礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

近衛文麿の手記「終戦について」

2018-08-22 03:07:46 | コラムと名言

◎近衛文麿の手記「終戦について」

 書棚を整理していたら、『失はれし政治――近衛文麿公の手記』という本が出てきた。一九四六年(昭和二一)五月一五日発行、朝日新聞社刊。定価は八円(税共)、古書価は二〇〇円。「第一次近衛内閣、支那事変及大政翼賛会設立に就て」、「第二次近衛内閣、三国同盟に就て」、「日米交渉に就て」、「上奏文(昭和十六年十月十六日)」、「終戦に就て」の五編が収められている。
 本日は、このうち、「終戦に就て」を紹介してみよう。

 終 戦 に 就 て
   大東亜戦敗戦直前と余
 今次大戦の前途の見透しについて、人々皆多少見るところを異〈コト〉にしてゐたが、大体サイパン失陥後はいよいよいかんといふことになつて来た。木戸〔幸一〕内府も未だその時分はそこまでははつきりして居らなかつたが、二十年春頃から大いに動き始めた。余は東條〔英機〕に内閣を譲つて以後実は陛下に本年〔一九四五〕二月まで拝謁をしなかつた。これについては木戸と東條が我々の見るところを、陛下に申上げることを極力防止したのであるが、一方からいへば責任の地位にある者以外の者が余り陛下に接近し、雑音を御耳に入れる事も亦明治時代の経験に鑑み妥当でないとの考へも成立つわけであり、陛下御自身も責任者以外の意見は御聴きにならぬ御方針のやうであつた。殊に新聞が自由に報道を行つてゐた頃は新聞が相当この点を補つたのであり、最近となつても余の総理であつた頃は我々の悪口も書かれたし、政策の批判も出たので、陛下もそれを御覧になり、従つて陛下は新聞にあるではないかとよく言はれ、余も恐懼〈キョウク〉することが多かつたが、東條内閣以来一切の批判は許されず、新聞報道は極端に統制されたので、内閣の申上げることと新聞は全く一致して居り、本当の事態は不分明になりがちの状態であつた。
 全般の戦局が極端に悪化した頃余は二月四日実に三年振に拝謁した。その時申上げたことは要するに、
「既に敗戦は必至である、しかし今戦争を止めれば日本の天皇制について米国は恐らく触れては来ないであらう。米国にも種々極端な議論もあるが、少くともこの天皇制には触れぬと思はれる。しかしもし戦争が現状の侭進行すれば、必ずや国内から共産革命の気運が起る。」
といふ意味のことを申上げたところ、次のやうな御下問があつた。
「〔梅津美治郎〕参謀総長は上奏し、今日日本が和を乞ふが如きことがあれば米国は必ずや天皇制廃止を要求して来るが故に国体も危い〈アヤウイ〉。結局和を乞ふとも国体の存続は危く、戦つて行けば万一の活路が見出されるかも知れぬと申したがこのことを如何に考へるか。」
とお尋ねになつたのである。余は、
「然らず。しかし若し〈モシ〉戦争が更に継続せられ、内外の諸情勢が悪化すれば天皇制に触れて来ると思はれる。」
旨言上〈ゴンジョウ〉した。
 その時は未だ硫黄島〈イオウトウ〉における戦闘が行はれてゐたため結局終戦にまでは至らなかつた。それで鈴木〔貫太郎〕内閣になつてから何とか外交の手を打たねばならぬといふので、東郷〔茂徳〕外相の意見でソ連に対する話が始まつた。何故英米と直接話をしなかつたかといふと、これは陸軍が、直接英国と交渉すれば、無条件降伏以外にない。然しソ連を仲介として多少顔を立ててもらふやうにする。従つてソ連と交渉するのならば已む〈ヤム〉を得ず賛成すると主張したからである。それで同年二月から箱根の強羅〈ゴウラ〉で広田〔弘毅〕、ソ連マリツク大使の会談が開始された。ところが会談は遅々として進行せず、七月まで無為に経つた。その原因は、日本側の条件がソ連を仲介を頼む以上ソ連に対し相当な土産〈ミヤゲ〉を出さねばならぬ。また日本も対ソ国交調整を同時に目論んだからである。交渉は大体次のやうな主旨のものであつた。
(イ)漁業権の割譲
(ロ)満洲国の中立、即ち日本の満洲よりの撤兵とソ連も国境から撤兵すること
(ハ)漁業権を抛棄する代償として石油の輸入増加
 かやうな条件に対しソ連は極めて冷淡であった。駐ソ大使佐藤尚武氏も頻りに、現在のやうな条件を出しても問題にされぬ、結局無条件降伏に近い条件を出さねば到底交渉成立の見込は無いことを打電して来た。このやうな状態の侭七月ともなり、遂に特使派遣といふことになつた。余が軽井沢から丁度帰京した七月十二日、宮中の御召があつて拝謁、特派使節として渡ソする御下命を拝した。これに対し佐藤大使から更に重ねて交渉条件は無条件に近いものでなければ不可なりと進言があり、一方陸軍は又急に強硬なことを言ひ出したので余は非常手段を決意した。それは嘗て〈カツテ〉余がルーズベルトに会談を申込んだ時と同様の手段だ。即ちあの時は陸軍の承知しなかつた支那よりの撤兵問題を彼と会つて解決すると同時に会見地から陛下に直接電報を以て御裁可を仰ぎ、決定調印するといふ非常手段を用ひようとしたのであるが、今回も同様の手段によらんと決意したのである。即ちソ連へ対しては何等の条件をも提示ぜずモスクワで話合の上そこできめた条件をもつて陛下の直裁を仰ぎ、これを決定することとし、このことを特に陛下から御許を得た次第であつた。で七月十三日ソ連宛近衛を出向かせる旨の電報が打たれたが、十六日から開かれるポツダム会談にスターリン氏が出席する間際にこの電報が到着したので、返事が遅れる旨の通知があつた。さらに七月二十二日にソ連から電報が来て、近衛特使の使命が明確でないから明かにしてもらひたいとのことであつた。と言ふのは、七月十三日の電報が極めて外務省的な抽象的なもので、
 「陛下は平和を希望して居られる、それについて近衛公爵を派遣される。」
といふ漠然としたものであつたからだ。従つて七月二十三日の返電には、
 「陛下が平和を希望して居られ、近衛はソ連の仲介によつて米国との媾和を依頼に行くのである。その条件は近衛がそちらへ行つてから話をする。」
と大体かやうなことを書いたのである。しかしこの二十三日の電報に対する返電が来ぬ侭にソ連は日本に対し参戦した。ソ連は宣戦の理由としてポツダム宣言を日本政府が無視したが故に媾和の基礎を喪失したと言うてゐるが、少くともソ連はポツダム宣言には参加して居らず、更に七月二十三日の日本側の返電に対し何等の意思表示をせず、ポツダム宣言が日本に対する条件でるとのことは何等言うて居らなかつた。かやうなわけで余の特使派遣といふことも時期を失してしまつたのである。

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