自分が欠いているものはたくさんあります。
なんて不完全な生き物なんだろうかと嘆きたくなります。
そんなこと改めて言葉にするまでもない自明のこと。
でも、どこかでそれを認めたくない自分がいます。
昔読んだ斎藤学のニーチェの解説本に
「「でも」も「だって」もなく、とにかく一歩前に踏み出した人を称えて拍手を送るべき」というような一節がありました。
とても素晴らしい姿勢だと思うんですよね。
出る杭を打って何になる?
人の批判をしているだけなんてなんてかっこ悪いんだろう。
僕はそうなるまい。
人に叩かれようとも積極的に踏み出す人間になろう。
そんな風に思っていました。
今の自分は完全に停滞しています。
前に踏み出すことを阻む最大の障壁はなにか。
それは結局のところ、自分の能力の低さ。
なりたい自分と実際の自分との間にはっきり存在する大きなギャップがあります。
何が足りないのか。
熱意?努力?
そういうことを言ってくる人とは根本的に分かり合えません。
何をしようと補うことのできない絶対的な才能の不足があります。
努力でどうにかなりそうな才能を持っている人には分かりません。
そして自分が実際以上にできると勘違いし続けることもまた罪深いです。
僕だって自分だってやればなんとかなるんじゃないかとも思いたいし、努力だってそれなりに積んできました。
でもいつまでたっても劣等感は払しょくできず、事実自分の能力は低いままです。
もっと能力の高い人に道を譲るべきだと考えてしまいます。
外科医である以上、自分の能力が人の生き死にや人生に直結します。
患者なら上手な外科医に手術を受けたいと思うのが当然だし、そうあるべきだと思います。
今まで自分がやれていたのは田舎だったから。
一流の外科医でなくてもいい。地元で治療を受けて、その後の治療も地元で完結させたい。
そういう患者も田舎には居るんです。
その需要があるなら、たとえ街の外科医より質の劣る手術だとしても全力で提供したい。
そう思ってやってきました。
ただ、田舎でも病院を選べば今やロボット手術が受けられるし、
技術認定医というお墨付きの医者に手術が受けられる時代になりました。
手術の多い病院と少ない病院は明らかな格差が付き、少ない病院では当然経験も積めない。
手術をしたい若手は手術件数の集中する病院に集まり、患者もそういう病院に集まる。
症例の少ない病院に勤務する医者は手術をする機会がめっきり減る。
じゃあどうすればいい?
手術をしたいならそういう症例の多い病院へ行けばいい。
だけどもはや若手ではなく経験も才能もない僕は、いまさらそういう病院に修行に行くには分が悪すぎる。
ぐちぐち言いながらそういうストレスからは逃げる臆病者です。
そもそも、そういう熱意があるならもっと若い時期にいくべきだった。
もう手遅れです。
手術がないなら他に何ができるのか。
思い当たるものは何もないんですよね。
探せば医師免許を生かした他の仕事もあるかもしれません。
これまでの経験を生かせないから、ゼロからのスタートということになるけれど。
なんとなく選択しながら生きてきました。
別に努力をしなかったわけではないんです。
いつこんな袋小路に迷いこんでしまったのか。
ぜいたくな悩み?
犯罪を犯して免許をはく奪されない限りはたぶん生きてはいけます。
多分、食っていくのに困ることもないとは思います。
自分はもうちょっとできるはずだ。
ずっと自分を実際以上に大きく見積もってきたつけがまわってきたんでしょうね。
仕事のモチベーションが枯渇しています。
今後の見通しも立ちません。
どうしたいのかも分からないし、どうすればいいのかもわからない。
臆病な自尊心というやつですね。
「お前、年の割に何もできないじゃないか」
そう言われることが一番怖いんです。
そして、それが事実であるということがとてもつらい。
それを認めて細々と生きていくしかないのかもしれません。