礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

百済善光一族に対する王号賜与は破格の優遇

2018-08-26 04:25:08 | コラムと名言

◎百済善光一族に対する王号賜与は破格の優遇

 先日、『法学研究』(慶応大学)のバックナンバーを通覧していて、利光三津夫氏の「百済亡命政権考」という論文を見つけ、興味深く読んだ。第三五巻、第一二号(一九六二年一二月)所載。
 本日は、同論文の「緒言」を紹介してみよう。なお、利光三津夫〈リコウ・ミツオ〉氏は、法史学者で、慶応義塾大学名誉教授(一九二七~二〇〇九)。この論文を執筆した当時は、慶応義塾大学法学部講師。

 百 済 亡 命 政 権 考    利 光 三 津 夫

   一 緒 言
 大化改新以後、律令体制が確立された後においても、上代以来存在した氏姓の制度は法制上重大なる意義を有し、貴姓を有するものでなければ、高位高官に任ぜられず、卑姓の者が、内五位以上に叙せられるに当つては、その前提として宿称〈スクネ〉以上の姓を賜わる慣例であったことは顕著な事実である。従つて、天武の朝、従来の可婆根〈カバネ〉の制度を整理して、一真人〈マヒト〉、二朝臣〈アソン〉、三宿称、四导寸〈イミキ〉、五道師〈ミチノシ〉、六臣〈オミ〉、七連〈ムラジ〉、八稲置〈イナギ〉の八姓を定めて、天下の諸氏にこれらの姓を賜つたのであるが、ここにこの八姓の例外ともいうべき貴姓が存在する。それは、ここに述べようとする百済の善光〈ゼンコウ〉の一族に対して賜与せられた「王〈コニキシ〉」なる姓のことである。
 書紀〔日本書紀〕、続紀〔続日本紀〕には、善光の一族に対して王姓を賜うた記事はみえないが、続紀天平神護二年六月の条には、持統天皇の御代、善光一族に対して「百済王〈クダラノコニキシ〉」なる称号が賜与せられたことがみえ、爾後この王号は可婆根と同質のものとして取扱われている。聖武天皇の御代、大仏鋳造に当つて陸奥国より黄金を献じて従三位に叙せられた百済王敬福〈キョウフク〉や、桓武天皇の朝、鎮守府将軍に任ぜられた百済王俊哲〈シュンテツ〉等が帯していた王号が、可婆根と同質のものであることには、異論を挟む人はあるまい。
 釈日本紀秘訓、拾芥抄〈シュウガイショウ〉等によれば、この百済氏の姓である「王」はこれを「オウ」と音読せず「コニキシ」又は「コキシ」と訓む慣例であつたことが知られる(一)。しかし、先学がすでに指摘せられた如く、コニキシのコニは蒙古の王号「汗」に由来し、キシは朝鮮の敬称「吉士」に基つき、コニキシは、周書異域伝百済に、
《王姓夫余氏、号於羅瑕、民呼為鞭吉支》
とあることによつて知られるごとく、古代朝鮮語で「王」の意である。故に百済王氏に賜つたコニキシなる称号は、百済王氏がその本国において称していた国王の称を、その侭に可婆根として賜つたものであつて、その王号賜与はわが朝廷の同氏に対する破格の優遇であり、八姓制度の大きな例外であるといわねばならない。【以下、次回】
【注】
(一) 百済王氏の帯する「王」なる称号は、釈日本紀をはじめ日本紀注解の諸書に「コニキシ」と訓まれているが、釈日本紀秘訓は、天智三年紀所見の「百済王善光王」だけを「クダラノオホキミセンクワウ」と訓じている。もし、この訓が正しいとすれば、百済王氏の「王」号は皇親の帯する「王」号と、その訓までも等しかつたことになるが、本居宣長は、かかる訓が誤りであることを力説している。即ち、彼の著「古事記伝」には、
《義慈王の子、豊璋と禅広と二人皇国に参入居たりしを、(中略)禅広は皇国に留まれるを、持統天皇の御世に、百済王と云号を賜ひてより、其子孫これを相継て、姓尸となりて、百済は姓にして、王は尸なり、許爾伎志【コニキシ】と訓べし、意富伎美【オホキミ】と訓はいみじき非なり。》
とある。しかし、この本居の説は、皇親と同じ「オホキミ」なる称号が、帰化人如きに与えられるはずがないという、彼一流の大義名分論より発した議論であつて、これを今日そのまま肯定することは出来ない。本稿において、私が主張するが如く、善光が、わが朝廷の樹立した亡命政権の元首であつたとすれば、その帯する王号が、「オホキミ」と訓まれることはありえないことではない。釈日本紀の訓は、善光がわが朝廷より王者としての待遇を与えられていたという証拠の一つとして考えることすら可能である。しかし、この釈日本紀秘訓は、その成立時期が、天智朝はおろか、奈良時代に遡らせ得ることすら覚束ない〈オボツカナイ〉ものであり、且つ孤立した史料でもある。従つて、私は自説に有利な史料ではあるが、本稿においては、敢えてこれを引用しないこととした。

*このブログの人気記事 2018・8・26

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本日は、このブログの人気記事のみ

2018-08-25 18:21:57 | コラムと名言

◎本日は、このブログの人気記事のみ

 本日八月二五日は、都合により。このブログの人気記事のみ。

*このブログの人気記事 2018・8・25

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桃井銀平論文の全体構成(付・ブログ歴代ベスト30)

2018-08-23 03:34:44 | コラムと名言

◎桃井銀平論文の全体構成(付・ブログ歴代ベスト30)

 数日前、桃井銀平さんから、論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて」の全体構成についてのメモが送られてきましたので、これを紹介します。
 
《既発表論文の章節番号変更及び全体構成について》
 「日の丸・君が代裁判の現在によせて」と題する私の文章は、既に本ブログで2016年8月16日から9月10日にかけて5回に分けて、そして2017年2月1日にはその《補論》を掲載して戴きました。以上6回分の章節番号については、今年7月18日以来掲載して戴いた文章にあわせて下記の通り改めました。全体の表題に付した番号も「(1)」から「Ⅰ」に変え、今年掲載文分ついても「(2)」から「Ⅱ」に変更しました。
 番号を改めた全体の構成は以下の通りです。

日の丸・君が代裁判の現在によせて  

Ⅰ,侵害された思想・良心は何か

1,藤田反対意見と宮川反対意見
2,<教師としての思想・良心>
3,蟻川恒正と日本における<憲法的思惟>
  (1) <教師としての思想・良心>の優位
  (2) 「徹頭徹尾「公的」位相の問題として争われるべき事案」
4,巻美矢紀と東京「君が代」裁判第三次訴訟
5,《補論》 個人・私・公-蟻川学説についての補足的言及 


Ⅱ,<ピアノ裁判>と抗命義務

1,<ピアノ裁判>における思想・良心
 (1)<ピアノ裁判>の概要
  ① 伴奏拒否        ② 懲戒処分と審査請求    ③ 訴訟
 (2) 原告Fの思想・良心
  ① 最高裁判決法廷意見より ② 原告の意見書・陳述書より
 (3) 最高裁判決-法廷意見・補足意見・反対意見
 ① 法廷意見 ② 那須弘平補足意見 ③ 藤田宙靖反対意見
2,西原学説と教師の抗命義務
 (1) <教師の抗命義務>説 
  ①『良心の自由 増補版』より  ② いくつかのモデル
 (2) <良心の自由>の焦点化
 (3) 国家と学校の信条的中立性をめぐって
 (4) 学校における国旗国歌儀礼について
  ① 一般的考察  ② 一見相反する2つの具体例 ③浮遊する教師の思想・良心
 (5) <国民の教育権>説批判
 (6) 親の教育権と子どもの権利について
  ① 親の教育権  ② 子どもの思想・良心形成の自由
 (7) 教師の権利について
 (8)<教師の抗命義務>説の意義と問題点
  ① 国家権力の末端という位置づけから<教師の抗命義務>を導出するのは無理がある。
  ② <教師の抗命義務>は、生徒の自由の余地との比較では均衡に欠ける。
  ③ <抗命>としての不起立・不伴奏は、第3者の権利擁護に結びつくとは限らない。
  ④ 生徒の明示的な救済申し立てがない限り<抗命義務>の存在は立証困難である。
  ⑤ <教師の抗命義務>説には、教師自身の思想・良心の自由の適確な位置づけがない。
3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評
 (1) 第一審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令と、信条に基づくその職務命令の履行拒否を理由とする戒告処分は適法か」(2002.7.5)
  ① 論点(1)について ② 論点(2)について ③ 論点(3)について 
 (2) 上告審西原博史鑑定意見書「教諭に国歌斉唱時のピアノ伴奏を求める職務命令に関して、良心の自由に対する正当な制約根拠は存在するか?」(2006.6.20)
  ① 鑑定意見書の基本的論旨  ② 批評
 (3)「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」(『世界』2007.5)
  ① 法廷意見に対して      ② 那須弘平補足意見に対して 
  ③ 藤田宙靖反対意見に対して ④ まとめ
4,結びに代えて

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30

 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30を紹介する。順位は、二〇一八年八月二二日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
5位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁        
6位 18年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5
7位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
8位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
9位 18年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
10位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する

11位 18年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
12位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
13位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
14位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
15位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
16位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
17位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
18位 18年8月7日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6
19位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
20位 18年5月4日 題して「種本一百両」、石川一夢のお物語

21位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
22位 18年1月7日 ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎
23位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
24位 18年7月9日 本居宣長は世界の大勢を知らないお座敷学者(竹内大真)
25位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
26位 18年8月10日 天日槍はどこの国からきたのか
27位 18年8月14日 天日槍の来朝と赤絹掠奪事件
28位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
29位 18年5月30日 和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒
30位 18年2月14日 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒントに)

*都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

*このブログの人気記事 2018・8・23

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近衛文麿の手記「終戦について」

2018-08-22 03:07:46 | コラムと名言

◎近衛文麿の手記「終戦について」

 書棚を整理していたら、『失はれし政治――近衛文麿公の手記』という本が出てきた。一九四六年(昭和二一)五月一五日発行、朝日新聞社刊。定価は八円(税共)、古書価は二〇〇円。「第一次近衛内閣、支那事変及大政翼賛会設立に就て」、「第二次近衛内閣、三国同盟に就て」、「日米交渉に就て」、「上奏文(昭和十六年十月十六日)」、「終戦に就て」の五編が収められている。
 本日は、このうち、「終戦に就て」を紹介してみよう。

 終 戦 に 就 て
   大東亜戦敗戦直前と余
 今次大戦の前途の見透しについて、人々皆多少見るところを異〈コト〉にしてゐたが、大体サイパン失陥後はいよいよいかんといふことになつて来た。木戸〔幸一〕内府も未だその時分はそこまでははつきりして居らなかつたが、二十年春頃から大いに動き始めた。余は東條〔英機〕に内閣を譲つて以後実は陛下に本年〔一九四五〕二月まで拝謁をしなかつた。これについては木戸と東條が我々の見るところを、陛下に申上げることを極力防止したのであるが、一方からいへば責任の地位にある者以外の者が余り陛下に接近し、雑音を御耳に入れる事も亦明治時代の経験に鑑み妥当でないとの考へも成立つわけであり、陛下御自身も責任者以外の意見は御聴きにならぬ御方針のやうであつた。殊に新聞が自由に報道を行つてゐた頃は新聞が相当この点を補つたのであり、最近となつても余の総理であつた頃は我々の悪口も書かれたし、政策の批判も出たので、陛下もそれを御覧になり、従つて陛下は新聞にあるではないかとよく言はれ、余も恐懼〈キョウク〉することが多かつたが、東條内閣以来一切の批判は許されず、新聞報道は極端に統制されたので、内閣の申上げることと新聞は全く一致して居り、本当の事態は不分明になりがちの状態であつた。
 全般の戦局が極端に悪化した頃余は二月四日実に三年振に拝謁した。その時申上げたことは要するに、
「既に敗戦は必至である、しかし今戦争を止めれば日本の天皇制について米国は恐らく触れては来ないであらう。米国にも種々極端な議論もあるが、少くともこの天皇制には触れぬと思はれる。しかしもし戦争が現状の侭進行すれば、必ずや国内から共産革命の気運が起る。」
といふ意味のことを申上げたところ、次のやうな御下問があつた。
「〔梅津美治郎〕参謀総長は上奏し、今日日本が和を乞ふが如きことがあれば米国は必ずや天皇制廃止を要求して来るが故に国体も危い〈アヤウイ〉。結局和を乞ふとも国体の存続は危く、戦つて行けば万一の活路が見出されるかも知れぬと申したがこのことを如何に考へるか。」
とお尋ねになつたのである。余は、
「然らず。しかし若し〈モシ〉戦争が更に継続せられ、内外の諸情勢が悪化すれば天皇制に触れて来ると思はれる。」
旨言上〈ゴンジョウ〉した。
 その時は未だ硫黄島〈イオウトウ〉における戦闘が行はれてゐたため結局終戦にまでは至らなかつた。それで鈴木〔貫太郎〕内閣になつてから何とか外交の手を打たねばならぬといふので、東郷〔茂徳〕外相の意見でソ連に対する話が始まつた。何故英米と直接話をしなかつたかといふと、これは陸軍が、直接英国と交渉すれば、無条件降伏以外にない。然しソ連を仲介として多少顔を立ててもらふやうにする。従つてソ連と交渉するのならば已む〈ヤム〉を得ず賛成すると主張したからである。それで同年二月から箱根の強羅〈ゴウラ〉で広田〔弘毅〕、ソ連マリツク大使の会談が開始された。ところが会談は遅々として進行せず、七月まで無為に経つた。その原因は、日本側の条件がソ連を仲介を頼む以上ソ連に対し相当な土産〈ミヤゲ〉を出さねばならぬ。また日本も対ソ国交調整を同時に目論んだからである。交渉は大体次のやうな主旨のものであつた。
(イ)漁業権の割譲
(ロ)満洲国の中立、即ち日本の満洲よりの撤兵とソ連も国境から撤兵すること
(ハ)漁業権を抛棄する代償として石油の輸入増加
 かやうな条件に対しソ連は極めて冷淡であった。駐ソ大使佐藤尚武氏も頻りに、現在のやうな条件を出しても問題にされぬ、結局無条件降伏に近い条件を出さねば到底交渉成立の見込は無いことを打電して来た。このやうな状態の侭七月ともなり、遂に特使派遣といふことになつた。余が軽井沢から丁度帰京した七月十二日、宮中の御召があつて拝謁、特派使節として渡ソする御下命を拝した。これに対し佐藤大使から更に重ねて交渉条件は無条件に近いものでなければ不可なりと進言があり、一方陸軍は又急に強硬なことを言ひ出したので余は非常手段を決意した。それは嘗て〈カツテ〉余がルーズベルトに会談を申込んだ時と同様の手段だ。即ちあの時は陸軍の承知しなかつた支那よりの撤兵問題を彼と会つて解決すると同時に会見地から陛下に直接電報を以て御裁可を仰ぎ、決定調印するといふ非常手段を用ひようとしたのであるが、今回も同様の手段によらんと決意したのである。即ちソ連へ対しては何等の条件をも提示ぜずモスクワで話合の上そこできめた条件をもつて陛下の直裁を仰ぎ、これを決定することとし、このことを特に陛下から御許を得た次第であつた。で七月十三日ソ連宛近衛を出向かせる旨の電報が打たれたが、十六日から開かれるポツダム会談にスターリン氏が出席する間際にこの電報が到着したので、返事が遅れる旨の通知があつた。さらに七月二十二日にソ連から電報が来て、近衛特使の使命が明確でないから明かにしてもらひたいとのことであつた。と言ふのは、七月十三日の電報が極めて外務省的な抽象的なもので、
 「陛下は平和を希望して居られる、それについて近衛公爵を派遣される。」
といふ漠然としたものであつたからだ。従つて七月二十三日の返電には、
 「陛下が平和を希望して居られ、近衛はソ連の仲介によつて米国との媾和を依頼に行くのである。その条件は近衛がそちらへ行つてから話をする。」
と大体かやうなことを書いたのである。しかしこの二十三日の電報に対する返電が来ぬ侭にソ連は日本に対し参戦した。ソ連は宣戦の理由としてポツダム宣言を日本政府が無視したが故に媾和の基礎を喪失したと言うてゐるが、少くともソ連はポツダム宣言には参加して居らず、更に七月二十三日の日本側の返電に対し何等の意思表示をせず、ポツダム宣言が日本に対する条件でるとのことは何等言うて居らなかつた。かやうなわけで余の特使派遣といふことも時期を失してしまつたのである。

*このブログの人気記事 2018・8・22

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桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その7

2018-08-21 03:13:27 | コラムと名言

◎桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その7

 桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(2) <ピアノ裁判>と抗命義務 (承前)」のうち、「3,<ピアノ裁判>における西原学説―鑑定意見書と最高裁判決論評」を紹介している。本日は、その七回目(最後)。
 西原博史さん(一九五八~二〇一八)の「ピアノ裁判」における鑑定意見書を、ここまで詳細に検討し、その教育法学説の限界を、こういう形で指摘した論評は、まだなかったはずである。これを読まれての、ご感想・コメントなどを期待したい。

③ 藤田宙靖反対意見に対して
 藤田宙靖裁判官の反対意見を西原は高く評価している。長くなるが、以下がその全文である(下線は引用者)。
「 結局、最高裁において法に込められた良心を示すことができたのは、藤田裁判官の反対意見だった。この反対意見は、現時点では一反対意見に過ぎないが、思想・良心の自由のあるべき適用のあり方を判例の中で指し示し、将来の多数意見を作る基盤として、永く日本憲法学の記憶に留められるだろう。
 この反対意見は、上告人の信条の中に「君が代」強制に反対する要素を認め、そこからピアノ伴奏という形で斉唱に協力することが当人の信条・信念に対する直接的抑圧になる点を認識する。特定の外部的行為を強制することが思想・良心に対する「直接的抑圧」となる構造を描き出すもので、単なる精神的苦痛論に留まらない、思想・良心の自由の侵害構造に関する深い洞察である
 もちろん、外部的行為に関わる以上、憲法一九条に関わる主張でも一定の制約に服さぎるを得ない。ただ、藤田裁判官反対意見は、「直接的抑圧」を正当化するだけの根拠を問うため、その認定はある程度厳密になる。
 具体的に制約可能性を検証するために藤田裁判官が打ち出した、公共性を階層化する手法は高い有用性を持つ。本件における公共の利益は、「究極目的」としての「子供の教育をうける権利の達成」に始まって、学習指導要領で具体化された入学式における「君が代」斉唱という「中間目的」を経、それを実現するための「秩序・規律」や校長の指揮権確保という「具体的目的」を媒介にして、ようやく職務命令にたどり着く。
 藤田裁判官は、中間目的が是認できるという仮定を暫定的に踏まえながら、受命者の思想・良心を侵害してでも職務命令を貫徹すべき「他者をもって代えることのできない職務の中枢」としての意義が具体的目的レヴエルで存在するかどうかを問い、その点における公共性の有無を判断するために事件を原審に差し戻すべきだと断じた
 思想・良心の自由に対する制約を検証する手法として優れた理論枠組である。〔70〕」
 藤田反対意見に高い意義を認めるという限りでは、妥当な評価である。しかし、西原は藤田の言う趣旨を十分に把握できたとは言い難い。藤田は、あくまでも<個人の思想・良心>の問題として扱っており、西原の<抗命義務説>的取扱とは大きなずれがある。また、多数意見への論評の註記で触れたが、藤田はピアノ伴奏固有の問題として所論を展開しているが、西原は、「斉唱への参加とピアノ伴奏の実行は、国歌に伴う具体的な行為という点で共通しており、特に区別して扱う必要はない」(前出第一審鑑定意見書〔71〕)という立場を変えてはいない。さらに、藤田自身、原告の思想・良心の全体構造をここで提示できたと言っているのではなく、「本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて,更に詳細な検討を加える必要があり」(下の引用を参照のこと)としているのである。藤田は、この点も原審に差し戻すべき理由としているのである〔72〕。
 藤田が「中間目的」実現のための「具体的な目的」として、「①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」」を設定したことは、問題となった職務命令の本質認識としては鋭いものであるが、藤田はそれに対する評価を明らかにはしていない。国旗国家儀礼実施のための「①「入学式進行における秩序・紀律」及び②「校長の指揮権の確保」」という目的連関自体の是非は議論すべき本質的テーマである。藤田礼賛で看過して良いものではない。〔73〕

④ まとめ
 <ピアノ裁判>に深く関わった西原博史が、最終的な敗訴に大きな打撃を受けたことは想像に難くない。ここで対象としている「「君が代」伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」の半分近くの分量が半年以上前のいわゆる<予防訴訟>(国歌斉唱義務不存在確認等請求訴訟)東京地裁判決(原告勝訴)に対する激しい批判(実際は原告側に対する批判)で占められていたという異例な構成でそれがよくわかる。10年以上も経過したいまの時点で、自由な立場から、西原の反応を検討すると、重要な諸点が西原の視野からは外れていることがわかる。それは、法廷意見が原告側が思想・良心の構造的提示において不十分であった点を衝いたこと、那須弘平補足意見は教師の思想・良心の自由制約を問題の全構造の中に正しく位置づけていること、藤田宙靖反対意見がピアノ伴奏と起立斉唱を区別した上でピアノ伴奏拒否独自の思想・良心構造解明の糸口を切り開いたこと、である。心情的にはやむを得ぬことと了解できる余地は十分にある。これらの諸点を本格的に検討することは、むしろ後続する者の課題である。

4,結びに代えて
 以上、ピアノ裁判の原告の思想・良心を原告自身の陳述から再構成した上で、原告側の弁論に大きな影響を与えた西原博史の学説を紹介し、さらに西原学説の<ピアノ裁判>への関わりを検討してきた。学校現場の苦しい状況の中で国家と対峙している良心的な教師たちに対して、西原学説が心情的に訴え励ましとなったことには十分に理由があると言えよう。しかし、教師個人の思想・良心の自由の意義を低く評価する西原学説には、国旗国歌裁判に取り組む上では、必ずしも焦点を衝いたものとはいいにくいものがある。教師にとって国家・行政の教育政策に異を唱えることがますます困難となるなかで、西原学説は、強いられた沈黙を弁明する言説にもなり得る要素を持っている。比較的新しい論文には、これまでの私による評価に修正を迫るような今後の展開の可能性も感じさせる部分もある〔74〕。不慮の事故で死去した高名な学者の業績に対して、私の論評が意味のあるものとなったかどうかは自信はない。消えゆく意識の中で、彼の脳裏に去来したものがあったとすれば、それは何であったであろうか。西原自身にとって、五十代での事故死は深い憤りをもって迎えざるを得ないものであったであろう。後知恵的な批判だという非難は甘んじて受けるつもりであるが、私の作業が<バトンを引き継ぐ>一つのあり方となることを願っている。                    以上

注〔70〕同上『世界』2007年5月p142-143
注〔71〕この点は、この論説の4年後でもかわってない(本章(3)③)。
注〔72〕差し戻しの理由を述べた部分を以下に引用しておく。
「本件において本来問題とされるべき上告人の「思想及び良心」とは正確にどのような内容のものであるのかについて,更に詳細な検討を加える必要があり,また,そうして確定された内容の「思想及び良心」の自由とその制約要因としての公共の福祉ないし公共の利益との間での考量については,本件事案の内容に即した,より詳細かつ具体的な検討がなされるべきである。このような作業を行ない,その結果を踏まえて上告人に対する戒告処分の適法性につき改めて検討させるべく,原判決を破棄し,本件を原審に差し戻す必要があるものと考える。」(藤田宙靖反対意見「3」より)
注〔73〕西原は、「改正教育基本法下の子どもと親と教師の権利」(『ジュリスト』2007.7)でも部分的に同年2月のピアノ裁判最高裁判決に言及している(下線は引用者)。これは2006年12月の改正教育基本法成立を受けた論文である。
「2007年2月27日のピアノ伴奏拒否訴訟の最高裁判決(裁時1430号4項)では、同様の〔学テ判決で認められたものと同様の-引用者付記〕子どもに対する教化に参加させられない権利が憲法19条と結びつけられた。職務命令など教師に対する直接の指揮権行使があった場合の、子どもの教育を受ける機会の実現という究極目的を意識した必要性認定の方法は、同判決の藤田宙靖裁判官反対意見が適切に論じている。」(p46)
 しかし、「子どもに対する教化に参加させられない権利」はピアノ判決法廷意見では明確にされていない。不正確である。藤田反対意見は<荷担できない>という原告Fの信条をあくまでも憲法19条の保護の対象-個人としての思想・良心-に含まれるものとして取り上げている。藤田反対意見は職務権限としての<教師の教育の自由>ではなく<個人としての(必ずしも「教師としての」と対立するものではない)思想・良心の自由>を「子どもの教育を受ける機会の実現という究極目的」の見地から見た場合の職務命令の「必要性認定」に対比させているのである。
注〔74〕たとえば「教師の<教育の自由>と子どもの思想・良心の自由」(広田照幸編『自由への問い5 教育』(岩波書店2009))における、学校についての権力分有論的アプローチ、「親の教育権と子どもの権利保障」(日本教育学会編『教育法の現代的争点』法律文化社2014)における親の教育権の多面的検討、などである。

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