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アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

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「永遠の0」―その感動と限界

2013年09月16日 19時01分33秒 | 映画・文化批評
永遠の0 (講談社文庫)
クリエーター情報なし
講談社

 百田尚樹の小説「永遠の0」(講談社文庫)を読み終えました。文庫本とは言え、600ページもの大作なので、読み終えるまで大分時間がかかりました。
 私がこの本を読むようになったのは、このブログの中で、戦時中の特攻隊員を今のブラック企業の社員になぞらえた事がきっかけでした。「時代背景は違っても、国や企業の為に個人が一方的に犠牲を強いられる構図は何も変わっていない」と私が述べたのに対して、「特攻隊の事を取り上げるなら是非読んで貰いたい」と、ブログ読者の方から勧められたのがこの本でした。

 現代のプータローの息子(佐伯健太郎)が、フリーライターの姉の仕事の関係で、特攻隊員として亡くなった自分の最初の祖父(宮部久蔵)の取材をする事になり、伝を頼りに元特攻隊員から次々に話を聞いていく中で、それまで記憶も定かでなかった宮部の生き様が、この本の小説の中で次第に明らかになっていきます。
 宮部は、類まれな技量をもつゼロ戦パイロットの下士官でしたが、他の特攻隊員とは違い、ひたすら生き延びようとし、部下にも「絶対に犬死にするな」と指導します。また、米軍機を撃墜した後も、パラシュートで脱出する米兵に機銃掃射を浴びせかけた事もありました。その為に、一部の特攻隊員からは臆病者、卑怯者と罵られました。その一方で、戦闘中に宮部に命を救われたパイロットも多くおり、その人たちからは非常に慕われていました。その宮部が、最後には生き延びるチャンスを自ら放棄し、部下の身代わりとして特攻で死んでいったのです。

 その小説の中では、開戦初期のゼロ戦がどんなに優れた戦闘機だったか、機動性(身軽さ)や耐空性(航続距離の長さ)にかけては世界一だった事についても語られていました。この辺については、宮崎駿のアニメ「風立ちぬ」にも詳しく描かれていると思いますが、私はくだんのアニメはまだ見ていないので、ここでは割愛します。その反面、ゼロ戦は、攻撃機としては非常に高性能でしたが、防護機能は貧弱で、後ろから攻撃されたら一たまりもありませんでした。また、当時既に米軍は最新鋭のレーダーを備えていたのに、ゼロ戦の無線は殆ど雑音ばかりで全然役に立たず、それをひたすら現場の精神論・根性論だけでカバーしていたのです。勝ち戦の間はそれでも何とか持っていましたが、やがて負け戦となり根こそぎ動員で軍需工場から熟練工がいなくなると、さしものゼロ戦も次第に粗悪品が目につくようになり、終戦間際にはパワーアップした米軍機にバサバサ撃ち落されるようになります。

 そして、当時の特攻作戦や玉砕の醜い面も、包み隠さず語られていました。戦時中の特攻作戦と言えば、とかく無謀さだけが強調されますが、実際はもっと醜いものでした。下っ端の兵隊には玉砕・特攻を強いておきながら、肝心の将校はと言うと、「大和ホテル」と皮肉られるほど優雅に戦艦「大和」の中で高級料理に舌鼓を打ちながら、自分の保身の為には下っ端の兵隊がどれだけ死のうが知ったこっちゃないといわんばかりの、出鱈目な作戦指揮を行っていたのです。緒戦の勝利に奢り高ぶり、米軍を舐めてかかり兵力を出し惜しみし、物量作戦で木端微塵にやられると、今度は勝算のないまま無謀な突撃作戦が繰り返されました。その挙句に、ミッドウェーでもガダルカナルでも敗退を重ね、気が付いた時には沖縄も本土も焼野原となり、原爆まで落とされた末に無条件降伏。その中で、下々の兵隊だけが「お国の為に」と、ろくに食料の補給もされないまま非業の死を遂げていった様子も、非常にリアルに描かれています。

 そういう話が次から次へと出てきた後で、最後の舞台装置がまた意表を突くものでした。宮部が最後に特攻出撃する際に、自機のエンジンの不調に気付きながら、その機で出撃しておればエンジントラブルの為に特攻作戦から離脱し喜界島に不時着できる可能性があったのに、わざわざ部下にその戦闘機を譲り、自身は「正常な」戦闘機で米軍の空母に突撃して亡くなりました。その宮部と引き換えに生き延びた部下が、何と今の健太郎の祖父だったのです。今の祖父は、実は母とは血の繋がらない赤の他人だったにも関わらず、肉親以上に母を、そして自分たちを愛してくれていた・・・というのが、この小説のあらすじです。

 そういう元特攻隊員の証言の中でも、とりわけ南洋のラバウル航空隊で宮部小隊長の下についた井崎一等飛行兵の話は圧巻でした。末期がんに侵され余命いくばくもない井崎が、病室でインタビューに答える訳ですが、そこに暴走族くずれの井崎の息子も敢えて同席させます。その中で、宮部が父の家業の失敗で借金を抱え、棋士になる夢を断念せざるを得ず、海軍飛行兵の道を選んだのもひたすら生活の為だった事、その中で、ひたすら訓練に励み身体を鍛える中で、やがてベテランパンロットとして頭角を現してきた事、パラシュート脱出した米軍パイロットを撃ち落したのも、再びその米軍が戦場に舞い戻ってくるのを予期しての事、それでも特攻を拒否し、当時血気盛んだった軍国青年の井崎にも、ひたすら生き延びる事の大切さを説き、そのお蔭で何度も命拾いさせられた事・・・。その中で、宮部が井崎と二人きりの時に、「若し戦争が終わり何十年か後に、孫にお爺ちゃんも昔パイロットだったと縁側で話す頃には、日本も平和になっていたら良い」と井崎に話しかけるくだりで、最初はふてくされて渋々聞いていた井崎の孫が、まるで人が変わった様に泣き崩れる場面では、私も思わず泣きそうになりました。

 でも、読み終えた後で何か物足りなさが残りました。それは一つには、あんなに特攻を忌み嫌い、部下にも生き延びるように言っていた宮部が、何故最後に自ら死を選んだのか、その理由が最後まで明かされなかったからです。
 そして二つ目に、小説ではあんなに戦争の醜さを描いた作者の百田尚樹が、関西ローカルのテレビ番組で右翼色の強い「たかじんのそこまで言って委員会」等で、何故あからさまに憲法改正や軍拡に賛成する発言を繰り返す事が出来るのか。そんなに戦争が醜いのなら、なおさら反戦の立場に立つのが筋なのに。これでは、戦前には戦争熱を煽りながら戦後は一転して反戦平和を説いたマスコミの変節を、小説の中で非難する資格なぞないじゃないか。

 その二つがずっと気掛かりでした。この小説も、反戦色を織り交ぜつつも、主人公の宮部を「悲劇のヒーロー」に祭り上げる事で、結局は戦争を美化してしまっているのじゃないかと。本当に戦争に反対ならば、主人公を特攻で死なすような筋書にはしない筈です。とことん生きながらえさせる中で、生きる事の大切さを強調する筈だし、仮に死なすとしても、あんな綺麗に描くのではなく、もっと悲惨な死を強調する筈です。でも、そこまで書いてしまうと身も蓋もなくなり、ドラマにならない(小説として売れない)から、あくまでも主人公だけは「綺麗に」死なせたのかな、という気がします。

 そこが放送作家としての百田尚樹の限界ではないでしょうか。幾ら戦争の悲惨や軍部の横暴・腐敗を背景に描いても、単なるヒーロー個人の悲劇物語で終わってしまうと、せっかくの時代背景も悲劇の「引き立て役、刺身のツマ」にしかならず、寧ろ「今の日本の平和も特攻の犠牲があってこそ、それに引き替え今の若者は甘えている、昔の特攻を見習え」というように、批判していた筈の特攻や戦争を逆に美化する事にもなりかねません。
 でも、放送作家としては、そういう筋書きの方がドラマとしてヒットする。視聴率も稼げ本も売れる。だから、たとえ小説の中では戦争や特攻を批判しても、テレビに出ると「改憲・軍拡に賛成」なぞという正反対の事も平気で言えるのです。そういう意味では、同じ戦争の悲惨さを描いていても、漫画「はだしのゲン」とは似て非なる作品だと思いました。

はだしのゲン 2
クリエーター情報なし
中央公論新社

※後半の結論部分を現行の記述に差し替え、タイトル名も少し変えました。(9月16日19:00)
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映画「Hibakusha~広島から福島へ続く原子力ビジネス~」の解説

2012年08月06日 23時13分59秒 | 映画・文化批評
映画『Hibakusha 日本版』 Trailer


※例年なら8月6日は広島平和宣言の転載・紹介を行うのですが、今年は趣向を変えて下記映画の紹介を。実は本日京都で上映された映画で、もうイベントも終了してしまいましたが、なかなか優れた内容だと思うので、また鑑賞する機会があればと思いメモも兼ねて紹介。以下「バイバイ原発・京都」のHPより転載。


【8・6「原発も原爆もゼロに」特別企画】『Hibakusha~広島から福島へ続く原子力ビジネス~』上映&増山麗奈さんのお話

●日時:2012年8月6日(月)午後6時45分上映(開場6時30分)

・午後6時45分~上映『Hibakusha~広島から福島へ続く原子力ビジネス~』日本版
 (ラルフ・T・二―メイヤー ドロテーメンツナー共同監督作品/2012年/カラー/デジタルHD/67分)

・上映後、増山麗奈さん(日本版製作総指揮)のお話
・福島から関西へ避難された方の発言(予定)
・質疑応答・感想、意見交流(午後9時10分頃終了予定)     

●会場:ひと・まち交流館京都 第4・第5会議室(3階)

 河原町五条下る東側 市バス「河原町正面」下車すぐ
 京阪「清水五条」駅下車 徒歩8分      
 地下鉄烏丸線「五条」駅下車 徒歩10分 TEL:075ー354ー8711
 案内:http://www.hitomachikyoto.jp/access.html

●参加費:一般1000円 学生500円

●共催:ピースムービーメント実行委員会 「原爆と原発を考える京都市民の会」
●協賛:「緑」の京都・準備会
    
●問い合わせ先:TEL:090-2359―9278(松本) Eメール anc49871 at nifty.com(山崎)

●上映作品の紹介
★予告編
http://www.youtube.com/watch?v=i2lPZOZ8I-4&feature=youtu.be%3Fa

【作品解説】
 3.11から一年を経た日本。巨大な力で勧められてきた原子力政策と、それに対抗したちあがる民衆の姿を伝えるドキュメンタリー「Hibakusha~原子力資本主義の転換~広島から福島へ(暫定タイトル)」(67分 英題“Hibakusha ? from Hiro to Fukushima, nuclear capitalism tries to rebound”)

2月に来日したドイツ人監督ラルフ・T・ニーメイヤー氏とドイツのエネルギー政策担当ドロテー・メンツナー連邦議員・共同監督作品。
ドイツ、フランスでテレビ放映され、大きな反響を読んだ本作を、製作総指揮:増山麗奈・監督:松嶋淳理の手により新たなる日本版として全国公開!

福島第一原発30キロ圏内・若狭・関西電力・広島の被爆者など緊急来日取材。 
エネルギー転換期を迎えた日本の姿を3.11後に脱原発を実現したドイツからの目で切り取る。
原爆投下後、経済発展の夢ー"原子力の平和利用"のベールを暴き日本人がだまれ続けてきた原子力資本主義の姿を浮き彫りにする。

―<監督プロフィール>――
【ラルフ・T・ニーメイヤー】
ドイツ人、モスクワ在住。映像エディター、ジャーナリスト、作家、ドキュメンタリー映画メーカー、映画製作者。
13歳のときに、西ドイツ首相にインタビューしたのが映像活動のスタート。大統領になど世界的指導者に「ちゃんと眠れていますか?」などユニークな質問をして本音を引き出す。ジャーナリスティックな仕事は本名で行い、文化的な仕事はペンネーム「サイレント・クリーク」で行う。歌詞作詞も行う。著書多数。

【共同監督 ドロテー・メンツナー 】
DIE LINKE(ドイツ左翼党)連邦議員、エネルギー政策スポークスマン 環境・自然保護・原子炉安全委員会 ゴアレーベン調査委員会(注 ゴアレーベン=ドイツの放射性廃棄物の埋設予定地)2005年秋よりドイツ連邦議会議員を務める。反原発および非軍事化運動、反ファシズム運動に力を入れている。一児の母。

●増山麗奈(ますやま・れな)さん【トーク】
画家・ジャーナリスト。311以前から原発、戦争、環境問題、などにとりくむ。2児の母として子どもたちを連れて関東から関西へ原発震災移住。足下からのエネルギーや食や暮らし方を通じた放射能防御に取り組む。ドイツの脱原発映画「Hibakusha~広島から福島へ続く原子力ビジネス~」の日本版製作総指揮。兵庫県の瓦礫広域処理問題に反対する「子どもたちの未来と環境を考える会兵庫」代表。岡本太郎現代芸術賞選。活動が映画「桃色のジャンヌ・ダルク」(鵜飼邦彦監督)としてドキュメンタリー映画化された。

●映画の中の発言より・・・・・・・・・

未来の世代に負担を残さないように私に出来る事をやり続けたい。(小出裕章/京大原子炉実験所助教)

ヒバクシャとして”核の平和利用”を容認してきたことを申し訳なく思っている。(豊永恵三郎/広島被爆者)

財界は圧力で自然エネルギー普及を阻止し、原発輸出を目論んでいる(服部良一/衆議院議員)

生き物は原子力と一緒に暮らせない。だから日本から原発をなくし・世界の原発もゼロにしたい。(増山麗奈/画家)

広島チェルノブイリや劣化ウラン弾で起こった"原爆ぶらぶら病"これからわが国でも出てくるだろう。(肥田舜太郎/医師)

政府もマスコミも最悪を知りながら、事故を過小評価した。(セバスティアン・ププルークバイル博士/ドイツ放射線防御協会会長)

「原子力平和博覧会」実はその背後にCIAがいて被爆者を含む多くの市民を洗脳した(田中利幸 /広島市立大学広島平和研究所教授)

日本はメディアがコントロールされているんですよ。だから草の根以外ないんですよ。(山本太郎/俳優)

政府が最初にやるべきことは 福島の子どもたちを避難させる事だった。(椎名千恵子/原発いらない福島の女たち)

私たちは福島の子供の人権を懸念しております。しかし日本政府は国連を一年間福島から締め出しました。(アイリーン・美緒子・スミス/グリーン・アクション)

48万人が被曝労働をし、一万人以上が死んだ。あらゆるリスクを過疎地に押付け新たなヒバクシャを生み出し続けている。(中嶌哲演/明通寺住職)

http://d.hatena.ne.jp/byebyegenpatsukyoto/20120805/1344145124
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目くらましの絆ではなく解放への連帯こそ

2011年12月30日 21時04分51秒 | 映画・文化批評
  

・時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環(毎日新聞)

 3月の震災以降、しきりに連呼されるようになった言葉に「絆」がある。「3・11」「帰宅難民」「風評被害」「こだまでしょうか」といった震災関連の言葉とともに、今年の流行語大賞にも入賞を果たした。
 確かに私たちは被災経験を通じて、絆の大切さを改めて思い知らされたはずだった。昨年は流行語大賞に「無縁社会」がノミネートされたことを考え合わせるなら、震災が人々のつながりを取り戻すきっかけになった、と希望的に考えてみたくもなる。
 しかし、疑問もないわけではない。広辞苑によれば「絆」には「(1)馬・犬・鷹(たか)など、動物をつなぎとめる綱(2)断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛(けいばく)」という二つの意味がある。
 語源として(1)があり、そこから(2)の意味が派生したというのが通説のようだ。だから「絆」のもう一つの読みである「ほだし」になると、はっきり「人の身体の自由を束縛するもの」(基本古語辞典、大修館)という意味になる。
 訓詁学(くんこがく)的な話がしたいわけではない。しかし被災後に流行する言葉として、「縁」や「連帯」ではなく「絆」が無意識に選ばれたことには、なにかしら象徴的な意味があるように思われるのだ。
 おそらく「絆」には、二つのとらえ方がある。家族や友人を失い、家を失い、あるいはお墓や慣れ親しんだ風景を失って、それでもなお去りがたい思いによって人を故郷につなぎとめるもの。個人がそうした「いとおしい束縛」に対して抱く感情を「絆」と呼ぶのなら、これほど大切な言葉もない。
 しかし「ピンチはチャンス」とばかりに大声で連呼される「絆を深めよう」については、少なからず違和感を覚えてしまう。絆はがんばって強めたり深めたりできるものではない。それは「気がついたら結ばれ深まっていた」という形で、常に後から気付かれるものではなかったか。
 つながりとしての絆は優しく温かい。利害や対立を越えて、絆は人々をひとつに包み込むだろう。しかし、しがらみとしての絆はどうか。それはしばしばわずらわしく、うっとうしい「空気」のように個人を束縛し支配する。たとえばひきこもりや家庭内暴力は、そうした絆の副産物だ。
 もちろん危機に際して第一に頼りになるものは絆である。その点に異論はない。しかし人々の気分が絆に向かいすぎることの問題もあるのではないか。
 絆は基本的にプライベートな「人」や「場所」などとの関係性を意味しており、パブリックな関係をそう呼ぶことは少ない。つまり絆に注目しすぎると、「世間」は見えても「社会」は見えにくくなる、という認知バイアスが生じやすくなるのだ。これを仮に「絆バイアス」と名付けよう。
 絆バイアスのもとで、人々はいっそう自助努力に励むだろう。たとえ社会やシステムに不満があっても、「社会とはそういうものだ」という諦観が、絆をいっそう深めてくれる。そう、私には絆という言葉が、どうしようもない社会を前提とした自衛ネットワークにしか思えないのだ。
 それは現場で黙々と復興にいそしむ人々を強力に支えるだろう。しかし社会やシステムに対して異議申し立てをしようという声は、絆の中で抑え込まれてしまう。対抗運動のための連帯は、そこからは生まれようがない
 なかでも最大の問題は「弱者保護」である。絆という言葉にもっとも危惧を感じるとすれば、本来は政府の仕事である弱者救済までもが「家族の絆」にゆだねられてしまいかねない点だ。
 かつて精神障害者は私宅監置にゆだねられ、高齢者の介護が全面的に家族に任された。いま高年齢化する「ひきこもり」もまた、高齢化した両親との絆に依存せざるを得ない状況がある。そして被災した人々もまた。
 さらに問題の射程を広げてみよう。
 カナダ人ジャーナリスト、ナオミ・クラインが提唱する「ショック・ドクトリン」という言葉がある。災害便乗資本主義、などと訳されるが、要するに大惨事につけ込んでなされる過激な市場原理主義改革のことだ。日本では阪神淡路大震災以降になされた橋本(龍太郎)構造改革がこれにあたるとされ、さきごろ大阪市長選で当選した橋下徹氏の政策も、そのように呼ばれることがある。
 人々が絆によって結ばれる状況は、この種の改革とたいへん相性が良い。政府が公的サービスを民営化にゆだね、あらゆる領域で自由競争を強化し、弱者保護を顧みようとしない時、人々は絆によっておとなしく助け合い、絆バイアスのもとで問題は透明化され、対抗運動は吸収される。
 もはやこれ以上の絆の連呼はいらない。批評家の東浩紀氏が言うように、本当は絆など、とうにばらばらになってしまっていたという現実を受け入れるべきなのだ。その上で私は、束縛としての絆から解放された、自由な個人の「連帯」のほうに、未来を賭けてみたいと考えている。
 http://mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20111211ddm002070091000c.html

 何か難しそうな文章のように感じてしまい、最初は紹介するのを躊躇したのですが、言わんとする事は分るでしょう。
 3.11の東日本大震災以降、「頑張ろう日本」だとか「家族の絆」という事が盛んに強調されるようになったが、そういう事を言っている政府やマスコミが、例えば震災・津波で露わになった「原発安全神話の嘘」に今もまともに向き合わず、平気で原発の再稼働や海外輸出を図ろうとしており、それを本気で阻止しようとはしない。そして放射線許容基準を緩め、今も原子炉に近づけず放射性物質がどんどん漏れ出しているのに、既にメルトダウンしてしまった後の原子炉の温度低下だけを見て「冷温停止」と言いくるめ、実際は放射性物質を周辺に押しやっているだけなのに「除染」と言い張り、福島県民の被曝にも見て見ぬふりをしている。

 そんな、「頑張ろうにも頑張れない」「絆を破壊しようとしている」現実に頬かむりしたまま、いくら口先だけ「頑張ろう」とか「絆」とか、「風評被害に負けるな」とか、あれこれの「除染健康法・調理法」なるものを言われても、そんなものは只の「目くらまし、ガス抜き、矛先逸らし」でしかない。
 これは何も、「頑張る」事や「絆の大切さ」を否定しているのではない。「頑張り」や「絆」を破壊しようとする者や勢力の企みを暴き出し、それと闘わずして、「頑張る」「絆」も糞もないだろう。本気で除染を追求したり風評被害を食い止める気なら、もはや脱原発しかあり得ない。

 これは何も原発問題だけに限らない。沖縄や厚木・岩国の基地被害の上に胡坐をかいて、さも訳知り顔に日米安保を無条件に肯定する。自分ところのワンマン・ブラック経営や労基法無視には何も言えずに、公務員や生活保護受給者ばかり叩いて鬱憤を晴らそうとする。そんな奴らが、幾ら年末だけ「絆」だの「愛は地球を救う」だの、あるいは「拉致被害者を見捨てるな」とか言っても、そんなものは偽善でしかない。「いやそうではない、本気で絆や人類愛や拉致問題の解決を望んでいる」と言うのなら、沖縄問題や格差問題に対しても、他人事で上から目線の憐憫や同情なんかではなく、共に生きる仲間として連帯できる筈だ。幾ら個人の能力には限界があり、実際にできる事は僅かでも。
 そういう意味では、上辺だけの「絆」連呼よりも、それを実際に破壊する者(独裁・搾取・人権侵害、等々)との闘いを前面に出した、「タイム」誌年内最終号の表紙を飾った「PROTESTER」(抵抗者)の画像こそ、今年の締めくくりとしてより相応しい。大震災で揺れた日本のこの一年は、世界的には民衆蜂起がアラブ諸国を席巻し、ウォール街占拠の反格差デモという形で先進国にも波及した革命の一年でもあったのだ。歴史は確実に進歩しており、未だに橋下・石原に「寄らば大樹の陰」の日本が遅れているだけなのだ。それではよいお年を。
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転載:第41回釜ヶ崎越冬闘争ドキュメンタリー上映会のお知らせ

2010年12月27日 20時08分30秒 | 映画・文化批評
※ネットで偶然見つけた上映会の案内です。「あいりん地区(釜ヶ崎)での開催」という所に惹かれました。私が観るとすれば年内最後の休日となる29日しかありませんが、年末は何かと忙しいので、果たして観に行けるかどうかは分かりません。でも、映画鑑賞するだけでも、野宿者支援につながるなら幸甚です。一応メモ代わりに、こちらにも掲示しておく事にします。
 「ダンボールハウスで仲間と天体観測なんてオシャレ♪」と言っていた人も、是非ダンボールごと上映会に来れば良いのに。派遣村やネットカフェ難民の例からも分かるように、野宿者問題は決して他人事ではないのだから。

◆◆◆◆◆ 以下転送、転載、大歓迎です。◆◆◆◆◆

2010年 第41回釜ヶ崎越冬闘争 ドキュメンタリー上映会
「釜ヶ崎から―沖縄・朝鮮・在日―を考える!」

<上映スケジュール> ※全作品無料上映!

■12月28日(火) 三角公園にて
19:00 風ッ喰らい時逆しま ※野外上映!

■12月29日(水) ふるさとの家にて
10:00 朝鮮の子 
10:50 イルム 朴秋子さんの本名宣言 
―休憩―
15:00 熱い長い青春 ある沖縄の証言から 
15:40 一幕一場・沖縄人類館
18:20 送還日記 

■12月30日(木) ふるさとの家にて
10:00 イルム 朴秋子さんの本名宣言
11:00 花であること
―休憩―
14:30 朝鮮の子
15:30 送還日記

■12月31日(金) ふるさとの家にて
11:00 花であること 
13:00 恨を解いて、浄土を生きる
 
■1月3日(月) ふるさとの家にて
13:30 恨を解いて、浄土を生きる
15:30 熱い長い青春 ある沖縄の証言から
16:05 一幕一場・沖縄人類館 
<※上映終了後関西沖縄文庫・金城馨さんにお話を聞きます>

なお、三角公園では18:40よりがじまるの会による空手、島唄、エイサーが行われます。


注:上記地図の「+」地点が三角公園(萩之茶屋南公園)

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■「差別され抑圧された沖縄人、被差別民、在日韓国・朝鮮人、障がい者。抑圧と差別を受けてきた歴史を引き継いできた、我々子孫というのは先人から受け継いだ抵抗の遺伝子が進化する。だから沖縄を苛めて苛めて、なお苛めるというのだったら、私が死んだ後も子や孫たちが抵抗してゆく魂を進化させるのだ…」
※沖縄在住の彫刻家、金城実(映画「恨ハンを解いて、浄土を生きる」より)

■釜ヶ崎の労働者のみなさん。そして、釜ヶ崎越冬闘争を支援するすべてのみなさん。今年も残りわずかになり、越冬闘争の季節がやって来ました。今年は、沖縄米軍基地をめぐる与党民主党の迷走に始まり、尖閣諸島(釣魚島)などをめぐる領土問題、延坪島での軍事的衝突による北朝鮮脅威論の広まり、それらは誤った歴史修正主義と排外主義とをまねき、ついに朝鮮学校の生徒たちだけを高校無償化から排除するという深刻な差別にいたりました。また沖縄では、ヤマトによる差別と米軍基地の押しつけに対する怒りの声が、踏みにじられ続けています。テレビや新聞、インターネットなどで大量に流される情報は、それを見る者の批判的精神を完全に麻痺させ、憎悪と敵意を煽りながら、アジアを忘却した日本中心主義の溢れ出る「日本人」の物語づくりに終始しています。そのような状況に抗するために、私たちNDS=中崎町ドキュメンタリースペースは、夏祭りでの「彷徨する魂を追う!」に続いて、「沖縄、朝鮮、そして在日」をテーマにしたドキュメンタリー映画上映会を釜ヶ崎越冬闘争の現場で行うことにしました。

■日本の学校教育やマスメディアは、沖縄戦の記憶をアジア諸民族の苦難の歴史につながるものとしてではなく、日本本土を守るための壮絶な闘い、崇高な犠牲という「神話」に仕立て上げました。ウチナンチュの記憶は、戦乱や緊張にうずまくアジアの人々の歴史体験に連なるものではなく、忘却と隠蔽を余儀なくされてきました。また、済州島において、沖縄戦の渦中、「第二の沖縄」として本土防衛に備え、全島要塞化を行うために、約7万人の日本軍とそれに加え済州島の住民が動員されたという事実、さらに解放後の米軍制下で4・3事件が引き起こされたという悲劇の歴史はほとんど知られることがありません。(4・3事件とは1948年4月3日、米軍制下において南北分断につながる単独選挙に反対して済州島で起こった民衆蜂起。約3万人の人々が犠牲になった。)

■日本の米軍基地の75%が、本土のわずか0.6%の沖縄に集中している事実や、本土の二倍ともいわれる失業率はどうして生み出されるのでしょうか。沖縄の米軍基地は韓国の米軍基地、平沢(ピョンテク)、群山(クンサン)、そして済州島に建設されようとしている韓国海軍基地にも直結し、北朝鮮、中国、中近東やその他の紛争地域と分かち難く結びついています。米軍基地は、中国や北朝鮮を威嚇して東アジアの無用な緊張を招き、米軍用機が、韓国の群山(クンサン)直島(チョクド)の爆撃場などで訓練し、イラクやアフガニスタンへと民衆を虐殺するために出撃していくのです。(イラク戦争の死者は10万9千人を数え、うち6万6千人は民間人=ウィキリークスが大量の資料を公表)

■朝鮮学校の無償化問題においても、朝鮮と日本の関係史、在日朝鮮人の歴史を忘却し、阪神教育事件の再来のように在日朝鮮人の民族的アイデンティティーを育む民族教育を弾圧しようとしています。ふたつの祖国に分断され引き裂かれた在日の一方の立ち位置を断ち切れと強要することは、引き裂かれた在日の実存そのものが断ち切られることを意味するのです。日本軍「慰安婦」問題に象徴されるように、韓国強制併合から100年が経過した現在もかつての日本帝国主義が残した植民地被害の傷跡は癒されることなく、歴史の闇へと忘却、隠蔽されていくのでしょうか。

■今、戦前、戦後を貫く東アジアにおける国家権力による過酷な暴力に晒された民衆の記憶をひとつひとつ紡ぎ、そして現在的な問題意識へと切り結んでいく歴史的な視点が必要とされているのではないでしょうか。今回、多くのみなさんのご協力により、そのためにふさわしい8本のドキュメンタリー作品が無償で提供され、ここ釜ヶ崎の「ふるさとの家」で上映できることになりました。沖縄、朝鮮、在日そして釜ヶ崎のことを、ドキュメンタリーを観ながら、断絶されたそれぞれの歴史を現在につながる記憶を継承する民衆の歴史として、世代を超えて、ここ釜ヶ崎から、語り合いたいと思います。

2010年暮 41回目の釜ヶ崎越冬闘争にて   
NDS=中崎町ドキュメンタリースペース


<作品紹介>

『風ッ喰らい時逆しま』(監督布川徹郎/1979年/88分/カラー)
伝説の芝居集団『曲馬館』が山谷、釜ヶ崎、コザ、網走を駆け抜け国家の方位磁針を乱すかのように日本の均質化した風景をよじれさせる。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/planet1/nunokawa/nunokawa.html

『朝鮮の子』(製作:朝鮮の子制作委員会、在日朝鮮映画人集団、提供:総聯映画製作所/1955年/32分/モノクロ)
「僕たちはお父さんやお母さんのおかげで、僕たちの国の言葉や地理、歴史を習っています。立派な朝鮮人になるためです。」この映画は当時の生徒の作文をもとに作られた。

『イルム 朴秋子さんの本名宣言』(監督滝沢林三/1983年/50分/カラー)
在日朝鮮人二世の朴秋子さんは本名宣言を行ったが就職差別にあう。民族意識の自覚を内面から描く。
http://www.yidff.jp/2005/cat085/05c098.html

『熱い長い青春 ある沖縄の証言から』(ディレクター森口豁/1972年テレビ作品/30分)
日本「復帰」三ヶ月後の沖縄。復帰して変わったのは物価高と観光客の増加、変わらなかったのは膨大なアメリカ軍の基地。復帰を切に願っていた主人公内間安男の心の変化を追う。
http://www.cyber-rabbit.com/katsu/

『一幕一場・沖縄人類館』(ディレクター森口豁/1978年テレビ作品/25分/カラー)
 沖縄の劇団「創造」が演じる「人類館」1903年大阪内国勧業博覧会で二人の「沖縄人」が見世物として陳列された。
http://www.cyber-rabbit.com/katsu/

『送還日記』(監督金東元/2003年/カラー)
 南北分断を経て1992年刑務所から出てきた老人―彼らは北のスパイだった。監督は彼らを北に送還させる運動に参加しつつ、最長で45年にわたり服役した彼らを人間味ある日常生活から描きだす。
http://cine.co.jp/soukan/index.html

『1985年・花であること 聞き取り華僑2世徐翠珍的在日』(監督金成日/2010年/75分/カラー)
徐翠珍(じょすいちん)さんは在日華僑2世。この日本社会を多民族共生の架け橋にしたいと願う徐さんの半生を記す。
http://www.geocities.jp/hanran9/hanade.htm

『恨を解いて、浄土を生きる』(監督西山正啓/2010年/85分/カラー)
「ゆんたんざ未来世」シリーズ第三弾は辺野古現地から始まり、チビチリガマ、恨(ハン)之碑、アメリカ本国でホームレスだったというメキシコ系米海兵隊員と彫刻家・金城実との交流、総理官邸前の抗議行動、県民総決起大会、6月23日沖縄慰霊の日に来沖した菅直人首相に抗議する人々、ラストは沖縄戦で亡くなった民間人の骨塚でもある「魂魄の塔」。
http://www.shiminren.org/iwakuni/nisiyama-profile.html
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映画「クロシッング」普及の訴え

2010年05月16日 19時37分15秒 | 映画・文化批評
 映画「クロッシング」の上映に尽力されたアジア映画社の朴社長からのメールが、私の所にも転送されてきました。「転送、紹介してほしい」とのことですので、こちらにも、そのメールを転載させて貰います。但し、原文のメールは頻繁に改行が施されていましたので、スペースの関係もあり、私の方で適宜圧縮させて貰いました。本文については一切編集していません。以上、念のため。

---------------------------<転載開始>---------------------------
 東京渋谷ユーロスペースも銀座シネパトスも大阪心斎橋シネマートも大盛況です。劇場記録更新状況等にご関心のある方は配給担当の太秦の小林なり岩淵ににお問い合わせ頂ければ有難く思います。
 先にお伝え致しました通り、皆様がたのご協力のおかげでクロシッングはミニシアターとしては近年数少ない記録的ヒットとなりつつありますが…私が心から尊敬する大阪の方はミニシアターの大ヒットでは無く、通常興行の大ヒット「百万人を動員しましょう!」と一ヶ月半位?前におっしゃって下さいました。
 私は最初、このオッサン(失礼)本気か?と半分呆れて、冗談か「檄」!か?と受け止めてましたが…5月15日、現在、大阪心斎橋シネマートが劇場動員記録を更新し続けるにつけ、皆様はお笑いになるかもしれませんが、今、私は百万人動員を真剣に考えてます。
 今日、現在、まだ、二万人弱(少なく感じて以外に思う方もいらっしゃるでしょうが、4月17日、渋谷ユーロスペース、ミニシアター1館公開から開始して5月1日、東京、名古屋、大阪、四館公開・以後、他地域拡大中・となり、現在、約二万人と言うのは凄い数字なのです。
 因みにシネマスコーレが最小席数で50席、最多席数の銀座シネパトスが170?席数のはず)ですから目標からはほど遠く、かなり距離があるように思えます。しかし、私は実現可能だと思ってます。

 檄

 皆様方へ!

 北朝鮮に生きる人々は今、人類最後(?)の真の革命が北の地に起こる事を切実に願い求めています。
 北、同民族大量虐殺政権の存在は今を生きる人類と地球に住む全ての生き物の恥であり、なんとかして、我々が目の黒いうちに、解決しなければなりません!
 かって、様々な矛盾、不条理に戦ったはずの内外のいわゆる「左翼進歩派」の人々は、クロシッングを見て、それぞれが北に住む人々に対し、同じ人間としての思いを心に寄せ、六二年!にわたる金一族支配下の奴隷状況から「解放してくれ!」「助けてくれ!」「水をくれ!」と救いを求める彼らの声を真摯に受け止めていいただけないでしょうか?
 幸い「左翼進歩派」の中からもクロシッングを見て心に灯がつき、北政権に対し憤りを感じ、声をあげ始めた尊敬すべき方々が少なからずいらっしゃいます。
 そして、かって、一時的とは言え革命、変革を目指し、それぞれの持ち場で身体を張って戦った新(真?)左翼だった人々は…かっての戦いのなかで自分たちが唄った歌を思い出していただきたい。

 「起て餓たる者よ、今ぞ日は近し。
 醒めよ我が同胞、暁はきぬ。
 暴虐の鎖断つ日、旗は血に燃えて。
 海を隔てつ、我らかいな結びゆく。
 いざ戦わん、いざ、奮い立て、いざ、………」

 革命幻想に燃え「暴虐」と戦った事のある世界中の人々よ!
 「豊かさ」の中で飽食を貪ってきた今を生きる(私を含めた)人々よ!
 今、北の同胞は中世封建や帝国主義時代の植民地支配よりも酷い飢餓と蛮行、権力による暴虐に日常的に晒されている。
 北に暮らす人々は過去、中世の封建時代の歴史教科書にの中に存在するのではなく、今のこの瞬間にも我々と共に生きる同胞であり、兄弟、姉妹である事実を直視しすべきではないでしょうか。
 人類史上稀に見る同民族虐殺政権から人々の命を救い解放するため、まず、自分自身が、一人ひとりが劇場に足を運び、そして映画から受けた思い、実感をそばに居る方に伝えて頂けないでしょうか。
 ゼロから今までクロシッングを見た約二万人の人々と、これから見られる方々それぞれが、そば居る方に声をかけて下されば百万人達成は決して不可能な事ではありません!
 
 クロシッングを見た百万人の人々が
 人間に対する尊厳の重要さに気ずき、
 人の命に対する思いが高まり、
 人々の憤り、怒り、憤怒が
 北政権・朝鮮総連に向かう時、確実に
 キムジヨンイル一族の
 人々に対する暴虐の鎖は断ち切れ
 多くの人々が奴隷状況から解放される日が必ずらず来る!と
 私は確信してます
 映画を見に劇場に行く事で人類史上、最悪の暴虐政権から人々を解放出来る道に繋がるとは…
 クロシッングのチケットは単なる一枚の紙のチケットでなく、多くの人を救い、人々に平穏な暮らしをもたらす貴重な…命に繋がるの神(紙)のチケットと言えるのではないでしょうか。
 クロシッングに関わった関係者は命がけで全力を尽くしてます。
 皆様がたの貴重な時間とお力を賜りますよう改めてお願いします。
 
 5月15日
 「クロシッングパートナーズ」
 代表
 パクビョンヤン
---------------------------<転載終了>---------------------------

 という事で、私の元にも、映画チケットの団体割引券(1200円)が1枚送られてきています。当日券は1枚1800円なので、非常にお得です。ただ、唯一当てにしていた近所の知人も、「映画見に行く暇が無い」という返事だったので、チケットがそのまま売れ残っています。

 職場のバイト仲間にも一応声を掛けてみますが、こちらも残念ながら望み薄です。交代制の勤務シフトでみんな休みがバラバラだし、所詮は「飯の種」の職場なので、プライベートでも一緒に行動する事は殆どありません。あっても、せいぜい競馬の馬券を一緒に買いに行くか、たまに飲みに行く位が関の山です。しかも「政治的な事には関わりたくない」という雰囲気も非常に強い。

 そういう事なので、チケットが売れ残っています。欲しい方は、住所・氏名を明記の上で、このブログからでも私宛にメールを送っていただければ、チケットを郵送させて貰います。代金については、チケットの1200円分のみを、同封の私名義の銀行口座宛に送金いただければ結構です。以上、宜しくお願い申し上げます。

(参考)
・拙稿記事「クロッシングの絶望と希望」
 http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/e/3592751ce14fdec3381ba1ffdcdb305d
・映画「クロッシング」公式サイト
 http://www.crossing-movie.jp/
・「アジア・プレス」公式サイト
 「北朝鮮難民」(講談社現代新書)著者の石丸次郎さんが主宰されているフリー・ジャーナリストの集まり。当映画の上映運動にもご尽力戴いています。
 http://www.asiapress.org/
・インターナショナル(YouTube)

 上記が、その「起て餓たる者よ、今ぞ日は近し」で始まるインター・ナショナルの曲。ソウル・フラワー・ユニオンが、2001年に、神戸の震災復興住宅の前で開いたミニ・コンサートで歌ったものらしい。

 但し、自分で紹介しておきながら、こんな事を言うのも何ですが、上記メール文中の、下記の箇所については、「私は同意しかねる」という事も、敢えて書いておきます。

>革命幻想に燃え「暴虐」と戦った事のある世界中の人々よ!
>「豊かさ」の中で飽食を貪ってきた今を生きる(私を含めた)人々よ!

 確かに、今の日本や米国の貧困・格差問題も、北朝鮮国内の人権侵害と比べれば、「量的」にはまだマシかも知れません。しかし、その人権侵害という「本質」においては、両者とも何ら変わらないと、私は思います。
 それを「革命幻想」とか「飽食を貪ってきた」の一語で切って捨てるのは、如何なものか。それで実際に家を失い、ネットカフェ難民やホームレスになる人も大勢いるというのに。これでは、北朝鮮問題を切り捨ててきた「左翼人権派」の、単なる裏返しでしかないではないか。
 「何を瑣末な事を」と思う方もおられるかも知れませんが、私は、これは決して「どうでも良い事」だとは思いません。派遣村の惨状を憂えるからこそ、北朝鮮の人権侵害にも心を痛められるのが(勿論その逆も然りですが)、イデオロギー云々以前に、人間としての本来在るべき姿ではないでしょうか。

 その上で、「北朝鮮における人権侵害は絶対に許されない」という点では、私も全く同じ思いですので、このメールを紹介させて貰いました。
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クロッシングの絶望と希望

2010年05月10日 00時08分58秒 | 映画・文化批評
  

 以前取り上げた2つの映画、「アバター」と「クロッシング」について、前者に続いて後者も、本日(もう翌日になってしまいましたが)観てきました。本当はGW最終日の5日に観るつもりが、当日はずっと先まで満席だったので、その日は映画のパンフレットだけ先に買い、改めて本日観てきたのです。

 元サッカー選手の炭鉱夫ヨンスは、妻ヨンハ、一人息子ジュニ、飼い犬ペッグと共に、北朝鮮の中朝国境近くの炭鉱町で暮らしていた。ヨンハが結核にかかり、ヨンスは薬を求めて中国に脱北。密かに木材伐採現場で働くも、中国の脱北者狩りに危うく捕まりかける。しかし、やがて教会関係者の手引きによって、瀋陽のドイツ領事館への駆け込みに成功し、韓国に脱出。脱出後は、妻の薬を手に入れようと必死で働く。
 しかし、その甲斐も無く、ヨンハはとうとう結核で亡くなってしまう。一人残されたジュニが、父の後を追って中国に脱北しようとするも、こちらは発覚して労働鍛錬隊に収容されてしまう。収容所内で近所の幼馴染の女の子ミソンと再会するも、彼女も栄養失調で亡くなってしまう。
 ようやく父の援助とNGO・ブローカーの尽力で、収容所から抜け出せ、中国からモンゴルへの脱北に成功するも、モンゴルの砂漠で遭難死してしまい、寸での所まで来ながら、父との再会は適えられないまま終わってしまった・・・。
 
 以上がこの韓国映画の大まかなあらすじです。映画そのものはフィクションですが、あくまでも脱北者の実話が基になっています。ロケも韓国・中国・モンゴルで行われ、韓国とも異なる北朝鮮の風景や暮らしを演出するのに苦労したそうです。テーマがテーマだけに、必ずしも協力的とは言えない中国国内でのゲリラ的なロケや、モンゴルの砂漠での過酷な環境下でのロケの末に、この作品が生まれました。
 そうでありながら、ことさら反北朝鮮を叫ぶのではなく、ひたすら北朝鮮庶民の生き様を、ソナギ(俄か雨)や夜空の満天の星を背景に、淡々と描いています。だからこそ、単なるプロパガンダ映画以上に、心に迫って来るものがありました。

 特に前半の、脱北を決意するまでの前段の部分で、なけなしのテレビを売っても食糧が思うように確保出来ない中で、息子や結核を患う妻に栄養のある肉を食べさせようと、ヨンスがとうとう愛犬ペッグを殺してしまい、ジュニがそれを察知して泣き叫ぶ場面などは、正直言って、いたたまれませんでした。
 また、最後に、ヨンスがとうとうジュニと生きて再会出来ず、モンゴルの国際空港で、ジュニの遺体に泣きすがりつく場面も。その前に、砂漠横断中の自動車が遥か先を偶然横切り、ジュニが必死に助けを呼ぶ場面があっただけに、いたたまれなかった。ちょうどその時、「アボジ(お父さん)」というジュニの微かな声とともに、嘆きのソナギ(俄か雨)が、空港にザッと降り注いできた。これと、前半の愛犬が殺されてジュニが泣き叫ぶ場面では、この際正直に言いますが、私も少しホロリと来てしまいました。

 実を言いますと、この映画についても観る前は、高評価との前評判も一定聞いていたものの、やはり「北朝鮮」モノに対する一種の警戒感が、私にはありました。
 「イラクでテロの犠牲になった日本大使館員2名の死を貶めるな」と言っておきながら、高遠菜穂子さんには聞くに堪えない罵倒を平気で浴びせる。北朝鮮・拉致問題での人権侵害を訴えながら、派遣切りや沖縄・イラクでの人権侵害には、セカンドレイプ紛いの態度で接する。「民族差別には組しない」と言いながら、露骨に外国人排斥を煽るネオナチとも平気で親交を交わす。
 それを読売・産経やネトウヨまがいのメディアが、自民党や極右政治家の宣伝材料にとことん利用しながら、ミサイルや「喜び組」の事を面白おかしく囃し立てるだけで、肝心の北朝鮮人権問題への連帯を広げようとは全然しない。
 当初は北朝鮮の拉致や人権侵害に対する怒りや被害者家族への共感から出発した運動なのに、拉致家族「支援者」のそんな「逆ダブスタ」ぶりが次第に鼻に付くようになるにつれて、私は次第にそれらとは距離を置くようになっていました。

 だから、当初は、この映画のパンフに載っていた北朝鮮炭鉱夫の退勤風景の写真についても、映画を観る前は、「自分たち派遣・請負労働者の通勤バス待ちの光景とそっくりじゃないか」と、職場の同僚にパンフを見せて言い合っていました。確かに、その指摘も全く的外れとは思わない。
 しかし、これを食うや食わずのホームレスやネットカフェ難民が言うならまだしも、如何に貧しいと言えども、少なくとも私については、そこまでは追い詰められてはいない。であれば、「自分たちも同じじゃないか」と恨む前に、自分にも出来る事をもっとすべきではないか。それこそが、本当の意味での「自分たちと同じ」(人民の国際連帯)と思う心ではないか。

 但し、これは何も「自民党や右翼に同調しなければならない」という事では決してありません。極端な話、北朝鮮への経済制裁や日米軍事同盟、イラク戦争には反対し、日朝・日中友好を推進しながらでも、脱北者については人道的処遇を要求する、中国に難民条約の履行を迫り、脱北者狩りを止めさせるように圧力をかけるぐらいは、出来るのではないでしょうか。現に、米国・EU・タイ・レバノンなどの諸国が一定そうしているように。
 鳩山政権も「命を守りたい」というのなら、それぐらいはすべきではないか。それこそが、左派の「ダブルスタンダード(ダブスタ、二枚舌)」でも、それと合わせ鏡の前述の右派の「逆ダブルスタンダード」でもない、真の人権外交の立場であり、日本国憲法や世界人権宣言の理想とするところではないでしょうか。そう思いました。

 記事のタイトルを「絶望と希望」としたのも、決してヨンハやジュニの死(絶望)だけで終わらせてはいけない、との思いからです。映画でも、絶望だけが描かれている訳ではありません。ヨンスの脱北自体が既に一つの希望であり、最後の空港場面でのジェニの魂が宿ったソナギ(俄か雨)も、それを表現したものであると言えます。
 上映会場で販売されていた、北朝鮮人自身による内部からの通信「リムジンガン」も、それを体現したものであると言えるでしょう。この様にして、北朝鮮人自身による内部告発から市民メディア形成に至る道が、想像を絶する困難の中から、現実に生まれてきました。その上で、敢えて無理を承知で更に言うならば、もう少しとっつきやすい価格・装丁・内容であれば、もっと広がるのにと思うのですが。如何に「自分は北朝鮮人民よりは恵まれている」と言えども、今の形では、ワーキングプアにとっては、定期購読はちょっと難しいというのが、正直な感想です。
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スポーツ選手を国籍で差別するな

2010年03月15日 19時04分33秒 | 映画・文化批評
朝青龍、引退会見で涙


 昨今は、この前のバンクーバー五輪だけでなく、トヨタのリコールや捕鯨規制の問題でも、やたら外圧を強調して、国家意識を煽るような報道が目に付きます。
 この土曜日の夕方も、整体治療の待ち時間に聴いていたラジオのDJ番組(注1)で、デーモン小暮が、朝青龍引退の件に託けて、「横綱には国技たる大相撲の最高位に相応しい品格が求められる、今後は横綱には日本国籍保持者しか昇進できないようにすべし」という趣旨の発言をしていました。
 私、それを聴いて、一瞬「あれっ?」と思いました。そんな事を言い出したら、逆に、メジャーに移籍したイチロー・松井・新庄といった日本人メジャーリーガーも、米国籍を取得しなければならなくなってしまうのでは。メジャーなんて、米国の国技みたいなものなのでしょうから。

 私は、野球や相撲については余り興味がないので、以前嗜んでいた競馬にたとえてみます。例えばGIレースの天皇賞で考えてみましょう。
 競馬は、それ自体は欧米から入ってきたスポーツ・ギャンブルであるものの、国内で広まる中で、軍馬育成と密接に結びつくようになりました。つまり、軍国主義とも全く無縁ではなかったのです。特に天皇賞なんて、戦前は「帝室御賞典競争」という名称で呼ばれ、天覧試合として行われていたレースです。そういう意味では、天皇賞は、謂わば日本の国技に相当すると言えるでしょう(注2)。
 しかし、だからと言って、レースには日本人しか出走できないなんて言い出したら、外国人騎手のぺリエやデムーロは一体どうなります?ぺリエなんて、日本語こそ殆ど喋れないものの、日本国内競馬場各コースの良し悪しについては、下手な日本人騎手以上に熟知しているのですが。

 斯様に、今や野球・サッカー・相撲などのプロスポーツや、競馬などのキャンブルにおいても、国際化の流れの中で、外国人プレーヤーにも門戸を開くようになりました。相撲力士についても、外国出身者の進出には目を見張るものがあります。これだけ国際化が進展している中で、今さら国籍ばかりに殊更拘った所で、果たしてどれだけの意味があるのでしょうか。
 勿論、それは手放しで賞賛されるべき事だけではありません。国際化に伴う負の側面としては、アディダスやミズノなどのスポンサー資本によるスポーツ界支配や商業主義の弊害があります。しかし、それを是正するのも国籍やナショナリズムなぞではなく、あくまでも市民の良識です。

 デーモン小暮は、自分のブログでも、今回の件について以下の様に書いています。

>朝青龍は、スポーツ選手・力士としては類まれな身体能力と気力・集中力・闘争心を兼ね備え「超優秀」であった。しかし一方で、「横綱」とは単なる最強者ではなく「日本人の心の奥底にある美徳」を具現化し全力士の模範であることが求められる存在、であるということを最後まで完全には理解できなかったのではないかと感じざるを得ない。(Feb.05.DC12:朝青龍引退。)
 http://demon-kakka.laff.jp/blog/2010/02/feb05dc12-00fb.html

 しかし、そもそも「土俵の上で勝負が終わった後に相手にきちっと礼をする」なんて事は、「日本人の心の奥底にある美徳」云々以前に、「市民道徳としての常識」ではないか。日本人だの米国人だの中国人だのいう以前に、一人の人間として求められるべき事ではないのか。
 それが、デーモンみたいに、それをまるで「日本人特有の美徳」であるかのように捉えてしまうと、逆に「外国人は野蛮で結構」となってしまうのではないでしょうか。

 デーモンは、知る人ぞ知る相撲ファンなんだとか。少なくとも、私なんかよりも遥かに相撲の事をよく知っている筈。朝青龍についても、彼が決して単なる無頼漢なぞではなく、それどころか母国モンゴルでは事業家として大成した人物である事や、話題になった「療養中のサッカー試合」も、母国でのストリートチルドレン救援チャリティーの一環として参加したのであり、誉められこそすれ貶される理由なぞ何も無い事も、当然知っている筈です。ならば、朝青龍に対しても、素人衆と一緒になってのバッシングではなく、もっと適切な助言があって然るべきと思うのですが。

(注1)後で調べたら、MBSラジオの関西限定番組「INO-KONボンバイエ」でした。
(注2)天皇賞レースの詳細については、JRA公式サイトを参照の事。このレースも、外国馬の参戦実績こそないものの、今やれっきとした国際競争の一つとなっています。
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アバター:真の連帯とは

2010年02月24日 23時35分05秒 | 映画・文化批評
映画「アバター」予告編


 この前、話題の映画「アバター」を観てきました。
 この「アバター」ですが、実は当初はそんなにも評価していませんでした。映画ポスターや予告編映像からの印象で、「何だかんだ言っても所詮は戦争映画だろう」と思い込んでいました。保守派からの「反戦偏向映画」との批判についても、「自民党・右翼による朝日新聞・日教組・民主党叩き」と同じで、とっくに体制の補完物と化したものをことさら叩く事で、更に右傾化を煽る魂胆だろうと思っていました。あくまでも、そういう観点から保守派の動きを警戒していました。その一方で、「アバター」なんて観る位なら、同じ日に大阪で上映された「アメリカ帰還兵・イラクに誓う」を観る方が、よっぽどマシだと思っていました。
 しかし、ブログ読者からのアドバイスもあったので、「アバター」を観る事にしたのです。そして実際、この映画は、私が当初思っていたよりも遥かに奥の深いものでした。

 映画の舞台は未知の衛星パンドラ。そこに眠るアンオブタニウムという鉱物を巡り、パンドラの先住民宇宙人ナヴィと地球人との間で対立が生じていた。パンドラでは、そのままの姿では地球人は生きていけないので、遺伝子操作で造られたアバターという化身を使い、人間兵士の代わりにナヴィ社会でのスパイ活動に従事させていた。
 アバターは、「身体はナヴィで中身は地球人」の謂わば工作員だが、あくまで操作するのは元の身体の地球人兵士であり、独自の人格は持たない。その目的は、あくまでもナヴィの「手なずけ」と情報収集、交渉決裂後の破壊工作に限られていた。
 他方でナヴィは、姿形こそ人間とよく似ているものの、身長3メートルの巨体に尻尾や後頭部の巻き毛を持ち、独自の言語・文化を営み、動物との交信術や生体エネルギー(エイワ)の獲得術に秀でていた。(詳細はウィキペディアの解説を参照の事)

 そんな舞台設定の中で、私が最も魅かれたのが、地球人傭兵たちのナヴィとの関わり方です。この映画の主人公である傭兵のジェイクは、海兵隊時代に負傷した足の治療費稼ぎの為に、アバターとしてパンドラに潜入します。しかし、次第にナヴィの価値観や文化の高さに触れる中で、やがてパンドラ侵略の戦争目的自体に疑問を抱くようになり、最後にはナヴィに加勢して地球の侵略と戦うようになります。
 その一方で、地球人傭兵の現場司令官であるクオリッチ大佐にとっては、アバターも所詮はナヴィを手なずける為の手段にしか過ぎませんでした。最初は、ナヴィをアンオブタニウム鉱山地帯から追っ払う為の立ち退き交渉の道具としてアバターを使い、交渉が効かないとなるや、一挙にナヴィ殲滅に向かおうとしました。

 その中で取り分け私の気を惹いたのが、オーガスティン博士の変化です。この女性植物学者は、アバターの生みの親ともいうべき人です。最初は、あくまでもパンドラの生態系に対する学者としての知的好奇心から、クオリッチ大佐のナヴィ殲滅作戦に異議を唱えていました。しかし、ジェイクと同様に、次第にナヴィに理解を示すようになり、最後には同僚を引き連れて、ジェイクと共に、クオリッチ大佐率いる地球侵略軍と戦うようになるのですが、残念ながらクオリッチに殺されてしまいます。
 彼女は、当初は「自分の研究対象を守る」という、あくまでも功利的な立場から、侵略を阻止しようとしました。つまり、アバターをナヴィ宣撫工作の道具としか看做していなかったクオリッチ大佐の立場とも、この時点ではまだ「どっこいどっこい」だった訳です。しかし彼女は、それに止まらず、最後にはジェイクと同じ侵略阻止の立場に立つに至りました。

 ここにこそ、この映画の主題が込められているように思うのです。この映画が問うていたのは、「真の連帯とは何か」というテーマだったのではないでしょうか。「資源獲得」や「研究対象の保護」といった功利目的ではなく、「相手の人格・文化を認め合う事でしか、真の平等も共存も在り得ない」という事を、言いたかったのではないでしょうか。
 日本とアジア諸国との友好についても、同じ事が言えるのではないでしょうか。単に「貿易相手国だから」といった発想だけでは、真の平等・共存にはなりません。また「日本の国益や国威発揚に繋がる」といった自国本位の発想でもダメです。その友好が、単に相手国政府への飴玉に堕するものであってはならないのです。当該国の国民の幸福や、人権状況の改善、真の経済自立に結びつくものであるか否かが、最重要なのです。
 これは、例えばハイチ震災救援PKOへの自衛隊派遣を巡る議論でも、同じ事が言えるのではないでしょうか。一番肝心なハイチの復興を脇において、単に「どこそこの国に先を越されてはいけない」なぞという自国本位の発想では、クオリッチ大佐や最初の頃のオーガスティン博士と同じで、相手国国民の心に響くものには到底ならないでしょう。
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アバターとクロッシング

2010年02月15日 23時02分30秒 | 映画・文化批評
 今回は標記の2つの映画を取り上げます。とは言っても、どちらもまだ観ていないので、現時点でとりあえず自分の思う所を、簡単に書くだけに止めておきます。

映画「アバター」予告編


 今人気の米国映画「アバター」。何でも3Dの技法を駆使したバーチャル・リアリティが売りだとか。映画のあらすじは比較的単純で、未来の地球がいよいよ宇宙軍拡に乗り出し、パンドラという衛星の鉱物資源を狙って、そこのナヴィという宇宙人と戦争になる。その地球人兵士の化身がアバターで、ナヴィに成りすまし当地で破壊工作を行う任務を帯びる。ところがそのアバターがナヴィに次第に同情的になり、最後には共に地球の侵略者と戦う・・・というもの。
 その地球侵略者の台詞がイラク戦争を煽ったブッシュと瓜二つという事で、米国保守派のネオコンが当該映画を「反軍・反戦気分を煽る反米作品」と決め付けられているのだそうな。少し前の映画「靖国」騒動と同じ事を、また繰り返すのかと思うと、もううんざりする。
 そもそも「反米作品」の何が悪いのか。そんな事を言い出せば、「プラトーン」も「地獄の黙示録」も観れなくなってしまう。逆に「ランボー」はどうなるのか。あれこそレーガン軍拡賛美映画ではないか。要は、反米だろうが親米だろうが、芸術性の有無が一番肝心だろう。作品に芸術性があれば感動を呼ぶし、なければ只のプロパガンダとして廃れるだけの事。それを、いつもいつも上から一方的に、やれ「あれはケシカラン」だの何だのと、いちいち言論統制するな。
 更に面白い事に、その「反米」映画が中国政府からも忌避されているのだと。資源争奪戦の描写が、アフリカに進出する中国の姿と二重写しになっているのだとか。米帝からも中国スターリン主義からも嫌われるとは、これ以上に公正・中立で理想的な「反戦」映画があるだろうか。

(参考記事)
・「アバターは反米・反軍映画」保守派いら立ち(読売新聞)
 http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100130-OYT1T00839.htm?from=top
・中国は「アバター」がお嫌い(産経イザ!)
 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/movie/347586/
・映画「アバター」公式サイト
 http://movies.foxjapan.com/avatar/

脱北者:『クロッシング』Crossing


 先の「アバター」は、もう劇場公開期間があと数日を残すのみという事で、観る機会を逃してしまったが、次の「クロッシング」は公開予定も未定だとか。中国を経て韓国に亡命してきた脱北者を描いた作品で、帰国事業を時代的背景とする「血と骨」や「パッチギ!」とはちょうど対照的。「アバター」とは違いまだまだ無名の映画だが、私個人としてはSFよりも寧ろこちらのノンフィクション映画の方に惹かれる。是非観てみたい。
 それにつけても、ネオナチ「在特会」や「維新政党・新風」などの街宣右翼、それと共同歩調を取る平沼・安倍などの極右政治家は、その表面上の「反北朝鮮」言動とは裏腹に、逆に金正日でもっているようなものだ。平沼赳夫の蓮舫「日本人でない」発言一つとってもそうだが、何故あそこまで国籍とか帰化とかに拘るのか。その様子は、民族だの国防だのに拘る金正日と、まるで合わせ鏡だ。
 人権は国境を越えた普遍的価値を持つものだ。本当に彼の人たちが北朝鮮難民救援の立場に立つならば、救援対象者が帰化しようがしまいが、それが在日コリアンであろうが帰化日本人であろうが、そんな事は関係ないだろう。
 日本国籍を取得した帰化日本人の中にも北朝鮮工作員はいるし、逆にかつての植民地宗主国・日本への帰属を断固拒否する在日コリアンの中にも、今の北朝鮮には反感を抱く人もいる。問題は、その当人が今どういう気持ちでいるのかが大切であって、国籍の有無なんて無関係な筈だろう。況してや朝鮮人排斥を叫ぶしか能のない街宣右翼に、北朝鮮人権問題を語る資格なぞ在ろう筈がない。

(参考記事)
・脱北者を描いた映画「クロッシング」ついに日本公開(守る会)
 http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=00174
・脱北者の現実を描いた映画『クロッシング』 女性脱北者が「空腹よりも親を亡くしたときがつらかった」と涙(シネマトゥデイ)
 http://www.cinematoday.jp/page/N0022048
・映画「クロッシング」公式サイト
 http://www.crossing-movie.jp/index.html
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「キャピタリズム~古き良き日本を懐かしむ~」であってはいけない

2009年12月19日 12時21分20秒 | 映画・文化批評
 マイケル・ムーア監督の最新作「キャピタリズム~マネーは踊る~」ですが、大阪では全国で一番早くに封切られたのですね。12月上旬の封切り直後に、私も見てきました。ブログにアップするのが今になってしまいましたが、今回はこの映画の話題を取り上げてみたいと思います。

 キャピタリズム(Capitalism)とは、言うまでもなく資本主義の事。米国では、99%の一般庶民は失業や自宅の差し押さえで四苦八苦し、工場閉鎖で町はゴーストタウンと化しているのに、残り1%の富豪は、失業招いた責任は何も取らず、高給ボーナスの上に公的資金までせしめてトンズラこいてる。その下で、ハドソン川に不時着して乗客の命を救い時の英雄となったパイロットですら、実際は年収たった200万円の低待遇で働かされている。低賃金と労組敵視で有名なウェルマートに至っては、従業員が死亡すれば会社にだけこそっと保険が降りる、その名も「くたばった農民保険」というものを一般従業員にかけている。その理不尽に怒ったムーアが、単身ウォール街に突撃取材を敢行し、逃げ回る経営者をビルごと「市民逮捕」する・・・というのが、この映画の醍醐味です。
 
『キャピタリズム~マネーは踊る~』 予告編


 ムーアの指摘は一々尤もで、私もこの映画に喝采を送っていた一人ですが、その場面の中で唯一気になったのが、ムーアが米国資本主義との対比の中で、西欧諸国の福祉制度や日本の終身雇用制を、手放しに礼賛しているかのような発言をしている場面です。確かに、公的医療保険も無い米国の惨状からすれば、今のヨーロッパや日本ですらマシに見えるのでしょうが。
 しかし、その日本に現に住んでいる私からすれば、年間3万人もの自殺者を抱え、後期高齢者医療制度で老人が差別され、生活保護の捕捉率も僅か1割台、残りの圧倒的多数は当然の生存権も行使出来ないで、怠け者と罵られながら「おにぎり食べたい」といって死んでいく人が後を絶たない、そんな現状の一体何処がマシなのか、と愚痴の一つも言いたくなる訳で。
 ヨーロッパの福祉制度にしても、かつての英国の「揺りかごから墓場まで」や今のフランス人のバカンスも、旧植民地や東欧からの移民に3K労働を押し付ける事で、初めて成立っていた訳でしょう。その挙句に、それを逆恨みしたネオナチが、使い捨てする資本家ではなく、使い捨てされる移民の方を攻撃する事で、資本主義の用心棒を買って出ているというのが、今の欧州の現状でしょうが(日本にもそんな手合いがゴロゴロいるが)。

マイケル・ムーア監督、米国にない日本の素晴らしさ語る


 何故ムーアがそう思ってしまったかについては、彼の出自が大きく影響しているでしょう。ムーアは、米国ミシガン州の、GM(ゼネラル・モータース)の企業城下町に生まれました。GM工員の家庭に育ち、父も含めたGMの正社員が次々に首を切られ、みるみるうちに自分の故郷が寂れていく中で、次第に米国社会の矛盾に目覚めていったのでしょう。銃社会の暗部を描いた「ボウリング・フォー・コロンバイン」や、対テロ戦争の欺瞞を告発した「華氏911」、万事カネ次第の米国医療を告発した「シッコ」などの作品に、彼の思いが凝縮されています。

 「キャピタリズム~マネーは踊る」でムーアが鋭く告発した資本主義・新自由主義の矛盾には、私も全面的に賛成するものですが、その行き着く先が「古き良き日本を懐かしむ」では、時代錯誤以外の何物でもないと思います。
 戦後の高度経済成長は、民主化(労働三権確立や農地改革)で相対的に豊かになった庶民に対して、対米従属を旨としながらも平和憲法に邪魔されて思うように出来なかった保守支配層が、手なずける飴として行った産業政策なのです。話を分かり易くする為に、敢えて単純化して説明すると。それが、折からの50年代米国の好景気や欧州の戦後復興という時の運に支えられて、70年代まで続きました。しかし、その米国も今や超大国としての力を失い、新自由主義の跋扈によって、欧州や日本の「中産階級」も、今や分解消滅に向かおうとしています。
 今までも、大都市と地方、中小企業と大企業、男性と女性、正社員とパート・アルバイトとの間には、経済格差が厳然としてありました。それが戦後高度成長の間は、大盤振る舞いの公共事業や、貧弱な社会保障を穴埋めする企業福祉や家庭福祉によって、見えなくさせられてきただけだったのです。それが高度成長の終焉で、それまで緩衝装置の役割を果たしてきた企業福祉や家庭福祉もなくなり、今やむき出しの資本主義が、庶民に襲いかかってきているのです。その時代に「古き良き日本に帰れ」なんて、国民新党や靖国右翼みたいな事を言っていても、何の処方箋にもなりません。

 終身雇用制の下で、今までは取りあえず食い扶持にはありつけたが、その代わりに、庶民は社畜(企業奴隷)としての生き方を余儀なくされて来ました。チッソの社員が水俣病の発生を長年に渡って隠蔽してきた構図なぞ、まさに社畜の典型ではないですか。そうして、今までは「どんな仕事でも在るだけマシ」と言って自分を宥めすかしてきたのが、いよいよその仕事もなくなり、今や正社員ではなくアルバイトの職を奪い合うような状況が広がってしまいました。
 この前のNHK番組「クローズアップ現代」で、「派遣切り」から抜け出せて中小企業正社員の職にありつけた幸運な例を紹介していました。その人は、中途採用の恩返しにと、毎朝最初に出勤して事務所の掃除をしていました。大の大人でありながら、僅か月十数万円の、バイトの私ともそう変わらない給与で。
 そんな惨めな姿を目の当たりにすると、そりゃあ非正規雇用よりは正規雇用のほうが良いに決まっていますが、こんな社畜人生に甘んじるくらいなら、そんな生き方には正社員よりも距離を置ける今の契約社員の身分のほうが、まだ何ぼかマシです。

 「では今の中国や北朝鮮の社会主義が良いのか?」と問われれば、それも御免蒙ります。あれは、共産党官僚が大富豪として、国民を社畜ならぬ国畜(国家奴隷)としてこき使っているだけだからです。しかし、だからと言って、「下見て暮らせ」何とやらで、「たとえ社畜でも仕事があるだけマシ」という事には、絶対になる訳が無い。私はどちらも御免蒙ります。
 ムーアの資本主義・新自由主義批判には全面的に賛同すれども、それが勢い余って、只の年寄りの懐古話に終わるだけでは何もならない。何もムーアはそこまで言っている訳ではないとは、私も思います。ムーアは、言葉には出しませんが、社会主義を全面肯定も全否定もせず、その理想の部分はきちんと受け継いでいます。徒に冷笑主義に走ってはいない。そして何よりも、米国の民主主義を信じています。米国も今はこんな国になってしまったけれど、希望もある。今までアメリカン・ドリームの幻想に絡めとられていた市民が、次第にそこから抜け出しつつある様を描いた部分では、今の日本の自公政権崩壊を生み出した底流とも、合い通じるものを感じました。

 そんなムーアの映画なのに、礼賛一辺倒ではなく敢えて辛口の批評をさせて貰ったのは、当の私自身が以前は社畜や国畜の論理に絡め取られていて、その欺瞞に気付かなければ、今頃は過労死していてこの世にはいなかったかも知れないからです。
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