風吹く豆腐屋

内容はいろいろ。不定期更新中。

満たされない幸せ

2008-09-30 09:31:14 | Weblog
今回の記事、硬い上に長いよ。いい(笑 ?




今の言葉で言うとどうしようもなくメタボなスペイン人の神父はこう言っていました。

「動物にぃー理性わぁ、ありませぇん」

うちの中学は倫理と称してキリスト教を教える授業があり、
もはや体裁を繕わず「宗教」の時間なんてのもある異色な学校でした。
色々なものに反発したい年頃だったからでしょうか、
13歳の僕はその至極全うな考えにも納得がいきませんでした。

理性を考える力と定義づけるなら、犬にだって「理性」はあるんじゃないのか。
例えば、犬なら飼い主が落ち込んでいるのに気づけば
まるで慰めるかのような行動を取ることがある、と。

「それわぁ、そういう風に仕込んだら、でしょう?」

違うよ、フェリペさん。
群れで過ごす本能に基づいて、共同生活者の異変を察知しただけだよ。・・・多分。
決して調教することでそうなるわけではない。
なぜなら、彼らは本能的に「情けは人のためならず」を体現しているから。


ただ、理性は動物にはなく、人間にはある。
そんな陳腐なことを言っても何の面白みもありません。
人が動物よりも論理的な思考能力が高いことなんて、誰の目にも明らか。
今更わざわざ言うようなことじゃない。


では僕なら、動物になく人間にあるものとして何をあげるか。

・・・それは、強欲。

どんな猛獣であろうと、満腹であれば危険はありません。
彼らは過剰に求める必要性が無いのを・・・いや、その無駄を本能的に知っているから。

一度飢餓を味わった人間は、たとえそのときに空腹を感じていなくても
もう二度とそうなることが無いように食べ物を確保しようとするでしょう。
それは理にかなった行動であるし、その先見の明があったからこそ
この繁栄を築きあげることができたのは明白な事実です。

ただし、その思考能力があるからこそ、
人は怯え続けなくてはならなくなりました。
何かを手にしたとき、
それを獲得したことを喜ぶ以上に
それを失うことを恐れなければならなくなりました。

金メダリストは、「次も」という強いプレッシャーを感じるのは当然のこととして、
空虚感にも苛まれると聞いたことがあります。
次は世界記録を、連覇を・・・と上向きのベクトルにどんどん移って行ける人はいいけれど、
世界を制したメダリストでさえ、厳しい練習に耐えたタフな人でさえ、
手にしてしまった「世界一」を失うことに怯えてしまうケースもあるようです。


幸せを相対的なものとしてみれば、
世の中に幸せでない人は居ないと言ってもいいでしょう。

皆、もう幸せを構築するのに十分なマテリアルを持っているはず。
ならば、無視できないこの飢餓感は一体何なのか。

・・・人は強欲なんです。

今もって居るものだけじゃ飽き足らないんです。
常に、もっと・・・もっと・・・、と今以上のものを求めずには居られません。
その飢餓精神をエネルギーとして何かを得たとしても、結局は同じことの送り返し。
さらに多くのものを求めるようになるだけです。

尤も、人はこの永遠に癒されることの無い渇きを持っているからこそ
進歩してこられたのも否定できません。
永遠の苦痛を強いられる代償に、永遠の進歩(のあしがかり)は常に持っているはずです。


今持っているものに十分満足できるようになれば、きっと世界は違って見えるんでしょう。
仏教が説く無欲というのは、そういうことなのかな・・


有名な台詞ですが、漱石は「先生」にこう言わせています。

「精神的に向上心のないものはばかだ」

明治の書生にとって「精神的な向上心」というのは、
時として命よりも重いものだったみたいですね。


当時はそれが先駆的、時代の流行にある考え方だったんでしょう。
ただし、精神的な向上は精神的な飢餓を発端とするもの。
それは絶対的な関係ではないかもしれないけれど、
飢えを必要としない向上心なんてものは、僕の目から見れば眉唾物です。


まとめ。

向上心を保つために、飢餓感は必要なもの。
でも常に飢えているということは、
いくら獲得しようともそれに満足しきることが出来ないということ。
 

打開策案。

1)無欲になる
2)強欲に抗わない


そして無難な妥協案。

・・・どっちも程ほどに。
年取れば考え方も変わっていくんでしょうけど・・。

本を選ぶとき

2008-09-29 03:27:54 | Weblog
本屋で本を見繕うとき、何で選びますか?
自分の場合、選ぶ基準が2つあります。

①面白そうか、内容が興味を引くか

②何度も読むに堪えうるものか


①はまぁ当然ですが、
ホームズのような推理小説でさえ何度も読み直すような人間なので
②はとても重要。

宮部みゆきの「あかんべえ」が
“今年上半期で最も売れた小説”と銘打たれていたので
買って読んでみましたが、ダメでした。
基準①は満たしていたものの、基準②にひっかかりました。
筋は面白いと思ったけれど、何度も読む小説じゃないな、と。


僕が村上春樹が好きなのは、何回か読み返してもその度に楽しめるから。
この前の「記号」もそうですが、読み直すたびに新しい発見があります。
一度読んだだけでは覚えきれない、何気ない文章の中に。


この前読んだ「座右のニーチェ」なんかは
一度読んだだけでは全ては積み込みきれないので、再び読む価値があります。

ただ、新書は値段が若干高めということに加え
主義主張を押し付けようとする傾向があるからちょっと敬遠しがちです。
小説の中から要素を抽出して拾い上げるのは好きですが、
さぁ受け取れと言われて差し出されたものを素直に受け取る趣味は無いんですよね(ぁ


蛇足ですが、きっとエロ本も同じ基準で選べます。
この前みんながくれた例のあれ、まだ処分して無いけど
①も②も満たしてない気がするんだ・・


この前帰省したとき、弟(13、当時12)の愛読書は熱帯魚の雑誌でした。
常に持ち歩き、時間を見つけては眺めていました。
実家で熱帯魚を飼っているわけではないし(ベタくらいなら居るけど)、
多分買う予定もありません。
でも弟は宝物のようにそれをずっと抱えていました。

まぁ、弟の気持ちはよく分かるんですよね。
1つのウィンドウ・ショッピングみたいなものでしょうか。
こんな熱帯魚が飼えたらいいなぁ・・・って思うだけでも楽しいものです。

少し違うけれど、
僕も小さい頃は、恐竜の図鑑を飽きもせずずっと眺めていたものでした。
(でもポニョに出てくる古生代の生物の名前は1つもいえませんでした)
こういう本は、両条件を見事に満たしていると言えそうです。


この週末、本屋をふらふらしたときに、
自転車の入門用の雑誌や、釣りの雑誌をちょっと立ち読みしました。
あういうのもやはり、眺めるだけで楽しいですよね。

自転車のほうは買うかどうかちょっと迷いました。
釣りの本では、自分のアオイソメの付け方に大きな欠陥があることを学びました。
道理で最後にはクサフグしかかからなかったわけだ、と。



「書痴」と言う言葉を、高校のときの先生が良く使っていたのをふと思い出しました。
僕はそこまで本を読むわけではないけれど、
多分彼らの気持ちを察することくらいは出来ます。

が、今は教科書が机の半分を占拠している状態なので
狭い部屋でもたくさん収納できる大きな本棚を買うことが最優先課題。

ギョウザのうちで見たようなツッパリ式の棚を探そうかなぁと思っています。

やる気

2008-09-26 01:51:52 | Weblog
数日前の新聞に面白いことが書かれていました。


マサチューセッツ工科大学のエドガー・シャイン博士は
人間モデルを以下の3つに分類したそうです。

①報酬のために頑張る経済人モデル

②集団へ帰属する安心や喜びが人を動かす社会人モデル

③賃金や人間関係よりも高度な、自分の才能を開花させる欲求がある自己実現モデル


人を動かす要因は十人十色であるが、
「やる気」はこれらのモデルを基盤としている、と。

もちろんやる気を左右する要素は人によって違うし、
時や場合によっても変わるものだから―という但し書きつきで。


自分はどのモデル色が強いかなぁと考えてみるのも面白そうです。

そこで、明日に差し迫った追試の勉強のやる気を出すために
自分にどのモデルを見出すべきか考えて見ました。


①経済人

・追試でも点が取れず留年すれば学費が(ry
・ちゃんと資格とって将来稼ぐために勉強しなきゃ・・・とはさすがに思えない。

ふむ、親に迷惑かけると思えば自分を追い込めるか?


②社会人

・留年して仲のいい友達と違う学年になってしまうのは嫌だ
・今ここで勉強したことを活かして将来社会奉仕を・・・っていうのもいまひとつ実感が。
というか病理学とはもう今後なるべく関わらないでいたい(ぁ

(ちなみに病理学はA山さんの専門


③自己実現

・頭が悪かろうとやればできるんだって証明したい!

・・・これはない。自分の低能さはもうあきらめてます。



それぞれのモデルでどういうことを考えるかもかなり幅がありそうですね。


折角ちょっと考えてみたので、

・もうこれ以上親に経済的な迷惑かけられない!
・クラスメイトに置いてきぼりにされたくない!

っていうのをやる気につなげてみようと思います。


・・・さて、自分を炊き付けるなんてことが可能なんでしょうか。

欲望と月

2008-09-24 03:20:06 | Weblog
なぜこの二つは結び付けられることが多いんでしょうかね。


気になる女の子の部屋を覗ける下宿に移り住み
望遠レンズを通して「覗き」をする大学生の短編小説を読みました。
次第に生活は荒廃していき、
大学にもいかなくなるというとことに妙なシンパシーを感じました。
「出席日数の不足を補うために試験で良い成績を残さねばならなかった」
と言うくだりが無性に切ないです。


読み終えた後、間髪を入れずに
望遠鏡と三脚、デジカメを持って夜の街に飛び出しました。
真夜中・・・深夜2時に。
前日に早く寝ると言う例の義務を放棄して。

警察に捕まったらやばいことになりかねない状況でした。
だけど、抑えがたい衝動はやはり抑えがたいものでしかなく
リスクを考慮に入れるよりも先に飛び出していました。

いくら僕がおかしい人間でも、
さすがに突発的に覗きの衝動に駆られたわけではありません。
数日前に見た下弦の月の美しさを不意に思い出し
酒も団子もいらない、純粋な月見をしたいと思ったんです。


・・・外に出た時点で、月を見るのが難しいのはすぐに分かりました。
厚い雲が出ており、どの辺にあるのかすら分かりませんでした。


それでも諦めずにしばらく深夜徘徊して月が現れるのを待ちました。
時間を潰すために、取り壊し作業が進んでいる近所の小学校に
忍び込んでみようかとも思いましたが、
あまりに気味が悪いので一人で入るのは諦めました。

(近いうちに忍び込んでみない?


月を待って徘徊しているうちに、昔読んだ絵本を思い出しました。

調べてみると、どうやら
「はろるどとむらさきのくれよん」というタイトルだったみたいです。

とても素敵な絵本でした。


ただ、今の僕がそのクレヨンを手にしたとしても
きっと欲望にまみれた絵しかかけません。
いつからこんなに薄汚れてしまったのやら・・


最近マイブームの「記号」。
記号としての月見は、無事記号としての役割を果たし終えたので
家へと帰りました。

いいね、マジ、カンタン!♪

2008-09-23 00:55:16 | Weblog
アインシュタインに扮したおじさんが出てくる
インスタントコーヒーのCM、見たことありますか?
あの詰め替え、ちょっとやってみたいです。

でも詰め替える前のビンを持っていないから
まずはそれを買って使い切らないといけないという…


高校の現代文で、「記号」という言葉が良く出てきました。
当時はいまひとつその意味がつかめませんでしたが、
最近それが分かってきたような気がします。

ぁ、いや、
ソシュールだ、言語学だとか難しいことはやっぱり何も分からないままです。
全ては思い込みに過ぎないかもしれません(ぁ
まぁ、それならそれでいいんですが、
とりあえずちょっと思ったことを書くだけ書いてみます。



僕はコーヒーが好きです。
レギュラーコーヒーも缶コーヒーも総じて好きです。
そんなわけで、舌が肥えているわけではないし、通とは言えません。

ふと、思ったんです。
僕はコーヒーそのものが好きと言うよりは
「記号としてのコーヒー」が好きなんじゃないかと。

思うに「目が無い」と言う言葉は、「記号としてのそれが好き」と
ニアリーイコールではないでしょうか。


・・・「記号」をそういう空疎なものとして捉えたとき、
この世の中ってそういう「記号」ばかりなんじゃないかという不安にも駆られます。

記号としてそれを捉えられるのではなく、
本質としてのそれを見極められる人間になりたいと思います。

読み終えた。

2008-09-22 02:25:40 | Weblog
僕の自律神経は、恒常性とは何か、すっかり忘れてしまったみたいです。
おかげで最近講義中くらいしか眠気を感じません。

生活リズムを崩壊させている原因が自分にあるのは重々承知。

そういえば、欧米社会において、居眠りは
前日十分な睡眠をとるという極めて基本的な義務を怠ったから陥るもの、
とみなされるんだそうですね。

・・・日本人でよかった(違


まぁ、そんなことはおいといて。


「座右のニーチェ」を読み終えました。
さっきの記事は、選ぶところ間違えましたね。
もうちょっと面白く、ためになるような部分を選ぶべきでした。

全体に、書かれている内容はいたってシンプルで
理にかなったものであるため、理解しやすかったです。
が、若干偏りのある意見じゃないかなーというような印象も受けました。


理解は出来たはずなんですが、内容を自分の言葉で語ることが出来ません。
本を読み終えた後にそういう状況では、本を読んだ意味が無い、
労力の無駄でしかない・・・
とこの本の中に書かれていたのは覚えているんですが(苦笑


こういうもどかしさを感じること、ありませんか?
僕にはよくあります。
原因は語彙不足か、理解不足か、根本的な表現力不足か・・・


書かれている内容が実は当たり前のことばかりだったからかもしれません。
箴言っていうのはきっと本来そうあるものなんでしょうね。




話は変わって、次の金曜日に追試があるのに(以下略

ぁー・・・。

言い分はあるんですよ。
なんでも追追試も実施される上に、
最後は口答でどうにかしてくれるなんて噂が・・・


さしあたって僕に必要なのは寸鉄の言葉よりも
自分を律することだっていうのははっきりしています。

教えてください。
そのために必要なものって、なんですか?

欲望ばんざい?

2008-09-21 18:09:52 | Weblog
斉藤孝の「座右のニーチェ」という本を読んでいます。

なかなか面白いです。
「ニーチェ」の批判する人間像に自分が当てはまりすぎて(笑
(著者の考えるニーチェの主張であって、
ニーチェそのものの主張なのかどうかまでは知らないけれど)
それはともかく、逆説的な主張を読むだけでも割と楽しいです。


一例紹介してみます。

キリスト教において性欲はタブー視されていますよね。
自分の記憶が間違っていなければ、
いやらしい目つきで女性を見る行為は姦淫する行為に等しい、
というような極端なものだった気がします。

そんなこといったら、うちの妄想先生は一体何件姦淫罪を問われることやら

話が逸れました。

著者によると、ニーチェはそんなキリスト教的考え方を批判しているそうです。

「キリスト教が七つの大罪を憂うのは、
それらが人間を地獄へ近づける欲望や感情を含んでいると考えるからだ。
ニーチェはその真逆で、欲望することが牢獄からの解放につながると説く。」

禁欲が悪いとは言わないけれど、
どうせなら積極的な生のエネルギーは活用するべきだ、ということらしいです。


じゃ、具体的にどうすりゃいいのか?


『そもそも、「こうしたい」という欲求に正直にしていないところから、
ニーチェが批判するルサンチマン=妬みやそねみが生まれる』

・・・じゃ、欲望の赴くままに行動しろってこと・・・なのかと思ったら、
その節のタイトルが「欲望ばんざい」になってるから、
多分方向性としてはそんな感じ。

まぁ、露骨な表現は巧妙に避けられてるので、
きっと一番強調したいのは
禁欲から生じる負の要素がよくないってことなんだろうとは思いますが。


あれ、じゃあ前述したHポーせんせいのあれは・・・
弦分中に周りを見回してはここには書けない様な妄想の世界に入り浸っていたあの行為は
ニーチェ的観点では許容されるんでしょうか。
(ニーチェが推奨する活用法とは違うように感じますが)


この本を読んで、自分の生活ちょっと見直してみようと思いました。
だけど、コンビニのおねーさんと手が当たっただけでドキッとしているような自分にとって、
やっぱりある種の妄想も「罪」になるんじゃないかと思うんですよね。




ぁ、誤解の無いように一応断っておきますが、
特定の個人を誹謗中傷する意図はありません(笑
多分、本人見てるし。

そうして大人になっていく

2008-09-20 00:00:52 | Weblog
悲愴をがりがり練習していたら、右手の人差し指にまめが出来ました。
・・・多分、潰れたら正しい持ち方ができます(笑


↓今日の晩御飯



秋刀魚。
美味しくなさそうってコメントはなしで(苦笑
(見た目の割には食べられた)

数日前に「フライパンで秋刀魚を焼く」って記事が新聞にあったので、
今日、それにしたがって焼いてみました。

ただ、その記事では、満遍なくフライパンで焼くために切れと書かれているんですよね・・

・・・う~ん、それはだめだ。
秋刀魚は頭から尻尾まであってこその秋刀魚。


そんな強迫観念を捨てきれず、1匹を無理やりフライパンに押し込みました。
その結果、こんな猫背の秋刀魚が焼きあがったわけです。


味は・・・まぁ塩ふって焼くだけだから失敗しようがないんですが
無理やり押し込んだために焼きむらができてしまいました。
ちょっと生っぽいところもあったかな・・。

でもまぁ満足。

一人で魚を焼いたのは初体験だったし。
(ししゃもを焼いたことはあったけど)

なかなか楽しい秋の味覚でした。

でもまぁ、もうしばらくは秋刀魚はいいや・・・と言いたいところですが、
2匹240円のさんましか売られていなかったので、
あと1匹残っているんですよね。
そしてうちの冷蔵庫は機能しているかどうかもあやしい代物。
遅くとも土曜日中には食べてしまわないといけません。


・・・今度は半分に切って焼こ。


恐怖

2008-09-16 00:04:57 | Weblog
「深い沈黙の中で、心臓が大きな乾いた音を立てていた。
体を曲げると、骨がきしんだ。
一瞬のことだけれど、
小村は自分が圧倒的な暴力の瀬戸際に立っていることに思い当たった。」

              (村上春樹『紙の子どもたちはみな踊る』)より

読んでいて、その「圧倒的な暴力の瀬戸際」・・・言葉では言い表せないような恐怖を感じました。
自分を失うと言う曖昧とした恐怖を、
こういう形でガツンとぶつけてくる文章ってなかなか無いんじゃないかと思いましたが、
以前読んだときにはそんなこと微塵も思わなかったんだから不思議です。


それに比べて、日本のホラー映画って特に怖くありませんよね。

そもそも恐怖の種類が違いますが、
あの手の映画の恐怖は酷く薄っぺらいものに感じます。

要素を抽出してしまえば

①びっくり・意外性
②グロテスク
③非人間性を強調する演出
④執拗に繰り返される行為
⑤「呪い」の要素

これだけあれば、とりあえず日本のホラーって言い尽くせません?
特に、いきなり出てきてびっくり、というパターン、あまりに多い・・・。

一人で見ろって言われたら無理だけど、
皆でいるときにホラーを見ても別に怖いと感じません。
もちろん、もし実際にその映画と同じ状況になれば怖いだろうけど・・・。


興を殺ぐかなぁとは思いつつも、茶化さないでは見られません。
ぁー、この子役の男の子、頑張って演技してるなーとか
やっぱこんな演技をさせられるんだから、幽霊役の役者さんはそれだけギャラがいいのかなーとか。

ホラーを見てみたいけど、怖そうだから・・・と躊躇している方がいれば是非呼んで下さい。
恐怖度は幾分下がるだろうと思います(笑



じゃ、僕は幽霊とか信じないのかと言うとそうではありません。
見たことは無いけれど、居てもおかしくないよな、と言う程度には思っています。


「ある」ことを証明するのは比較的容易だが、
「ない」ことを証明するのは難しい。

これは元々他の事について言われていたことですが、
霊の存在についても同じことが言えるんじゃないかと思います。
非科学的って批判は的外れです。
だって霊が絶対に存在しない証明なんて、「科学的」にはできませんもんね。


まぁ、そういう不確かさはホラーの怖さを担う重要な要素。

「幽霊なんか居ませんよ」
とかいいつつ、びくびくしている誰かさんとか面白すぎます(笑

昨日、夜中に鹿田の研究棟に忍び込んできもだめし(?)したんですが、
その誰かさんのリアクションが面白くて面白くて・・・

男3人で―

2008-09-13 01:59:08 | Weblog
男3人で晩御飯を食べました。

2人で買出しに行き、Hポーを呼んで3人で―。

作ったのはさんまの素揚げ、大根おろし、チャーハン。
それぞれ、Fラーリ、ヘイポー、自分の担当で。

お酒はけちって500円の赤ワイン。

デザートに梨。


今日まともにものを食べていなかった自分としては満足できました。
フェラーリチョイス&チョウリの秋刀魚は美味しかったです。
もちろん、付け合せの大根おろしも(笑

ちなみに、食べ物に飢えてそうな人No1の風神さんを召喚しようとしたら断られました。
代わりに女の子呼んでっていったら、それも断られました。

盛り上がりに欠けたのはきっとそのせい(?)


食べ物に飢えている人がもし居れば、いつでも言ってください。
肥えた舌を満足させることは出来ないかもしれませんが、
とりあえずおなかを満たすことはできるので是非。