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アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

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香港に再び栄光を!(願栄光帰香港)

2019年11月27日 15時45分04秒 | モリカケも忖度もない公平な社会を

香港に再び栄光を!(願栄光帰香港・日本語版)《Glory to Hong Kong》《香港に栄光あれ》【動画版】

★「香港に栄光あれ」★

なぜ 涙あふれ
なぜ 怒りが湧く
頭を上げて 叫べ
自由よ 戻れ
なぜ 恐れ消えぬ
なぜ 信じてやまぬ
なぜ 傷ついても進む
自由なる 香港
星の 見えぬ夜に
霧に 角笛が響く
自由のため 集え 戦え
勇気 叡智 永遠(とわ)に
夜明けだ 我らが香港
正義の革命をいま
民主と自由 永遠(とわ)にあれ
栄光あれ 香港

★「願栄光帰香港」★

何以 這土地 淚再流
何以 令眾人 亦憤恨
昂首願栄光帰香港
拒默沉 吶喊聲 響透
盼自由 歸於 這裡
何以 這恐懼 抹不走
何以 為信念 從沒退後
何解 血在流 但邁進聲 響透
建自由 光輝 香港
在 晚星 墜落 徬徨午夜
迷霧裡 最遠處
吹 來 號 角 聲
"捍自由 來齊集這裡 來全力抗
勇氣 智慧 也 永不滅"
黎明來到 要光復 這香港
同行兒女 為正義 時代革命
祈求 民主 與自由 萬世都
不朽
我願 榮光 歸香港

上記の「香港に再び栄光を!(願栄光帰香港)」という歌は、自由と民主主義を求めて決起した香港の人々が、闘いの中で歌い継ぐようになったものだ。その中国語の歌詞を、我がブログの古くからの読者でもある「まっぺん」さんという方が日本語に訳してくれた。私も聴いたが、何度聴いても魂が揺さぶられる。ここに紹介するので、まずは皆さんも是非、聴いてほしい。

香港の犯罪者(その中には政治犯も含まれる)を中国本土で裁けるようにする「逃亡犯条例」に対する反対運動に端を発した香港の民主化運動は、今や条例撤回を勝ち取っただけに留まらず、「五大要求」の実現を掲げて、新たな広がりを見せている。先の区議選でも民主派候補が8割以上もの議席を制する結果となった。

「五大要求」とは、①警察の暴力行為を調査する独立委員会の設置、②有権者が1人1票を投じる普通選挙の実現、③条例の完全(永久)撤回、④抗議者の逮捕取り下げ、⑤抗議を暴動とした認定の取り消し、の5つである。この要求案を見て、「今の日本と何とよく似ている事か?」と思わざるを得なかった。こんな事を言うと、「日本は民主主義の国であり、共産主義の中国とは違う」という意見が必ず出てくるが、私はそうは思わない。

確かに、日本は表向きは民主主義の国という事になっているが、実際はどうか?安保法制も、共謀罪法案も、秘密保護法も、ろくに審議もせずに国会で強行採決されてしまったではないか。森友・加計問題や今の「桜を見る会」私物化問題にしても、次から次へと新たな疑惑が浮かび上がってくるのに、政府・与党は証拠隠滅に走り、全く情報を開示しようとはしない。そして、マスコミに圧力をかけて、この問題を国民の目から逸らそうと躍起になっている。御用メディアやネトウヨ(ネット右翼)を使って国民を黙らせようとしている。

国政選挙も、与党や大政党に有利な小選挙区制の下で、投票率は年々下がり、遂には4割の投票率で、有権者比では3割前後しか得票できなくても6~7割も与党が議席をかすめ取ってしまうようになってしまった。その結果、「戦争発言」の丸山穂高のような問題のある人物でも、世襲や金の力で楽々当選できるようになってしまった。今の日本も、本質的には今の香港や中国と何ら変わらないではないか。

それどころか、香港の人々が自由と民主主義を求めて立ち上がっているのに引き換え、日本の国民は大多数が安倍政権に飼い慣らされ、自分や目先の損得勘定だけで、「長いものに巻かれろ」と安易に勝ち馬に乗っかったり、ダンマリを決め込んだりしてしまっている。そういう意味では、香港よりも日本の方が、むしろ数倍も重症だと言える。このままでは、下手すれば日本も、今の中国のウェイボーみたいに、時の政権が認めたインターネットやアプリしか使えなくなるかもしれない。

かつては日本にも、今の香港のような時代があった。1960年の安保闘争や、60年代から70年代にかけて、ベトナム反戦運動、沖縄返還闘争、学生運動、公害反対運動、ウーマンリブ、革新自治体の運動などが、堰を切ったように広がっていった時期があった。しかし、せっかくのその運動も、やがて社会が保守化するに従い、次第に小さくなっていってしまった。今や、香港のような運動が今も続いているのは、辺野古移設・米軍基地問題を抱える沖縄だけとなってしまった。

かつて「総中流社会」と呼ばれた日本も、今やすっかり「格差社会」に変貌してしまった。「ブラック企業」「ワーキングプア」「過労死」「孤独死」「下流老人」「ひきこもり」「8050問題」「毒親」などが流行語となり、本来ならどんな人間でもかけがえのない個人として尊重されなければならないのに、財産や地位の違いで上層と下層に分かれ、互いに「上級国民」「ド底辺」と罵り合う様になってしまった。これも今の中国、香港と、一体どこが違うのか?

上記の「願栄光帰香港」の「香港」を「日本」に置き換えれば、日本でもそのまま通用するようになってしまった。しかし、我々は下僕でもなければ社畜でもない。この歌はもはや香港の人々だけのものではない。我々、日本人も、「香港」を「日本」に置き換え、この歌のように、かつての貧しくとも希望に満ちた時代の息吹を、再び取り戻そうではないか!

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橋下と安倍の類似性

2019年11月20日 18時44分44秒 | 当ブログと私の生い立ち
 
 
なるほど安倍や親父のキャラはよく分かった。しかし、維新の橋下や松井、吉村も何故、安倍や親父と同じだと批判するのか?簡単に説明する。(今度は前回とは違い、すっきりまとめる事が出来た。我ながら分かりやすく説明できたと思うw)

橋下徹は、被差別に生まれたが、頑張って進学校から一流国立大学に進学し、弁護士になった。その努力は買う。しかし、弁護士といっても弱者の人権を守るのではなく、サラ金の顧問弁護士として、多重債務者を追い詰めるのを生業(なりわい)とするようになってしまった。「野望実現こそが政治家の仕事だ」と当時の自著の中でも書いている。そして松井一郎たちと一緒になって、大阪府知事や大阪市長に当選した。
 
橋下や松井、吉村など維新の会の政治家の主張は、公務員削減と民営化だ。安倍も同じ考え方に立っている。「規制緩和で企業活動の自由をもっと認めよ」という主張だ。この主張の事を「新自由主義」という。「新自由主義」と言うと、「国民の自由や人権をもっと拡充しよう」と、プラスイメージで捉える人がいるかも知れない。ところが実際は違う。新自由主義の推進する自由とは、あくまで「企業活動の自由」に過ぎない。「金儲けの自由」だけだ。言論の自由、組合結成の自由や、国民・労働者の権利なぞは、むしろ抑えようとする。安倍自民や橋下維新が、規制緩和を推進しながら、政治的には憲法改正、軍備拡充、国家主義に走るのはその為だ。

社会のIT化やグローバル化(経済の国際化)で、世界を股にかけた企業活動が広がるにつれ、企業は先進国の労働運動や、開発途上国の民族解放運動を、疎ましく思うようになる。そこで、TPPやFTAなどの貿易協定をテコに、各国の労働運動や環境保護運動を抑え込もうとする。例えば、ある国が狂牛病牛肉の輸入を規制しようとしたとする。今ではそれで各国の国民生活を守る事が出来るが、TPPやFTAに加盟、批准してしまったら、それに抵抗できなくなってしまう。TPPやFTAの基準は、あくまで企業活動の保護にあるからだ(詳しくはISD条項を参照)。狂牛病牛肉の輸入を規制しようとした国は、輸出国の国や企業から損害賠償を求められる事になる。おまけに、一旦基準が決められたら、それを見直す事も出来なくなってしまうのだ(同じくラチェット条項を参照)。

これでは国民生活は守れない。しかし、企業の金儲けしか眼中にない安倍や橋下は、日本の自動車産業が米国に自動車を輸出できるようになりさえすれば、それで良いと思っている。その代わりに、安かろう悪かろうで、狂牛病牛肉や遺伝子組み換え作物が輸入され、国内農業が壊滅し、食料自給率が低下しても構わないと思っている。国内の農地や山林が荒廃して、自然災害が多発するようになっても構わないと思っている。

今、日本で自然災害が多発しているだろう。それは地球温暖化による台風の巨大化だけが原因ではない。行き過ぎた市町村合併や公務員リストラで、地方の自治体が災害に対応できなくなってしまったからだ。地方に行けば、市町村の範囲が想像以上に広まってしまっているのが分かる。今や静岡市の範囲は南アルプスの麓まで広がってしまった。和歌山県田辺市の範囲も、山向こうの熊野本宮のあたりにまで広まってしまった。過疎化による人口減少で、そこまで市町村合併しなければ、自治体を維持できなくなってしまったからだ。

何でも公務員を減らせば良いと言うものではない。国会議員の数も何でも減らせば良いと言うものではない。余り減らしすぎると、災害に対応できなくなるし、国民の声も政治に反映されなくなってしまう。ところが、新自由主義者の考え方は、儲かれば良いと言うだけだ。民間で出来る事は民間で。公務員なんて、労働運動や住民運動を弾圧する為の警察と自衛隊さえあれば良い。企業活動の自由を邪魔する労働基準法も、出来れば無い方が良いと、ますます骨抜きに。福祉産業も金儲けの道具に。国民の生存権なぞ知ったこっちゃない。

だから維新は大阪市を解体して、大阪市の財源は全て大阪府に吸収し、大阪市内の区役所も4つ程度に削減し、全てカジノ開発に回そうとするのだ。大阪都なんて出来ない。今の大阪市の住之江区や大正区、西淀川区が大阪府湾岸区に変わるだけだ。幾ら区議会が設置されるようになっても、財源が無ければ何も出来ない。
 
こんな物で住民生活が守れる訳ないだろう。市民自治が広がる訳ないだろう。住民にとっては踏んだり蹴ったりだ。だから、安倍自民は橋下維新と一緒になって大阪都構想を推進しようとしても、地元の自民党大阪市議や府議はそれに抵抗しようとするのだ。元・大阪府議の柳本あきらのように。でも、所詮は自民党なので、いつかは折れる。それが、この前の自民党大阪府連新会長による大阪都構想容認発言だ。
 
 

勿論、安倍自民と橋下維新の間にも細かな違いはある。安倍自民は右翼の権威主義。「ブラック企業の命令にも黙って従え、消費税増税や年金削減にも我慢しろ」という考え方だ。しかし、橋下はそこまで右翼的ではない。余り国家統制を強め過ぎると、企業活動にも差し障りが出るからだ。「ブラック企業なんて辞めちまって、株トレードや個人年金で食っていけば良いやん」。それが橋下の考え方だ。

一見、両者は異なるようで、社会的弱者の人権なんて一顧だにしない点では、両者は全く同じだ。どちらも弱肉強食の拝金資本主義に過ぎないのだから。私はそのどちらでもない。労働基準監督官の活躍を描いた「ダンダリン」というドラマの中で、主人公の女性監督官がブラック企業の社員に奮起を促す場面がある。「ブラック企業の言いなりになる」のでもなく、「尻尾を巻いて辞める」のでもなく、「ブラック企業を中から変えていかなければならない」と。誰でも普通に働けば普通の生活が送れるようにする。そうすればブラック企業や個人年金、株トレードになんか頼らなくても良くなる。それは「のんべんだらり」なんかとは違う。それこそが人権尊重の考え方だ。それを実現するのが政治家の仕事だろう。
コメント (3)
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親父と安倍の類似性

2019年11月20日 08時36分59秒 | 当ブログと私の生い立ち
 
 
前回の「桜を見る会」関連記事に対して、ある方から次のような感想をいただいた。

「なるほど安倍さんのキャラはよく分かった。世襲政治家二世の典型で世間知らずのボンボン。お友達優遇で身内意識丸出し。特権階級特有の上から目線。臭い物に蓋の秘密主義、時代遅れの忠君愛国、軍国主義思想。我が身可愛さの保身第一。等々…。しかし、それと貴方の親父キャラのどこが共通しているのか?イマイチ分かりづらい。アカ(共産党、左翼)嫌いな所や、個人の幸福よりも親のメンツを優先しようとする婚活対応からも、何となく安倍キャラに通じる部分がある事は分かるが、それだけではまだイマイチ説明不足だ…」と。

毒親(子どもの生育を捻じ曲げる自己中心的な親)育ちの苦しみは当事者にしか分からない。普通の家庭に育った人には、毒親がどんなキャラなのか、いくら説明しても分からないからだ。だから、説明すればする程、「何もそこまで親に辛く当たる事ないじゃないか」と言われるようになる。そして当事者も、「私は親に対して余りにも冷淡過ぎるのではないか」と悩むようになる。今まで散々、毒親に苦しめられ、毒親に洗脳され続けて来たにも関わらず。

そこで、恥を忍んで、もう少し詳しく書き連ねてみたら、予想以上に長文になってしまった。既にブログに書いた事と重複する部分も少なくない。いずれも「まとめ記事」という事でお許しいただきたい。断っておくが、私も、何も好き好んでこんな事を書きたい訳ではない。出来るなら、私も、こんな生育歴の影の部分は書きたくない。でも、書かなければ、何故、毒親の被害者がこれだけ苦しんでいるのか、世間の人は理解出来ない。これでは被害者は永遠に救われないし、問題も解決しない。

(1) 親父とお袋はともに昭和初期に生まれ、戦後間もなく結婚し、兄、私、妹の3人の子どもを産んだ。私は次男坊だ。幼い頃は親父似と言う事で、割と可愛がられたらしい。ところが、小学5年生位の時に、どういう経緯でそうなったのか詳しい事は忘れたが、疲れてベッドで寝ていた私に、親父が余りしつこく絡むので、「うるさいな、漁師の子」と言ったら、思いっきり親父にどつかれた(親父は大阪府南部の漁師の出だが、頭が良かったので大学に進学し、大阪府庁の公務員になれた)。それ以来、親父から「学校の勉強見てやる」と言われ、宿題を見てくれたのは良いが、上手く問題が解けないと、直ぐに定規で叩かれた。

(2) 高校に入り、問題研究会に入部したら、暗に退部を強要された。部活動について何も知らない癖に。そして、私の留守中に、部員から電話がかかって来ても、全然取り次いでくれなかった。まるで、親なら子どもの思想信条の自由や人格権なぞ踏みにじっても構わないと思っているようだった。

(3) 私が大学生の頃のある日、大学から帰ったら、自宅に共産党機関紙の「赤旗」が配達されていた。多分、府庁の共産党員に勧められて、断り切れずに購読するようになったのだろう。そこで、私が物珍しさに、それを読もうとしたら、いきなり「読むな!」と言われ、私に読まさないように母親にも命令していた。そして「何だ、こんなモノ!」と言って、「赤旗」の領収書をグチャグチャに丸めて屑かごに捨てた。「そんなに嫌なら最初から購読しなければ良いのに」「自分で購読しておきながら、大学生にもなった息子に、家にある新聞も自由に読ませないとは、なんて器の小さな親なのか」と、呆れて物も言えなかったのを覚えている。

(4) 大学時代に、私の出身中学でイジメ自殺事件が発覚。事件をもみ消そうとする管理職に対し、教職員組合の人達が真相究明を訴えるビラを市内に配布。私の自宅にもビラが入る。そのビラに対して、親父はいきなり教組の人達をトラブルメーカーと罵倒。それを諌めた私が「民主教育」と言う言葉を口にした途端に、親父は烈火の如く怒り出す。これを見て、親父はとにかく「民主」とか「人権」と言う言葉が嫌いなんだなと、つくづく思うようになった。

(5) 大学では史学地理学科に在籍。地元の公害問題や地域開発の問題を卒業論文で取り上げた時に、府庁に勤めている親父に参考文献について聞こうとしたら、論文の内容についても一々口を挟むようになった。そして、どんな本を読んでいるか、私がトイレに行っている隙に、こっそり覗き見するようになった。

(6) 大学卒業後、親父の勧めで私立高校の常勤講師になったものの、有期雇用の不安定な身分に、給与未払い疑惑や、封建的な学校風土に嫌気が差して、一年後には自分の意思で生協に転職。共産党系の生協なので、親父は快く思っていなかったようだが。しかし、もう既に研修も終え、これから新しい仕事を一から覚えていかなければならない時期なのに、親父と来たら、まだ教職に未練たっぷりで、私に再度、教員採用試験を受けるように、しかも私には直接言わずに母親に命令。「形だけでも受験してくれ」と母親に泣き付かれ、仕方なく形だけ受験し、わざと間違った解答を筆記試験の答案に書いて提出。

それから約20年近く勤めた生協も、入協当時にはあった民主的な雰囲気は次第になくなり、次第に大手スーパーのような競争至上主義の職場に。その癖、労働者には都合の良い時だけ、「生協は消費者運動だから」と、サービス残業を強要する様になり、民主的とはお世辞にも言えないブラック生協に。人手不足の中で、早朝から深夜まで続く勤務に、生命の危機を感じて生協を退職。以後「もう社畜には絶対に成り下がらない」と、敢えて正社員としての転職は拒否。

生協退職した2001年頃はまだ就職氷河期で、ハローワークもパソコンや介護士資格取得の集団研修を実施。私もこれを機にパソコンを基礎から学び直そうと約半年間、雇用保険給付でパソコンの学校に通う。これが下地となって、今のブロガーとしての私がある。確かに正社員への転職には結びつかなかったが、それ以上に、ブログを通して発信力や表現力を身に付ける事が出来た。自己表現が出来るようになった事は、ある意味、転職成功以上に素晴らしい事だと思う。

やがて、非正規雇用労働者として、ブラック企業や派遣切りの実態を知る事になる。チラシ撒きのバイトで労基法に基づき1時間昼休みを取ったら「休憩は15分間のみ。パンかじりながらチラシ撒け!」と怒鳴られたり、ある日出勤したらいきなり勤務先が廃業していたり。パワハラにも遭った。その中で、それに対抗する術も身に付けるようになる。バイト組合のない職場でも、1人からでも入れる労働組合に加入し、非常勤組合役員のオバちゃんとたった2人で、4人の経営幹部相手に団体交渉した事も。

気が付けば、幼い頃は虐められっ子で、常に他人の目を気にして、息をひそめるように生活していた高校時代までの私が、すっかり物怖じしない性格に変わっていた。思えば、社会変革を目指して一時は共産党に入党し、生協に入り、退職後に再び組合に加入した時も、最後は共産党や生協、組合頼みだった。「自分はどうするか」という当事者としての視点は弱かった。しかし、たった2人で会社の経営幹部4人と団交で対峙した事をきっかけに、当事者としての意識が徐々に芽生えてきたように思う。それが次第に仕事でも実を結ぶ様になり、業務改善で表彰され、社員を差し置いてベトナム人教育係に抜擢される等、会社でも一目置かれる存在に。
 
やがて月日は流れる。兄と妹は結婚して実家を出て、お袋も数年前に亡くなった。親父も府庁を定年退職、再就職先の親戚の工場も数年前に退職。こうして実家には私と親父だけが残される事になった。その中で、私が大人になってからは鳴りを潜めていた親父の干渉癖が、再び私に向けられるようになる。

(7) 私が社内で運搬作業をしていた時に、うっかり台車を前方の作業者の足に当ててしまい、そいつから損害賠償を吹っかけられた事があった。たまたま内装工事の最中で、作業場の見通しが悪かった為に、前方がよく見えなかったのだ。ところが、会社は安全管理の手落ちを棚に上げ、労災隠しの為に、そいつの恫喝に見て見ぬふり。そいつとの示談を進めてきた。私は示談なぞには与(くみ)せず、組合の尽力もあり労災認定を勝ち取る事ができた。しかし、親父は私に暗に泣き寝入りする事を強要して来たのだ。「闘うとか言わずにもっと穏便に済ませろ」と言う形で。これでは完全に会社の回し者ではないか。

(8) その癖、私が独身で非正規雇用である事をあげつらい、「のんべんだらりと生きてきた」と誹謗中傷ざんまい。私が独身で非正規雇用である事は、別に自己責任でも何でもないのに。また、別に独身で非正規雇用だからと言って、それでひがんだりせずに、精一杯頑張っているに。むしろ、のんべんだらりと生きていたら到底出来ない経験も積み、それなりに満足の行く人生を歩んでいると言うのに。それで「非正規労働者を差別するな」と批判したら、「ワシは何も差別していない」と居直り。
 
(9) その他にも、親父の言う事がもう支離滅裂。「私はもう歳だ。お前を養っていく事が出来ない。お前も、もう実家を出て、どこかで自活してくれ」と親父。私は「自分は非正規雇用ながらも、ちゃんと働いて自活しているのに、何を言っているのか?」と思いながらも、親父の言う通り、賃貸物件を見つけて近日中に実家を出ると親父に報告。そうしたら親父は何と言ったか?「何も今すぐ出て行く事はないやないか。出て行くなら何故もっと早く若い頃に出て行かなかったのか?」と。
 
アホか。自分から「自活しろ」と言っておきながら、いざ自活しようとしたら「何故今頃出て行くのか?出て行くなら何故もっと早くに出て行かなかったのか?」だと?出て行って欲しいのか、欲しくないのか、一体どっちなんだ?お陰で、私は親父の気まぐれに散々振り回された挙句、不動産屋や住所変更手続きを済ませた会社の総務担当者に詫びる羽目になってしまった。

(10)業務改善で社内表彰された事についても、別に自慢するつもりはなかった。しかし、余りにも度々「のんべんだらり」と誹謗中傷するので、その反証の一つにこれを上げた。すると親父は何と抜かしたか。「お前は、その歳になっても、たったそれだけしか自慢するネタが無いのか!」と抜かしやがった。どこの世界に、子どもの成長を喜ばない親がいる。普段テストで0点しか取れない子どもでも、頑張って勉強して70点取れたら、それがどんなに簡単な問題でも、どんなに滅多にない事であっても、素直に喜ぶのが普通の親ではないのか?それがいきなり「たったそれだけしか自慢できるネタは無いのか」だと?これは何も子どもだけに限った話ではない。例えば部下が上司からこんな扱いされたらどうなる?たちまち人権問題になるだろう。

これについては、親父は後に次の様に言い訳している。「たったそれだけしか自慢するネタがないのか?と言ったのは、お前が有頂天になるのを諫める為だった。のんべんだらりと言ったのも、別に私や非正規労働者を差別したのではなく、年相応に生きろと言う事を言いたかっただけだ。20歳の時は20歳なりに、60歳になったら60歳なりに年相応に」と。
 
有頂天になっていたのは親父のほうじゃないか。余りにも誹謗中傷が過ぎるので、やむなく反論したら、まるで勝ち誇ったかのように喚き散らしていた癖に。「年相応」についても、「20歳の時は若気の至りで、理想に燃えて組合活動にのめり込んでも良いが、年取ったら丸くなれ」という形で、労災隠しに逃げた会社幹部のように「長い物に巻かれろ」と言っているだけではないか。

「差別なぞしていない」と言いながら、思いっきり差別してるじゃないか。教師や公務員だけがまともな職業で、共産党員や生協職員、非正規雇用の労働者なぞは、まるで破壊分子かルンペンみたいに言い募って。これが職業差別で無かったら一体何なんだ?思想差別で無かったら何なんだ?安倍の選挙中における「こんな人達に負ける訳には行かない」という街頭演説の発言と、全く同じではないか!
 
(11)やがて私は親父と衝突し、実家を出る事になる。そのきっかけになったのは2度の婚活騒動だ。1度目は早朝の出勤前の事だ。身支度をと整えようと2階の居室から1階の洗面所に降りてきたら、親父が横の応接間に座っていた。私が親父に「今日は早いな」と声を掛けたら、親父はそれには答えず、いきなり「××(近所の目の不自由な女性整体師)さんと結婚したらどうか?」と言ってきたのだ。私がその女性とは何の面識もないにも関わらず。いぶかしく思った私が「何故いきなりそんな事を言い出すのか?」尋ねたら、親父は「あほう、お前、もう歳いくつになると思っているんだ!」と、烈火の如く怒り出したのだ。
 
怒りたいのはこちらだ。牛や馬じゃあるまいし、面識もない女性と、何でいきなり「結婚したらどうか?」なんて言われなければならないのか?こんな事、私の歳がいくつだろうが関係ないだろう。そんな結婚をして私が幸せになるはずないじゃないか。それは相手の女性も同様だ。これで全てを理解した。親父が私に婚活を進めるのは、私の幸福の為ではなく、未婚の息子をかたずけて親としての体面を保ちたかっただけなのだ。
 
私は怒って実家を出る事に決めた。出勤の電車の中で、次のメールを親父に送った。
「何故息子の結婚にばかり拘るのか?結局は親の見栄じゃないか。本当に息子の事を思うなら、独身だからとか貧乏だからと言った理由で、息子個人を詰(なじ)ったり見下したりはしない。それを見下すと言う事は、自分の世間体ばかり気にしているからだ。だから、息子を自分の所有物と見なして、自分の思い通りにならないからと言って、息子に八つ当たりするのだ。たまたま観たテレビ番組で、そんな自分本位の親の特集をやっていたけど、その特徴10箇条に親父は全部見事に当てはまる。やっぱり、世間体(外見)や地位や財産の有無で人間を見下し差別しているじゃないか。だから親父は封建的だと言うのだ。幾ら親子でも、そんな人権蹂躙(じゅうりん)は許されない。」
 
今、このメールを読み返してみても、本当にその通りだと思う。それに対して親父は、「そんなメールなぞ送られても時間の無駄だ」の「バカタレ」だの散々、悪態メールの返事をよこした挙句、「親子で話し合おう」「早く戻って来い」とまだ未練たらしく書いていた。原因は私にではなく親父にあるのに。親父が変わらない限り、幾ら話し合っても無駄だ。
 
この時は兄貴の仲介で、一週間、兄貴の家に寝泊まりさせてもらった末に、親父と仲直りして実家に戻る事になった。しかし、親父は全く反省していなかった。2度目も同じような婚活トラブルを引き起こし、私はそれを機に完全に実家を出る事にした。それが次の事件だ。
 
 
 
(12)親父の勧めで婚活パーティーに参加し、いざ釣書(身上書、プロフィール集)を出そうとしたら、「年収200万では誰も嫁の来てがないから400万に水増ししろ」「親父が私名義で貯めた銀行預金(元は私の給与の一部)も年収に含めろ」と、まるで安倍政権の裁量労働制データ改ざんみたいな事まで言い出した。その挙句に、私の婚活なのに、親父が家族の中心に座り、私は隅の方にしかいない横長の写真に差し替えろとまで言い出したのだ。釣書に貼る写真の形は縦長指定で、サイズも大幅にはみ出しているのに。やっぱり、そうだ。親父が私に婚活を進めるのは、別に私の幸福の為ではなくて、親父の世間体維持の為だった。

以上が、私が実家を出るようになった経緯だ。親父と安倍晋三の類似性を説明するには、最後の第(12)項目だけで十分だと思うが、下記にまとめて書いておく。(A)~(F)に箇条書きした上で、前述の例証項目の対応する番号も付けてまとめたので、それぞれ照らし合わせながら読んで欲しい。
 
(A) 考え方が保守的、封建的。それはどちらもアカ嫌いで、「人権」や「民主」という言葉に異常反応する事(2)(3)で十分説明出来るだろう。
 
(B) 個人の権利、幸福よりも家や国家の体面優先。親父の場合は、それが婚活騒動(11)(12)となって現れた。安倍の場合は、それが海外への援助バラマキやオリンピック招致の形で現れている。台風被災者救援や原発事故の収束も進んでいないのに、被災者の生活再建は自己責任に任せたまま、予算を海外への経済援助バラマキに使い、わざわざ真夏の東京でオリンピックをやろうとし、お台場の汚れた海で水泳競技のリハーサルを強行する始末。
 
(C) 個人を家や国家の「将棋の駒」扱い。親父の場合は、それが女性を「産む機械」としか見なさない結婚観(11)や、非正規労働者を「のんべんだらり」と誹謗中傷する姿勢(8)として現れている。安倍の場合も、普通なら電通の過労死事件を機に、長時間労働を規制しなければならないのに、「それではもっと稼ぎたい人が困ってしまう。稼ぎたい人は労働時間なぞ気にしなくても良いように、1日8時間労働の規制を逆に緩めてしまおう」と、裁量労働制のデータを捏造してまで自分に都合の良いように我田引水。公的年金だけでは食えないから、仕方なく個人年金や高齢者就労やダブルワークで食いつなぐ人が増えただけなのに、それをあたかも皆が自分から望んでいるかのように言い繕い、「1億総活躍」と自画自賛。同じ自民党議員で安倍親衛隊の杉田水脈(すぎた・みお)が「LGBTは非生産的」と罵ったのも、親父の「のんべんだらり」(8)や「たったそれだけしか誇れるネタはないのか」(10)発言と根は同じ。
 
(D) 多数派迎合、少数派排除、上から目線。親父が自民党や維新の会を支持しているのは、別に親父が保守思想に心酔しているからではない。単に日本では自民党が、大阪では維新の会が権力を握っているからに過ぎない。親父が本当に保守思想に心酔しているなら、共産党だけでなく、国家主権を外国のハゲタカ資本に売り渡すTPP、日米FTA、水道民営化、カジノ誘致にも反対するはずだ。親父が本当に道徳や愛国心が大事だと思うなら、労災隠しを図る会社と一緒になって、事を穏便に済まそうなんて思わなかったはずだ。台風被害を尻目に宴会に興じた「赤坂自民亭」騒動や、公金私物化・選挙買収でしかない「桜を見る会」も黙って見過ごす事はできないはずだ。それらを隠蔽・矮小化しようとする自民党や維新の会なぞ到底支持できないはずだ。ところが、それを支持して平然としていられるのは、単に自分達も多数派の一員であると誇示したいだけなのだ。親父が毎年、忘新年会の季節に家族をホテルに呼んで「桜を見る会」の真似事をやりたがるのも、公務員や教職への就職に異常に拘り(6)、共産党や生協、非正規労働者、独身者を差別・排除するのも(3)(4)、「自分達とは彼らとは違う」と言いたいからだけなのだ。
 
(E) 自己チューの保身。要するに自己チューなだけなのだ。私の小学生時代の「漁師の子」発言(1)も、今から思えば決して褒められた物言いではないか、反抗期のガキが悪態ついただけに過ぎない。反抗期は自我の表れでもある。その自我を真の自立へといざなうのが親の役目なのに、「バカにされた」としか見れず、パワハラで応えるとは。社内表彰の件(10)も、「私が有頂天になっている」としか捉えられないようでは、親としての資格なぞない。安倍の「こんな人たちに負ける訳はいかない」発言もこれと同じだ。野党支持者も含めた国民全体の幸福を実現しなければならない総理大臣の発言とは、とても思えない。
 
(F) 言い訳も支離滅裂。だから、言ってる事も矛盾だらけなのだ。自分こそが、会社の労災隠しと闘おうとした私を、逆に会社と一緒になって抑えようとした社畜の癖に(7)、「のんべんだらり」と非正規労働者や独身者を誹謗しながら、「私は地位や財産で人間を差別なぞしていない」と言い張る厚顔無恥も(8)、森友・加計問題や相次ぐデータ改ざん、証拠隠滅、「桜を見る会」公私混同疑惑で支離滅裂な言い訳を続ける安倍晋三とそっくりだ。「実家を出て独立せよ」と言いながら、いさ独立しようとした途端に「何故、今頃になって家を出るのか?」と泣きついたのも(9)、今の「桜を見る会」の安倍のドタバタぶりとそっくりだ。
 
だから安倍も、「後援会主催の桜を見る会前夜祭は、税金ではなく各自が自腹で1人5千円の会費を払って参加しただけだ」と、誰もまともに信用しないような嘘を平気でつけるのだ。東京のホテル・ニューオータニを貸し切って、銀座の高級寿司まで出して芸能人も呼んでいるのに、たった5千円なんかで出来る訳ないだろう。私達バイトがトリキで予定している忘年会すら、3千円の会費が必要なのに。もし、ニューオータニの会費が本当に5千円だったとしても、それはホテルが森友・加計と同様に、安倍を忖度(そんたく)、特別扱いしたからだと言う事に他ならない。それでもまだ安倍や産経新聞が「総理大臣だから値引きしたのではない。宿泊とセット料金で値引きしたに過ぎない」と言い張るなら、次から皆で寄ってたかって、ホテル・ニューオータニに泊まり、5千円で高級寿司・芸能人付きの飲めや歌えの宴会をやってやろうじゃないかw

親父キャラと安倍キャラの、なんて似通っている事か!安倍は、二言目には「北朝鮮が、中国が」云々と連呼するが、安倍の方がよっほど北朝鮮、中国みたいな体質じゃないか!
 
自民と似たり寄ったりという意味では、大阪の維新も同罪だ。大阪では維新こそが自民党・安倍政治の象徴だ。それが証拠に、軍歌や教育勅語を礼賛する森友学園が建てた新設小学校「瑞穂の国記念小学院」を認可しようとしたのは、当時、大阪府知事だった維新の松井一郎だ。教育現場で君が代斉唱を強制し、「大東亜戦争は正義の戦争だった」とする偏向教科書の採択に躍起となっているのも、維新の息のかかった首長や教育委員会だ。業務時間内に少しタバコ吸っただけで地下鉄労働者を処分しながら、橋下が公用車でジムに通い、住吉区選出の大阪市議・伊藤良夏が政治資金で私用のレクサスを購入した事には頰かむり。これも、まるで森友・加計問題と同じじゃないか。
 
 

これは何も親父を貶めたい為に書いているのではない。これは単に親父だけの問題ではなければ、毒親だけの問題でもない。安倍夫妻には子どもはいない。しかし、そのキャラは毒親と瓜二つだ。だから、毒親よりももっと広い概念で、「毒オトナ」と呼ぶようになったのだ。実際、そういう言い方をしている人もブロガーの中にはいる。

日本は、表向きは戦後に民主化された事になっているが、戦後70年以上経った今でも、いまだに大日本帝国の亡霊が、あちこちをさまよっている。靖国参拝や教科書・憲法改悪の動きなぞ、その最たるものだ。慰安婦問題にしても、まるで韓国が悪いみたいに思っている人がいるが、あの問題の根本原因は、いまだに植民地支配について謝罪せず、賠償を経済協力と言いくるめ、当時の韓国軍事政権を、金の力で黙らせてしまった日本側にある。

日本ではびこる過労死や自殺も、その背景には希薄な人権意識や、弱者差別がある。欧米では、過労死なんて考えられない。欧米にもブラック企業は確かにある。しかし、労働者も黙ってはいない。ブラック企業支配には労働者もストライキで対抗する。日本みたいに、引きこもりやバイトテロ、学校や社内での虐め、生活保護叩きみたいな形で、内にこもって暴発したりはしない。

安倍や親父のような人間がのさばるのは、日本の民主化がいまだ達成されていないからだ。かつて軍事政権下にあった台湾や韓国でも、冷戦終結後の民主化によって文民政権に変わった。今や最低賃金すら、台湾・韓国に追い抜かれてしまった。いまだに時給7〜900円台の低賃金に甘んじながら、自分の無権利状態にも気付かず、韓国叩きや芸能人ネタでうさを晴らすしかない日本人の社畜・奴隷根性こそが、安倍や橋下、ウチの親父のような「毒オトナ」を生み出し続けているのだ。
 
 
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俺は親父や安倍のような毒オトナには絶対ならない

2019年11月13日 20時35分00秒 | 当ブログと私の生い立ち
 
 
安倍の行いを見ていると、ホンマ親父とそっくりだなと思う。今、問題になっている「桜を見る会」も、税金使って地元の安倍後援会員だけを優遇した公金私物化、選挙買収疑惑だ。そこに参加できるのは安倍支持者と安倍ヨイショの文化人、芸能人だけだ。他方、親父が自分のポケットマネーで兄弟家族を招いて毎年ホテルで挙行していた忘年会、新年会も、参加できるのは私の家族だけだ。支持者・家族という対象の違いや、公金・ポケットマネーという資金源の違いはあれど、自分のお気に入りだけを囲い込み、そうでない人間は徹底的に排除する点においては、何ら変わらない。

安倍は選挙の街頭演説でも、批判に耳を傾けるどころか「こんな人達に負ける訳には行かない」と露骨に敵視。野党支持者も含めて国民全体の幸福を実現しなければならない総理の立場にありながら。国会でも野党に対し「日教組」、果ては共産党議員に「民主党」、立憲民主党の議員に「共産党」とお門違いなヤジを飛ばす体たらく。
 
 

ウチの親父も、昔、私の出身中学で起こったイジメ隠蔽事件の真相追及に立ち上がった教組の人達をトラブルメーカーみたいに罵倒し、それを諌めた私にもパワハラふるった。そして大音量で軍歌を流す右翼の街宣車にも「うるさいなあ共産党は!」と、お門違いな罵倒。私が実家を飛び出すキッカケになったのも、私の婚活なのに親父が家族の真ん中にいる規格外の写真を「釣書に貼れ」と強要し、私が独身の非正規労働者である事を「のんべんだらりと生きてきた」と一方的に非難。中高年の未婚者激増、非正規労働者に限っては中高年でも6割が独身なのは、別に個人の責任ではない。政府・企業の長年に渡る正社員リストラ政策が生み出した結婚もできない低賃金、無権利状態によって引き起こされた少子高齢化に因るものだ。それを総務省の勤労統計から説明しても、「リストラや過労死、ブラック企業なんて、全体の1割にも満たない特殊な怠け者の話だ」と、自分の頭の中だけの妄想で決めつけ。ステレオタイプで聞く耳持たず。ピント外れな罵倒で人を決めつけ。やれ非正規だ独身だと、人間を思想信条、民族の違いや地位の上下、財産の大小で差別。安倍も親父も全く同じじゃないか。
 
 
 
「桜を見る会」の件では三原じゅん子が逆ギレしている。「桜を見る会の参加者は、内閣府が過去の功労・功績を基に公平に人選した結果、私の母や叔母も選ばれたのに過ぎないのに、それをあたかも公金私物化みたいに言われて侮辱された」と。二階や橋下徹、産経などの御用政治家・コメンテーター・メディアも、「民主党政権もやってた」と頓珍漢な反論を始めた。冗談にも程がある。「公正な人選」だと言うなら、何故今頃になって、会の参加者が自分のブログから参加報告を軒並み削除し始めたのか?何故、参加者名簿や領収書を開示しないのか?何故、まだ一年ほど前の記録なのに「破棄した」と言い張るのか?やましい所があるからじゃないか。少なくとも安倍政権以前には同郷の後援会員が大量招待される様な事は無かった。これらを税金で接待する様になったのは安倍政権になってからだ。正に安倍晋三こそが公私混同のモラルハザード、諸悪の根源だ。事実、直近の世論調査でも「安倍の説明では納得できない」という意見が全体の約8割を占める。森友・加計問題の時もそうだった。

しかし、それでも安倍内閣の支持率は未だに約5割で高止まりしている。個々の政策では圧倒的に不支持の方が多いのに、内閣支持率が高止まりしているのは何故なのか?理由は簡単だ。現時点ではまだ、安倍内閣を倒すよりも、安倍内閣に取り入る方が得だからだ。特に若者の間で安倍内閣の支持率が高いと言う。どんな若者か?「労基法があるから定時以前には帰れない」という若者だ。本来、労基法で保障された8時間労働とは、「1日8時間以上働かせてはならない」という労働者保護の為の法律だ。だから、会社によっては1日6時間労働でも良いし、やむを得ない用事があれば早退しても構わないはずだ。それが、本来は労働者保護の為にある8時間労働が、あたかも労働者の義務であるかの様に捉えられてしまっている。長年の教育によって、そこまで権利意識が後退させられてしまったのだ。

労働組合が闘わなくなって久しい。今や「春闘」なんて死語と化してしまった。残った組合も、公務員や正社員だけが加入し、公務員や正社員の既得権確保だけに汲々とする組合が幅を利かすようになってしまった。派遣切りやブラック企業の横暴と闘うどころか、むしろ会社と一緒になって、派遣切りや原発再稼働を後押しする様な御用組合が、大手を振ってのさばるようになってしまった。そんな世の中で育った若者に、まともな権利意識や人権感覚なんて育つ訳がない。だから、生活保護や年金の不正受給、バイトテロ、ヤクザと癒着する芸能人、北朝鮮や韓国などの「叩きやすい対象」は容赦なくバッシングする癖に、その何倍もタチが悪い日本とアメリカ、日本とロシア、政府と大企業、政府とマスコミとの癒着には、借りてきた猫みたいに口をつぐんでしまう。強い者には何も言えず、そのうっぷんを弱い者いじめで晴らすしか能のない哀れな社畜。それが今の若者だ。

「桜を見る会」の件に対する橋下の論調もそうだ。「税金の無駄遣い」だと一応批判するフリしてカッコ付けながら、「過去には民主党もやっていた」と問題をすり替え、安倍の責任には一言も言及せず、抽象的な再発防止策でお茶を濁そうとしているだけだ。維新は野党と言いながら、その主張は、規制緩和でも改憲でも安倍自民と全く同じ。脱原発は一時の人気取りに終わり、今はすっかり原発容認。軍歌斉唱・教育勅語丸暗記の森友学園「瑞穂の国記念小学院」を認可しようとしたのも、当時の松井一郎・維新知事だ。カジノ推進も、幾らギャンブル依存症患者が増えようが、自分達が儲かればそれで良いとする貧困ビジネス、守銭奴の発想でしかない。その実態は、自民党大阪府連や公明党と利権争奪戦を繰り広げるただの「隠れ与党」に過ぎない。

不正と闘うよりも不正に取り入る方が得だと考える。差別と闘うのではなく差別されない様に努めようとする。ブラック企業と闘うよりも、自分も経営者になって搾取する側に回ろうとする…。今の安倍を支持する若者なんて、そんなネトウヨ(ネット右翼)みたいな奴ばかりじゃないか。そんな内弁慶のネトウヨみたいな若者には議論なんて通じない。ウチの親父と同じで、自分にとって都合の良い情報しか見ないのだから。「読売」「産経」「正論」などの御用メディアや、「WiLL」「Hanada」と言った極右雑誌ばかり読み漁り、朝日や共産党は全て「反日サヨク」と切り捨てる。今のネトウヨには昔、左翼だった人間も少なくない。昔は左翼だったが「ベルリンの壁」崩壊をきっかけに右翼に転向した「にわかウヨク」だ。だから、個々の主張も単なるマスコミの受け売りでしかない。他人の受け売りでしかないので、全然、自分の言葉で喋れない。出てくる言葉も「反日サヨク」云々の紋切り型のレッテル張りばかりだ。

「若者の間に安倍支持が広がっているのは、アベノミクスのお陰で有効求人倍率が上昇し、最低賃金が引き上げられたからだ」と言う事が、まことしやかに語られる。しかし、これも、正社員リストラの末の少子高齢化によって、3K業界が人手不足に陥っているからに過ぎない。アベノミクスのお陰でも何でもない。むしろ、アベノミクスや消費増税の所為で、中小企業の倒産が増え、賃金が全然上がらず人手不足に陥っているのだから、「アベノミクス不況」とも言える状況なのに。本当に好景気なら、何故こんなに消費税の滞納が増えるのか?何故、イケチューや天牛堺書店が倒産してしまったのか?良心経営だけでは経営が維持できないからだろう。奴隷労働だと分かっていながら、それでも派遣や外国人に頼らなければ経営を維持できないからだろう。だから、派遣労働者や外国人労働者の低賃金や無権利状態は見て見ぬフリしているのだろう。日本語もロクに喋れない外国人でも、名ばかりの技能実習生や留学生として雇うのだろう。

そんな事は、幾ら新聞やテレビを見なくても、実際に現場で働いて生活していたら、幾らでも気付くはずだ。幾らでも安倍や橋下のペテンに気付くはずだ。実際は気が付かないのではなくて、気が付かないフリをしているだけなのだ。そして、強い奴には何も言えないウップンを、弱い者イジメでごまかしているだけなのだ。これが、若者の間に広がる『政治離れ』や『保守化』の正体だ。『北朝鮮のミサイル』『韓国の慰安婦問題』は、それを覆い隠す煙幕でしかない。これでは、いくら歳は若くても、精神年齢はウチの親父と同じだ。安倍の国会答弁にそれがよく現れている。官僚が作成した、漢字にルビ付きの原稿がなければ何も喋れない。日独首脳会談の時もそんな感じだったので、隣にいる独首相メルケルが蔑む様な目で安倍を見ていた。俺はそんな毒オトナにだけは絶対にならない。
 
 
 
さっきのニュースで「桜を見る会」の来年度中止が決まった事を知ったが、中止すれば良いと言う物ではない。やましい所がなければ中止する必要もないはずだ。やましい所があったから、大慌てで中止せざるを得なくなったのだ。何故そういう事が起こったのか、検証しなければ対策も立てられないはずだ。私の時も、最初の家出の後、親父が一旦は謝罪した。「お互いに誤解があった」と。そうじゃないだろう。問題はステレオタイプでしか物を見れない親父の狭量さや、世間体ばかり気にして、人間を思想信条、民族の違いや地位の上下、財産の大小で差別する所にあったのだから。それをコミュニケーション不足のせいにして、形だけの謝罪でお茶を濁した親父は、後にまた同じ過ちを繰り返し、今の破局を迎える事になった。決して水に流して済む話ではない。
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解放区という映画を観て来た

2019年11月06日 20時22分37秒 | 映画・文化批評
  
 
大阪の西成・釜ヶ崎(あいりん地区の旧称)を舞台にした映画「解放区」を観て来ました。
私の住むあいりん地区のホテル街では、「新今宮フェスティバル」と銘打って、音楽会や模擬店など様々なイベントが10月に行われました。そのイベントの最中に、この映画が11月から公開される事を知り、西成が舞台である事や、「解放区」という往年の学生運動を彷彿させるネーミングに興味を惹かれ、昨日観て来ました。

映画は学生運動とは何の関係もありませんでした。東京の映像制作会社に勤めるAD(アシスタントディレクター)のスヤマと、そのスヤマがインタビューした引きこもり青年のモトヤマ。この2人がこの映画の主人公です。(映画の公式HPではスヤマだけが主人公のようですが、私はモトヤマも含めるべきだと感じました)

引きこもりのモトヤマを取材する際の先輩ディレクターの強引なやり方に反発したスヤマが、先輩と喧嘩になった事で、会社の中に居づらくなり、かつて不良少年の取材に訪れた釜ヶ崎のドヤ街を再び訪れる所から、この物語は始まります。

確かに先輩ディレクターのモトヤマに対する取材姿勢は強引でした。せっかくスヤマがモトヤマと打ち解け始めた矢先に、いきなりモトヤマの部屋に闖入(ちんにゅう)し、自分達が勝手に思い描いたストーリー通りに、モトヤマを型にはめようとしたのですから。

しかし、その非をなじるスヤマ自身も、先輩ディレクターに負けず劣らず横暴で自分勝手な人間である事が、次第に明らかになっていきます。「俺と一緒に仕事しないか?」とモトヤマを大阪に呼び寄せながら、給料も払わず、逆に飲食費やドヤ代までモトヤマにたかるのですから。

スヤマは、西成で、かつて取材した不良少年の居所を突き止め、それを元に番組を完成させ、テレビ局に売り込む事で、ディレクターとして自立しようと考えました。それで、わざわざモトヤマを大阪に呼び寄せ、自分の助手として使おうとしたのです。

2人は、それぞれ別のドヤに住みながら、何とか不良少年の居場所を突き止めようと、新世界や釜ヶ崎、飛田新地一帯で人探しのビラを撒き始めます。しかし、一向に手がかりは掴めません。イライラを募らせたスヤマは、次第にモトヤマに当たり散らすようになります。

そのくせ、スヤマは行きずりの謎の女と意気投合し、ドヤでセックスした挙句に、女に財布を盗まれ、一文無しになってしまいます。そして、モトヤマから金を借りようとし、モトヤマから逆に給与支払いの催促を受ける羽目になります。

スヤマは、三角公園での炊き出しや、野宿者専用のシェルターを利用しなければいけない所まで、身を持ち崩してしまいます。そして、手配師の勧めで、建物解体の日雇い労働で働いている最中に、釘を踏んで足を怪我してしまいます。土木工事の親方からも「何が西成のリアリティーや?まず自分のリアリティーから見つめ直せ」となじられる有様です。

家族に黙って大阪までやって来たモトヤマも、弟に足取りを掴まれてしまいます。そして、大阪まで来た弟に、暴力的に連れ戻されそうになります。大阪には弟だけでなく前述の先輩ディレクターもついて来て、モトヤマをテレビ番組のネタにしようとします。弟の兄に対する暴力的な態度からは、兄への愛情が一切感じられませんでした。実際は兄の事を疎んじながら、兄弟としての義務感から、仕方なく大阪まで来たという感じでした。

その中で、「黙ってないで何とか言え」とけしかけるディレクター達に、モトヤマが発した次の怒りの言葉が、観客の心に突き刺さります。「若者のリアリティーを掴むとか何とか言って、弱者に寄り添うふりをしても、お前たちはただ上から俺たちを見下しているだけじゃないか!」と。私はここで、モトヤマもこの映画の主人公であると確信しました。

スヤマは、ついに覚せい剤にまで手を出してしまいます。それでも、ヤクザに連れられ、売人のマンションで覚せい剤を注射される場面を、ビデオに自撮りしようとしたのは、やはりディレクターになる夢をまだ諦めていなかったのでしょう。ヤクザがスヤマに「今まで色々ツラい事があったんだろう」と優しく声をかける場面も不気味でした。「こうして人は覚せい剤のとりこになって行くのだろう」と戦慄を覚えました。
 
最初はスヤマの自撮りを承諾したかの様に思えたヤクザですが、そんな自分の身を危険に晒すような事をヤクザが承諾する筈もありません。注射を終えマンションを出たスヤマに、手引きの男が外でネガを返せと凄みます。それをスヤマが振り切って逃げる所で、この映画は終わります。
 
この映画のテーマを一言で言えば、さしずめ「正義ヅラした偽善」という所でしょうか。それはそれで辛辣(しんらつ)な問題提起です。この世の中には似たような事が他にも一杯あります。しかし、そこだけに留まっていたのでは、単なる冷笑にしかなりません。ただのドキュメンタリーならそれでも良いでしょう。ドキュメンタリーの役割は、あくまでも真実の追及にあるのだから。でも、これは一応ストーリー(物語)です。ストーリーやドラマである以上は、単なる冷笑・皮肉だけでは、「身も蓋もない」で終わってしまいます。

それは映画「万引き家族」と対比すればよく分かります。あの映画も、一見貧しい一家が寄り添い助け合っているかの様に見えて、実はとんでもない家族であった事が、後に判明します。それは、親父は万引き稼業で生計を立て、幼い息子に真似させていただけではありません。その息子も実の息子ではなく、母親がさらって来た他人の子どもでした。おまけに祖母は亡くなった祖父の年金を死後も掠め取り、娘は家族に黙ってイメクラで小遣い稼ぎに精を出す。

しかし、たとえそんな家族でも、近所のDV被害者の女の子をかくまう中で、家族としての絆を深めて行きます。一時は息子を捨てて一家総出で夜逃げを企んだりしましたが、最後には万引き親父が、実の家族の元に帰る息子を追って別れを惜しむ場面で終わります。いかに「正義ヅラした偽善」であっても、そこに幾ばくかの正義がある限り、正義としての価値が損なわれる事はない...。そのメッセージが「万引き家族」の観客を勇気付け、パルムドール(カンヌ国際映画祭最高賞)受賞に結びついたのです。残念ながら「解放区」にはそれが余り感じられませんでした。
 
 

西成にもそんな「正義」はあるはずです。西成には確かにヤクザや覚せい剤の売人も多いですが、それに抗する人達も決して少なくはありません。年がら年中、炊き出しが行われ、年末には「1人の凍死者・餓死者も出すな」と見回り活動が繰り広げられる。そういう意味では、決してただの「お先真っ暗闇」のスラムやゲットーではない。

今秋、あいちトリエンナーレで行われた「表現の不自由展」に対して、一旦は認められた助成金交付が、「展示が反体制的だから」という理由で覆された事がありました。政治的メッセージが強く、公民館では展示を渋るような作品にも、芸術的価値があるからこそ、展示しようという企画だったにも関わらず。

実は「解放区」もそんな映画でした。当初支給されるはずだった映画助成金が、大阪市の反対で支給されなくなりました。「引きこもりや覚せい剤取引の場面が、引きこもり患者や西成への偏見を助長する」というのが、助成金支給見送りの表向きの理由でした。ところが実際は、それは単なる口実に過ぎませんでした。「臭い物に蓋」「寝た子を起こすな」...これが当局の本音でした。その辺は、「風評被害が福島差別を助長する」という口実で、放射能汚染の実害が隠蔽されようとしている構図とよく似ています。

しかし、この映画から、引きこもりや覚せい剤取引の場面をカットしてしまったら、映画そのものが成り立たなくなります。そこで、助成金には頼らず、自費とカンパだけで映画製作が続けられました。

主人公のスヤマ自身も監督が演じています。薬の密売人も元密売人が演じています。このような手弁当での悪戦苦闘の中から、ようやく映画公開にこぎ着ける事が出来たのです。折角、セミドキュメンタリー映画としては、これまでにないリアルな作品に仕上がったのだから、偽善の告発だけでなく、それを乗り越えようとする展望も指し示す事が出来たら、この映画はもっと素晴らしい物になると思います。

後で思い返せば、この映画にも、実はそういうメッセージが含まれていたのかも知れません。炊き出しや越冬まつりの場面が、映画に頻繁に出てくるのも、その一つの現れではないかと思います。少なくとも、単なる観光客向けのイベントに過ぎない「新今宮フェスティバル」よりは、よっぽど深みのある映画に仕上がったのは確かです。しかし、私にとっては、それはいつしか後景に退けられ、「偽善告発」のイメージだけが印象に残る「身も蓋もない話」で終わってしまいました。まさに「画龍点睛を欠く」という想いです。
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まるでドンキみたいなレイアウト

2019年11月03日 20時57分59秒 | 職場人権レポートVol.3
 
今日は2週間に一度の鍼灸治療の日です。その鍼灸院には、もう20年以上も前から通っています。保険が効かず実費診療となりますが、腕が良いので実家を離れた今も電車に乗って通っています。

私の番が来て、院長先生から職場の様子等を聞かれました。その医院では労災・職業病の診断も行なっていますので、院長先生とは、そういう話も結構します。そこで、最近の職場におけるレイアウト変更に伴うドタバタ劇について話したら、流石に院長先生も呆れていました。

院長先生は、「餃子の王将」の話をされました。「王将」の様な中華料理店では、一人のコックが何人もの客の料理を短時間で作らなければなりません。そういう所では、調味料もコックが一番取りやすい所に置かれています。だから、コックは一々何がどこにあるか思い出さなくても、瞬時にソースや酢、胡椒等の調味料を取る事が出来るのだ、という話でした。

物流センターの作業場レイアウトも、この「王将」の店の様に、誰が見てもすぐ分かるレイアウト、誰でもすぐに持って行けるレイアウトになっていなければならないはずです。

ところが、私の勤めている物流センターのレイアウトと来たら、もうデタラメも良い所なのです。元々、古くて手狭なセンターなのに、無理にレイアウトを設定した為に、ものすごく分かりにくい、使いにくいレイアウトになってしまいました。

別紙の図がそのレイアウトです。約140店舗をA〜Iの9ブロックに分割して、配送コースを基に約10〜20の店舗でそれぞれのブロックを構成して、商品を積んだカゴ車・台車の置き場所を割り振っているのですが、

①場所がないので、わざわざ1番仕分けラインの片側を潰して、そこにGブロックの店のカゴ車を置かなければならなくなってしまいました。

②元々、日配商品の仕分け場所だった所を潰して、そこをHブロック、Iブロックの店の置き場所にしなければならなくなってしまいました。元々、商品の待機場所ではなかった所なので、天井から店名表示板を吊り下げる事も出来ません。店名表示は床に養生テープで貼られているだけなので、時間が経つにつれて、商品のカゴ車に埋もれて見えなくなってしまいます。

③Fブロックなぞは、1店舗分のスペースを前後に分割して、前方をF10、後方をF20と言うように、無理やり2店舗分の置き場所としてしまっています。しかし、幾ら形だけ2店舗分の置き場所を設定しても、実際には1店舗分しか置けないのだから、もうゴチャゴチャになるのも当然です。
 


だから、9月にレイアウト変更したばっかりで、まだ2ヶ月しか経っていないにも関わらず、約140店舗あるうちの約半分、70店舗余りの店のレイアウトを大幅に変更しなくてはならなくなってしまったのです。

そのレイアウト変更も、いつから、どの店の分を、どこにアドレス変更するのか、バイト全員に朝礼等で周知する事もせず、社員と一部のバイトだけで、土壇場になってから大慌てで、何とか形だけ終わらせたのでした。

その挙句に、出荷用ラベルの差し替えもベトナム人バイトに丸投げしてしまい、後の点検もしなかった為に、レイアウト変更前の古い出荷ラベルが使われていた事に、何日も経ってから初めて気付くという醜態を晒す事になってしまったのです。

院長先生からは「あんたとこの会社の物流センターは、まるでドンキの店のレイアウトみたいになってしまっているのだなあ」と言われてしまいましたw。実際その通りです。ドンキホーテの店も、次から次へと安売りの商品が運び込まれる中、経費削減の為に、低賃金のバイトが少ない人数で、狭い店内に商品を陳列していかなければならないので、まるで迷路みたいになってしまっています。

それでもドンキはまだマシな方です。そうやって、商品をわざと乱雑に山積みにする事で、商品の豊富さを客にアピールしているのですから。そこにはドンキなりの販売戦略があります。ところが、私の会社にはそんな販売戦略もありません。あるのは行き当たりばったり、出たとこ勝負の、バクチみたいな仕事だけです。これで良く誤配や労災事故が起こらないものだと、我ながら感心します。

ところで、「行き当たりばったり」と言えば、先日の大学入試への英語民間試験の導入劇もそうでした。長年にわたる受験英語偏重の所為で、高校生に英会話力が身に付いていないからと言って、受験地獄をそのままにしたまま、大学入試の時だけ、生徒に高い金払わせて英語の民間試験を受けさせても、英会話力なんて身に付く筈がないのに。その挙句に、土壇場になってから、英語の民間試験だけ取り敢えず延期とは…。

但し、延期と言っても単なる凍結に過ぎません。ほとぼりが冷めればまた性懲りも無く復活させるに決まっています。大学入試センター試験から共通テストへの変更も、学校関係者の意見も聞かず強行するつもりです。肝心な事には手をつけず、形だけの改革でお茶を濁そうとする。そして、「古い利権をぶち壊す」と言いながら、「民間活力導入」の名目で、英会話スクールや受験産業との「新しい利権」に群がろうとする。まるで今の私の会社と同じではないですかw。

そんなデタラメ放題の安倍政権なのに、何故、未だに国民の半分近くが支持しているのか?その理由は簡単です。「もう何を言っても無駄だ」と国民が諦めてしまっているからです。

その証拠を取り敢えず2つ程挙げます。その第1は支持理由です。見かけの有効求人倍率や見かけの最低賃金が引き上げられた為に、「何となく好景気」だと思わせられ、「何となく支持」している人間の何と多い事か!実際はブラック企業で低賃金のロクでもない求人ばかりなのに。最低賃金が引き上げられたのも、先進国の中では最低ランクだったのが、ようやく引き上げられたに過ぎません。物価上昇分や税金・社会保険料の上昇分も含めた実質賃金で比較すれば、日本はずっと下がり続けています。こんな国は先進国の中では日本だけです。

第2は国政選挙における投票率の低下です。今から30年程前の1990年頃までは、総選挙の投票率は大体7割前後ありました。それが今や5割、都市部では4割行くか行かないかです。有権者の4割しか投票しなくなった為に、全体のたった2割の得票でも過半数で当選してしまうのです。だから、戦争発言の丸山穂高や、「このハゲー!」パワハラ女の豊田真由美みたいなロクでもない人物でも、維新のミーハー票や自民の組織票だけで当選できてしまうのです。
 
ちなみに、上のグラフが1946年(昭和21年)から2017年(平成29年)までの総選挙の投票率推移です。オレンジに青線グラフが衆院選、青に青線グラフが参院選の投票率。どちらも総務省のHPに載っていたものです。どちらのグラフも、昭和から平成への改元(1989年、ちょうど私が赤線を引いた所)を境に、投票率が7割前後から5割前後に約2割も急激に低下している事が分かります。
 
この時に一体何があったのか?「ベルリンの壁」崩壊、自民・社会両党の連立政権誕生、中選挙区制から小選挙区制への移行によって、それまでは曲がりなりにもあった保守と革新の対立軸が無くなってしまいました。その結果、政治の保守化が進み、似たり寄ったりの政党ばかりになってしまい、しかも与党に有利な選挙制度に変えられてしまったために、有権者が政治に幻滅して棄権に回るようになってしまったのです。つまり、「国民が政治を変える事を諦めてしまった」のです。
 
但し、その中で、2005年(平成17年)に郵政民営化が争点になった時と、2009年(平成21年)の自民党から民主党への政権交代の時の衆院選だけは、例外的に投票率が回復しています。これは裏返せば、そういう「よっぽどの事」が無い限り、投票率はずっと低いまま、安倍や丸山、豊田みたいな政治家がのさばり続けるという事です。

今の安倍政権にしてもそうです。これだけ閣僚の辞任ドミノが続いても、首相がのうのうと政権を維持できるなんて事は、今までならありえませんでした。小渕優子経産相、松島みどり法相(以上2014年)、西川公也農水相(2015年)、甘利明経産相(2016年)、今村雅弘復興担当相、稲田朋美防衛相(以上2017年)、江崎鉄麿沖縄・北方担当相(2018年)、今年に入ってからも桜田義孝五輪担当相、菅原一秀経産相、河井克行法相...一体何人の閣僚が辞任に追い込まれたでしょうか?そのたびに、安倍首相は「任命責任は私にある」と口先では言うものの、実際に責任を取ろうとは全然しません。「トカゲの尻尾切り」でお茶を濁すばかりです。ここに名前の挙がった人たちは、いずれも、国民に対しては、二言目には「親を敬え、道徳教育をやれ、愛国心を持て」と言いながら、自分達は散々、私腹を肥やしているのですから、もうお話になりません。
 
しかし、マスコミは、それを全然追及しようとはしません。第一次安倍政権やその後の麻生政権、民主党政権の頃とは大違いです。その中で、多くの国民も、今の第二次安倍政権の下で、安保法制の強行採決や、「表現の不自由展」開催への圧力に見られる「表現の自由」「報道の自由」への干渉がまかり通る中で、「もう何言っても無駄だ」と、政権の意向を忖度(そんたく=先回りしておもんばかる)するようになってしまいました。

実際、うちの会社の社員を見ていたらよく分かります。業務発注元のスーパーから命令された時だけ、「掃除しろ、掃除しろ」とやかましく言うくせに、ベトナム人バイトがトイレに落書きしても、誰も消そうとしなかったじゃないですか。落書きなんて放置していたら、犯人は図に乗って、ますます落書きしようとするに決まっているのに。下手に関わり合いになったら、自分が落書きを消さなければならなくなるから、上から言われた時だけ「いかにもやってます」とカッコ付けるだけで、肝心な時には見て見ぬ振りするのです。要は、自分の保身しか考えていないのです。

今回のレイアウト変更を巡るドタバタ劇でも同じです。普通の会社なら、レイアウト変更なんて重要な仕事をバイト任せにはしません。仮にバイトにやらせるにしても、必ず後で社員が点検するものです。そして、一部の人間任せなんかにはせずに、バイトも含めて全員に、朝礼等でレイアウト図も渡して、きちんと説明するはずです。そうしないと、何か問題が起こった時に、一番困るのは自分達社員なのですから。

ところが、今回もこの会社では、また同じ事が繰り返されました。トイレの落書きの時と全く同じです。安倍政権がモリカケの責任を取らず、東電が福島原発事故の責任を取らず、JR西日本の幹部も福知山線事故の責任を取らない中で、うちの会社も、誰も何も責任を取らず、自分の保身しか考えない社員ばかりになってしまいました。その為に、「取り敢えず形だけ取り繕えば良い」という仕事しかしなくなってしまったのです。
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