◎桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その8
桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」を紹介している。本日は、その八回目(最後)。本日、紹介するところは、西原博史<教師の抗命義務>説に対する包括的な批判である。なお、論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2)」は、これで終わっているわけではなく、まだ、続きがある。
(8) <教師の抗命義務>説の意義と問題点
西原博史の<教師の抗命義務>説は、その魅力的な命名も与って、少なからぬ影響力を現場の教師に与えてきた。学校現場で、国旗国歌儀礼に対して孤立しながらも異議申し立てし続ける教師のうちでは、自己を励ます極めて力強い言説として西原説を受けとめたものも多い。この意味での実践的意義は大きい。ここまで、彼の学説の全体像の紹介に努めてきたが、<教師の抗命義務>説は、西原学説の個性を代表するものと言える。ここであらためて、私の論評をまとめることにしたい。
① 国家権力の末端という位置づけから<教師の抗命義務>を導出するのは無理がある。
西原学説においては、教師の権力性・学校の権力性・国家の権力性が混同されている。西原は<学校の権力性>ではなく<教師の権力性>という語を多用する。その場合の<教師の権力性>は、公務員として国家権力の末端に位置するという規定から導き出される。したがって、私立学校教員は視野から外れる。それは、時として公立学校教師の人間性批判のような印象を持つ叙述につながる。
教育における権力性を対象化し批判するのは、<国民の教育権>説批判としては的確である。しかし、問題の構造的とらえ方には疑問がある。教師の権力性が国家一般・公務員一般の権力性に解消されてしまい、それが近代の学校教育特有の構造的本質に起因するという点が抜け落ちてしまっている。教師が行使する権力の中心部分は、学習成果を評価し、懲戒を行うことを通じて行使される。また、これらを支えるのは生徒についての多様で豊富な情報収集である。こういった諸権限は法令及び入学契約により学校という機関に付与されたものであるが、それは公権力であることと同じではない。学校が権力機関であるということは公立・私立を問わず言えることである。また、直接個人としての教師に付与されたものではない。西原も高く評価する奥平康弘は次のように述べている。
「教師は、教育を施す子どもたちとの関係では、学校教育制度という一定の制度の枠組みにある限りで権限を有し義務を持つに過ぎない。〔64〕」
学校の設置者によって国・地方自治体の法令の持つ規制力に違いはあるが、教師の権力性の根拠が学校自体の権力性にあることには基本的には変わりはない。公立学校であることで私学とは異なって特別に分有する国家権力があるのであろうか。国旗国歌儀礼など国家儀礼の強制は設置者の学校法人の方針次第では私立学校でもおきる。西原の場合、<国家権力>という語のいささか情緒的な多用によって学校の権力性の意義と限界についての議論が困難になっている。職務遂行にあたって生徒の人権に配慮しなければならないのは、公立学校の教師が国家権力の末端に位置するからではなく、学校自体が権力性を帯びているからである。仮に何らかのかたちで<教師の抗命義務>が存在するとしても、それは私立学校教師にも当てはまる。
国家公務員法・地方公務員法は、官僚組織の規律を定めたものである。教師を公務員である公立学校教師で代表させ、国家権力の末端に位置づける西原説では、公務員法に規定された<職務の公共性と全体の奉仕者性>による教師の基本権制約や職務の独立性の圧縮に対しては有効に対抗できない。
② <教師の抗命義務>は、生徒の自由の余地との比較では均衡に欠ける。
西原がモデルとして、また共通性があるものとして提示しているものと、<教師の抗命義務>とは、大きな相違がある。西原がモデルとして示したドイツについての3事例は、抗命義務を求められているのが武器の携帯使用を認められた兵士であったり、職権行使の相手が無抵抗の存在であったり、職権行使の内容が殺人であったりするものである。学校儀式における生徒は絶滅収容所のユダヤ人や日中戦争時に日本兵の刺突訓練対象となった中国人捕虜とは違う。
起立斉唱・ピアノ伴奏を職務として命じられている教師と比較した場合、生徒の方が、欠席等による離脱の自由を含めて、一般的にはより自由の余地がある。国旗国歌法の国会審議での政府答弁では、少なくとも狭義の強制を生徒に及ぼすことは明確に否定されている。また、西原によって職業上の良心の自由の範例の一つとされた裁判官は、憲法によって職権の独立と身分の保障が明確に定められている。裁判官には職権行使にあたって職務命令はない。
懲戒処分が予想される教師に対して不起立・不伴奏を職務上の義務として課することは、生徒・保護者側の相対的に広い自由の余地を考えた場合、均衡的とは言えない。何を優先するかの判断も含めて、子どもと親の憲法上の基本権の主体としての立場を尊重すればするほど、<教師の抗命義務>発動の余地は狭まる。
③ <抗命>としての不起立・不伴奏は、第3者の権利擁護に結びつくとは限らない。
不起立・不伴奏行為が特定の他者の権利擁護に確実に結びつくのは、それが儀式の特定部分を実施不能か大きく改変できる場合だけである。そもそも不起立・不伴奏は、よほど大規模・突発的に行われない限り、儀式の進行・内容にたいした影響を及ぼせない。孤立して教師が職務命令に反して行動しても、儀式全体はほとんど支障なく進行する。一方で、教師が懲戒処分を受けると、生徒にとってはかえって威嚇効果を持つだけに終わる可能性もある。〔65〕不起立・不伴奏が確実に守れるのはその教師自身の思想・良心なのである。
生徒に対する教育委員会・管理職による激しい起立斉唱指導が行われた<北九州ココロ裁判>における原告教師の心情は、心を打つものがある。田中伸尚は、不起立を選び取ったまたは選び取りたい生徒の孤立した気持ちに対する教師らしい真摯な共感を伝えている〔66〕。以下は、田中の著作に引用されている同原告団事務局長竹森真紀執筆による「準備書面(14)」(2000年5月9日)の「抗命義務としての着席」にある部分である(下線は引用者)。
「「君が代」を歌えないという子どもたちを目の前にしたとき、子どもを預かる教員は、子どもの基本的人権を保護する義務を負う。文部省・教育委員会・校長によって組織的な子どもの良心の侵害が行われるなら、教員は、子どもの人権を侵害するがゆえに違法な学校活動に関わってはならず、反対に、自分の影響力の範囲内にある手段を用いて人権侵害を妨げる責務を負う。この子どもたちの「内心の自由」を保障することができるのは、教員以外のなにものでもないことは明らかである・・・・・教員自らが「起立して歌うこと」によって子どもの内心の自由を奪っているのである。原告らは、学校長の職務命令に従って「起立して歌うこと」ではなく、子どもの内心の自由を保障する最低限度の行為として「黙って座る」ことを選んだに他ならない〔67〕」(「・・・・・・」は引用元の田中伸尚著作にあるもの)
省略記号より前の部分は、一読して西原学説と同じ主張であることが分かり、同様の疑問を感じさせるが、下線部については「原告ら」と一括してはいるものの、個々の原告の主観的な心情を語ったものとしては十分に了解可能である。しかし、「子どもの内心の自由を奪っている」「子どもの内心の自由を保障する最低限度の行為として」の「「黙って座る」」という部分についての客観的事実としての立証は、特定生徒との極めて個別的な具体的関係の提示を必要とする。また、西原学説の立場からは、君が代を歌いたい生徒に対する心理的圧迫ないしは強制の不存在を立証しなければならないことになる。これらの点を、前後の文章や他の準備書面から確認したいところだが、残念ながら関係websiteでの裁判書類閲覧はできなくなっている。
④ 生徒の明示的な救済申し立てがない限り<抗命義務>の存在は立証困難である。
西原学説によれば、<抗命義務>の発動において決定的な要素は特定の生徒に対する人権侵害の発生(またはその恐れ)である。それは、典型的には生徒自身または保護者による明示的な訴えによって確認できるものであろう。これは人権侵害の認定に生徒の主観的要素を重視する彼の学説から必然的に導き出されるはずである。しかし、国旗国歌儀礼の強制体制が、教師の異議申し立てを押さえ込んで完成されつつあるなか、生徒自身の明確な異議申し立てはいっそうなりを潜めつつある。ましてや、裁判に訴える生徒・親の存在は聞こえてこない。したがって、教師が他者の権利保護を理由に処分覚悟の抗命を実践できるような場面はますます見いだしがたくなった。
しかし、次章で紹介する<ピアノ裁判>東京地裁意見書に見られるように、西原によれば「子どもの権利侵害を恐れる原告の不安が杷憂に終わった」場合でも教師の主観的判断に基づいて抗命の違法性は阻却される。もともと、教師が原告となった国旗国歌問題の裁判では、生徒に対する思想・良心の自由侵害を理由とした不起立・不伴奏の事例でも、抗命によって保護するはずの対象の生徒(または保護者)が明確に保護を求めていない場合が多い。<ピアノ裁判>もその一つである。権利を擁護される第3者の意思表示は重要な要件ではなかったのだ。一方、第3者の権利擁護を裁判の主題とする限り、被害の事実の立証と原告適格性の論証という点で困難な問題を抱え込むことになる。教師たちが自己の行動を説明するさまざま言葉は、<抗命義務>についてのものとしてよりも、むしろ、主として教師個人の思想・良心を語ったものとして位置づける方が無理はないのではないか。
職務命令によって直接明確に人権を脅かされているのは教師である。内心の自由の侵害に関して教師にとって最も明確に認識できるのは自身に対する侵害である。訴訟構造上、権利の侵害を訴えるものの存在なしには、司法は教育コンテンツの客観法的違憲判断や個別救済判断はしない。不起立不伴奏を選び取った教師がいかに生徒の人権侵害を訴えても、生徒自身の原告としての訴えがなければ憲法裁判としては教師の人権侵害の有無を軸として進行する。表だった生徒・親の異議申し立てがなくなっても、教師個人の思想・良心をよりどころとして、学校において客観法的に違憲と判断しうる教育に荷担できない、自身の世界観・歴史観は国旗国歌儀礼参加を許すものではない、という主張は、依然として可能である。
以下の西原の文章は教師としての義務意識を強調しているが、権利主体としての多様な子ども・保護者の姿は消え失せている(下線は引用者)。
「 二〇〇一年以降の広島県、二〇〇三年以降の東京都など、いくつかの地域の教育委員会が北九州市のやり方を追いかけ、不起立の教員に対する処分を強行した。そしてこの処分行政はどこでも、処分覚悟で子どもの心の自由を守るのか、それとも生活を守るために自分の心を見ないようにし、子どもの心に対する配慮を捨て去るのか、という二つの選択肢の間で引き裂かれる教師たちを生んだ。権力が憲法による歯止めを乗り越えて、国家にとって都合のいいイデオロギーや国民意識を子どもたちに吹き込もうとする時、教師には権力の手先として実際に子どもに対して強制の引き金を引くロボットの役割が期待される。その時に子どもを最後の一線で守れるのは、(権力のために教育を行うのではなくて、子どものために教育を行うのだ)という教師の意識でしかない。〔68〕」
心情に訴える表現が多用される一方、問題構造が一面化されている。選別的に思い描かれた限りでの特定タイプの生徒とのみ教師とが向き合うという閉ざされ構図が描かれている。異議申し立てや救済の訴えの存在は必須のもととしては焦点化されているわけではない。また権利主体でありながら異議を申し立てる必要を感じなかった生徒や保護者の存在は問題構造には入っていない。たとえ、「権力の手先として」「子どもに対して強制の引き金を引くロボットの役割」を教師が果たしたとしても「最後の一線」を「守れる」のは生徒自身や親(保護者)である。パターナリズムに陥ることなく思想・良心の自由を尊重する為には、権利を侵害された(またはその恐れが生じた)当時者の判断・行動が重視されなくてはならない。
⑤ <教師の抗命義務>説には、教師自身の思想・良心の自由の適確な位置づけがない。
それでは、教師自身の思想・良心の自由はどう位置づけられるのか。西原が『良心の自由と子どもたち』で紹介した北九州の前述の事例((4)-②)では、「教師である自分も「君が代」に抵抗感を持っている」と軽く触れられているだけである。それも当該の子どもがそれを知っていて教師の行動を凝視しているという文脈で紹介されているに過ぎない。一方、教師の中には起立して歌うことができない一部の生徒の心情を理解していても、教師自身としては学校儀式での国歌斉唱を日本の学校の伝統に則るものとして、または子どもたちに愛国心を育てるためには適切な教育方法であると見なしている者もいる。しかし、教師個人の思想・良心は重視されない西原説では、特定の生徒に対する権利侵害の事実(またはその恐れ)があれば、これらの教師にも不起立・不伴奏による抗命の義務が生ずることになる。
<北九州ココロ裁判>も<ピアノ裁判>も、生徒・保護者の原告側での関わりはあった〔69〕。しかし、裁判は基本的には教師自身の権利を焦点に展開されたのであって、生徒・保護者が原告となって自らの権利を守るという形で進行したのではない。教師個人にとって起立斉唱・ピアノ伴奏はどのような意味を持つのかという視点ははずすことはできない。教師によってさまざまな思想・良心がありうる。しかし、歌唱と象徴表現による国家礼賛はできない、儀礼にによる愛国心刷り込みには荷担できない、という思想・良心こそ、憲法裁判においては核心として位置づけうるものである。しかし、西原によれば、教師の不起立が起って歌おうとする生徒への圧迫となる場合は、教師の不起立は批判の対象となる。儀式もまた教育の場であり教師の言動が何らかのかたちで生徒の行動に影響を与えることを考慮すると、西原学説による限り学校儀式の場において教師の思想・良心の自由を守ることはほとんどできない。 以下の引用はそれをよく表している(下線は引用者)。
「ココロ裁判原告団は、単純に教師の基本的人権を主張しているわけでもない。生徒の目前における教師の行為である以上、不起立は生徒たちに何らかの影響を及ぼすことを免れない。そして、自発的に立って歌おうとしている生徒に躊躇を覚えさせるような形で教師の不起立が作用すれば、そこには、斉唱強制とは逆の強制が働く危険がある。その意味で、教師個人の思想・良心の自由は、生徒に対する権力的地位を前提とした場合に、不起立の絶対的権利を導き出す根拠として全面的に認められるものではない。その点を踏まえてココロ裁判原告団は、まさに生徒に歌う義務がないことを伝える最後の手段としての不起立が処分されることの不当性・違法性を主張するのである。〔70〕」
学校儀式における教師の言動が生徒に影響を与えるというのは当然のことである。しかし、儀式での斉唱<強制>と教師の不起立・不伴奏の影響としての<強制>とは同じ「強制」という語で表現できないほどの違いがある。権力組織としての学校における国旗国歌儀礼は学校の権力性を不可欠のものとして前提しているのであって、それ自体学校の信条的中立性を揺るがせるものである。起立斉唱・ピアノ伴奏を求める職務命令に従わない教師は、もはや学校の権力性を体現し得ていない。その場合の教師は、西原のいうような意味での「権力的存在」ではあり得ない。教師が「権力的存在」であることを放棄して、自らの思想・良心の自由擁護のためにとる受動的対応については、たとえその影響があったとしても、生徒にとって受忍限度内であることは明らかである。一方、君が代を歌いたくない生徒は、教師に対して懲戒処分覚悟の不起立を求める権利があるとはいえない。下線部は追い詰められた教師の心情を推測させる印象的な記述だが、教師自身の思想・良心のありようを問わないかぎり、かえって焦点を曖昧にさせるものである。この西原の言説に欠けているのは諸主体の諸権利間の比較衡量や権利を持つもの自身の主体性尊重である。
学校では、生徒に対して強制が見えにくいかたちで「十重二十重に間接的影響力を行使して個人の信条に働きかける場合〔71〕」が多い。したがって、直接強制にさらされる教師の異議申し立てなしには、問題をあらわにするのは困難である。実際、学校儀式における国旗国歌強制についての訴訟はすべて教師の訴えによるもので、そこではじめて国旗国歌儀礼の違憲性が、明瞭に強制にさらされた教師自身に即したかたちで直接問われるとともに、同時に教育コンテンツとしての違憲性や生徒の内心への圧迫も俎上にのる。教師の個人としての思想・良心の自由を尊重することにおいて極度に抑制的な西原学説では、そもそも憲法裁判の有効な構造が成立しない。
西原が参照軸として重視するドイツでは、下記引用のように憲法(基本法)に教師の信教の自由を尊重する重要な規定がある(下線は引用者)。信教の自由は内心の自由の一環であり、広義の思想・良心の自由に含まれる。ドイツでは、公立学校において正規の授業科目として宗派の宗教教育を行うことが憲法上認められている一方、教師の内心の自由も明確に保障されている。正規の授業科目においても教師の内心の自由が守られるという点の原理的承認は,西原学説には欠落している〔72〕。
「第7条〔学校制度、宗教の授業〕
(1)全学校制度は国〔=ラント〕の監督の下にある。
(2)親権者は、子どもを宗教の授業に参加させることについて決定する権利を有す る。
(3)宗教の授業は、無宗派学校を除く公立学校において、正課の授業科目である。 宗教の授業は、国の監督権を害さない限りにおいて、宗教共同体の教義に沿って行われるものとする。いかなる教員も、その意思に反して宗教の授業を行うことを義務づけられてはならない。〔73〕」((4)(5)は省略)
現状の国旗国歌強制関係事件では、教師の個人としての思想・良心においてこそ、人権侵害が最も明瞭に見いだしうる。ここを重視しなければ、そもそも憲法裁判の構造が成り立ちにくい。また、教師個人の思想・良心の自由の尊重は、国家・行政の教育への過度の介入に対する有効な制約要因にもなる。西原学説は、教師の個人としての思想・良心の自由を適確に位置づけているとはいえない。
注〔64〕「教育を受ける権利」(芦部信喜編『憲法 Ⅲ』(有斐閣 1981)p417)西原はこの奥平論文を「国民の教育権説の仮面剥奪」と評している(前出『良心の自由と子どもたち』p79)。
注〔65〕仮に不起立・不伴奏が、儀式の進行を該当部分で阻止することができて国旗国歌儀礼のない学校儀式が結果として実現したとしよう。教師は行政当局から威力業務妨害で告発されるであろう。さらに、国旗国歌儀礼を重視する生徒・保護者からの告発も覚悟しなければならない。西原が組み立てる問題構造にはその可能性が入っていない。
注〔66〕前出田中伸尚『教育現場に「心の自由」を!』
注〔67〕同上p56-57。
注〔68〕前出『良心の自由と子どもたち』p203
注〔69〕 たとえば<ココロ裁判>につては、北九州ココロ裁判原告団編『「君が代」にココロはわたさない』(社会評論社2012年)p288以下
注〔70〕前出「不起立を讃える道―国旗・国歌の儀式的利用と教師」p2
注〔71〕前出『良心の自由 増補版』p349
注〔72〕教師の職務権限について基本的には憲法上の人権であるとはしない奥平康弘も以下のように憲法上の人権を根拠として国家の介入に抵抗する場合があることを認めている。
「教師は,実定法制度のかぎりにおいて「教育権」を有するにすぎないが,当該実定法制度そのものの内部で,統治機関が違憲な行為を行った場合には,ある種の教師は,これを自己の市民的自由(教育の自由と呼ぼうと,思想・信条の自由,表現の自由,学問の自由と呼ぼうと,大差ない)の名において,違憲無効の挑戦を行う権利を有する場合がある。典型的な例としては,制定法が,ある特定の政治理論を名指してこれを学校教育の場で教えることを禁止し,この禁止に対する制裁として刑罰もしくは懲戒が規定されている場合があげられる。この制定法違反の疑いで制裁を課せられそうな教師は,かかる制裁規定もしくは当該制裁が教育内容に対する憲法上許容されえない侵害であるばかりではなく,教師の市民的自由に対する侵害であって,違憲無効であると訴える権利がある,とみなければならない。またたとえば,「君が代」,「日の丸」,「元号」など論議の余地のあるシンボル・表示方法を,学習指導要領その他統治機関の公式文書で,教育の場での使用を強制し,それにもかかわらず強制に服さなかった教師を学校設置者が懲戒処分に付したような場合にも,学校設置者の処分そのもの,またはその根拠となる統治機関の指示などを,処分が擬せられている教師は争うことができる。」(前出奥平論文p418)
関連して、既に(7)で採り上げた内野正幸の<人権説と職務権限説の「併存説」>をここで引用・紹介しておこう。
「 教師の教育の自由については、自由の範囲の広狭とは別に、その法的性質について人権説と職務権限説の対立がある。後説によれば、教師の教育の自由は、公務員もしくは私学被用者としての教師の職務権限における自由や裁量の問題である、とされる。ただ、人権や職務権限という指摘は、認識の整理にとどまるのか、何らかの法的帰結を帰結させる含みをもつのか、ということも気になる。思うに、教師の教育の自由は、人権としての側面と職務権限としての側面を合わせもつ、とする併存説が妥当であろう。すなわち、教師は、雇用者などから(科目名、授業日時、受講対象者などを含め)一定の職務を割り当てられた者であり、雇用者および教育行政当局に従属せざるをえない(いわば従属者としての)地位にある。そこで、教師の教育の自由は、具体的な教育活動などにかかわって職務命令や不利益な措置を受けない、という点では人権としてとらえられるべきであろう(もっとも、憲法論ならぬ実定法律論としては、裁判的救済の必要を主張するための論理的前提として、人権性を指摘する必然性はないが)。」(前出『表現・教育・宗教と人権』p111)
注〔73〕『新解説 世界憲法集 第3版』(三省堂2014年)p174 。省略した(4)(5)(6)は下記。
「(4)私立学校を設立する権利は保障する。公立学校の代用としての私立学校は、国の認可を必要とし、かつ、ラント法律に服する。この認可は、私立学校がその教育目標および施設 ならびにその教職員の学問上の養成において公立学校に劣らず、かつ、親の資産状況によ る生徒の選別が助長されない場合に与えるものとする。この認可は、教職員の経済的および法的地位が十分に確保されない場合には、これを拒否するものとする。
(5)私立の国民学校は、教育行政官庁が特別の教育的利益を承認する場合にのみ、または、親権者の申立てに基づき、それが宗派共同学校(Gemeinschaftsschule)として、〔キリスト教の〕宗派学校として、もしくは世界観学校として設立されるよう求められている場合で、かつ、この種の公立の国民学校が市町村内に存在していない場合にのみ認めるものとする。
(6) 予備学校は、引き続き廃止されたままとする。」