礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

台所と土間では名子たちが数人働いていた

2022-03-30 01:52:50 | コラムと名言

◎台所と土間では名子たちが数人働いていた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三回目で、第一部「村へ帰る」の4「ふるさとの人々」の前半を紹介する。

   4 ふるさとの人々
 一月ばかり寝たり起きたりしていたら、健康は大体回復した。もともと栄養の不足から来ているので、食って眠っていればよかったわけである。ただマラリヤから来た脾臓の痛みは、その後数年治らなかった。肝臓は根治したようだが、乗物に乗ればかならず脾臓が痛み出し、立っているのが苦しかった。それでも村を歩き廻るには支障を感じなくなった。
 村での私の友人といえば、その当時の村長ぐらいのものだった。彼は岩泉龍といい、寺田の旦那岩泉浩太郎氏の異父弟である。浩太郎氏の父は、岩泉家の長子であったが、若くして吹雪で遭難し未亡人となったその妻を、彼の弟の頼八という人にめあわせたのである。この頼八氏の長男が龍氏である。頼八氏は昔の職業下士官で、特務曹長で軍隊をやめ、大正九年〔一九二〇〕の一月から、昭和十五年〔一九四〇〕三月まで村長をつとめた。そのあとを浩太郎氏が継ぎ、十九年〔一九四四〕六月に応召出征するまで村長の職にあった。龍氏は二十年〔一九四五〕の一月に就任し、二十一年〔一九四六〕十一月追放令によって職を去った。
 頼八氏の祖父と私の祖父が兄弟だった。私たちの小さい頃は、岩泉家は大家族で、頼八氏夫妻と子供たちの他に、弟の八三郎という人の妻子も同居し、主人であった彼らの父夫妻の上に、主人の老母もいた。浩太郎、龍の全兄弟は、盛岡の農学校に在学中で、平常はいなかった。八戸の名子〈ナゴ〉をもち、邸宅も前に庭と池をひかえ、うしろは畑につづいて山林を背負って、村としては豪壮な、品格のある家であった。おのおのの座數には、夫妻を単位にした各家族が住み、台所と土間附近にはいつも常傭〈ジョウヤトイ〉や賦役〈ブヤク〉の名子たちが数人働いていた。主人は儀八という名で、長子に早く死なれ、浩太郎氏はまだ若かったので、ずっと当主として坐っていた。私たちの小さい頃にも既に六十歳をこえて見えた。温和な良い人であり、白足袋をはき、白いちりめんの帯をしめた上品な老人であった。龍兄弟の母の人も私にはなつかしい人であった。私が学校の休みに帰る度に、この家族たちはめいめい私に小遣をくれた。
 八三郎という人の一人息子で儀信というのが、私の小学校の同級生であり、盛岡商業を出て村役場に入り、龍村長の下で助役をしていた。
 私は学校の休などで帰るとかならず岩泉家を訪ねたし、龍氏とは川で魚捕りをした。彼は針も網も手で魚を捕えることも名人だったし、川に行くと飽きることも疲れることも知らなかった。これらの点で私と共鳴し、私は彼とは特に仲がよかった。帰郷後一年もたつかたたぬうちに、この男を敵として闘うなどとは、夢にも思えぬことだった。【以下、次回】

 名子(なご)というのは、中世、近世における隷属農民。主家に隷属して労役を提供していた。中野清見の郷里では、近代にいたっても、名子が残存していた。

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