風吹く豆腐屋

内容はいろいろ。不定期更新中。

『サクランボのジャム』

2010-02-26 22:59:21 | Weblog
無欲ってすばらしいものだと思っていました。

もちろん、今でもその価値を否定するわけではありません。
だけど、そんな無欲は非現実的なものだとようやく気づいたんです。

チーターがインパラと戯れているのを見て愛くるしいと思うのは、きっと人間くらい。
理性を持った捕食者なら、たとえその時満腹であろうとも、
今後来るかもしれない食糧難の時代に備えてインパラを捕えるべきです。

刹那主義、快楽主義に溺れ、無計画に生きた「キリギリス」を、イソップは嘲りました。
それは多分、現在でも多くの人の同意するところですよね?

人がキリギリスを馬鹿だと笑うことと、
そのチーターをほほえましく思うこと、実は似通っていませんか?

チーターは人間じゃないからほほえましいと感じられるんです。
一時的な満腹感に満足し、自分の取るべき態度を忘れ、
こともあろうか獲物と遊ぶなどというとんでもない娯楽で暇をつぶしているわけです。

この行為とキリギリスの行為にどれほどの違いがあるでしょうか。

本能を抑圧していてまったく頭が下がる思いだなんて考える人はいないでしょう。
むしろ人は、十分な思考ができていないことを好ましく思っているんです。
それは、我々がよちよち歩きの幼児を見てほほえましく思うのとも似ています。


人間の貪欲さは周到さや計画性に通じるものがある、と思います。

『野生生物は無用な殺生はしない』・・?

それは違います。
野生生物は、殺してしまった後に有効活用するすべを知らないから殺さないだけ。
現にネコは本能の赴くまま、後先考えずに小動物を殺してしまいます。
それは無用な殺生以外の何物でもありません。
そういう意味では、そのネコの行為はチーターよりも下等でおろかです。


多くの物事に手を出しすぎて自壊してしまうのはもちろん考え物ですが、
手を出さずに見送り続けた挙句、冬に餓死してしまうのはやはりおろかです。
霞を喰らうような無欲な生き方など、普通の人間には最初から無理なんです。
ならば、いっそのこと対極的・・かつ現実的な生き方をしたほうがいいんじゃないか・・
そう最近思うようになりました。


尽きることのない欲望こそが人とほかの動物の最大の差異であり、
その貪欲さこそが人に発展をもたらしました。
その貪欲さを浅ましいことだと恥じる必要なんてどこにもありませんよね?
 

無欲は無欲で価値あることです。
でも僕は、むしろ貪欲に生きていこうと、最近思うようになりました。


最後に、キリギリスの行動に朱筆を入れておきます。

キリギリスの行動で一番問題だったのは、
冬の間の食欲を満たすという「快楽」のことを忘れていたことです。
貪欲さの程度が足りていません。
ほんの一瞬の夏の快楽で満足していたところが間違いだったんです。

夏の快楽を満喫し、かつ冬に舌鼓を打てるだけの準備をしておく。
これこそが理想的な・・人間的な生き方じゃないでしょうか。

言うまでもないことですが、夏の間、身を粉にして働いたアリはストイック過ぎます。
その行動もまた、決して褒められたものではありません。


人が人たるゆえんは、その計画性のある貪欲さにこそあると思います。

これまで「欲」の価値に気づけなかった僕はおろかだったな・・とも。

人畜無害な「欲」があれば、人を傷つけるだけの「欲」もありますが、
とりあえずはそれが持つ大きなエネルギーを評価したいと思います。
それを制御するものとして、
計画性、将来性といったものがあればいいんじゃないかって思うわけです。



【追記】このタイトルの元ネタがわかってくれる人、誰かいませんか?

塞翁が馬

2010-02-24 23:50:34 | Weblog
今週から、選択実習で神経内科を回っています。
今までの実習が5~10人の班単位で回っていたのに対し、単身で乗り込んでいます。

昨日は解放されたのが24時前ながら今朝は7時45分集合、
今日もさっき帰ってきたとこ(焼き鳥ご馳走してもらったけどね!)で
結構ハードなんですが、充実しています。

当然のことながら、診療に携わっている先生方はもっとハードです。
体力勝負は外科の専売特許じゃないってことですね。

この3日間で学んだこと。

1)医は仁術たりえないということ

2)寒天の使い方


1)についてここに書いてしまうと、色々なところで大問題になりかねないので控えます。
選択実習でないと見られなかった医療の裏側・・・結構ショッキングでした。
でもそれを知る意味はあった…んだろうな。

2)寒天を使った嚥下食の調理係に任命されました。
今までの自炊の成果が現れたのか、概ね好評です(笑)
仕事が減ったと看護師さんにも感謝されるので、妙なやりがいがあります。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― 

上の先生に「君って怒られキャラでしょ?」って言われ、目からうろこが落ちました。
そうか、僕の態度が先生方をいらいらさせていたのか・・
思い当たる節が多すぎる・・

「でも、もう怒られ慣れたんじゃない?」
いや割と毎回凹んでいます。
・・・でも言われてみれば打たれ強くはなったかなぁ。

「でも、人間万事塞翁が馬だよ。
優秀な学生のことは全然覚えてないけど、君のことはよく覚えてるもん」


・・・。


禍福はあざなえる縄の如し!

青い。

2010-02-21 03:27:33 | Weblog
「コーン・ポタージュ・スープ」

「ミシシッピ」

「ヨークシャー・テリア」

この3つの単語だけで更新しようかと思ったんですが、
通じる人があまりに少ないだろうからやっぱりやめました。

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"I'd just be the catcher in the rye and all."


たまには話題になっている本でも読んでみようかと思って、読みました。
「ライ麦畑でつかまえて」でも「The Catcher in the Rye」でもなく、
「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の方を。

それをわざわざ探して買ったわけではないんです。
単に、ふらりと立ち寄ったブックオフでふと目に入ったから。

値段も850円。
これならハードカバーでも手を出せます。


読んで抱いたのは月並みな感想でした。
この主人公・・やること成すこと考えること、全てが子供っぽい。
今時にいうところの典型的な「中二病」ってやつなのかな、と。

でもそういう幼稚な主人公に反感を覚えるとともに、
過去の自分を重ねている自分に気がつきます。

そうそう、そんな風に感じたものだった、って。

まして前の記事を見てもらってもわかるとおり、今でも青い僕なので―。 


"永遠の青春小説"

それはちょっと買いかぶりすぎなんじゃないかとも思えるけれど、
時代を超えて広くその本が読まれている理由もわかる気がしました。

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さて、実は冒頭の3つの単語は、「カンガルー日和」の中の短編からの引用です。
その物語で、語り手たる「僕」は、友人の女性にこう言って怒られます。

『「要するに」としばらくあとで彼女は言った。
「あなたはいつまでも子供でいたいのよ」』


「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳者とその短編の作者は同じ。
"ライ麦畑"は少なからず影響与えていたのかな・・。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

引用ついでに最後にもうひとつ。


「僕は誰かに兄弟の数を訊かれるのが嫌でたまらなかった。
兄弟がいないと聞いただけで人々は反射的にこう思うのだ。
こいつは一人っ子だから、両親にあまやかされていて、ひ弱で、おそろしくわがままな子供に違いない、と。
人々のそういったステレオタイプな反応は僕を少なからずうんざりさせ、傷つけた。
しかし少年時代の僕を本当にうんざりさせ、傷つけたのは、彼らの言っているのがまったくの事実であるという点だった。
そのとおり、僕は事実あまやかされて、ひ弱で、おそろしくわがままな少年だったのだ。」

                           (「国境の南、太陽の西」より)

最初は、読者の関心を引く巧みな表現だと思っただけでした。
だけど、今日ふとこの一節を思い出して、その中に込められたメッセージに気がつきました。
あぁ、そういうことだったのか、と深く感じ入りました。
 

そういった経験の積み重ねが、いつまでも子供でいたいわがままな「大人」を、
少しずつやさしく変えていくんだろうな・・。




国家試験まで1年切った状態にありながら、試験には出ない一般教養ばかり鍛えています(笑

個人的な信条

2010-02-20 05:00:43 | Weblog
昔は、正しくありたいと思ったものでした。

だけど、実際の自分は道を誤ってばかりいたし、
そもそも正しさの基準がわからなくなってしまいました。
そのうち、正義という言葉がなんだか安っぽく思えるようになりました。

代わりにフェアであることを自分に課すことにしました。
フェアであることは、正しくあることより簡単です。
・・思っていたよりはずっと難しかったけれど、今もその試みは続いています。
 

そんな僕ですが、今日、久々に正義感がたぎるのを感じました。

でも、正義感なんて所詮、自分が正しいという勝手な思い込み。
そしてカッとしてしまうのは自分が狭量なだけ。
自分の正義は人の正義と対立しえるから、正面衝突さえしかねません。

それでも、僕は自分が思う道を行こうと思いました。
それが非難されかねないことであったとしても、
少数派になったとしても、自分が正しいと思ったことをしようと。

心が折れたらそこで終わり。
自分の判断能力がさびつけば大きく道を誤りかねない。
そんな危うい生き方ではあるけれど・・。

ぶつかることを恐れてばかりいては前に進めません。

もはや人間の域を超えている・・

2010-02-14 00:16:19 | Weblog
OBオケの練習はうちからちょうど20km離れた公民館で行われています。
リスキーなのは承知していますが、楽器背負って練習に行っています。

今日は裏道を使って往復することにしました。
自動車も信号の数も圧倒的に少ない道。
道に迷うことさえなければ時間短縮になるはずだし、
何より信号で一々止まらずに進めるので気持ちいいんですよね。

帰りは楽器がなかったので、飛ばして帰りました。
時間を計ったところ、公民館の門を出てから家に帰りつくまでちょうど48分でした。
時速にして24kmを維持した計算になります。
 
その計算をした時にふと思い出したんです。

確かマラソンの世界記録って2時間くらいだったよな。
負けてこそないけれど、あまり変わらないじゃないか・・
あれだけ飛ばしたのにこれに近い速度で走ってしまう人間が存在するというのか・・


人間ってすごいな・・と感じた一日でした。


「好き」と「嫌い」

2010-02-13 02:37:22 | Weblog
昔、小学校とかで「好き嫌いをなくそう」のようなスローガンをよく目にした記憶はありませんか?
当時は何の疑問も抱かなかったけれど、思い返してみて腑に落ちない点があります。

・・・どうして「好き」を無くす必要が―?

好きな物は好きだし、嫌いなものは嫌い。
それは嗜好の問題であって、標語をきっかけに変わるはずありません。

そう考えると「好き」を無くす理由以前に、
嗜好を無くせなんて無茶な要求をしているこの標語の存在意義がぐらついてきます。
バランスよく栄養素を取らせたいなら、
最初から「偏食はやめよう」のような素直な表現をすればよかったんです。
(まぁ・・・いつの間にか決まり文句になっていたから使いまわし、ってところなんでしょうけどね)


こんなことを言いながら、僕にはあまり「好き嫌い」がありません。
大抵の人が美味しいと感じられるものなら、僕は美味しく頂ける自信があります。
そして同時に特別嫌いなものも思い浮かびません。
もしかすると、あのスローガンが目標とする理想の人間像に近いかもしれません。


そして、ふと思いました。

「好き嫌い」は同じ程度に存在するものなんじゃないかって。
つまり、嫌いなものが多い人は好きなものも多く、
嫌いなものが少ない人は好きなものも少ないんじゃないかと・・。

主張がはっきりしているというだけの問題かもしれませんが、
ふと「嫌うだけの積極性を持っていない」という友人の言葉を思い出したんです。

嫌うというのはエネルギーを必要とする行為。
好くのもまた、同じようにエネルギーを必要とする行為。
ベクトルの向きが反対というだけで実は似通っていませんか。


こう考えると、これは食べ物の好みの話だけにとどまらず
「好く」「嫌う」と言う行為全般について言えるような気がしてきました。

何かを嫌えない人間は何かを好きになることができないんです。
多分、「好き」でも「嫌い」でも動かせる感情の量が絶対的に不足しているんです。

「好き」の方向にだけ振幅が大きいのはちょっと不自然。

実習で新しい科を回るたびに「彼女はいるの?」みたいな質問をしてくる先生が居て、
毎度の事ながらうんざりしています。

・・・そういう先生を嫌えたら何か変わるだろうか(笑

皮膚炎と温泉

2010-02-12 00:57:47 | Weblog
昨日、ほのかの湯に行ってきました。
(郊外にあるスーパー銭湯です)

普通の銭湯と一線を画しているのは、値段・・・だけじゃなくて湯質。
早い話が「人工温泉」です。
道後温泉と同じような単純温泉になるように調整してあるそうです。


「人工温泉」ながら、その施設でも温泉の効能がこれ見よがしに張り出されています。
「神経痛、筋肉・関節痛、うちみ、くじき、冷え性、疲労回復、健康増進etc」

・・・これってどの程度エビデンスに基づいているものなんでしょうか。

筋肉痛とか冷え性、疲労回復、健康増進あたりまではいいとしても
その中にリウマチとか通風、動脈硬化、糖尿病、高血圧とか
ごちゃ混ぜに放り込んでしまうのはどうなんでしょうね。

正直、あやしい。

「温泉が皮膚病に効く」という説は、
ヒゼンダニの感染症である疥癬の患者が硫黄泉に浸かることで、
ダニが死滅し軽快したエピソードに基づくという話があります。
今でも硫黄を治療に使うくらいなので、疥癬患者が硫黄泉に浸かるのは治療となりえます。

ところが、アトピー患者は硫黄泉に浸かるとむしろ症状が悪くなります。
ただでさえ表皮の皮脂が少なくなって易刺激性となっているのに
硫黄が皮脂を洗い流してしまうから酷くなるわけです。


上に挙げた冷え性などに対しても、体が温まる温泉は確かに効果的なんでしょう。
ところが、体温が上がって末梢の血管が拡張すれば、アトピーなどの皮膚炎は悪くなります。
早い話、かゆくなります。
詳しい動態は知らないけれど、炎症反応が強く現れることになるんでしょう。
そういえば、昨日見た看板のなかには、
もっと広い言葉である「湿疹」というのもあったけど、
湿疹は確か真皮の血管拡張によるもの(だよね?)
・・・身体が暖まったら悪くなるような気がするんだけど・・・?


ごちゃごちゃ書き並べましたが、
つまるところ、アトピーは温泉により増悪しうるんです。

それを思うと、炎症反応を抑えるためにステロイドや免疫抑制剤などを必死に塗りながら
「皮膚炎に聞く」という言葉を妄信して、温泉に行くのはちょっと愚かですよね。


だけど、僕は温泉が好きです。

昨日も頭のどこかに不安を残したまま、閉館ぎりぎりまでねばってきました。
翌日が祝日のときは営業時間が1時間遅くずれ込むんですよ。
小雨も降っていたし、人は少ないだろうと踏んで出かけましたが、読みは見事に当たりました。

混んでいない広々とした露店風呂にゆっくり浸かっていれば気分もよくなります。

薄く湯を張ったところに仰向けにねっころがって夜空を見上げる「ごろ寝湯」が特に気に入っています。
帝の夢占いによれば、僕には(も?)露出協願望があるらしいので、
さりげなくそういうところでそれを満足させているのかもしれません(ぁ



温泉について詳しい研究や調査もされているのかもしれませんが、
一般的に手にできる情報は、民間療法の域を出ず、汎用性がないように感じます。

ただ、気分安定薬の代表格である炭酸リチウムは、
温泉での飲水療法がもとで作られるようになったというし、
温泉はまだまだ色々な可能性を秘めているかもしれません。
 

今僕が知っている限りでは、概して温泉はアトピー性皮膚炎にはよくなさそうですが、
そういう細々した副作用を打ち消すだけの開放感が得られたらいいかなって思います。

ほら、風呂上りのコーヒー牛乳とか最高のプラセボだと思いませんか(笑 ?

2つの体調不良

2010-02-07 23:35:13 | Weblog
うちの近くでいつの間にか開店していた小さなパン屋さん。
昨日いつものように買いに行ったら「体調不良により閉店いたします」の張り紙が・・・。

チーズやハムを使った調理パンが僕の好みで、頑張って欲しかったんですが・・。

体調不良という言葉には含みがありました。
おそらく、赤字経営で立ち行かなくなったのが本当の理由でしょう。

早晩こうなることは分かっていました。
僕以外のお客さんをあまり見なかったし、立地条件が最悪だったから。
かなり注意していないと、そこにパン屋があることにさえ気がつきません。
ごく近所で生活していた僕でさえ、いつ開店したのかを知らなかったくらいですから。

せめてもう少し場所を選んでいれば、こうはならなかっただろうに・・。

その張り紙を見たとき、無性に寂しい感覚に襲われました。



もう1つの体調不良は自分自身の話。

体調不良とは言いにくい体調不良に、このところずっと悩まされています。
考えてみたら、自分から病院に行ったのなんて何年振りやら。

もらった薬は、ヘパリン、ステロイド、タクロリムス。

変な取り合わせですよね。
特にヘパリン。
何でそれが入っているのか、僕自身よく分かってないという・・。
正確には類似物質って書かれてたけど、そこに鍵があるんだろうか?

ただそのヘパリンには大分救われました。
ステロイドはまさに万能薬さまさま。
タクロリムスは・・・副作用に泣きました。
やっぱりいかつい名前だけあって凶暴・・・(涙


別にこれら二つには何の関連性もないんだけど、
この週末をまとめるならその言葉がころあいだったので。

「アンナ・カレーニナ」

2010-02-07 01:37:34 | Weblog
トルストイの「アンナ・カレーニナ」を読みました。

率直な感想をいうと、長いわりに面白くありませんでした。
途中で投げるのは嫌だったので、頑張って読み通しましたが・・

ひきつけられた箇所もあります。
例えば、きしみ始めた関係が崩壊に向けて加速して行く物語終盤。
登場人物たちの苦悩が強まれば強まるほど、物語の求心力は増していきました。



「人の不幸は蜜の味」

誰がいい始めたのが知りませんが、僕の嫌いな言葉の一つです。

なのに、人の心を揺さぶりうるのは、決まって不幸ですよね。
多分、たいていの昔話が「おじいさんとおばあさんは幸せに暮らしましたとさ」
で終わってしまうのは、実はそれ以上物語が続かないから。
幸せ・・?それはよかったね、でそれ以上膨らみようがないんでしょう。
そうなってしまうともはや読者の関心をひきつけられなくなります。

他人の幸福な話よりも不幸な話を聞きたいという潜在的な願望の存在は否定しきれません。
もともと他を押しのけて生き抜くことは生物的な本能の示唆するところ。
人の不幸が自分の幸福につながるという考えも、論破するのは難しいんじゃないでしょうか。
それどころか、その命題は偽じゃないかも・・


「情けは人のためならず」

この言葉は、取りようによってはひどく利己的なものになります。
自分への見返りがあるからこそ、人は他人に優しくなれるのか・・
裏を返せば、自分への見返りがなければ、人は他人に優しくなれないのか、と。
この問題は結論を出すのが難しいですよね。


興味深いビデオを見たことがあります。

統合失調症の患者さんの描く絵は、治療によって劇的に変化するという趣旨だったんですが、
絵だけについて言えば、治療前に描かれた絵のほうがよほど素晴らしいものでした。
治療後の絵が小学生が描いたようなありふれた風景画なのに対し、
治療前のそれは、毒々しい色をたくさんつかった抽象画。
その患者さんの心のうちの苦しみが迫ってくるような印象を受けました。
好みの問題はあるでしょうが、少なくとも治療前の絵のほうが訴えるものがありました。


物語に面白みを感じるためには、そこに悲劇がないといけないのかもしれません。
・・多分、それは生物の本質が残酷なものだから。
上記の絵の問題は、同じ軸上にはないけれど、同じ平面上にはあるような気がします。



この物語はクライマックスを迎えた後にエピローグのような形で数章続きがあります。
ここが全然面白くないんですよね。
多分、それまでのシーンとはうってかわって幸福を主軸としたものになるからです。
おまけ、としか思えませんでした。
 


しかし、読後にこういう示唆を与えてくれるのも名著だからこそ?

とりあえず、ロシアの長いのに手を出してみようかと考えている人には
トルストイよりもドストエフスキーをオススメします。
あくまでも個人的な趣味から、ですけど。


そういえば、「ライ麦畑」は思っていた以上に有名だったことに驚きました。
アメリカの小説はどこか食わず嫌いなところがあるんですが・・・どうしようかなぁ。

嫁泣かせ

2010-02-03 23:53:20 | Weblog
岡山の焼肉屋には「嫁泣かせ」というメニューがあります。
王道的なメニューではなく、どちらかといえば珍味の部類に属するものです。


昔、手術中に「これがいわゆる『嫁泣かせ』ってやつね」と教えてもらった記憶はあるものの
それが何の部位だったかすっかり忘れてしまっていました。

答えから言うと、嫁泣かせとは大動脈のこと。
・・手術中は単にAortaを差して言っていたんだろうな。


この「嫁泣かせ」という呼称、調べてみると岡山の方言のようです。
肉の部位にまで方言ってあるんですね・・・ちょっと驚きました。


さて、ではどうして大動脈が「嫁泣かせ」なのか。

焼肉屋さんによれば、
その硬い肉を切るのに苦労していた嫁を姑がいびったことに由来するんだそうですよ。

・・なんかちょっと肩透かしくらった気分になりません(笑 ?
面白い名前だから、もっと面白いエピソードがあってもよさそうなものなのに。


ちなみに全国的にはコリコリ、大阪ではフエ、神戸ではタケノコと呼ばれるそうです。
コリコリ・・はまあいいとして、他の言い方にもそれぞれ由来があるんでしょうね。
 

ヤコブ病みたいな病気もあるけれど、
独特な風味の珍味も食べたほうがいいと思っています。
余すことなく食べたほうが礼儀に適っているというか何と言うか。

・・それだけっていうのはやっぱりちょっとつらいですけどね。