◎キリスト者・矢内原忠雄が悩んだこと
最近、渡辺京二氏の『日本近世の起源――戦国時代から徳川の平和へ』(洋泉社MC新書、二〇〇八)を読んでいる。刊行時に買った本だが、本格的に読み始めたのは、数日前からである。
その三一二ページに、次のような記述がある。
ザビエルは「日本人は御受難の意義を聴くことを非常に喜ぶ。或る人々は、それを聴く毎に涙を流していることがある(21)」と言う。また彼が異教徒として死んだ者は救われず地獄に堕ちると説くと、日本人たちは親や祖先のことを思って泣いたというのは有名な話だが、なぜ親たちを救えないのか、なぜいつまでも地獄にいなければならぬのかと問うて泣き続ける彼らを見ると、ザビエル自身も「悲しくなって来る」のだった。
(21)とあるのは注の番号で、三一二ページ左には、「(21)『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』下巻(岩波文庫・一九四九年)一一九ページ」という注記がある。
さて、この話を読んで、ひとつ思い当たることがあった。近代日本のキリスト者にも、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物がいたような記憶がある。はて、それは誰だったか。また、それをどこで読んだのか。
気になって、書棚をあさっているうちに、社会思想研究会編『わが師を語る』(社会思想研究会出版部、一九五三)という古びた文庫本(現代教養文庫)を見つけた。何となくピンとくるものがあって開いてみると、一二編中の一編、矢内原忠雄「内村鑑三」の中に、次のような文章を見出した。
その年〔一九一二〕三月、桜の花が一高の寮の庭に咲いてゐた時、私の母が死んだ。私は試験の途中で、急いで郷里に帰つた。私はほんとうに悲しかつた。しかしルツ子さんの死によつて先生〔内村鑑三〕が特に力を入れて説かれた復活の信仰が、私を支へて、深い悲しみの中にも何かあかるみを見る思ひであつた。
その翌年(大正二年・一九一三年)夏、私は一高を卒業して東京帝大に入つた。九月に大学の新学年は始まつたが、私は郷里で父の看護のため、しばらく上京が出来なかつた。遂にかの記念すべき十月一日、父は世を逝つた。母も父も、キリストを知らずに死んだ。しかし前年母の場合は、ルツ子さんの昇天後間もない時であり、先生の力強い復活の信仰の教〈オシエ〉によつて、私は母の死後の運命についても、単純な気持で平安を感じてゐた。然るにそれから一年半経つて、私の聖書知識もいくらか進んだ結果、父の死の場合は、キリストを知らずして死んだ者の死後の救〈スクイ〉の問題が、大きな疑問となつて私を悩ました。私は書物を読み、祈り、考へたが、私の疑問を明快に解いてくれるものは何もなかつた。とうとう私はこの疑問が解かれぬ以上、私の信仰生活は一歩も前進出来ぬデツド・ロツクにつき当つたやうに思ひつめた。そこで私は数日間の躊躇の後、遂に意を決して、ある夜、おそるおそる内村先生の門をたたいた。それは信仰の事にあかるい先生は、この問題についても明快に示して下さるであらう。せつぱつまつた私の疑問を解いて下さるであらうといふ、深い信頼と期待から出た行動であつた。【以下は、次回】
うっすら記憶にあったのは、まさに、この文章であった。つまり、異教徒のまま死んだ自分の親のことで、深刻に悩んだ人物というのは、矢内原忠雄のことであった。
ザビエルが接した一六世紀の日本人キリシタンも、東京帝国大学に通う教養あるキリスト者も、まったく同じことで、同じように深刻に悩んだのである。これは、日本人のキリスト教受容という問題を考えるときに、注目しなければならない事実であろう。
さて、この若きキリスト者・矢内原忠雄の悩みに対して、内村鑑三は、どのように答えたのだろうか。なお、上記引用文中、「ルツ子」とあるのは、内村鑑三の長女・内村ルツ子のことである。彼女は、一九一二年(明治四五)一月、一九歳で夭折した。
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