる場面である。国語のテクスト選択に必然的に付随する前述の価値決定などがその例といえる。」2)は、「子どもたちの生活に関わる次元である。「授業中に喋るな!」という指導は、「教師の言うことを黙って集中して聞くことが正しい」という絶対的な基準を子どもたちに伝達する意味を持つ。(中略)こうした働きかけについては、権力機関が秩序維持機能を担うために生じる最低限の働きかけと受け止める余地があろう。」3)は、「一つには、たとえば現代日本の国家構造を紹介する中で、日本国憲法を支える原理として基本的人権や民主制が解説される場面がある。これは基本的には知識伝達に関わるものであり、将来における主権者としての意思決定にとって不可欠の前提を成す情報に関わるがゆえに、基本的にはすべての子どもに漏れなく伝わっていなければならない。」次に「民主主義を学ぶ場として生徒会が教育的配慮に基づいて組織される場合など、単なる知識・技能を越えて、実際の参加という形で行動が求められる場面がある。この点では、すでに、学校が民主制の価値原理と同一化している度合いはは強まり、特定価値の強制としての色合いは濃くなってくる。」(同上86-88)
3)の憲法価値の伝達については、西原は前出『良心の自由と子どもたち』で、以下のようにその範囲を厳しく限定すると共に、寛容の原理の不可欠さを説いている。
「中立性の例外として学校に取り込み得る憲法価値とは、想像力をたくみにしながら憲法を読んだ時に何らかの連想で導き出せるような価値観すべてのことではない。国家機関としての学校が憲法に縛られていることによって必然的に学校に流れ込んでいくような、最小範囲の憲法価値だけが、学校で頻りにできる最大公約数的な価値原理ということになる。そして(中略)子どもに憲法価値を伝達していく際にもその受け容れを権力的に強制してはならない。」(p172)
注〔22〕西原は、バーネット判決のような判断構造を否定しているのではないが、アメリカにおける判例としての定着に疑問符を付している。(同上『良心の自由と子どもたち』(p107-108)。西原においては客観法的違法性判断と個人の主観的受け止め方に基づく判断とが二項対立的に位置づけられ後者に重点が置かれているようである(例えば前出「思想・良心の自由を今考える」(この基調報告に基づく対談も含む))
注〔23〕この断定は彼の論考の各所で見られる。彼の主張の柱の一つである。