この前、献血に行ったときの話。
終わった後にボランティアっぽい学生風の女の子が次回献血可能日時の説明をしに来ました。
はいはい、そんなことわざわざ口頭で言われなくても、見りゃわかるよと適当に受け答えしていたんですが
不意に、「あ、あの・・!」
ん?
「その猫のバッグかわいいっすね!!」
面喰いました。笑
仏頂面をして受け答えの冷たい僕に言うほどだから、よほど言いたかったんでしょう。
それだけ言うと満足して去って行きました。
まさか見ず知らずの他人に持ちものを褒められる日が来るとは。
長く生きていると色んな事がありますね。
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明日はせっかくの祝日なのに当直。24時間勤務したあとにそのまま通常業務…全くやってられない。今日は飲むぞーと先に散って行った職場の人たちを恨めしい顔をして見送りましたが、結局僕も誘われて飲んできました。
休みの前日の解放感が味わえないと損をした気分になります。
平和な当直でありますように。
未だに虫垂炎が「盲腸」と呼ばれることは多いような気がします。
誤解をしている人も結構いるのではないでしょうか。
この場を借りてはっきり言っておきます。盲腸と虫垂は別物です。
大ざっぱに言うと盲腸cecumとは小腸から大腸へ出た部分(Bauhin)よりも下にある部分。
画像で言うと青丸をつけた部分を指します。
一方、虫垂appendixとは盲腸の下にぶら下がっている袋小路の腸管。
画像で言うと赤丸をつけた部分です。
虫垂炎はあくまでも虫垂に由来する炎症です。
盲腸まで炎症が広がることもありえますが、順番としては虫垂が先。
「盲腸」という言い方だと盲腸が諸悪の根源みたいですが違います。
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今日は本来は休みだったので、朝晩病棟を見回るだけの予定でした。
ところが、外来看護師が間違って救急当番が僕だと書いたおかげで
急遽無給労働を強いられることになってしまいました。さようなら僕の幸せな土曜日。
そして、そういう時に限って手術の必要な患者さんがやってくるんですよね。
・・まったく、ついているのやらついていないのやら。
手術は予定通りうまくいったんですが、結局晩まで帰れませんでした。
いきたかった講習会にも行けずじまい。
でも自分が診断して人を集めて手術して苦しんでいる人を助けるこの流れ、
仕事の充実感としては申し分ありません。
自分が助けたんだという勘違いで満たされます。
ブラックジャックの本間先生にはおこがましいと怒られそうですが、
こんなQOLの低い生活を強いられていたら、
こういう報酬を欲しても罰は当たらないんじゃないかとは思っています。
まだ、なんとかやっていけるかな。
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追記
編集画面によるとこのブログを開設してから今日で3000日らしい。
3000日ともなると、ちょっとした月日ですね。
今後とも皆様よろしくお願いします。
僕が考える大人の条件の一つは、ビールをおいしいと感じること。
仕事終わりにぐびっと飲む1杯は最高ですよね。
他の何物にも代えがたい魅力があります。
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何をするのも楽しかった昔は、もてる必要なんて全くないと思っていました。
いや~青かったですね。
今はそんなこと思いません。
もてないよりは当然もてたほうがいいです。
見た目の問題は仕方がありません。
自分で変えられるところが重要ですよね。
例えば某N田先生なんかはかなりもてるらしいです。
話を聞いている限りでは外見以上の成果を上げているようです。
まったくもって羨ましい限りですね。笑
「楽器が弾けるともてる」なんていう噂もありますが、
音楽の趣味がない人にももてるらしいので、
それ以外にも色んな戦略が功を奏しているということなんでしょう。多分。
あいつのすごいところは、もてることは目的ではなくあくまでも手段だという点。
もてるためにあいつのまねをしようと言うような小手先の考え方をしているようでは、
そもそも立っているステージが違います。笑
色々考えていると自分は本当にもてたいのかと言う根本的な疑問に行きつきます。
非モテの僕がいうのもおこがましいですが、
僕もそれを手段のように考えているところがあります。
結局のところ、貴重な休みの貴重な空き時間に不貞寝ばかりしている生活には
そろそろうんざりしてきたと言うだけなんですけどね。
・・いつもしょうもない記事につきあってくれてありがとうございます。
あー・・ビールでも飲も。。
NHKの「スーパープレゼンテーション」という番組が面白いです。
色々な分野の研究者やアーティストなどが
自分の専門分野についてプレゼンテーションすると言うシンプルな番組。
どうせ強制的に受診料を払わされるのなら、少しでもいい番組をみて満足したいもの。
テレビをつけた時にやっていたら見ると言う程度ですが、
面白い回に当たるとちょっと得した気分になります。
この前見ていて面白かったのは、「動物にモラルはある?ない?」という動物行動学者の回。
動物の道徳的行動についてがテーマでした。
あくびがうつることってありますよね。
それは共感によるもので、実はチンパンジーにもみられる現象なんだそうです。
うつされやすい人は、自分は共感しやすいいい人なんだと思ってもいいかも。
(チンパンジーすら持っている社会性にすぎないようですが 笑)
また、悲しんでいる動物に対して慰める行動は、ゾウやイヌでも見られる行動として認められているそうです。
確かにゾウやイヌって社会的な動物なイメージがあります。
僕の卒業した中学校では週に1回「宗教」の授業がありました。
理事長も務めていた太ったスペイン人のおじいちゃん神父が受け持っていました。
その中で「理性は唯一人だけが持っているものです。動物に理性はありません」
と言ったことがあり、当時の僕は猛反発していました。
犬にだってやさしい感情はあるし、それゆえに落ち込んでいる飼い主を慰めることができると。
それは考える力、すなわち理性ではないのかと。
もちろん今は神父の言いたかったことはわかるんですが、
動物は本能に従うしかない生き物だと言われて動物好きな僕としてはカチンときていました。
それからおよそ15年。
専門家の中ではそういう犬の行動は当たり前のものとして扱われていました。
昔を思い出しつつちょっと満足しました。
犬が人と一緒に長く生活してきた歴史的な背景には、そういう共感できる能力があったためなんだそうです。
そういえば、今は亡き実家の犬も、臆病で身勝手ではあったけれど「やさしかった」な。
・・やっぱり動物に理性がないとするキリスト教の教義はやや乱暴な気がする。笑
そのプレゼンでは「擬人化」がテーマでした。
動物の中にどれだけ人間的な側面を見出すかと言い換えられるでしょうか。
昔のドラマで、工藤官九郎が「犬は口が聞けないから人の癒しになる」と言わせていたけど
気持ちは理解しているけど口には出さない(ように見える)のがいいのかもしれません。
写真はマイブームのウォンバット。
こんなずんぐりむっくりした見た目だと性格もやさしそうだけど、怒ると怖いらしい。
そこに理性や道徳はあるのやらないのやら。
怒涛の披露宴ラッシュが続いています。
今日でようやく終わりだと思っていたら来月もありました。
とりあえず僕はのび太君になれないことを痛感しました。
前日になっていつもふくさを買っておけばよかったと後悔するんですが、
結局買いに行く時間がなく裸で持っていっています。
社会人としてこんなことではだめだよなと毎回思うんですが、
終わると忘れてしまうんですよね。
「スプートニクの恋人」の主人公は、村上春樹の一人称で語られる小説の中ではかなり異端な存在です。
それほど情熱も持たずに教師をしながら、教え子の母親と不倫関係にあるというなかなかの悪い男。
そんな男が小説の中で語ります。
『自分とはなにか?』という命題につきものの古典的なパラドックスに足をとられてしまうわけだ。
つまり純粋な情報量から言えば、ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。
しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって――その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって――取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。
とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真実があるのだろう?」
スプートニクの恋人
最近、自分がどういう人間なのか分からなくなってきました。
なんて中二っぽいことを言っているんだと笑わないで。笑
先輩看護師が新人さんに僕を紹介する時は「やさしい先生」と言われました。
何言われようとまず怒ったり怒鳴ったりしないのは確かです。
・・まあ陰で何を言われているかは分かりませんが。
じゃあ僕は優しい人間なのかと言うと決してそういうわけではありません。
それこそ怒鳴ったりすると後々やりにくいという利害関係から、
やさしい人を装っているだけという可能性だってあります。
職場の同僚という適度な距離感のある関係だからやさしいふりができているだけ。
もっと近しい関係になれば、本性を現した僕に迷惑を被っている人がたくさんいるのかもしれない。
そういうことを言われたときは心外だったけど、
客観的に見ればそうだったのかもしれないと思うようになりました。
何が本当で何が嘘なのか見極める自信がなくなり
後で騙されたと思うくらいなら最初から嘘だと疑ってかかった方がいい。
そんな気分にもなりました。
懐疑主義に陥ってしまうと自分の気持ちすら何が本当なのかよくわかりません。
客観的真実ってどこにあるんでしょうね。
普通、こういうことを考えるのってもっと若い時期なんでしょう。
30が近づいてきて初めてこんなことを考える自分の精神的な未熟さを痛感しました。
ふくさに包まれている中身はご祝儀だと分かるくらい
シンプルな世の中だったら楽だったのになあ。
人という袋の中身が今更ながら全く分からなくなりました。
グスタフと聞いて最初にゾイドの方が思い浮かんだ人は僕と気が合うと思います。
いつかゾイドを肴にお酒でも飲みましょう。
(なんでこのアルマジロが「グスタフ」なんだろうなぁ・・)
でも今回は、グスタフ・マーラーの話。
この前、BGMにマーラー5番を聴こうと思ってyoutubeで検索していたら、
結局そのまま音楽に引き込まれて動画が終わるまで見入ってしまいました。
「BGMにマーラー」という発想の時点で間違ってました。笑
スイスの音楽祭でのライブ演奏のようです。
音質云々言い始めると色々あるんでしょうが、
これが無料で視聴できるなんていい時代ですね。
(もちろんできることなら生演奏を聴きたいものだけど)
53回定期がこの曲に決まった時は、好きになれるかなと不安に思ったものした。
今となってはそんなことを思ったことが不思議なくらいです。
7年間も時間があれば色々なことが起こるわけで
当時分からなかった感覚も色々分かるようになりました。
そういう経験が曲の好みに与える影響はきっと強いんでしょう。
マーラーがこの曲を作った時はアルマと出会ったころ。
4楽章がアルマへの愛の調べであるとはよく言われるところですが、
何年か前にマーラーとアルマを描いた映画を見て以来、
アダージェットを聴くたびにその先の破局まで脳裏に浮かぶようになってしまいました。
タイトルは映画の中でアルマの母親に言われていた言葉。
義理のお母さんにまで同情されるなんて本当にかわいそうなグスタフ。笑
でも作曲家として大成した陰にはこの不幸な私生活があってこそという気がします。
(芸術家にはありがちな話かもしれませんが)
苦悩や葛藤を芸術に昇華する才能があったからこそ、
その後も多くの名曲を生み出すことができたんでしょう。
円満な夫婦生活が続いていたとしたら、そうはならなかったとは思いませんか。
あの映画ではアルマは完璧な「悪女」でした。
おまえにはセンスがないから作曲をやめなさいと言うグスタフも大概だとは思いますが
だからといって浮気が許されるわけではないよ・・。
実際、アルマにはグスタフが残したようなシンフォニーを作る才能はなかったんだろうし。
本人がどう思っていたかはわかりませんが、
苦しみを優れた作品に変える力を持つという点は純粋に羨ましいと思います。
何も持っていない僕には何も建設的なことができない。
お世辞が言えません。
現在のちょっとした悩みです。
言えないからといって不利益を被るわけではないけれど、
そういうのってコミュニケーションの潤滑油みたいなもの。
言えるに越したことはありません。
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今日の手術中のこと。
A先生「いやぁ、B先生見事な剥離操作ですねぇ」
B先生「まあ、いいところに入ったかな」とまんざらでもなさそう。
(尿管、うにょうにょと蠕動運動)
A先生「先生!見てください、先生の操作で尿管が喜んでますよ!」
僕「・・・」
尿管は手術のメルクマールとなる重要な部位です。
それが動くのを確認するのは術中の必要な操作ではあるんですが、
このやり取りは正直気持ち悪い。
しばらくのち、B先生に「ちゃんとあの言葉メモしたか?」と言われました。
・・なんじゃそりゃ。
まあ、社会人としては
こういう太鼓持ちができるようになるべきなんだろうな。ある程度は。
そんな気分の時のフェイクファー。
複雑に込み入ったこの世界。
人の言葉をどこまで信用していいか分からないし、
それどころか自分の気持ちすらどこまで本当なのか分からない。
フェイクファー。
一番好きなマンガは何ですか?
僕なら藤崎竜の封神演義と答えます。
同世代の人ならあの漫画が好きな人は多いはず。
今読み返しても十分面白い不朽の名作だと思います。
(このイラストの色使いとかデザイン、素敵だと思いません?)
敵に至るまでキャラクターが一人一人丁寧に描かれているのも魅力の一つ。
感情移入出来る対象が主人公にとどまりません。
最近、ふと紂王と王天君について考えることがあります。
その二人には共通項が多いと思うんですよね。
妲己に狂わされた男であるということ。
そして騙されたり利用されたりしていることを知りながらも
妲己を愛しているということにあります。
なんか男のダメなところを体現化したような二人じゃありませんか 笑
昔車の教習所に通っている時、教官が面白いことを言っていました。
「どんなに賢い男でも、どんなに偉い男でも
結局は考えているなんてどいつも一緒なんだよ」
随分乱暴なことを言うもんだなと当時は思ったものだけど
今はある程度同意できます。
世の中、複雑そうに見えて意外と単純なことが多い。
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この夏に病院をやめてオーストラリアに行き、
現地でアルバイトしながら1年間過ごし、
青い眼の彼氏を捕まえるんだと意気込んでいる病棟の看護師が
顔を合わせるたびにどうでもいいようなことを聞いてきます。
「暗い顔ばっかりして、なんかいいことないんですか?」
「何もないよ」
「趣味とかないんですか?」
「最近は趣味と言えるようなことなんもしてないな」
「そんなもったいない時間の使い方してたらあっという間に30になりますよ」
なんで年下の女の子に人生説かれているんだろ・・
リアルに苦笑するしかありませんが、
その子の持っているようなバイタリティが僕にないのは確か。
限られた時間をもっと有用に使えないかと思う今日この頃です。
「精神的に傷つきやすいのは、
若い人々によく見られるひとつの傾向であるだけではなくて、
それは彼らに与えられたひとつの固有の権利でもあるのだ。
もちろん歳をとっても、心が傷つくことはいくらでもある。
でもそれを露骨に表に出したり、あるいは引きずっていることは、
それなりに年齢を重ねた人間にとっては相応しいことではない。
僕はそう思った。
だからたとえ傷ついていても頭に来ても、
それをするりと飲み込んでキュウリみたいに涼しい顔をしているように心がけた」
「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」より
もはや村上春樹は僕にとってバイブルです。
僕もキュウリみたいに涼しい顔をしていなければいけないんだけど、
それができなくて色んな人に色んな事を言われます。
「この人生においてこれまで、
本当に悲しい思いをしたことが何度かある。
それを通過することによって、
体の仕組みがあちこちで変化してしまうくらいきつい出来事。
言うまでもないことだけど、無傷で人生をくぐり抜けることなんて誰にもできない。
でもそのたびにそこには何か特別の音楽があった。
というか、そのたびにその場所で、
僕は何か特別の音楽を必要としたということになるのだろう。
ある時にはそれはマイルズ・デイヴィスのアルバムだったし、
ある時にはブラームスのピアノ協奏曲だった。
またある時それは小泉今日子のカセットテープだった。
音楽はその時たまたまそこにあった。
僕は無心に取り上げ、目に見えない衣として身にまとった。
人はときとして、抱え込んだ悲しみやつらさを音楽に付着させ、
自分自身がその重みでばらばらになってしまうのを防ごうとする。
音楽にはそういう実用の機能がそなわっている。
小説にもまた同じような機能がそなわっている。
心の痛みや悲しみは個人的な、孤立したものではあるけれど、
同時にまたもっと深いところで誰かと担いあえるものであり、
共通の広い風景の中にそっと組み込んでいけるものなのだと言うことを、それらは教えてくれる。
僕の書く文章がこの世界のどこかで、
それと同じような役目を果たしてくれているといいんだけどと思います。心からそう思う」
「おおきなかぶ、むずかしいアボカド」より
とても素敵な文章だと思います。
もともと僕は日常的に音楽を聴かない人だったんですが、
最近ブラームスのピアノ協奏曲2番や交響曲3番を繰り返し聞いています。
小泉今日子に代わるものはスピッツ。
そして村上春樹の文章は僕にとってそういう機能を果たしてくれていることを
何らかの形で筆者に伝えたいところではあるけれど。
時間を巻き戻せる手段があるならなんだって差し出す覚悟がある。
そういう問題ではないのかもしれないとも思うけど。
およそ10年前、僕まだ高校生だった頃、
ホリエモンについてどう思うか友達とよく議論しました。
当時、彼は「金で買えないものはない」などの過激な発言でメディアに取り上げられていました。
高校生だった僕は、世の中の大多数の人と同じように単に不快に感じていただけですが、
今思えば、彼はあえて耳障りなことを言って人々の注目を集める戦略だったんでしょうね。
それが正しいかどうかなんて、当の本人にすればどうでもいいことだったんでしょう。
友人はホリエモンみたいな生き方をしてみたいと言っていました。
あれだけアンチが多い中、そういう風に思える若い感性って今思えば貴重でした。
あいつが今どういう生活を送っているか全く知りませんが、
そういうみずみずしい感覚を失っていないといいなと思います。
ただ、最近はあの発言にも一理あるなと思うようになりました。
金で買えないものは間違いなくあるけれど、
意外と金で買えてしまうものが多いのもまた事実。
例えばお世辞とかね…笑
星新一の小説には、
子供のころは純粋なのに大人になると賄賂にまみれてしまう登場人物が多数出てきます。
僕もまたそういう道をしっかり歩んでいるんだなと思うことが最近多くなりました。
お金で解決できることがあるという意識が少しずつ強くなってきているのを感じます。
(うちの病院の偉い先生から「俺が若い頃は手切れ金を用意して―」なんて話も最近聞いた 笑)
高校の時に社会で習ったアダム・スミスの「神の見えざる手」を思い出しました。
需要と供給があり、「神の見えざる手」によって最適なポイントに落ち着く。
需要があって、供給がある。
それに見合ったお金が動く。
とてもシンプルな原理ですっきりしています。
ネーミングも素敵 笑
最近の話題で言えば、
政治家が8億の資金提供を受けたことの問題点が僕にはよくわかりません。
使用用途が不明瞭なこと?
額が大きすぎること?
献金パーティがOKでそれがダメな理由って何?
ルールを知らない僕には何がいけないのか分かりません。
お金が動いた。見返りが生じた。それだけの話じゃないですか。
色々考え方は変わったけど、今も間違いないと思っているのは
心を買うことはやっぱりできないということ。
できるという主張はつきつめれば勘違いだと思います。
薄汚れた大人になった僕だけど、まだホリエモンの意見に賛同はできません。
少なくとも心を買うために必要な対価は金ではない。
じゃあ、何なのかと言われるとやっぱり僕にはわからないんだけど。
ホリエモンを見るたびに思い出すあいつ、ほんと今何してるんだろうな・・