礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その2

2018-08-16 02:55:24 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その2

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その二回目。
 
② 論点(2)について
A、西原による結論
「本件職務命令は、精神的自由権の制約を評価する際に用いられる厳格な合理性の基準をあてはめた場合はもちろん、校長の広い裁量権を前提にして合理性の基準を適用した場合であっても、原告の思想・良心の自由に対する必要最小限の制約とは認められず、憲法19条に反する違憲・違法な人権侵害であったとの評価を免れない。その限りにおいて、本件職務命令は、適法なものではない。〔7〕」
 この結論にいたる手続きは論理的に三段階設定されている。
1)「受命公務員の人権を侵害する職務命令の法規違反性」〔8〕
 公務員に対する職務命令が適法であるためには以下の4つの要件の充足が必要だとされる。「①職務上の上司の発したものであること、②受命公務員の職務に関するものであること、③職務の独立の範囲を侵すものでないこと、および、④法規違反のものでないこと〔9〕」このうち、「要件④の中に受命公務員の基本的人権の保障が含まれている。そのため、①から③の要件が満たされており、また、第三者の権利を侵害したり客観法的に違法であったりしない点で④が一見したところ認定できそうな場合でも、なおかつ、職務命令が違法になる場合が考えられることになる。〔10〕」〔11〕。
2)「雇用関係における「良心の抗弁」の理論とその適用可能性」
 ドイツでは、このテーマに関しては「基本的な合意」が獲得されているという。「それによれば、被用者に対して良心に反する職務上の義務を遂行する具体的な行為が強制されてはてはならず、また、雇用関係締結時にそうした職務上の義務が発生することを被用者が予見できなかった場合には、被用者は民事上も免責される。」というものである。すなわち、
「 この「良心の抗弁」に関する理論は、内容に関して、本件と同種の事例を対象とするものである。原告は、良心的理由にもとづいて、命令された国歌のピアノ伴奏という行為ができないと主張する。そして、学校行事における「君が代」の伴奏は、原告が教諭に採用された時点で、教師の職務に当然に含められてはいなかった。そうした状況の中で、国歌のピアノ伴奏を行うという具体的な義務の遂行を強制できるかどうかが問題になっている。〔12〕」〔13〕
3)「良心を守るための行為としてのピアノ伴奏拒否と良心の自由」
 国旗国歌儀礼への参加強制は子どもにとって思想・良心の自由侵害となり得る。それは教師にとっても当てはまる。すなわち、
「「君が代」の歌を拒否する信条を持つ人々がこの国の中にいて、そのような人々に対して国歌斉唱への参加が強制されれば、思想・良心の自由が侵害されることになる。これは、憲法上、自らの人格を支える思想・良心を自らの手で破壊することになるような行為を強制することが思想・良心の自由に対する侵害となることに基づいている。斉唱への参加とピアノ伴奏の実行は、国歌に伴う具体的な行為という点で共通しており、特に区別して扱う必要はない。〔14〕」(下線は引用者)
 以上の論証を前提に本件職務命令が内容規制か付随的規制かの検討に入る。西原によれば、本件職務命令による原告Fの思想・良心への侵害は、当該職務命令の目的そのものではなく、付随的なものだという。したがって、審査基準としては「少なくとも厳格な合理性の基準を採用すべきである〔15〕」。校長の目的は「「いい教育」を実現」することだと西原は認める。しかし、小学校教師は誰も音楽に関しても訓練を受けているのでピアノ伴奏者は原告である必然性はないにもかかわらず他の教師に校長が働きかけた形跡もない、さらに、<「いい教育」としての国歌斉唱>とピアノ伴奏との結びつきにも必然性がない、と批判する。
 ここから以下のように結論される。
「このように、〔精神的自由に対する制約の許容性を判断する-引用者補記〕厳格な合理性の基準を適用した場合、本件における原告の思想・良心の自由に対する制約は、目的として特に重要な利益を追求するものでもなく、また、手段の選択においても必要最小限のものではなかったことが明らかであり、憲法上許容されたものと評価することはできない。必要もないのに原告の思想・良心の自由を直接に侵害した点で、本件職務命令は、憲法19条に違反し違憲であるとの評価を免れない。〔16〕」
 また、仮に校長の裁量権を広範に前提して、裁量統制の手法を用いた場合であっても、その際の基準である合理性を満たすものではない、という。なお、原告Fがピアノ伴奏をすることに必然性がないという点は弁護士作成の準備書面ですでに説得的に展開されているものである。
B、批評
1) 儀式におけるピアノ伴奏は国歌斉唱と同一視できない性格を持つのではないか。
 ピアノ伴奏そのもの(または歌唱指導)は何らかの形で授業でも行う。原告Fは、それが儀式という場面ではできない。一方、(国旗に向かって)起立して国歌斉唱することはまさに儀式特有の行為、それもこの種の国家儀礼の中心的行為である。教師自身の行為としては、一般的には授業では行わない。ピアノ伴奏行為は儀式の中で行われると、起立斉唱という国家儀礼の中核部分を実現するための特別の―積極的に慫慂する―意味をもつものである〔17〕。おそらく、原告Fはピアノ伴奏に代えてテープ放送が行われた場合でも自らがカセットデッキのスイッチを押すことにも強い抵抗感を覚えたであろう。ここに気がつかなければ、最高裁判決時の藤田反対意見の含意は明瞭にならない。
 従って、原告自らが憲法上の権利を侵害されたということの具体的内実が鮮明になっていない。裁判所にとってこの点の論証が不十分だと判断されれば弁論体系の半分が無効になる。第1章で示したが、最高裁判決法廷意見は、そのような判断をしていると思われる。
2) 子どもへの影響と分離して原告個人の権利擁護を主張するためか、結論部分で無理なな場面分けが行われている。重要ファクターを捨象したからといって、判決には有利には働かない。
 その部分を引用すると以下である。
「原告は、一貫的人格をもった個人として、真摯な信条に基づき、学校行事の場において「君が代」に関わることを拒否している。音楽の授業においては職務としての国歌の指導を行う(原告本人尋問調書44頁)が、自らの手で儀式において子どもたちに歌わせることはしない、という形で、自らの職務と、自らの思想・良心の自由に関わる領域との区別を行っているいる点にも、原告の真摯な態度が現れている。〔18〕
 前述したが、西原は『良心の自由 増補版』で、授業の場を教育の場、儀式の場を上司と部下の関係の場と分けていると思える部分があった。ここも同じような枠組みの存在がある。しかし、儀式も教育課程の一環である。授業の場とは異なって、集団として教師が関わる。教科の専門性は相対的に希薄であるが、儀式の音楽的構成は専科教諭の意見を尊重する十分な理由がある。また、教師は、儀式の会場でほかならぬ<教師>として生徒の前に立ち現れる。また、西原が重視する教師の権力性は授業の場だけでなく儀式の場でも発揮される(もちろん発揮のされ方は異なる)。国旗国歌儀礼の<強制>があるから、人権への配慮が問われる場となるのではなく、<学校>であるがゆえに、そこはそもそもがさまざまな形で人権への配慮が問われる場なのである。従って、ここでも教師の権利・権限と生徒の権利が相克する可能性がある。すなわち、<儀式において音楽専科による伴奏で国歌斉唱を行うこと>を教育を受ける権利の内容として要求する生徒・保護者、仮に圧倒的多くの教師が国歌斉唱時に起立も斉唱もしない儀式の場合は、<起立して歌うことの孤立感と圧迫感からの解放>を権利として訴える生徒・それを支持する保護者もありうる〔19〕。
3) <ピアノ伴奏による国歌斉唱>を<いい教育>とむすびつけるところまで含めて学校長の教育内容決定権を認めてよいのであろうか。
 学テ判決で示された、学校における教育内容に関する教師の一定程度の専門職としての裁量権はどのように考慮に入れられたのであろうか。本件において校長が思想・良心を理由にピアノ伴奏を拒む原告Fに対して執拗に<国歌斉唱の伴奏>をもとめたのは、彼女が音楽専科の教師で音楽教育に関しては他の一般教師にくらべて専門性が高いという判断があったことがうかがわれるが、校長・行政は、<専門性をも指揮下に置くことによる統一性・秩序の向上>を重視している。これも<いい教育>の内容に含みうる。上告審鑑定意見書のところで詳述するが、ここでの西原の主張ではその論理を崩すことが難しい。西原の主張は、学校組織を官僚制組織として本質規定することになじむものであり、最高裁判決法廷意見の学校組織認識とかなりの程度親和的である。
 また、原告Fの思想良心の自由に対する侵害は西原の言うように「付随的」なのであろうか。専門性は高度の精神の自律性をともなうものである。他の選択肢を排除して原告Fに対して執拗に出された本件職務命令は、専門性をも指揮監督下に置くこと自体に拘るという点で<内容規制>であると言っていいのではないか。なお、「付随的」という評価は上告審鑑定意見書では改められている。【以下、次回】

注〔7〕『全資料』p603
注〔8〕以下1)2)3)の表題は鑑定意見書では、p599以下a)b)c)としてあるものである。
注〔9〕『全資料』p594
注〔10〕『全資料』p599
注〔11〕ここで例(「比較対象事例2」)として提示しているのは、校長が「科目を包括」するかたちでの性教育において女性教員に全裸になって女性性器を男子生徒に観察させよ、と指示した事例である。かなり極端な例を用いているが、「制約」が「必要かつ合理的」なものかどうかの具体的考察はされていない。違憲性を印象的に訴えているだけである(『全資料』p599-600)。
 この点は、本意見書に基づく尋問(以下)でも同じである。
「比較対照事例2の中で全裸になることを強制された教師にやはり人権侵害が及んでいる。教育上の必要性の認定というのは私の成すべきところではありませんけれども、侵害が及んでいるし、今事例に関しては比較対照事例を見た方どなたにあっても、これはやはりいくら教育方面における命令服従関係の中においても、受命公務員個人の権利の観点から許されるものではないという点について同意いただけるようなケースなのではないかと。つまり、それと同じように、受命公務員の基本的人権を侵害するゆえに、違法性を持つ命令というのが当然であると。
 本件がそうだと。
 そのとおりです。
 詳細は、鑑定意見書に書いていただいていると言うことですね。
 はい。」(『全資料』p224) 
「それと同じように」という場合、「比較対照事例2」についての違憲判断の論理(基準)が示されていないと、本件への援用ができない。「比較対照事例2」に対する直感的な判断と「それと同じように」という文言だけで本件職務命令を違憲と結論づけるわけにはいかないはずである。
注〔12〕『全資料』p600-601
注〔13〕同じところで、「この理論は我が国の公務員法制の中でも参照可能」であり、特に「公務員関係の内部においては、対国家権利としての基本的人権の意義が直接前面に立つため、民間以上に思想・良心の自由などに対する侵害が許容される余地は少ないとさえ考えられる。」と記している。教育公務員の立場を離れて純然たる雇用者の立場からは国家に対して思想・良心の自由が十全に主張できるという含意であろう。
注〔14〕『全資料』p601
注〔15〕最高裁薬事法違憲判決を援用しているここの文意はわかりにくいが、芦部信喜のいう「「より制限的でない他の選びうる手段」の基準」(『憲法 第6版』(岩波書店2015)p210)、アメリカ法でいう「中間審査基準」(同p196)をさすものと思われる。
注〔16〕『全資料』p601-602
注〔17〕もちろん教師の起立斉唱も生徒にとって慫慂的効果を持つのであって、だからこそ行政はその徹底にこだわる。しかし、儀式全体の中での位置づけ、行為そのものの性格は異なる。
注〔18〕『全資料』p603
注〔19〕これは、論議を呼んだ西原自身の『世界』論文におけるY氏の事例(第2章で前述)である。Y氏の事例での儀式の場の性格認定と上記のような領域区別とは整合的でない。

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