その第一点は、「そもそも河本母子は世論の指弾を浴びる程悪い事をしたのか」という点です。かつて子が低収入だった時期に母が生活保護を受けるようになったが、子の増収による仕送りで生活保護受給額が減らされ、最終的に保護辞退に至った。その仕送り額や受給減額の程度、辞退のタイミングについては色々議論があるでしょうが、その都度福祉事務所とは相談しながらやってきた事については、何ら違法性はありません。後は道義的な部分で議論があるに過ぎない。謂わば「収入の何割を仕送りに回すか」という話で、「出来れば多いにこした事はない」し、「余りにも少なすぎるのは如何なものか」という議論はある。しかし、それは人それぞれであり、当事者が話し合えば良い話であって、第三者の政治家が道徳を振りかざして民事介入すべき事ではありません。若しそんな理屈が通ってしまうなら、戦時中の「贅沢は敵だ」みたいに、国民は自由におしゃれも出来なくなります。
第二点は、上記と関連して「生活保護上の家族の扶養義務の捉え方が余りにも狭量過ぎはしないか」という点です。確かに生活保護法第77条には、「家族の扶養義務が公的扶助に優先する」との規定があります。しかし、それはあくまでも優先規定にしか過ぎず、生活保護適用の絶対要件ではない筈です。幾ら形式上は扶養義務者がいても、実際はDVや離縁などで援助なんて求められない人も決して少なくありません。そんな人に杓子定規にこの規定を適用しても、行政による古傷暴きやセカンドレイプにしかならず、DV被害者に至っては身元が割れて再び被害に遭う可能性すらあります。現に、ここ数年、北九州や札幌などで生活保護門前払いの「水際作戦」による餓死者が続出しているのも、行政がこの規定を杓子定規に適用したからではありませんか。
第三点は、「不正受給だけが生活保護の問題点なのか」という点です。
①「生活保護受給者が200万人を超え史上最高記録を更新中」ですが、そもそも受給者と同等かそれ以下の相対的貧困層(年収200万円以下のワーキングプア)が全労働人口の約16%、1千万人は確実にいると言われる中で、実際の受給者が200万人しかおらず、残りは放置されている漏給(受給漏れ)の現状の方がよっぽど大問題ではないでしょうか。
②生活保護激増の背景には、年金も最低賃金も失業保険も先進国中最下位の給付水準に甘んじる中で、「生活保護ぐらいしかまともに機能しているセーフティネットがない」という面もあります。受給者を食い物にする「貧困ビジネス」にしても、安価な公営住宅を用意できない役所が彼らを必要悪として見逃し泳がせてきた面がある。問題は、寧ろそういった低年金や住宅難などの低福祉にあるのであって、そこを正さない限り生活保護だけを叩いても意味はないと思いますが、その点については如何お考えですか。
③かつては生活保護受給額もパンツ1着買えないほどの低給付でした。それを1950年代に故・朝日茂さんが「人間裁判」を闘う中で、「憲法25条の生存権保障は国民の基本的人権であって、単なる選挙公約などではない。それを予算の都合などで放棄する事は許されない」という認識が国民全体に広まったからこそ、今の給付水準にまで到達したのです。昨今、低年金や低賃金と比べて生活保護の「厚遇」ぶりがマスコミなどで取り上げられています。私は、そんな議論こそ「下見て暮らせ傘の下」の卑屈な発想に基づくものであり、朝日茂さんの意志を踏みにじり、歴史の歯車を昔に戻す「反動」思想でしかないと思いますが、その点については如何お考えですか。
④そもそも、何故そんな状況に立ち至ったのか。生活保護受給者が激増したのも、自殺者が毎年三万人を超えるようになったのも、ブラック企業がのさばり労働災害が増加の一途を辿るようになったのも、90年代後半以降の大企業による正社員リストラや、3%から5%への消費税増税、労基法・派遣法の相次ぐ改悪による偽装請負などの違法行為の横行が原因ではないですか。リーマンショックなんてその最たるものでしょう。その根本原因を作った悪政を糺さずに、生活保護受給件数の僅か0.3%しかない不正受給だけを言い募るのは、「弱者叩き」による鬱憤晴らし以外の何物でもないと思いますが、その点については如何お考えですか。
第四点は、今回の事件の社会的影響についてです。先生は世耕弘成議員とともに自民党の生活保護見直しプロジェクトチームの一員であると聞き及んでいます。今回の件で小宮山厚労相が早速、生活保護受給額の1割削減を言い出しています。先生にとっては正に「してやったり」という所でしょうが、私は、そんな事をしても不正受給は減らないし、寧ろ生活保護の申請にブレーキがかかり今以上に餓死者が増えるだけだと危惧していますが、その点については如何お考えでしょうか。
私にとっても生活保護見直し問題は決して他人事ではありません。今はどうにか生活保護のお世話にならずに済んでいますが、低賃金で何の保障もない非正規職で食べていくのがやっとこそさの状況で、持病の腰痛も次第に悪化してくる中で、いつ何時私も生活保護のお世話にならざるを得ないとも限りません。しかし、生活保護受給がまるで何か悪い事のように言われる昨今の風潮の中では、それもままなりません。世間の心無い人たちは生活保護受給者を「ゴネ得」と謗ったりしますが、寧ろ世間のそういった差別こそが、生活保護受給者を自暴自棄に追いやり、パチンコ依存症などにさせているのだと思います。
また、私はつい最近、高齢の母親を病気で亡くしましたが、母は私も含めて家族があれだけやかましく言っても、最後まで医者にかかりませんでした。そして最後の最後になって救急搬送され病院で亡くなりました。自民党の伊吹元大臣が、かつて国民に対して「人権を優遇され過ぎている」という意味で「人権メタボ」と揶揄された事がありましたが、寧ろ私は逆ではないかと思います。戦前生まれで我慢する事しか知らず、医療を受けるという当然の権利すら、何か世間に迷惑をかけるように思っていた母こそが、「人権飢餓」の犠牲者ではないかと思っています。
もうこんな悲劇は二度と繰り返したくありません。世論の喚起を促すためには、本メールのウェブ公開も辞さない覚悟です。以上の諸点について、先生のお考えを是非拝聴したく、不躾は承知の上で敢えてメールした次第です。お返事もメールにて返信いただければ幸甚に存じます。
2012(平成24)年5月30日
扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために
第1 はじめに
人気お笑いタレントの母親の生活保護受給を週刊誌が報じたことを契機に,生活保護制度と制度利用者全体に対する大バッシングが起こっている。
そこでは,扶養義務者による扶養が生活保護適用の前提条件であり,タレントの母親が生活保護を受けていたことが不正受給であるかのような論評が見られるが,現行生活保護法上,扶養は保護の要件ではない。
息子であるタレントの対応に対する道義的評価については価値観が分かれるところかもしれないが,本件が不正受給の問題でないことは明かである。
また,扶養が保護の要件となっていない現行法を非難する主張に応えて,小宮山厚生労働大臣が,「親族側に扶養が困難な理由を証明する義務を課す」という事実上扶養を生活保護利用の要件とする法改正を検討する考えを示す事態にまで発展している。
しかし,生活保護利用者の息子が人気タレントとなって多額の収入を得るに至るという,極めて例外的な事例を根拠に,現在改正の在り方を関係審議会に諮問中の厚生労働大臣が,法改正にまで言及すること自体,軽率のそしりを免れない。そもそも,扶養が保護の要件とされていないのには理由があるのであり,これは先進諸外国にも共通しているところである。扶養を保護の要件とすることは,救貧法時代の前近代社会に回帰する大「改正」であり,ただでさえ「スティグマ(恥の烙印)」が強くて利用しにくい生活保護制度をほとんど利用できないものとし,餓死・孤立死・自殺の増加を招くことが必至である。
まずは,民法上の扶養義務の範囲と程度はどのようになっているのか,現行生活保護制度における扶養義務の取扱いはどのようになっているのか,先進諸外国の制度はどうなのかについて,正確な理解をした上で,報道や議論をしていただきたく,本書面を発表する次第である。
第2 民法上の扶養義務者の範囲と程度について
1 民法上の扶養義務者の範囲
~三親等内の親族が扶養義務を負うのは極めて例外的な場合である。
扶養義務の根拠条文である民法752条には「夫婦は同居し,互いに協 力し扶助しなければならない。」,同法877条1項には,「直系血族及び兄弟姉妹は,互いに扶養をする義務がある。」,同条2項には「家庭裁判所は,特別の事情があるときは,前項に規定する場合の外,三親等内の親族間においても扶養の義務を負わせることができる。」と定められている。
同法877条1項に定められた直系血族と兄弟姉妹が絶対的扶養義務者と呼ばれているのに対し,同条2項に定められた三親等内の親族は相対的扶養義務者と呼ばれ,家庭裁判所が「特別の事情」があると認めた例外的な場合だけ扶養義務を負うものとされている。
判例上も,三親等内の親族に扶養義務を認めるのは,それを相当とされる程度の経済的対価を得ている場合,高度の道義的恩恵を得ている場合,同居者である場合等に,できる限り限定して解されている(新版注釈民法(25)771頁)。
2 求められる扶養の程度
~強い扶養義務を負うのは,夫婦と未成熟の子に対する親だけである。
~兄弟姉妹や成人した子の老親に対する扶養義務は,「義務者がその者の社会的地位にふさわしい生活を成り立たせたうえでなお余裕があれば援助する義務」にとどまる。
~具体的な扶養の方法程度は,まずは当事者の協議で決める。
~協議が調わないときは家庭裁判所が決めるが,個別ケースに応じて様々な事情を考慮するので一律機械的にはじき出されるものではない。
求められる扶養の程度について,民法上の通説は次のように解している。
① 夫婦間及び親の未成熟の子に対する関係…生活保持義務関係
生活保持義務とは,扶養義務者が文化的な最低限度の生活水準を維持した上で余力があれば自身と同程度の生活を保障する義務である。
② ①を除く直系血族及び兄弟姉妹…生活扶助義務関係
生活扶助義務とは,扶養義務者と同居の家族がその者の社会的地位にふさわしい生活を成り立たせた上でなお余裕があれば援助する義務である。
つまり,強い扶養義務を負うのは,夫婦と未成熟の子に対する親だけで あり,兄弟姉妹同士,成人した子の老親に対する義務(今回のタレントの事例),親の成人した子に対する義務は,「義務者がその者の社会的地位にふさわしい生活を成り立たせたうえでなお余裕があれば援助する義務」にとどまる。
そして,民法879条は,「扶養の程度又は方法について,当事者間に協議が調わないとき,又は協議することができないときは,扶養権利者の需要,扶養義務者の資力その他一切の事情を考慮して,家庭裁判所が,これを定める」と規定している。つまり,親族間の援助に関することであるから,具体的な扶養の程度又は方法の決定にあたっては,国家による介入は控え,まずは当事者間の協議に委ねて,その意思を尊重することとしている。
協議が調わない場合には家庭裁判所がこれを定めるが,その場合には,権利者の需要(困窮度),義務者の資力だけでなく,権利者の落ち度,扶養に関する合意(当事者の意思),両者の関係の強弱・濃淡,当該地域の扶養慣行,社会保障制度の利用状況や利用可能性等を総合考慮して決するものとされており,機械的・一律に金額が算定されるようなものではない(前掲796頁)。
3 扶養義務を過度に強調することは現代社会に合わない
そもそも,民法が親族扶養を定めていること自体,その根拠は明確でないとされている(新版注釈民法(25)726頁)。
一応,親族共同生活体という観念上の存在が法的に承認され,その限度で生活共同の義務が認められているものと考えられているが,「無縁社会」とまでいわれる現在,この「親族共同生活体」という観念がますます実体を欠くものとなっていることは明らかである。すなわち,そもそも,民法上の扶養義務を強調すること自体,現代社会の実態と合わないともいえる。
「近時,少子化,核家族化とともに兄弟姉妹の数も少なく,これらの者が成人した後隣居生活をすることは稀であり,それぞれ離れて独立の生活を送っている場合には交流も少なくなる」ことから,兄弟姉妹については,三親等内の親族同様,「特別の事情」がある場合に家庭裁判所の審判によって扶養義務を負わせるようにすべきとの見解もある(同前771頁)。
後述のように,先進諸国では,別居の兄弟姉妹はもちろん,別居の成人親子間において扶養義務を課す例はまれであることからしても,立法論としては,兄弟姉妹については扶養義務を廃止することも十分に検討に値する。
また,裁判所職員総合研究所監修のテキストは,「民法の認める親族的扶養の範囲は,近代法に類例をみないほど広範であり,特に現実的共同生活をしない親族にまで扶養義務を課していることを考えると,私的扶養優先の原則の適用に際しては,特に慎重な考慮を払うとともに公的扶助を整備強化することによってその補充性を緩和し,できるだけ私的扶養の機会を少なくすることが望ましい。」(司法協会編『親族法相続法講義案(6訂補訂版)』195頁)と述べているが,後に述べる先進諸外国の制度との対比からも真っ当な方向性といえる。
第3 扶養義務と生活保護との関係について
1 扶養義務者による扶養は保護の要件ではない
保護の要件について定めた生活保護法4条1項の規定は,「保護は,生活に困窮する者が,その利用し得る資産,能力その他あらゆるものを,その最低限度の生活の維持のために活用することを要件として行われる」と定めている。これに対し,生活保護法4条2項は,「民法に定める扶養義務者の扶養は保護に優先して行われるものとする」と定め,あえて「要件として」という文言を使っていない。
「扶養が保護に優先する」とは,保護受給者に対して実際に扶養援助(仕送り等)が行われた場合は収入認定して,その援助の金額の分だけ保護費を減額するという意味であり,扶養義務者による扶養は保護の前提条件とはされていない。
この点は,厚生労働省も,自公政権時代の2008年に「扶養が保護の要件であるかのごとく説明を行い,その結果,保護の申請を諦めさせるようなことがあれば,これも申請権の侵害にあたるおそれがあるので留意されたい。」との通知を発出している(昭和38年4月1日社保第34号厚生省社会局保護課長通知「生活保護法による保護の実施要領の取扱いについて」第9の2(『生活保護手帳2011年度版』288頁))。
2 扶養を保護の要件とするのは前近代社会への回帰
~旧救護法・旧生活保護法は「イエ(家)制度」を守るため扶養を保護の要件としていたが,現行生活保護法は,先進諸国の例にならい,扶養を保護の要件から外した。
1929年制定の救護法では,扶養義務者に扶養能力があるときは,まずは扶養義務者が扶養しなければならないとして,扶養が保護の要件とされていた。その趣旨は,家族制度・隣保制度が前提とされていたので,もし民法の認める扶養義務に対して何ら考慮を払わず,国家,公共団体が救護したとすれば,家制度はたちまち破壊され,救護は濫救となり弊害が続出することにあるとされていた(新版注釈民法(25)756頁)。
そして,1946年制定の旧生活保護法でも,「扶養義務者が扶養をなしうる者」は実際に扶養援助がなされていなくても保護の要件を欠くとされていたが,1950年制定の現行生活保護法ではこの欠格条項は撤廃されたのである。
現行生活保護法制定当時の厚生省保護課長であった小山進次郎は,その趣旨を次のように説明している。
「生活保護法による保護と民法上の扶養との関係については,旧法は,これを保護を受ける資格に関連させて規定したが,新法においては,これを避け,単に民法上の扶養が生活保護に優先して行わるべきだという建前を規定するに止めた。一般に公的扶助と私法的扶養との関係については,これを関係づける方法に三つの型がある。第一の型は,私法的扶養によってカバーされる領域を公的扶助の関与外に置き,前者の履行を刑罰によって担保しようとするものである。第二の型は,私法的扶養によって扶養を受け得る筈の条件のある者に公的扶助を受ける資格を与えないものである。第三の型は,公的扶助に優先して私法的扶養が事実上行われることを期待しつゝも,これを成法上の問題とすることなく,単に事実上扶養が行われたときにこれを被扶助者の収入として取り扱うものである。而して,先進国の制度は,概ねこの配列の順序で段階的に発展してきているが,旧法は第二の類型に,新法は第三の類型に属するものと見ることができるであろう。」(小山進次郎『改訂増補生活保護法の解釈と運用』119頁)
すなわち,1950年の段階で,私法的扶養を強調することは封建的で時代錯誤であるから,現行制度のように改めたものを,現代において扶養を生活保護の要件とすることは,60年以上も前の前近代的時代に逆行することになる。
3 扶養義務を果たさない扶養義務者に対する費用徴収
生活保護法77条1項は,「被保護者に対して民法の規定により扶養の義務を履行しなければならない者があるときは,その義務の範囲内において,保護費を支弁した都道府県又は市町村の長は,その費用の全部又は一部を,その者から徴収することができる。」と定めている。そして,同条2項は,「前項の場合において,扶養義務者の負担すべき額について,保護の実施機関と扶養義務者の間に協議が調わないとき,又は協議をすることができないときは,保護の実施機関の申立により家庭裁判所が,これを定める。」と定めている。
このように,生活保護法は,扶養義務者が真に富裕であるにもかかわらず援助しないケースでは,扶養義務者から費用を徴取できるとの規定をおいている。したがって,現行法でも,明らかに多額の収入や資産を有しているが扶養を行わない扶養義務者に対しては,この規定を利用して費用徴収をすることができる。しかし,この規定を一般に広く適用することは,事実上扶養を保護の要件にするのと類似の効果を招き,後に述べる弊害をもたらす危険があるので望ましくない。
報道によれば,今回のお笑いタレントのケースでは,高収入を得るようになってから福祉事務所と協議のうえ仕送り額を決めて仕送りをし,今年に入ってから増額もしたということである。タレントの年収と仕送り額によっては,道義上その金額の妥当性が問題になる可能性はあるが,前述のとおり,成人した子の老親に対する扶養義務は比較的弱い義務であり,具体的な扶養の金額は,当事者の意思も含めた様々な事情を総合考慮して決すべきものなので,額の当否を一概に判断するのは困難である。
いずれにせよ,福祉事務所と協議のうえ仕送り額が決められ,そのとおりの仕送りがなされていたということからすれば,少なくともタレントの母親の生活保護受給が「不正受給」にあたるものでないことは明らかである。
4 生活保護実務上の扶養義務の取り扱い
(1)違法な水際作戦の常套手段 ~後を絶たない餓死事件
前述のとおり,本来,扶養は保護の要件ではないが,現場では,保護の要件であるかのように説明して申請を断念させる「水際作戦」の常套手段とされている。
日弁連が2006年に実施した全国一斉生活保護110番の結果では,違法な水際作戦の可能性が高いと判断された118件のうち,「扶養義務者に扶養してもらいなさい」という対応が49件と最も多かった。
古くは,1987年1月,札幌市白石区の3人の子どもを持つ母親が,再三福祉事務所に保護を申請したにもかかわらず,福祉事務所が,「働けば何とか自活できるはず」「離婚した前夫(子の父)の扶養の意思の有無を書面にしてもらえ」などと主張して,保護申請として処理せず,放置した結果,「餓死」したという,余りにも有名な事件がある。
また,「保護行政の優等生」「厚生労働省の直轄地」と言われた北九州市において,2005年から3年連続で生活保護をめぐる餓死事件が発生したが,2007年の餓死事件は,生活保護の辞退を強要された52歳の男性が「おにぎり食べたい」という日記を残して死亡したためマスコミでも大きく報道された。このうち,2005年に北九州市八幡東区で起きた孤独死事件は,生前,生活保護の申請に何度も福祉事務所を訪れた被害者に,福祉事務所の担当者が,兄弟姉妹による扶養の可能性がないか確認してから来るようにと違法に追い返したことが原因であった。また,2006年の北九州市門司区での餓死事件も,福祉事務所の担当者が,子どもに養ってもらうようにとして違法に申請を拒絶したことが原因で起きた。
扶養義務を利用した追い返しは,水際作戦の常套手段となっており,少なくない餓死事件も引き起こしているのである。
(2)扶養照会自体が保護申請上の大きなハードルになっている
現行生活保護実務上,生活保護の申請があると福祉事務所は,直系血族(親子)と兄弟姉妹に対して,扶養が可能か否かについての照会文書(扶養照会)を送付する。扶養が可能であるとの回答が返ってくれば,具体的に幾らの仕送りが可能であるかの協議を行い,実際に仕送りがされた額を収入認定し,その分の保護費を減額するが,そうでない場合には,当該世帯の最低生活費を支給することになる。
しかし,それでも扶養照会の存在は,保護申請をためらわせる大きなハードルになっている。疎遠になっている親・兄弟姉妹に,生活保護を利用するほど困窮しているという“恥”を知らせたくないというプライドや意地から,生活保護の利用を拒絶し,過酷なホームレス生活を続けている人なども少なくない。
第4 先進諸外国の扶養義務の範囲と生活保護(公的扶助)制度との関係
1 イギリス
(1)扶養義務者の範囲
配偶者間(事実婚を含む)及び未成熟子(16歳未満)に対する親。いずれも同居が前提。
(2)扶養義務と公的扶助との関係
上記のとおり同居が前提であるので,世帯の問題として把握されることになり,そもそも「優先」関係すら問題にならない。
成人した子の老親に対する扶養義務もないので,今回のお笑いタレントのようなケースは問題になりえず,イギリス人に説明しても何が問題なのかさえ理解できないであろう。
2 ドイツ
(1)扶養義務者の範囲
偶者間,親子間及びその他家計を同一にする同居者。但し,高齢者,障害者に対する扶養義務は,年10万ユーロ(約1200万円)を超える収入がある親又は子。
高齢者や障害児を持つ世帯の貧困が社会問題となり、2003年に導入された「基本生計保障」制度において子と親の資産を合算した場合の保有限度を10万ユーロと高く設定することによって、事実上扶養義務の範囲を狭め、上記課題の解消を図った。
(2)扶養義務と公的扶助との関係
同居していない扶養義務者から実際に扶養が行われれば収入認定の対象となる。日本と同様,扶養は保護の要件ではなく,優先関係にあると言える。
同居していない扶養義務者が扶養を行わない場合,扶養請求権を実施機関に移転させて償還請求をすることができるが(日本の生活保護法77条と類似の規定),扶養権利者本人(未成年者は除く)が請求を望まない場合は例外とされている。すなわち,扶養を求めるかどうかを一義的には保護申請者に委ねており,実施機関は,当事者の意に反して扶養義務者に対する償還請求をすることはできない。
3 スウェーデン
(1)民法上の扶養義務者の範囲
配偶者間(事実婚(Sanbo)含む)及び未成熟子(18歳未満)に対する親。
(2)扶養義務と公的扶助との関係
イギリス同様世帯の問題であり,扶養の優先関係すら問題にならない。
高齢者が,生計援助(生活保護)の申請を行う場合,子ども夫婦と同居している場合であっても,高齢者自身の生活費と家賃(高齢者一人の分)が援助の要否判定の基礎となり,子どもに親の扶養(金銭面・介護面とも)をする義務を課すことはない。ましてや,同居していない子どもに扶養義務を課すことなどあり得ない。
したがって,今回のお笑いタレントのようなケースが問題になることはあり得ない。なお,スウェーデンでは,最低保障年金があり,年金額が低い場合は住宅手当などが加算される仕組みになっているため,高齢者が生計援助(生活保護)を受ける必要性があるケース自体がごく稀である。
4 フランス
(1)扶養義務者の範囲
夫婦間と未成年(事実上 25 歳未満)の子どもに対する親
(2)扶養義務と公的扶助の関係
イギリス,スウェーデン同様,優先関係すら問題にならない。
第5 扶養義務の強調は餓死・孤立死を招く
小宮山大臣が言及した「扶養義務者に扶養困難な理由の証明義務を課す」とか,一部で主張されているように福祉事務所の調査権限を強化し,扶養義務者の資産も含めて金融機関に回答義務を課すような法改正がなされれば,どうなるであろうか。
生活に困窮した人が,福祉事務所に生活保護の申請に行くと,親兄弟すべての資産や収入が強制的に明らかにされ,申請者本人が望まなくても,親兄弟は無理な仕送りを迫られることになるであろう。
これはほとんどの場合,親兄弟にとって歓迎せざることであって,親族関係は,むしろ決定的に悪化し破壊されるであろう。
あるいは,福祉事務所の窓口では,25年前の札幌市白石区での餓死事件のように,申請者に対し,「扶養義務者の扶養できない旨の証明書」をもらってくるようにと述べて追い返す水際作戦が横行するであろうが,法改正がなされれば,これは合法として容認され,餓死・孤独死・自殺事件が頻発することになるであろう。
そもそも,生活に困窮している人は,親族もまた困窮していることが多い上,さまざまな葛藤の中で親族間の交際が途絶えていることも多い。先に述べたとおり,現状でさえ,扶養照会の存在を理由に保護申請をためらう人が多数存在するのに,扶養が前提条件とされれば,前記のような親族間での軋轢をおそれて申請を断念する人は飛躍的に増大することは間違いがない。
日本の生活保護利用率は1.6%に過ぎず,現状でも先進諸国の中では異常な低さである(ドイツ9.7%,イギリス9.3%,フランス5.7%)。この状況に加えて,さらに間口を狭める制度改革がなされれば,確実に餓死・孤立死・自殺が増える。
これは,緩慢なる死刑である。しかも,死刑囚ですら糧食を保障されているのに,それさえ奪うという意味では死刑よりも残虐な刑罰である。何人もそのような刑罰を受けるいわれはないし,何人もそのような刑罰を科す権限はない。制度改革を進めた政治家や報道機関は,死者に対してどのような責任がとれるのか,冷静になって慎重に検討することが今,求められている。
かつて,2006年3月4日,大阪市立大学における日独ホームレス問題国際シンポジウムにおいて,前ドイツ連邦副議長であるアイティエ・フォルマー氏は,冒頭「その社会の質は,最も弱き人がどう扱われるかによって決定される」と挨拶され,「貧困者への施策を国政の最も重要な施策として位置づけ,国政を運用してきた」ことを強調された。
日本においても,政治と報道にどのような「貧困政策」を盛り込むのかが,その「質」のあり方とともに問われている。
以 上
http://seikatuhogotaisaku.blog.fc2.com/blog-entry-36.html
2011年11月9日
利用者数の増加ではなく貧困の拡大が問題である~「生活保護利用者過去最多」に当たっての見解~
生活保護問題対策全国会議 、全国生活保護裁判連絡会、全国生活と健康を守る会連合会、近畿生活保護支援法律家ネットワーク、東海生活保護利用支援ネットワーク、生活保護支援ネットワーク静岡、生活保護支援九州ネットワーク、神戸公務員ボランティア、関西合同労働組合、北九州市社会保障推進協議会、福岡生存権裁判弁護団、生存権裁判新潟弁護団、NPO法人青森ヒューマンライトリカバリー、東京借地借家人組合連合会、無年金者同盟、NPO法人多重債務による自死をなくす会コアセンター・コスモス、和歌山あざみの会、くにたち・あみてぃ、反貧困ネットワーク、反貧困ネットワーク栃木、反貧困ネットワーク神奈川、反貧困ネットワーク埼玉、反貧困ネットワークあいち、反貧困ネット北海道、ユニオンぼちぼち(関西非正規等労働組合)、京都健康よろずプラザ、兵庫県精神障害者連絡会、NPO法人神戸の冬を支える会、釜ヶ崎医療連絡会議、女性ユニオン東京、女性と貧困ネットワーク、しんぐるまざあず・ふぉーらむ、NPO法人しんぐるまざあず・ふぉーらむ・福岡、しんぐるまざあず・ふぉーらむ沖縄、女性のための街かど相談室 ここ・からサロン、発言するシングルマザーの会、NPO法人自立生活サポートセンター・もやい、全国クレジット・サラ金被害者連絡協議会、全国クレジット・サラ金問題対策協議会、笹島診療所、生活保障支援の会・名古屋、自由と生存の家実行委員会、NPO法人ほっとプラス、ホームレス総合相談ネットワーク、野宿者ネットワーク、みなから相談所、派遣労働ネットワーク・関西、社会保障解体に反対し公的保障を実現させる会、ホームレス法的支援者交流会、大阪いちょうの会(大阪クレジット・サラ金被害者の会)、非正規労働者の権利実現全国会議、全国追い出し屋対策会議、全国公的扶助研究会、夜まわり三鷹、日本アルコール関連問題ソーシャルワーカー協会、首都圏青年ユニオン、労働者福祉中央協議会(中央労福協)、反貧困ネットワークえひめ、NPO法人松山たちばなの会、全国「精神病」者集団(以上60団体)
(問合先)〒530-0047 大阪市北区西天満3-14-16 西天満パークビル3号館7階
℡06-6363-3310 FAX 06-6363-3320 生活保護問題対策全国会議 弁護士 小久保哲郎
厚労省は、本日、2011年7月の生活保護利用者数が現行生活保護法において過去最多となったと発表した。利用者数に関するこの間の報道は、その増加自体が問題であるかのようなものが多い。しかし、現在の経済不況や震災失業といった未曾有の危機的状況においても多数の国民が飢えることなく生活できているのは、憲法25条で保障された生活保護制度があればこそである。最後のセーフティネットとして機能している生活保護制度そのものの評価を下げるような報道には違和感を覚える。問題とすべきは、貧困そのものの拡大である。その結果として、やむなく生活保護を利用せざるを得ない人が増加しているのが実状である。
当会議は、「生活保護利用者数過去最多」に当たって、以下の見解を公表するものである。
第1 見解の趣旨
第1に、2011年6月の保護利用者数は204万1592人であったが、同年7月の同利用者数が約205万人となったといっても、保護率(保護利用者数の人口比)は約1.6%にとどまり、現行生活保護法において過去最多数の1951年時の保護率2.4%に比してまだ3分の2程度であり、実質的には過去最多とはいえない。
第2に、すべての国民、市民に最低生活を保障するという生活保護の目的からみると、貧困率16%(2009年)に対して、保護率は1.6%にとどまり、やっと10分の1しか捕捉していない。資産要件(貯金)を加味しても3割余りの捕捉にとどまる。
第3に、諸外国との比較においても、日本の生活保護率、捕捉率は際立って低い。よって、生活保護がその役割を十分に果たしているとは到底いえない。
現在求められているのは、貧困の拡大に対して、社会保障制度を拡充し、雇用を立て直すとともに、生活保護制度の迅速な活用によって生活困窮者を漏れなく救済することである。
第2 見解の理由
1 過去最多は過去最大を意味しない ~1951年204万6千人との比較の意味~
(1)利用者数ではなく、保護率で比較するべき
1951年度の保護利用者数は204万6千人であるが、当時の人口は8457万人であるから、保護率は2.4%になる。これに対して、2011年7月の利用者数が約205万人に達したといっても、現在の推計人口は1億2691万人であるから、保護率は1.6%にとどまる。すなわち、現在の保護率は、1951年の3分の2程度である。当時と同等の保護率になるには、保護利用者が現在の約1.5倍の309万人に達する必要がある。
このように、実質的に「過去最高水準」と言えるか否かは、利用者数ではなく保護率で比較すべきである。保護率で見ると、近年増加しているとはいえ、未だ「過去最高水準」には遠く及ばないことに留意すべきである。
(2)当時も膨大な漏給(保護漏れ)状態であった
当時は戦後の混乱期の影響が色濃く残っており、膨大な生活困窮者が存在していたが、生活保護によって救済されていたのは2割にも満たなかった。例えば、やっと戦後が終わったといわれる1955年でも、当時の厚生行政基礎調査(現・国民生活基礎調査)によれば、生活保護世帯の消費水準と同等かそれ以下の水準に留まっている世帯は、204万2千世帯、999万人にも上っていた。これに対して、当時の保護利用者は、66万1千世帯、192万9千人にとどまっていた。したがって、1951年の保護利用者204万6千人といっても、膨大な生活困窮者の中のごく一部分であることに留意すべきである。
(3)当時は社会保障制度が未整備であり、生活保護がワーキングプアを引き受けていた
当時は、戦後の混乱期の影響から、低賃金労働者が広範に存在していたが、社会保障制度が未整備な段階であった(最低賃金法は1959年、国民皆年金皆保険は1961年)。このため、1951年では、世帯主稼働世帯(世帯員のみ稼働除く)55.3%、1958年では稼働世帯(世帯員のみ稼働も含む)57.7%であった。これに対して、2010年11月の稼働世帯は13.4%にとどまる。1951年当時は、現在以上にワーキングプアを生活保護で支えなければならない状況であり、生活保護への負担がかかって当然であった(にもかかわらず、漏給が多かったのは(2)で述べたとおり)から、この点も留意すべきである。
2 先進諸外国に比べて日本の保護率は著しく低い
参考図 にあるように、日本の保護率は異常に低い。諸外国では、スウェーデンを始め、少なくとも日本の3倍以上である。また、捕捉率(収入ベースで、貧困水準未満の世帯中の保護利用世帯)も、イギリスを始め、少なくとも日本の3倍以上である。
3 生活保護利用者増加の背景にある雇用と社会保障制度の不全
(1)なぜ生活保護利用者が増えているのか
近年、稼働年齢層を含む「その他世帯」の比率が増加しているとはいえ13.5%にとどまり、高齢者世帯(44.3%)と傷病・障害者世帯(34.3%)が約8割を占めている(21年度)。すなわち、日本で生活保護利用者が増えているのは、まずもって、年金制度が未成熟で生活保障機能に乏しく、無年金低年金の高齢者や障害者が多数存在することに原因がある。また、非正規雇用の蔓延等によって雇用が不安定化し低賃金の労働者や長期失業者が増えたこと、雇用保険のカバー率が失業者の2割程度と著しく低いこと、子育て世代への支援が乏しく、低所得者に対する住宅セーフティネットもほとんど存在しないことなど、生活保護の手前にある雇用や社会保障制度の手薄さに原因がある。
こうした状況の中で「最後のセーフティネット」と言われる生活保護の利用者数が増えることはむしろ当然のことであり、多くの生活困窮者の生存を支えているという積極的な面にこそ目を向けるべきである。
問題は、「生活保護利用者が増えていること」や「生活保護利用者そのもの」にあるのではなく、そうならざるを得ない雇用やその他の社会保障制度の脆弱性にある。こうした生活保護利用者増加の真の原因を解決しないまま、生活保護制度や制度利用者を問題視することでは解決にならないし、中長期的には却って問題をこじらせることが明らかである。生活保護制度を切り縮めることではなく、低賃金・不安定雇用への規制を強化し、雇用保険、年金、健康保険、児童扶養手当、子ども手当、住宅手当、生活保障付き職業訓練などの中間的セーフティネットを充実することこそが求められている。
(2)すべての市民に最低生活を保障するという生活保護の目的からみてどうか
上記のとおり、貧困が広がる中、生活保護制度が積極的な機能を果たしつつあるものの、未だ十分にその本来の機能を果たし得ているとは言えない状況にある。
すなわち、相対的貧困率(2009年)は過去最高の16%に達している(2011年7月厚労省 )。これに対して、保護率は1.6%にとどまり、生活保護で救済されているのは、やっと1割である。資産要件(貯金)を加味しても3割余りの捕捉にとどまる(2010年4月厚労省)。この要因は、①生活保護水準以下の収入で生活しているにもかかわらず、現行の厳しい受給要件(最低生活費の1か月分以上の預貯金を保有していると保護が開始されない。自動車の保有や使用は原則として認められない。64歳まで稼働能力の活用を求められるなど)を満たさず受給できない世帯、②現行の受給要件を満たしているにもかかわらず、行政の違法な窓口対応(いわゆる「水際作戦」)や違法な指導指示によって保護から排除されている世帯、③行政の広報不足から自らが受給要件を満たしていることを知らない世帯、④世間の偏見、スティグマから申請を思いとどまっている世帯等、膨大な生活困窮者が生活保護から排除されていることにある。
以上のように、1951年当時の人口、生活保護での救済率、生活保護の目的、海外主要国の公的扶助率等から検証すると、日本の生活保護がその機能を十分に果たしているとは到底いえない。
4 「不正受給」は実態に即した冷静な議論と対策が必要
不正受給報道が多いため、生活保護=不正受給というイメージが蔓延している。しかし、「不正受給」の実態を、量的・質的な両側面から冷静に捉えることが必要である。
確かに、不正受給の絶対額は年々増えているが、それは、受給者増に伴い生活保護費の総額が増えていることに伴う当然のことである。発生率で見ると、2009年度では1.54%(発生件数/世帯数)、金額では0.33%にとどまり(別図表 )、大きな変動はない。
また、不正受給とされるケースの内実はさまざまである。北海道滝川市で06年-07年に起きた元暴力団員による巨額の通院移送費不正受給事件のように悪質なものもあるが、これは役所の姿勢の甘さにも根本的な問題がある。一方で、わずかな勤労収入の不申告が不正受給とされることも多い。そこには、高校生のアルバイト収入の扱いなど制度の側を見直すべきものも含まれる。
不正受給を解決するには、「不正受給」の背景や要因を、行政の責任も含めて明確にし、高校生のアルバイト収入等などの収入認定除外などの運用の改善、利用者へ申告義務の徹底、ケースワーカーの基準に従った配置(80利用世帯に対して1名)と専門性の向上などが重要である。
さらに、無料低額宿泊所、「福祉」アパート、悪質医療機関など、いわゆる「貧困ビジネス」といわれる問題についても、当事者が生活保護を受給していることに問題があるわけではない。生活保護受給者を食い物にする業者と、それを容認し、むしろ活用している行政に問題があるのであって、悪質業者に対する規制を強化することによって対応すべき事柄である。
第3 まとめ
現在求められているのは、過去最高の貧困の拡大に対して、雇用を建て直し、雇用保険を始めとする社会保険の充実、第2のセーフティネットなど生活保護に至る前の社会保障制度を拡充して、生活保護制度への負担を軽減することである 。また、それらの社会保障制度から漏れる市民を、生活保護制度の迅速な活用によって漏れなく救済することである。
以 上
(1)保護率・捕捉率の国際比較
1 保護率 ~日本の保護率(利用者/人口)は異常に低い。
(注)アメリカはSNAP(補足的栄養扶助)
(図表省略)
2 捕捉率 ~日本の捕捉率(貧困水準未満の世帯中の保護利用世帯)も低い。
(注)日本・スウェーデンは当該国の公的扶助水準比、独・仏・英はEU基準比(所得中央値の60%、英は求職者)
(図表省略)
(2)相対的貧困率…日本に住む人を、所得の低い人から高い人からへ順番に並べ、まん中にあたる人の所得(中央値)の半分(112万円)に満たない人の割合。収入金額では、単身世帯では月収9万3千円未満、4人世帯では同じく18万6千円未満の世帯に属する人口の割合。結果的には生活保護基準とさほど変わらない。
(3)(図表省略)
(4) 雇用状況等のデータ一覧
○ 完全失業率4.3%、完全失業者数276万人。有効求人倍率0.66倍(パート込み)。正社員は0.39倍。91万人分の仕事が足りない状況(いずれも2011年8月))
○ 完全失業者に対する失業給付のカバー率は20.9%(2008年)。
○ 基礎年金のみか旧国民年金受給者数は852万人、年金月額4万8,900円(2009年)
○ 国民健康保険料滞納世帯445万(全加入世帯中20.8%)、短期証交付世帯数120万、資格証世帯31万(いずれも2009年)。資格証の受診率は一般世帯の53分の1。国民年金保険料滞納世帯は4割超
○ 2011年10月から職業訓練中の生活保障給付制度が法制化され、求職者支援法が施行された。これは一歩前進といえるが、現在実施されている住宅手当制度も支給対象や内容を拡充したうえで、欧米諸国と同様に、より普遍的な家賃補助制度として法制化することが求められる(このままでは2012年3月で終了)。
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生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明
生活保護問題対策全国会議 代表幹事 弁護士 尾藤廣喜
全国生活保護裁判連絡会 代表委員 小 川 政 亮
1 人気お笑いタレントの母親が生活保護を受給していることを女性週刊誌が報じたことを契機に生活保護に対する異常なバッシングが続いている。
今回の一連の報道は、あまりに感情的で、実態を十分に踏まえることなく、浮足立った便乗報道合戦になっている。「不正受給が横行している」、「働くより生活保護をもらった方が楽で得」「不良外国人が日本の制度を壊す」、果ては視聴者から自分の知っている生活保護受給者の行状についての「通報」を募る番組まである。一連の報道の特徴は、なぜ扶養が生活保護制度上保護の要件とされていないのかという点についての正確な理解(注1)を欠いたまま、極めてレアケースである高額所得の息子としての道義的問題をすりかえ、あたかも制度全般や制度利用者全般に問題があるかのごとき報道がなされている点にある。
つまり、①本来、生活保護法上、扶養義務者の扶養は、保護利用の要件とはされていないこと、②成人に達した子どもの親に対する扶養義務は、「その者の社会的地位にふさわしい生活を成り立たせた上で、余裕があれば援助する義務」にすぎないこと、③しかも、その場合の扶養の程度、内容は、あくまでも話し合い合意をもととするものであること、④もし、扶養の程度、内容が、扶養義務の「社会的地位にふさわしい生活を成り立たせ」ることを前提としても、なお著しく少ないと判断される場合には、福祉事務所が、家庭裁判所に扶養義務者の扶養を求める手続きが、生活保護法77条に定められていることなどの扶養の在り方に関する正しい議論がなされないまま、一方的に「不正受給」が行なわれているかのごとき追及と報道がなされているのである。
また、そこでは、①雇用の崩壊と高齢化の進展が深刻であるのに雇用保険や年金等の他の社会保障制度が極めて脆弱であるという社会の構造からして、生活保護利用者が増えるという今日の事態はて当然のことであること、②生活保護制度利用者が増えたといっても利用率は1.6%に過ぎず、先進諸国(ドイツ9.7%、イギリス9.3%、フランス5.7%)に比べてむしろ異常に低いこと,③「不正受給」は、金額ベースで0.4%弱で推移しているのに対して、捕捉率(生活保護利用資格のある人のうち現に利用している人の割合)は2~3割に過ぎず,むしろ必要な人に行きわたっていないこと(漏給)が大きな問題であることなど,生活保護制度利用者増加の原因となる事実が置き去りにされている。(注2)
さらに、今回の一連の報道は、厳しい雇用情勢の中での就労努力や病気の治療など、個々が抱えた課題に真摯に向き合っている人、あるいは、苦しい中で、さまざまな事情から親族の援助を受けられず、「孤立」を余儀なくされている高齢の利用者など多くの生活保護利用者の心と名誉を深く傷つけている。
2 ところで、今回のタレントバッシングの中心となった世耕弘成議員と片山さつき議員は、自民党の「生活保護に関するプロジェクトチーム」の座長とメンバーである。
そして、同党が2012年4月9日に発表した生活保護制度に関する政策は、①生活保護給付水準の10%引き下げ、②自治体による医療機関の指定、重複処方の厳格なチェック、ジェネリック薬の使用義務の法制化などによる医療費の抑制、③食費や被服費などの生活扶助、住宅扶助、教育扶助等の現物給付化、④稼働層を対象とした生活保護期間「有期制」の導入などが並び、憲法25条に基づき、住民の生存権を保障する最後のセイフティーネットとしての生活保護制度を確立するという視点を全く欠いた、財政抑制のみが先行した施策となっている。
かつて、小泉政権下においては、毎年2200億円社会保障費を削減するなどの徹底した給付抑制策を推進し、その行きつく先が、「保護行政の優等生」「厚生労働省の直轄地」と言われた北九州市における3年連続の餓死事件の発生であった。今回の自民党の生活保護制度に関する政策には、こうした施策が日本の貧困を拡大させたとして強い批判を招き、政権交代に結びついたことに対する反省のかけらも見られない。
さらに問題なのは、社会保障・税一体改革特別委員会において、自民党の生活保護に関する政策について、現政権の野田首相が「4か3.5くらいは同じ」と述べ、小宮山厚生労働大臣が「自民党の提起も踏まえて、どう引き下げていくのか議論したい」と述べていることである。
そこには、「国民の生活が第一」という政権交代時のスローガンをどう実現していくか、また、「コンクリートから人へ」の視点に基づき、貧困の深刻化の中で、この国の最低生活水準をどう底上げしていくのかという姿勢が全く見られない。
そもそも、生活保護基準については、2011年2月から社会保障審議会の生活保護基準部会において、学識経験者らによる専門的な検討が進められているのであり、小宮山大臣の発言は、同部会に対して外部から露骨な政治的圧力をかけるものであって部会委員らの真摯な努力を冒涜するものと言わなければならない。
そのうえ、小宮山大臣は、「親族側に扶養が困難な理由を証明する義務」を課すと事実上扶養を生活保護利用の要件とする法改正を検討する考えまで示している。しかし、今回のタレントの例外的な事例を契機に、制度の本来的在り方を検討することなく、法改正を行うということ自体が乱暴極まりない。また、生活困窮者の中には、DV被害者や虐待経験者も少なくなく、「無縁社会」とも言われる現代社会において、家族との関係が希薄化・悪化・断絶している人がほとんどである。
かつて、札幌市白石区で25年前に発生した母親餓死事件は、まさに、保護申請に際して、この扶養をできない証明を求められたことが原因となって発生した事件であった。
かかる点を直視することなく、法改正を行えば、ただでさえ利用しにくい生活保護制度がほとんど利用できなくなり、「餓死」「孤立死」などの深刻な事態を招くことが明らかである。小宮山大臣は、国民の生活保障に責任をもつ厚生労働大臣として、マスコミに対して冷静な対応を呼びかけるべき立場にありながら、混乱に翻弄されて軽率にも理不尽な法改正にまで言及しており、その職責に反していると言わざるを得ない。
3 今年に入ってから全国で「餓死」「凍死」「孤立死」が相次いでいるが,目下の経済状況下で、雇用や他の社会保障制度の現状を改めることなく、放置したままで生活保護制度のみを切り縮めれば、餓死者・自殺者が続発し、犯罪も増え社会不安を招くことが目に見えている。
今求められているのは、生活保護制度が置かれている客観的な状況を把握し、制度利用者の実態に目を向け、その声に耳を傾けながら、冷静にあるべき方向性を議論することである。
当会は,報道関係各位に対しては、正確な情報に基づく冷静な報道を心掛けていただくようお願いするとともに、民主党政権に対しては、今一度政権交代時の「国民の生活が第一」の原点に戻った政権運営を期待し、自民党に対しては、今回の生活保護制度に関する政策の根本的見直しを求め、本緊急声明を発表する次第である。
注1:生活保護制度における扶養義務の取扱いについての詳細については、別に発表する見解を参照されたい。
注2:詳細は、当会ほか59団体の2011年11月9日付「利用者数の増加ではなく貧困の拡大が問題である~生活保護利用者「過去最多」にあたっての見解~」を参照されたい。
http://seikatuhogotaisaku.blog.fc2.com/blog-entry-33.html
お笑い芸人「次長課長」の河本準一が、母親の面倒を見ずに生活保護に頼りきりにさせたと、ここ数日大騒ぎになっていますが、何故そんな騒ぎになるのか全然理解出来ません。この問題を取り上げた「絵文録ことのは」というブログの記事によると、実際の経過は次のようなものでした。
1.母は病気のため働けなくなり、自分で生活保護の手続きをしてきた。河本氏に福祉事務所から連絡があったが、当時の年収は100万円を切っており、生活費の援助ができなかった。そこで生活保護受給が始まった。
2.数年後(5年ほど前)、全国のテレビ出演ができるようになり、福祉事務所から援助の問い合わせがあったため、援助を開始した。この援助額については福祉事務所に連絡してあり、その分が生活保護から減額されている。
3.さらに数年後、事務所から援助増額の相談があり、増額した。その分はもちろん生活保護から減額されている。
4.そしていよいよ生活保護の必要がなくなり、生活保護は打ち切りとなった。
これを読む限り、河本には別に何の落ち度もありません。意図的に収入を誤魔化したり粉飾していた訳ではないのですから。最初は母親を養えず福祉の世話になっていたが、その後次第に芸人として軌道に乗るに従い、福祉事務所の求めに応じて母親にも仕送りするようになった。勿論、その仕送りの開始時期や仕送り額が果たして適正だったかどうかという問題はあります。本当はもっと早く仕送りを開始すべきだった、或いはもっと多額の仕送りをすべきだったのに、福祉事務所からの詰めが甘かったのを良い事に、ついついそのままにしてしまったというのが、恐らく実際の所ではないでしょうか。
そんな事は、私たちの間でもよくある話でしょう。謂わば「毎月の給料のうち幾らを仕送りに回せるか」といった類の、個人の資質・能力に属する問題です。毎月10万円回せる強者もおれば、全然回せない「親のスネカジリ」もいる。そりゃあ後者は前者より「考えが甘い」のかも知れませんが、別に犯罪を犯している訳でも何でもない。そもそも、そんな個人的な事で第三者からとやかく言われる筋合いはない。そんな問題を、何故さも国家の一大事であるかのように、政治家やマスコミが取り上げるのかが全然理解できない。そんな問題で大騒ぎするなら、かつての住専・銀行や今の東電への公的資金投入の方が、よっぽど道義や道徳に反しているのではないでしょうか。
それで大騒ぎした末に出てきた議論が、生活保護費の切り下げや受給の厳格化とは。片山さつきが、この問題で、さも鬼の首でも取ったように大はしゃぎしていますが、私は寧ろ河本よりも、火付け役の片山や世耕弘成(ひろしげ)のこれらの発言の方が、よっぽど犯罪的だと思いますね。
http://satsuki-katayama.livedoor.biz/archives/7114897.html
その結果どういう事が起こるか。それは、数年前に北九州市で起こった生活保護門前払いの「水際作戦」による孤老の「おにぎり食べたい」餓死事件や、今年に入ってからも札幌で起こった姉妹の餓死事件を見れば、一目瞭然ではないですか。これはもはや「個人の資質や能力、甲斐性」なんかでは済まされない、国家権力による立派な「殺人」です。片山さつきや世耕弘成はそれに手を貸したも同然です。謂わば、この2人が北九州の老人や札幌の姉妹を死に追いやったと言っても、過言ではないでしょう。
(札幌)40代姉妹死亡 生活保護の申請を窓口で拒否され追い返される
これは決して身寄りのない人間だけに当てはまる問題ではありません。一応身寄りがあっても、実際は親や子が経済的に困窮していて頼れなかったり、勘当されたり音信不通で親子の縁が切れていたり、DVなどで頼るどころではないケースも決して少なくない事は、ホームレスやネットカフェ難民、「派遣村」の惨状を見れば分かるでしょう。先述の「絵文録ことのは」でも列挙されていた、次の様な事が起こるのです。
1.「援助可能な収入のある親族」が存在するものの、実際には援助を受けられない立場の人たちが、ただ単に「援助可能な人がいる」というだけで生活保護を受けられなくなること。
2.不正受給は改善すべきであるが、単純に「不正受給をなくすためには受給条件を厳しくすればよい」という流れになって結局、必要な人に必要な生活保護が認定されないこと。
3.不正受給の追及にのみ専念し、生活保護を必要とする人が増えている現状を何も変えようとしないこと。
4.そもそも、不正受給分が適正に配分されたとしても、生活保護が全然足りていないという現状から目をそらし、「不正受給のせいで必要な人に回らない」という考えで不正受給叩きに専念すること。(注:今でも実際の受給者は有資格者の約2割のみ)
5.門前払いが厳しすぎたり、一度受給すると生活保護から抜けることが難しくなるという現状の問題点が見逃されること。
6.別に不正でも何でもないことを不正だ不正だと騒ぎ立てることに対して疑問を抱いたら「不正受給者を擁護する」と扱われること。
7.「自分の払った税金」が他の人に使われることに対する嫌悪感が拡大すること。(注:そんな嫌悪感が広がれば社会保障自体が成り立たなくなる)
8.「払えるのに払わなかったのは許せない」という道徳・倫理的な「反感」が、いつの間にか「社会正義」扱いされ、巨大な圧力となって数々の弊害を招くこと。
9.「子は親を養って当然(社会に養わさせるな)」が今後の高齢化社会においても強固な信念として抱かれ続け、その結果として自分の親の介護負担が過重なものとなってそこから逃れられなくなること。(注:今や子の扶養義務だけではどうにもならなくなったから介護保険も生まれたのだろう)
10.河本氏と無関係な「民族問題」になぜか結びつけられること。(注:何でも在日外国人の犯罪に結びつけ、貧困・格差の目くらましに利用されるという事)
福祉は「憐み」や「思し召し」なんかではありません。基本的人権の一つです。そうであるにも関わらず、福祉を人権(生存権)として捉えられず、まるで「施し」であるかのように捉え、「財源がなければ仕方がない」とか「有難く頂戴しろ」といった議論が横行しています。財源がなければ餓死しても良いのか。そんな目にあわされても「有難く頂戴」しなければならないのか。
実際の不正受給者は生活保護受給者全体の僅か0.3%、千人のうちで3人いるかいないかなのに、さもそれが一杯いるかのように報道されています。生活保護費を巻き上げタコ部屋みたいな所に押し込める所謂「貧困ビジネス」にしても、実際は行政の一部も、貧弱な福祉予算や公営住宅の受け皿として見逃してきたくせに、問題が明るみに出た途端に、それを更なる福祉削減の口実に利用しようとしているのです。不正受給の事案の中には、大阪・岸和田や北海道の事例の様に、福祉削減の口実の為に、右翼暴力団を泳がせてきたものも、少なからずあるのではないでしょうか。
その挙句に生活保護費の切り下げとは。昔は生活保護費も雀の涙ほどの、それこそパンツ一枚も買えないような金額だったのです。それに対して、朝日茂さんという方が「人間としての生活を取り戻す闘い」に立ち上がり、その「人間裁判」の運動の成果によって、ようやく今の水準に到達したのです。片山さつきや世耕弘成のやっている事は、その朝日茂さんの遺志を踏みにじり、歴史の針を逆向きに回すものでしかない。
これは決して他人事ではない。今はどうにか働く事が出来る私でも、いつ何時腰痛が悪化して生活保護を受けなければならなくなるか分からないのですから。生活保護なんて、受けずに済めばそれに越した事はないのです。最低限度の生活費だけしか貰えず貯金もままならない、誰がそんな生活を好き好んでするものですか。それでも働く事が出来なくなれば、嫌でも生活保護に頼らざるを得ないのです。そんな最低限の権利(何度も言うが、これは決してお恵みなんかではない!)すら認めないとは、もはや鬼畜の所業とも言うべきものです。私は絶対にこいつらを許さない。
人間裁判―朝日茂の手記 | |
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※引き続き追記あり:この件に関する生活保護問題対策全国会議の声明文を、参考資料として当ブログにも必要に応じて転載していきます。下記リンクをクリックしてお読みください。このブログにも、「河本の母親が生活保護を辞退したのはつい1ヶ月前じゃないか」とかいう、しょうもない難癖コメントが来ましたが(当然削除)、そんな事で当然の権利行使が制限される筋合いはないのです。
転載:生活保護制度に関する冷静な報道と議論を求める緊急声明(生活保護問題対策全国会議)
転載2:利用者数の増加ではなく貧困の拡大が問題である(同上)
転載3:扶養義務と生活保護制度の関係の正しい理解と冷静な議論のために(同上)
まずは本題に入る前に上の動画を見て下さい。大飯原発再稼働を決めた福井県おおい町の、マスコミ取材に応じる町議会議長の姿です。再稼働容認に至る経緯を説明する重要な記者会見の場に遅刻しておきながら、理由を聞かれても逃げ回った末に、「腹痛でトイレに行っていた」と居直る。一言インタビューを求められても本当に「あ」の一言で誤魔化す。まるで、ふざけているとしか思えない態度の町会議長の胸に、北朝鮮・拉致被害者支援のブルーリボン。
この動画は、友好ブログの原発関連記事にアップされていたものですが、私はこれを見て無性に腹が立ちました。北朝鮮拉致が明るみに出てからこの方、今まで散々「左翼や人権派は北朝鮮拉致に目をつむってきた」と叩かれ、私自身もそれを不甲斐なく思ってきました。しかし、その左翼や人権派を批判する側のモラルはどうなのか。この国では、こんなふざけた人物でも、ブルーリボンを胸に付け愛国者を装えば町議会議長になれるのか。これでは、ブルーリボンや北朝鮮拉致問題が、今や悪徳政治家や悪政推進の「目くらまし」「免罪符」に成り下がっていると言われても、仕方ないのではないでしょうか。
勿論、ブルーリボンを付けている政治家が全員こんな人物ばかりではないでしょう。しかし、その手の人物も決して少なくないというのが、私の正直な実感です。寧ろ「上から目線」で「人権」「生活弱者」への「こだわり」「縛り」がない分、左翼以上にモラルに問題のある政治家が多い。尖閣買取りや反中国発言で人気を集める一方で、女性を「ババア」呼ばわりし「精神障碍者には人格がない」と嘯く石原慎太郎や、朝鮮学校における指導者崇拝教育を批判しながら、己は北朝鮮まがいの職員思想調査や「君が代」斉唱口元チェックを煽る橋下徹、北朝鮮民衆の飢餓や中国国内の経済格差を批判しながら、当の日本では財界と一緒になって福祉削減や競争至上主義を煽る「勝ち組」保守系政治家などがその典型です。「小泉チルドレン」「安倍チルドレン」「橋下ベイビーズ」なぞ正にそうじゃないですか。
中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧 (文春新書) | |
クリエーター情報なし | |
文藝春秋 |
では本題に入ります。亡命ウイグル人組織の世界ウイグル会議が、この5月に東京で総会を開き、中国政府の少数民族抑圧政策を非難する一方で、組織代表のラビア・カーディル女史が右翼と一緒になって靖国神社に参拝した事が話題になりました。この間、母の葬儀で身辺がバタバタしていたので記事にするのが遅くなりましたが、今回はこの問題を取り上げたいと思います。
中国政府のウイグル・チベット侵略に抗議しながら、パトロンの右翼政治家に阿り、日本のアジア侵略の象徴たる靖国神社に参拝する。私から見たら卑屈としか思えない行為ですが、ウイグル人の立場からすれば「敵の敵は味方」という事であり、また「背に腹は代えられない」という事なのでしょう。それならそれで、まだ肯定は出来ないものの理解は出来る。しかし、では次の事例は一体どうなのか。
実は大阪の私の住んでいる市にも、尖閣諸島の防衛や中国に対する警戒を熱心に説く市議がいます。その手のデモにも何回か参加した事を、自身のブログでも自慢している人物です。しかし、その人物は一方で、市内や府下で手広く化粧品店チェーンを経営し、中国にも出店しています。反中国を煽りながら、自分は中国に出店し彼の国からもちゃっかり利益を得る。私からすれば「二股かけている」としか思えない行為ですが、それも「敵を手玉に取る」という事なのでしょうか。
その人物も、御多分にもれず先述の「勝ち組」政治家の典型で、橋下大阪市長の「君が代」強制や公務員リストラを支持し、私の市のゼネコン優遇予算に反対した市議をまるで非国民であるかのように批判しています。公立保育所の民営化を煽る一方で、国からの出向者を副市長に迎え高給優遇する現市政を擁護しています。「国とのパイプ役として必要」なのだと。保育所の職員は必要ないのか。
その「勝ち組」市議のビラ曰く、今は「大きな政府ではなく小さな政府」「民間に任せられる仕事は全て民間に」「競争によるコスト削減でサービス向上」が求められる時代で、市民も「市が何をしてくれるかではなく、自分自身が市や国の為に何が出来るか」を考えなければならないのだと。
もうアホかと思いますね。競争や民営化でいくらコストが削減されても、その利益は民間企業に吸い取られるだけで、市民サービスや福祉向上には全然還元されなかったじゃないか。もたらされたのは経済格差拡大やリストラ・過労死・ブラック企業の横行だけであり、安全手抜きのJR福知山線事故や、八ツ場ダムやWTCビルのような更なる箱モノ行政だけじゃなかったか。偉そうに上から目線で「何してくれるかではなく、何が出来るか考えろ」とのご宣託だが、そもそもそれ以前に一体「何をしてくれた」というのか。実際は「何もしてくれなかった」くせに、その上更に「何が出来るか考えろ」とは、盗人猛々しいにも程がある。
これは勿論その「勝ち組」市議の問題であり、世界ウイグル会議やラビア・カーディル女史には直接関係ない事です。しかし、昨今この手の「中国や北朝鮮の人権侵害を非難しながら、当の日本国内では思いっきり弱者の人権を侵害している」輩が跋扈しているのも事実です。そんな人物に担がれている限り、その運動に未来はないと言えるでしょう。これでは、かつて左翼が犯した「日本や米国の人権侵害を非難しながら、中国や北朝鮮の人権侵害には頬かむり」の姿勢と、まるで「コインの裏表」ではないですか。対象が日米、中国・北朝鮮と異なるだけで、やっている事の本質はまるで同じという意味では。
以前、赤木智弘というフリーターが、「反戦平和・格差解消を唱える左翼こそが、既得権益の上に胡坐をかいている」「もはや戦争でもなければ、フリーターは一生浮かび上がれない」と主張し、戦後知識人の「丸山眞男」を左翼の代名詞と見立てて、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」と書いた事がありました(関連記事参照)。その伝で行くと、上記の主張は差し詰め「『ラビア・カーディル』をひっぱたきたい」となるのでしょうか。
上記が当該「勝ち組」市議が駅前で撒いていたビラ。その中の赤枠で囲った部分が、先述の「市が何をしてくれるかではなく、自分自身が市や国の為に何が出来るか」の記述。
(以下、当該記事より引用開始)
●第一の誤りは、橋下氏は記者会見を議論であると捉えている点です。
橋下氏も5/13のツイートで「記者会見や囲み取材の場に来て、議論する覚悟がないなら来るべきではない。」などと述べており、記者会見を記者との議論だと捉えているのが伺えます。
しかしこれは誤りです。
これについて、詭弁術講座(2)でも書いていますが、今日は橋下氏が「頓珍漢な意見を言う市長」と揶揄した奈良県生駒市の山下市長のツイログから引用させていただきましょう。
http://goo.gl/o7yzB
(引用開始)
1 昨日、橋下市長がMBS記者とのやり取りについて、再度、ツイートしていた。その中に、「記者は忙しくて全てを勉強しているわけではないから記者が答えられなくてもしょうがないと言うどこかの市長の頓珍漢な意見」というフレーズがありました。
2 この「頓珍漢な意見」を言う市長とは私のことでしょう。橋下市長が激昂された記者会見を見て、思わずツイートしたことが波紋を呼び、橋下市長ご本人からも言及されるとは全く予想だにしておらず、改めてツイッターの拡散力に驚いた次第です。
3 さて、橋下市長の一連のご意見について、合点がいかない部分があり、懲りずにツイート致します。「僕は公人だから記者会見の場、朝夕囲み取材の場などでは出来る限り記者の質問には答える。しかしそれは一方的な僕の義務ではない。
4 (3からの続き)記者の認識に誤りがあったり、見解に合理性がなかったりすれば、当然僕から質すこともある。権力と記者のやり取りの中で真実が見えてくる。それが民主主義における議論の重要性だ。」との部分についてはその通りだと思います。
5 しかし、ここで考えてみたいのは、政治家が記者を通じて有権者に負っている説明責任と、記者が政治家に負っている説明責任が同じかということです。
6 政治家は有権者に対し自分が関係する政治課題について説明責任を負っています。ですから、自分に無関係なこと以外は、他に特別な理由がなければ、記者の質問に答える政治的責任があります。もちろん、ノーコメントもあり得ますが、それは納得できる理由がなければ有権者には理解されません。
7 一方、報道機関は有権者との関係で事実を正確に伝える社会的責任を負っています。従って、政治家から記者への質問は、記者の質問の趣旨がわからないとか、質問の内容が論理的に整合性を欠いているとかの場合に、質問の趣旨を踏まえたきちんとした回答をするためにするものです。
8 では、記者の質問の趣旨に関係なく、政治家が「記者はこのことを知っているか?」「記者はこれについてどう考えるのか?」など、質問することそのものを目的として記者に質問した場合に、記者は答える必要があるでしょうか。
9 私は、記者はそのような質問に答える必要はないと思います。なぜなら、記者は有権者との関係で事実を正確に伝える社会的責任は負っていますが、その際、自分の認識や見解を有権者に伝える責任は負っていないからです。
10 言い換えれば、記者やディレクターは自分の認識や見解を、自分の記事や番組の中で予め述べないと報道してはならないということはありません。世界中どこを探してもそのような報道ルールが確立している国は無いでしょう。
11 もちろん、前回ツイートしたように報道には何らかの形で報道する側の主観が入っています。そもそも記事や番組にするかどうか自体、報道する側が取捨選択するのですから、内容に主観が入るのは自明のこと。それを読み解き、真実に迫るのが、前々回申し上げたメディア・リテラシーということです。
12 ですから、記者は質問すること自体を目的としたような政治家の質問に答える必要は無いのです。今回、橋下市長の取った行動でさらにまずかったのは、その質問に答えないと、自分も記者の質問に答えないと言ってしまったことです。ここまで来ると、政治家の説明責任の放棄です。
13 そして、もっともっとまずかったのは、橋下市長は自分が答えを知っている質問に記者が答えないと、記者が橋本市長に発した質問(しかも、その質問と橋本市長が発した質問はあまり関係がない)に答えないと言われたことです。
14 例えて言えば、「自分の出すクイズに答えないと君の質問にも答えないよ」と。どうやら、橋下市長は、記者会見は記者との知恵比べの場と認識しているかのようです。
15 「僕はいつも事前のペーパーなしで記者とやり合っているとツイートで強調」されていることからも、記者会見を記者との知恵比べの場と勘違いされているかのような認識がうかがえます。
(一旦引用終了)
これを世間では「煙(けむ)に巻く」と言います。橋下の場合も、揚げ足取りの逆質問で話を逸らし、一方的な罵倒で記者を委縮させ、強引に白を黒と言いくるめようとしたのでしょう。しかし、肝心の中身がここまで錯誤だらけでは、それをトークで誤魔化そうとしても、もはや無理です。「策士、策に溺れる」という言葉もありますが、今回の場合は、寧ろ「錯に溺れる」と言うべきなのかも。
(中略後、再び引用開始)
●第二点目
市長が記者に「起立斉唱命令の主体はだれか、対象は誰か」と質問し、記者がそれに答えると「違う」「事実関係も知らないのに取材するな」と激しく罵倒しました。(どんな様子かだったは動画、または詭弁術講座でお確かめください)
しかしこれは記者の方が正解、市長の方が間違っていたのでした。
「Snap Days ~Shuichi Taira’s photo gallery~」から頂いたトラバから
橋下徹は、MBS女性記者に公式に謝罪するべきだ
http://d.hatena.ne.jp/furisky/20120516/p1より
さて、橋下は、起立斉唱命令は誰から誰に対して下されたものなのか、記者に逆質問したわけだ。上述したようにこれ自体がナンセンスだが、
そこは置いておくとしても、橋下は明白に間違いを犯した。
命令を出した主体について記者は、中西教育長だと答えたところ、橋下は、
『とんでもないですよ。もっと調べてくださいよ。教育長が命令出せるんですか』
命令の対象についても、MBS側が、校長と答えたところ、
『違います。違います。そこは変わりました。全教員に出されてるんです。』
橋下はそのように否定して、以降、記者を勉強不足だのなんだの言って、しまいには命令口調で記者を罵倒しだした。
ここで、平成24年1月17日に出された大阪府教育委員会の通達の文書をよーくご覧いただきたい。件の職務命令とはこれを指しているわけだ。
(引用開始)
教委高第 3869号
平成24年1月17日
府立学校 教職員 様
教育長
入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について(通達)
国旗掲揚及び国歌斉唱は、児童・生徒に国際社会に生きる日本人としての自覚を養い、
国を愛する心を育てるとともに、国旗及び国歌を尊重する態度を育てる観点から学習指導要領に
規定されているものである。
また、平成2 3年6月1 3日、大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱
に関する条例が公布・施行された。本条例では、府立学校の行事において行われる国歌の斉唱
の際に、教職員は起立により斉唱を行うことが定められている。
ついては、入学式及び卒業式等国旗を掲揚し、国歌斉唱が行われる学校行事において、式場
内のすべての教職員は、国歌斉唱に当たっては、起立して斉唱すること。
教委高第 3869号
平成24年1月17日
府立学校 校長 様
府立学校 准校長 様
教育長
入学式及び卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱について(通達)
国旗掲揚及び国歌斉唱は、児童・生徒に国際社会に生きる日本人としての自覚を養い国を愛
する心を育てるとともに、国旗及び国歌を尊重する態度を育てる観点から学習指導要領に規
定されているものである。
また、平成2 3年6月1 3日、大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱
に関する条例が公布・施行された。本条例では、府立学校の行事において行われる国歌の斉唱
の際に、教職員は起立により斉唱を行うことが定められている。
ついては、入学式及び卒業式等において国歌斉唱を行う際は起立により斉唱するよう教職
員に対し通達を行ったが、校長又は准校長からこの趣旨を徹底するよう職務命令を行うこと。
(引用終了)
ここに明白に示されている。
この通達は、“教育長”から教職員と校長に同時に出されているものであって、MBSの記者の返答は間違えていない。
間違えたのは橋下に他ならない。
橋下は、自身の間違いに基づいて、間違えていない相手を指差し、命令し、罵倒した愚を犯したのだ。
勉強不足だったのは記者ではなく、橋下徹自身にほかならなかった。
記者を罵倒する言葉は、実はブーメランとなって自らの脳天を直撃する失態を演じていたのだ。
ということで、橋下徹は、MBSの女性記者に対して公式に謝罪するべきだ。
こんなことを市民ひいては国民が許して、橋下の記者バッシングに加担するようではこの国は本当に橋下ファシズム体制に陥いってしまう。
橋下を擁護し記者が悪いと非難している人たちは、少なくとも上述した橋下の誤認に基づく記者バッシングは間違えているということぐらい同意出来ないのならば、事実を事実として認識することも出来ない盲信状態に陥り、危険なカルト教祖を信奉し続けるカルト信者と同様の愚に堕していると思う。
(以上、当該記事より引用終了)
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-907.html
マスコミは依然として橋下を持ち上げ、「ヒトラーばりの喋り方も、上手く使いこなせば営業用トークに生かせる」なぞと書いていますが、幾ら饒舌でも中身が伴わなければ全然意味がありません。ウソをハッタリで誤魔化しただけの「饒舌」では、詐欺トークには使えても、まともな営業には使えないでしょう。
最初の記事を書いた数時間後に再び母の容体が急変し、再び取るものもとりあえず早暁の病院に駆け付けたものの、緊急治療の甲斐もなく、5月15日午前7時33分に母は永眠しました。享年83歳。遺影写真ではもっと若く見えますが、あれは60歳ぐらいの健康だった時のものです。
倒れてから亡くなるまで、あっという間でした。告別式が終わった今でも、ひょこっと何食わぬ顔で現れるような気がしてなりません。家族全員に見守られながら天国に旅立って行ったのが、母のせめてもの救いだったのではないかという気がします。この後も色々やる事はあるのですが、初七日法要も一応終え、今日からは職場にも出勤しなければならないので、その前に想う所を幾つか書き残しておきたいと思います。
葬儀の時は意外と冷静で涙も出なかった私ですが、日が経つに連れてやはり寂しさがこみ上げてきます。14日の朝までは、普通に朝食の準備をして、普通に家族と会話もしていたのですから。ただ、当日の朝出勤間際に最後に会話を交わした父の話によると、やはりいつもよりは少し疲れ気味の様子でした。
母は昔から粗食で、肉や魚は殆ど受け付けません。動物性蛋白は僅かに卵やちりめんじゃこ、蒲鉾、大豆・豆腐類などから取るのみでした。そういう意味では、心筋梗塞などでの入院歴もある父とは違い、寧ろ長生きすると思われていましたが、今から思うと、やはりそれが仇となってしまったようです。ヘルシーな野菜中心の食生活も、過度に偏ると代謝機能に支障をきたします。母も慢性的な低血圧(貧血)で、身体がそれに慣れてしまっていたのでしょう。
加えて、昔気質で人に頼るのを嫌い、医者にもなかなか通おうとしませんでした。その為に、代謝機能の衰えから来る排便障害(慢性便秘)にも「何とかなる」と思い続け、何かの切っ掛けで併発した小さな腸内出血が致命傷となってしまったのでしょう。宿便で胃カメラによる詳しい検査も出来ない中で、とにかく輸血と人工呼吸で体力回復を待つしかありませんでした。事後の死体解剖も母の事を思うととても承諾する気にはなれず、詳しい死因は結局分からず終いですが、多分それが原因だったように思います。
昨今、老人の孤独死や若い世代でも過労自殺などのニュースがマスコミを賑わしていますが、これらの場合も母と同じく、最期まで人に頼らず、自分だけで何とかしよう、何とかなるだろうと、ギリギリまで我慢していた為に起こったものです。そうかと思えば、救急車をタクシー代わりに使うなどの事例も聞きます。この事例については、実際は救急搬送のたらい回しも頻発しているように、マスコミがセンセーショナルに取り上げている嫌いが多分にあるでしょうが、若しこれが真実であるなら、これも間違った態度です。
前者は個人に「ひたすら自分に我慢を強いるだけ」、後者も「自分さえ良ければ良い」という考え方の現れだと思います。両者とも「自己中心の視野狭窄」という意味では「どっちもどっち」でしかない。本当はそんな「ひたすら我慢」や「自分さえ良ければ」ではなく、「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」でなければならない筈です。
しかし日本はそうではない。政治家や経営者は、国家や企業への「滅私奉公」を説きながら、当の自分たちは思いっきり「私利私欲」にまみれ、しかもその罪を「バラマキ福祉」や戦後民主主義になすり付けるという、マッチポンプの大罪を犯し続けています(例:石原慎太郎「津波で我欲洗い流せ」発言)。しかし、今求められているのは、「ひたすら我慢」だけを説く「頑張ろう日本」キャンペーンでも、「私利私欲」の拝金主義を誤魔化す為の「努力した人が報われる(報われないのは個人の自己責任)」でもない。「一人はみんなの為に、みんなは一人の為に」でなければならない筈です。それが生存権という事であり、社会保障にも繋がる考え方である筈なのに、昨今はすっかり顧みられる事がなくなりました。その為に、孤独死や過労自殺がここまで蔓延する格差社会になってしまったのです。
その自分たちの不甲斐なさを棚に上げて、例えばギリシャの債務危機についても、やれ「4人に1人が公務員の国民が怠け者だからあんな国になった」と言わんばかりの議論が横行していますが、アホかと思いますね。とかく言われている彼の国の縁故政治の蔓延も、国を牛耳っていた財閥や政治家が、己の私利私欲を誤魔化す為に、国民を「アメとムチ」で黙らせてきた結果でしょう。つまり原発立地の交付金で地方を黙らせてきた日本と同じです。そんな事をされながら、まだその「アメとムチ」の支配構造をそのままにして、「放射能が移る」と福島県民を差別しながら「それでも原発は必要だ」とほざく、そんな情報操作に騙される日本国民よりも、選挙でストレートに「アメとムチにNO!」を突き付けているギリシャ国民の方がよっぽど立派です。
今後は高齢の親父と二人三脚で、残されたこの家を守っていかなければなりません。二人とも仕事があるので、死亡届や母の預金の名義変更などの事後処理は主に父が行い、洗濯などの家事全般を私が担う事にしました。食事はもっぱら外食・中食・宅配に頼らざるを得ません。それでもコンビニ食は避け、少しでもまともな食生活を心がけようと思っています。幸い、母が残してくれた即席・レトルト食品の在庫が大量に残っており、当面はそれも活用していくつもりです。その何倍もの賞味期限切れの食品があり、その整理・処分に追われていますが。綺麗好きの母でしたが、やはり年老いてからは家事の細かい所までは手が回りかねたのでしょう。
以上、一区切りつける意味もあって、「忙中閑あり」の時間の合間に、徒然なるままに書いてみました。
もう少し状況を追って説明しますと、本日5月14日の午後4時頃に、母から父の携帯に「しんどくて動けなくなった、直ぐ帰宅してほしい」旨のSOSがあり、既に職場から帰宅途上だった父が自宅に駆け付けると、母がキッチンでうつぶせに倒れていました。その時はまだ母の意識もあり、「暫くしていたら収まると思うから、とりあえず抱き起してくれ」と言われたものの、父が抱き起しても自力では立つ事が出来なくて、救急搬送される事になりました。そこから容体が急激に悪化し、病院に搬送される頃には意識もなくなり、血圧も急降下し始めていました。
父から兄夫婦を経由して私の携帯に連絡が来たのが午後7時頃で、私も父と同様に勤務先から帰宅途上のその足で病院に向かい、父・兄夫婦と私の4人で、つい先ほどまで病院で待機していました。
母は昔から貧血・便秘気味でしたが、別に今まで救急搬送されるような事はなかったので、まさかこんな事になるとは思ってもみませんでした。昔気質の所があるので、最後まで自力で何とかしよう、何とかなるだろうと思っていたのでしょう。同じ家族でありながら、何故その事に気が付かなかったのかと思うと、悔やんでも悔やみきれません。
とりあえず、そういう状況なので、申し訳ありませんが、ブログについては、コメント・TB承認などの最低限の管理業務に止め、更新については後回しとなります。メール等についても同様です。いつまで続くかという事も、現時点では申し上げる事が出来ません。以上、取り急ぎご報告いたします。悪しからずご了承下さい。
橋下大阪市長が松井大阪府知事と組んで出した「職員・教育基本条例」の下で、大阪でも石原都政と同様に、卒業式で肝心の生徒への祝福もそっちのけに、教職員の「君が代」斉唱を口元まで見てチェックする調査が行われました。MBS(毎日放送)がそれに対して学校長にアンケートを取り、43名中38名の校長から「やり過ぎではないか」との回答を得ました。その結果についてどう思うか、定例会見の場でMBSの記者が橋下市長に質問しました。その時のやり取りを上記の動画で見る事が出来ます。動画の中には音声が聞き取りにくい箇所もあるので、そこはブログ「Afternoon Cafe」さんによる以下の文字起こし&解説記事で補って下さい。文中の「m」がMBS記者、「橋」が橋下市長の発言です。議論の流れを把握する為に、転載する際に、私の方で更に「m・橋」間のやり取り毎に段落分けしました。
(以下、当該ブログより転載)
m: 君が代の起立斉唱に関してアンケートを行ったんですけど、府立学校校長の43人の方から回答がありまして、そのうち22人が職務命令によって起立斉唱を行ったことについては賛成と仰ったのですが、起立と斉唱それぞれ確認すべきと考えていた校長はわずか一人だったんですけど、それはいかがですか
橋: それはもう各校長の判断でしょうね。ただ職務命令の内容は起立と斉唱です。それが教育委員会、教育行政の最高意思決定機関の決定内容です。起立と斉唱を命じたわけですからそれをしっかり守るということが教育委員会の管理下に入ってる校長の職務だと思いますね。あとはそれぞれどのように判断するかは教育委員会も各校長にゆだねる、ということいってますので、もうそこは校長のマネジメントにゆだねますけれども、しかし職務命令の内容は起立と斉唱です。
(マネジメントという横文字を並べるのも権威付けに役に立ちますね。ちなみにその用語の意味が正しく使われているかどうかは問題ではありません。使うことが大切なのです。あと、市長は「最高意思決定機関」といった類の言葉も好んでご使用になります)
m: 実際には43人のうち38人は起立と斉唱は一つととらえればいいと思ったと言うことなんですけども
橋: 「起立斉唱」って、立ってるだけじゃ起立じゃないですか。そんな国語ありますか?起立斉唱ということを小学生にいって、起立斉唱しなさいといって立ってるだけで音楽の成績つきますか。どうですか。
m:(何か言いかけるが市長遮る)
橋: いやいやまず僕が質問してることに答えてください。
m: 私の方からお聞きしてるんですけれど
橋: (たたみかけるように)いやいや、お聞きするんじゃなくて、この場は別に議会じゃないので僕は答弁の義務だけ負ってるわけじゃないんです。どうですか。起立斉唱という言葉の中に立つだけの意味しか入っていませんか?
(※注釈:答弁の義務は負っていない=これは市長によれば「先になされた質問はスルーして、質問に質問で返してもよい」という意味です。)
m: 歌っていることも入っていますけど一律に歌わせることまで強制させるということについてはいかがですか。
橋: 「起立斉唱命令」なんです。どうなんですか。教育委員会の決定なんです。起立斉唱命令です。この国語の中で斉唱の命令は入っていませんか
(ここで注意。記者は「立つだけの意味しか入ってませんか」という市長の質問に「歌っていることも入っている」と一応答えています。しかし、相手が答えた事実をなかったことにするのも駆け引きのひとつです。そのため相手に喋る隙を与えずたたみかけましょう)
m: (しゃべりかけるが「まずどうですか」、と市長遮る)
橋: 答えをいわなければ僕もう質問には答えません。それは対等な立場ですから。どうですか。斉唱の命令の中に、斉唱命令という言葉の中に斉唱の命令ははいっていませんかどうですか。
(既に答えているのに、こうして答えを何度も求めると相手は動揺します。「相手が揺らぎだしたら考えるスキを与えず、一気に結論に持っていく」テクニックは市長の自著にも書かれています。一気に「もう質問には答えない」と持って行くのです)
(ここで種明かし。実は斉唱命令が入ってるかどうかについて記者自身の見解を聞くのはナンセンスです。なぜなら「斉唱の命令は入っていない」と考えたのはこの記者ではなく38人の校長たちなのですから。これぞすり替えの極意。市長、見事なお手並みです!)
m: 「起立斉唱」命令は入ってるとしまして、では一律に歌わせることについてはどうですか?
橋: 「起立斉唱命令」は誰が誰に対して出したんですか?まずそういう事実確認から入りましょう、命令は誰が誰に出したんですか。
(ハイ、ここも大事なチェックポイントです。記者は質問に答えました。ですから今度は市長が答える番ですが、市長はそれには答えないで、「起立斉唱命令」は誰が誰に対して出したんですか?という新たな質問を繰り出しています。次々質問をたたみかけ、相手が答えられない質問に行き当たったら「そんなことも知らないのに取材する資格はない」と罵倒すればいいのです。)
(それから「起立斉唱命令」はだれが誰に出したか、ということは、実は記者の質問の本質とはほとんど無関係です。無関係な質問を返すのはわざとです。こうして本質からずれた所に話を持って行くことが相手を煙に巻く定石。覚えておきたいテクニックですね)
m: 命令は出してらっしゃいますけど(遮って
橋: 誰が出したんですか?
m: それは市長がよくご存じでは?
橋: いや、だから誰が出したんですか。まずそこを、事実確認をしっかりしてから取材してください。誰が出したんですか、命令は。
m: あの学校長の(遮る
橋: だからだれが出したんですか?まず事実確認をしっかりしてから取材してください。事実確認が不十分な取材などとんでもないです。命令はだれが出したんですか。
m: 市長がご存じのことを私に尋ねてらっしゃるだけですよね?それはおかしなことじゃないですか
橋: いや、そんなことないですよ、知らないのに質問なんかできないじゃないですか
m: いや、知ってますよ、そんなことを答える必要はないということです
橋: じゃあ僕も答える必要ありません。どうぞ次の質問いってください
(ハイ、駄々コネ逆ギレ入りましたーー! でも実はこれ、得たい結果を得るための冷静な計算に基づいてる・・・はずですw だから「ガキかよっ!」とバカにしてはいけません。自分の土俵に引きずり込むことが土台作業です。相手が決裂できない立場で、かつ、こちらの土俵にのってこないとき「もう答えません、次行ってください」とブチ切れすればいいのです。すると大抵相手は多少なりとも譲歩の姿勢をみせることが多いです。)
(ここで皆さん、お気づきですか?市長は新たな質問を相手に出しましたが、まだ「一律に歌わせることまで強制させるということについてはいかがですか」という記者の質問に答えることなくここまで来ています。さすがですね。この調子で「オレ様の試験をパスできないような記者が取材しようなど10年早いわ!」的な高飛車な態度で臨みましょう)
m: じゃ、すいません(遮る
橋: いや答えません。そんな事実確認が不十分な取材なんかに答えません。命令はだれが主体なんですか、まず答えてください。
m: 中西教育長じゃないでしょうか
橋: とんでもないですよ。もっと調べてくださいよ。教育長が命令出せるんですか
(やったー、意外と早く正確な回答ができない質問にぶち当たったようですね。おめでとうございます。)
m: 教育委員長ってことですか
橋: 委員長じゃないですよ。だれが教育行政の決定機関なんですか。そんなことも知らずに取材なんかくるんじゃないですよ。何を取材にきてるんですか、命令の主体ぐらい知らないのになんでこんな取材ができるんですか。じゃ、誰に対して命令を出したのかいってください。命令の名宛人、対象者は誰ですか。
(記者がしゃべろうとするとまだ遮る)
橋: 答えてください。そこが重要なんです。一律だっていったでしょ、命令の対象は誰なんですか
(繰り返しますが、記者はあくまで「斉唱強制までするのはやり過ぎでは?」と聞きたいわけで、その質問には「誰が命令をだすか」という事実確認は重要ではありません。でも重要なんだと自分でも信じ、言い切ることが肝心です。こうして 普通ならあっさり通過するような「重箱の隅」をとことんつついて相手を疲れさせましょう)
m: 一律強制じゃないんですか
橋: 命令の対象は誰かいってください
(譲ってはいけません。必ず自分のレールに乗せること!ここは踏ん張りどころですよ!)
m: じゃ、わたしからお聞きします
橋: 命令の対象をまずいいなさい。そこに全部答えが入っています。命令の対象は誰ですか。一律かどうかというのは命令の対象のなかに全部入ってるから
(「一律かどうかというのは命令の対象のなかに全部入ってる」とはなんと無理矢理なこじつけ、お見事です、市長!市長の著書にあった「あり得ない比喩」の応用編ですね?)
(ちなみに、ここあたりから市長は俄然命令口調になります。ええ、「対等ですから」なんて言ったことなんか無視して良いんですw 「交渉術」において恫喝は効果的です、特に相手が女性の場合には。パワハラと影口たたかれても勝てば官軍ですから気にしてはいけません。マスコミは官軍になびくことを知っておきましょう。恫喝して萎縮させることは交渉術で欠かせません。「"脅し"により相手を動かす。(24頁)」と市長も自著で書いています。)
m: 私からお聞き(遮る
橋: 命令の対象はだれかまずいいなさい。そこに答えがすべて入ってる
m: 一律に(遮る
橋: 一律かどうかってのは命令の対象のなかに全部はいってるから答えなさい。答えられないんだったらここへ来るな。命令の対象の中に全部入ってる。命令を読め。まず読んでからここに来い。勉強してから来い
(おお、まるで先生が生徒をしかってるようですよ、市長、しびれます~!「対等だから」なんて所詮リップサービス、上下関係は大事ですよね、市長様)
m: 思想良心の自由との(遮る
橋: 関係ない。まず言え。命令の対象は誰なんだ。
m: 市長、ちょっと落ち着いて(遮る
橋: 君の方が落ち着きなさい
m: 学校長の(遮る
橋: 事実関係も知らないのに取材するなって。勉強不足なのはもうみんなわかってる。
m: 学校長のマネジメントについてお聞きしたいんですけど
橋: まずは命令の対象を答えてから。
(こうして重箱の隅にしがみついて、はぐらかしを長引かせましょう)
m: (男性の記者に変わる)教育委員会から校長に出されてるんですけれども、その受けとめっていうのはやっぱり校長によって違うと思うんで、そこの部分をちょっと聞きたかっただけなんで
橋: まず命令の対象を確定しましょう。命令は誰から誰に出されたのか。そこに全てが入ってますから
(本当に「全て入ってる」のかどうかは問題ではありません。後からなんとでも強引にこじつければよいのですから大見得切り続けましょう。)
m: 教育委員会から校長にだされてます
橋: 違います。違います。そこは変わりました。全教員に出されてるんです。
(※ちなみに新聞では「教育委員会から校長に」と書かれていました)
m: 校長から教員(遮る
橋: 違います。教育委員会から全教員です。これが職務命令。教育委員会が決定したのが教育委員会から全教員に出される。それ知ってたか。知ってたのかどうか。
m: (最初の女性記者に戻る)ではですね(遮る
橋: まず知ってたのかどうか。僕が知ってることは全部知ってると言ってた
m: 知ってましたよ
橋: 全教員だろ。それが一律かどうかってことぐらい言葉でわかるじゃないか
m: だから一律強制ですよね?
橋: 何を言ってる、一律強制、もう、ほんとふざけた取材すんなよ。
m: 一律強制ですよね?
橋: 当たり前じゃないか、命令にはいってるだろ?
(実は、市長は最初に「校長のマネジメントにゆだねる」と言っているのだから、斉唱を強制するかどうかは校長の判断であって、一律に強制だというのとは矛盾するように感じられます。ですが細かいことを気にしてはいけません。相手がこちらの矛盾に気づきさえしなければいいのですから。「やったモン勝ち」「勝てば官軍」、論理的整合性など溝に捨てる勇気を持ちましょう)
(以上、転載終了)
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-975.html
何かアホみたいな議論ですね。
記者が聞きたかったのは、「校長の大半もやり過ぎだとアンケートで答えた君が代起立斉唱口パク調査をする事に対して、市長は一体どう思っているのか」という事です。その質問には何らまともに答えず、「起立と斉唱は一体か?」とか「誰が誰に出した命令か?」とか、記者の質問とは何の関係もない事を、橋下が記者を逆に質問攻めにして、煙に巻いているだけじゃないですか。
「起立と斉唱は一体か?」って、そりゃあ、橋下はあくまでも一体のものとして斉唱命令を出したのでしょうけど、記者は「それはやり過ぎだと大半の校長が思っているが、それについてどう思うか?」と聞きたかったのに、これでは全然答えになっていません。
次の「誰が誰に出した命令か?」も然りで。市長が何故そんな分かり切った事をわざわざ逆質問してくるのか、その意図を見抜けなかった記者が答えに窮したのを見て、「教育委員会から全教員に出された職務命令だ」と最後に市長の方から種明かしをしておきながら、「ほらやっぱり一律強制で教員の内心の自由を奪っているじゃないですか、その是非について私は問うているのです」と言いたかった記者の発言を封じて、「そんな簡単な事にも答えられないなら質問なんかするな!」(橋下)とは。
質問に答えていないのは寧ろ橋下の方でしょうが。記者からの「やり過ぎだという校長の意見が大半を占めているが、それについてどう思うか?」という肝心の質問をはぐらかして、本筋とは何の関係もない質問をわざと矢継ぎ早に繰り出して、逆質問の意図を解する事が出来ずにとまどった記者の一瞬の隙をついて、「答えられないなら質問なんかするな!」と逃げているだけじゃないですか。
だから、当該ブログ主さんも記事のタイトルを「詭弁術講座」としたように、当該記事ではあくまでも橋下の詭弁を反面教師として取り上げているのです。
でも、それも承知の上で敢えて言わせてもらえば、一瞬でも橋下の土俵の乗ってしまった時点で記者の「負け」なのです。幾ら論理的には記者の方が筋が通っていても、です。橋下には最初からまともに議論する気なぞないのですから。幾ら言っている事が矛盾していても、ひたすらハッタリで相手を圧倒し、如何にも自分が勝っているかのように印象操作が出来れば、それで良いのです。
つまりネトウヨの書き込みと同じ。ヒットラーやゲッペルスの演説と同じです。ひたすら印象操作ありきで、まともに議論する気なんて橋下にはハナからないのです。
だから、そんな相手に「アンケートではやり過ぎだという意見が多かったがどう思うか?」なんて聞いても、「カエルの面にションベン」にしかならない。せいぜい「やり過ぎ?それがどうした?それ位でないと改革なんて出来ないだろう」と返されるのがオチです。
橋下のやっている事は「やり過ぎ」なんてモンじゃない。明らかなパワハラであり人権侵害でしょう。国旗国歌法には「国歌は日の丸とする、国歌は君が代とする」と書かれているだけで、逆に「強制はしてはいけない」「ましてや口をこじ開けて無理やり歌わせるような真似なぞ言語道断」というのが、同法制定時の国会付帯決議であり政府答弁だった筈です。
「例えば長時間にわたって指導を繰り返すなど、児童生徒に精神的な苦痛を伴うような指導を行う、それからまた、たびたび新聞等で言われますように、口をこじ開けてまで歌わす、これは全く許されないことであると私は思っております。児童生徒が例えば国歌を歌わないということのみを理由に致しまして不利益な取り扱いをするなどと言うことは、一般的に申しますが、大変不適切なことと考えておるところでございます。」(1999年7月21日内閣委員会文教委員会での当時の文部大臣の答弁)―それを踏みにじっている橋下の方こそが、憲法や法律に違反しているのでしょうが。その自分のルール破りを棚に上げて、何が「ルールを守れ」ですか。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisiki-kokkaitoubenn.htm
「国旗・国家を敬うのは世界の常識」と言うのも嘘です。実際は先進国になればなるほど、国旗や国歌を強制される事がなくなるのです。公式行事等で使われる場合も、一種のシンボル、飾りとして使われる場合が多く、別に掲げても掲げなくても(歌っても歌わなくても)良いという扱いになります。それが先進国としての成熟の証と理解されているから。それどころか、1943年の米国バーネット判決のように、宗教上や良心的理由による掲揚・掲載拒否の権利が裁判で認められている場合も少なくないのです。
開発途上国の場合は若干それとは趣を異にして、植民地から独立する際の独立戦争や抵抗のシンボルとして、反政府デモなどでも国旗が掲げられたりします。しかし、それはあくまで圧政に対する抵抗のシンボルとして捉えられているのであって、日本のように国家に忠誠を誓う際の踏み絵みたいな使われ方はしません。国家に忠誠を誓う踏み絵のような使い方をしているのは、寧ろ中国や北朝鮮のような独裁国家に多い。
http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/aoyama-col1200.html
そんな事にも無頓着なパワハラ・人権侵害の確信犯に、「これはやり過ぎじゃないか?」と幾ら言った所で全然堪えません。何せ相手は「詭弁=騙しのプロ」。そんな「騙しのプロ」のパワハラ男に、「やり過ぎじゃない?」なぞと謙って質問しても見くびられるだけです。
「お前のやっている事は明白な人権侵害のパワハラであり、単なるイジメにしか過ぎず、法律にも違反している」「お前こそが人道に反している」と、はっきりと言ってやらないとダメなのです。
また、橋下は二言目には「ルールだから守れ」の一言で押し通そうとしますが、これにも引っかかってはダメなのです。じゃあ、新興宗教信者の経営者から礼拝やお布施を強要されても、就業規則の定めなら守らなければならないのですか。労基法や最低賃金法違反のサービス残業やピンハネにも、社内ルールだからと従わなければならないのですか。そんなバカな話はないでしょう。人道や人権に反する違法な「ルール」なぞ、一刻も早く破り捨ててしまわなければならない。それこそが、人間としての当たり前の「ルール」だという事を、思い知らせてやらないとダメなのです。
勿論、最初からこんな喧嘩腰で行ったのでは、記者会見にならないでしょうから、そこはある程度上手くやる必要はありますが。しかし、自由や人権や民主主義を守る為には、弾圧も覚悟の上で権力と対峙しなければならない場合もある。それが報道機関としての使命であり矜持でしょう。
※この記事を書いた当初は一応これで一旦終了かと思われましたが、そうは問屋が卸しませんでした。この話には続きがあります。