北京オリンピックの聖火リレーが日本国内を通過した4月26日の長野市では、オリンピックを応援する在日中国人サポーターと、中国のチベット弾圧に抗議する人たちが、路上で衝突し、負傷者も何人か出ました。このニュースは既に今までもメディアで大きく取り上げられてきましたが、情報源によっては全く正反対の取り上げ方をされているものもあり、一体どちらの言い分が真実なのか、よく分からない部分がありました。
例えば、中国サポーターもチベット問題支援者も、どちらも「先に挑発し暴力を振るってきたのは相手の方だ」と主張しています。また、そもそもチベット支援NGOのセーブ・チベット・ネットワーク(STN)は、無意味な混乱を避けるという理由で、長野への組織動員は見送り、5月の胡錦濤来日に抗議行動の照準を合わせていた筈では無かったのか(当該団体HP参照)。それらも含めて、当時の現場の状況をここで改めて検証してみたいと思います。
●世界最低の国、日本([mixi]アリ@freetibetさん)
(引用開始)
当日、ニポンの警察官たちは、上層部からの命令によって、中国人たちだけに沿道での応援を許し、チベットを支援している人たちをすべて強制的に排除していたのです。実際には、チベットを支援している人たちもたくさんいたのに、警察が彼らをすべて排除して、中国人だけを沿道に並ばせていたのです。そして、現場を取材に来たTBSテレビの取材陣も、最初から「中国寄りの取材をするように」との指示があったのか、チベットを支持する人たちに対して、信じられないような態度をとっているのです。
(中略)
交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。
ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。
ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」 と言ったのに、警察は何もしなかった。
(引用終了)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=787996903&owner_id=2071143
上記は、チベット支援者がミクシィ内で公表した日記の一部です。当時の状況も動画でアップされています。当該日記はURLをクリックしてもミクシィ登録者にしか閲覧出来ませんが、転載可という事で「きっこの日記」やAMLでもその内容が取り上げられていますので、ご覧になれない人はそちらを参照して下さい。中国サポーターの異常な熱狂ぶりと、日本警察の及び腰の警備ぶりが、白日の下に晒されています。
しかし、上記の「中国寄りの取材」という部分については、どうでしょうか。「チベット支援者の強制排除」というのは確かにその通りですが、マスコミに流れた映像を見る限りでは、寧ろ逆に「中国・チベット双方の支援者同士の衝突」や「中国サポーターの残虐性」、「周辺住民の困惑」を、これでもかと言う位、取り上げていたのではなかったのか。そして、もう一方の当事者であるチベット支援者についても、映し出されたのはチベット旗と当たり障りのない「フリー・チベット」のプラカードばかりで、「ゴミはゴミ箱へ、支那人は帰れ!」(YouTube参照)といった排外主義丸出しのものは、寧ろ巧妙に隠蔽されていたのではなかったか。
下記のレポートを読むと、どうしてもそういう疑念が拭えないのです。しかし、こちらの方の情報は、マスメディアには殆ど流れる事はありませんでした。
●聖火の長野に現れた醜い「ニセモノ」(オーマイニュース)
(引用開始)
橋爪記者 「一部の日本人がチベットの国旗を掲げて、『中国は出て行け』などの主張をしていたり中国人を挑発したりして、こぜりあいになっていたんですが(その動画はこちら)、チベット人を支援する立場から見て、いかがですか?」
高橋さん 「そんなことがあったんですか。私たちは決して暴力的なことはしません。『チベットに自由を、宗教の自由を、教育の自由を、本当の自由を、フリーチベット!フリーチベット!』と言っていました」
(中略)
チベット旗を掲げて行動していた人々の中には、たとえば「支那人たちに厳命する」などと書かかれた看板を掲げた人もいた。チベット人グループとともに行動していた理由について、メディア記者らを前に「単純に中国が嫌いなだけだ!」と言い放った男性すらいた(その動画はこちら)。
記者がスタート地点で見かけた一団は、中国人に向けて「帰れ!」「糾弾!」と叫びつつも、笑顔だった。まるで“市民運動的なパフォーマンス”を趣味にしている人々のようにさえ見えた。
(引用終了)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080427/24068
●4.26長野聖火リレー抗議アクション報告 - 若者たちとともに「中国サポーター」も右翼も圧倒した(アジア連帯講座)
(引用開始)
私たち(注:アジア連帯講座の人たち)が横断幕と虹旗、ゲバラ旗を掲げると「ゲバラは共産主義やん!」と言ってくる。「ゲバラはソ連や中国を批判しているからいいんだよ」と言うと「へぇ、そうなんですか」と簡単に納得していた。そうして、中国国旗とは違う赤旗が、唯一本翻った。若者たちは、「右」とか「左」以前の政治信条以前に、とにかく中国政府によるチベット民衆虐殺に抗議したい、抑圧を止めたいと強い思いをもっている若者たちだった。
(中略)
この盛り上がりを見て職業右翼や差別排外主義のレイシスト集団たちもこの公園に集まりだす。職業右翼が便乗しようとして「日本は中国と国交を断絶せよ~」と叫ぶと、若者たちは「オレは自分は"右"だと思ってるけど、それは違うだろ」「国交断絶なんて無理だし」「中国の人たちにも分かってもらいたいんだよ」と次々と声を上げる。若者たちは自分たちでシュプレヒコールもあげていたが、どんなに興奮しても差別的・排外主義的なことは絶対に言わない、あるいは職業右翼の排外的な扇動には絶対に乗せられることはなかった。
(中略)
そのとき、私たちの前で右翼が萩本(注:聖火走者の萩本欽一)に向けて何かを投げたが、若者たちが「暴力反対!」「くだらないことやってんな!」と叫んでいたことまでは、やはりテレビには映らない。しかし実は、右翼たちはアジア連帯講座の横断幕の影から「聖火ランナー」に投擲するためのトマトを大量に用意していたが、このような若者たちと私たちの振る舞いが姑息で卑劣な右翼に投擲を断念させていたのだ。
(引用終了)
http://solidarity.blog.shinobi.jp/Entry/230/
以上の情報を見る限りでは、中国・チベット双方の支援者たちの「どちらにも問題あり」と言わざるを得ません。少なくとも、日本のマスメディアが流す「悪いのは全て中国サポーター」と言わんばかりの報道は、事実を必ずしも正確に反映したものではないのでは。
確かに、中国サポーターの傍若無人ぶりについては、ここで改めて言うまでもありません。この事は既にマスコミも大きく取り上げているので、ここでは次の点だけ指摘しておきます。
かつて中国は「第三世界のリーダー」として「全世界の被抑圧人民・民族の解放」を旗印に掲げた時期がありましたが、今や中国はそんな旗印などとっくに投げ捨てて、自身が抑圧者として振舞っているではないですか。外国資本と結託して国内の少数民族や労働者・農民を抑圧し、この長野でも、交通規制を無視して傍若無人の振舞を行いました。次のリレー中継地である韓国ソウルでも、全く同様の振舞だったと聞いています。
今や彼の人たちを突き動かしている心情は、「被抑圧人民・民族の解放」でも「プロレタリア国際主義」でもなく、只の「中華ナショナリズム」「中国版・靖国史観」とも言うべきものではないですか。
他方で、チベット支援者の方も、その一部に、チベット人権とは縁もゆかりも無い、「単に中国人差別や反共のネタとして、それらの問題に便乗しているだけの人たち」を抱えている事も事実です。ユーチューブの動画にも頻繁に登場するこれらの人たちは、どう見ても元からチベット人権問題に取り組んで来られた人たちとは思えません。横柄な物言い・仕種や恫喝的なシュプレヒコールの仕方からして、これはどう見ても街宣右翼・ヤクザ右翼でしょう。そして、その周囲を固めているのは、恐らく当該右翼団体構成員とそれに付和雷同するネットウヨクの面々でしょう。
これらの人たちは、チベットの民族・人権問題を、「中国人vs日本人」の民族・国家対立の問題に摩り替えようと、躍起になっているだけなのです。それは、これらの人たちが在日コリアンその他の在日外国人やアイヌ・琉球の人たちを、日頃からどう扱っているかを見れば、自ずと明らかです。入管体制強化や外国人排斥を叫びたてるこれらの人たちが、チベットの民族自決権侵害にだけ偽りの涙を流すのは、正しく噴飯者以外の何物でもありません。彼の人たちが、中国民主化を主張する中国人に対しても、取り囲んで「支那人帰れ!」と罵倒を浴びせたのも(「四トロ同窓会二次会掲示板」参照)、当然の成り行きでしかありません。
自分達とは意見の異なる人たちに対して、今まで散々「反日」だの「売国奴」だのと罵ってきた彼の人たちが、当の自分たちが国家権力から弾圧されて初めて「世界最低の国、日本」に気付いた所で、私からすれば「今頃何言ってんねん」でしかない訳で。
そして、日本の警察。チベット問題NGO「国境なき記者団」の事務局長が「抗議行動を容認した日本政府の民主的な対応を称賛」し、「中国の若者はこの日の経験から民主主義の何たるかを知ってもらいたい」(産経新聞)と述べた一方で、上記のミクシィの日記には日本警察の及び腰ぶりも書かれていています。一体どちらが本当なのでしょうか。私は、これは「たとえ当人の主観がどうであれ、客観的に見ればどちらも結局はヤラセでしかない」と思っています。
つまり、こういう事です。日本も中国も、今の経済グローバリズムの現状を考えると、本気で事を構える気は更々無い。北京オリンピックも、中国にとっては国威発揚、日本にとってはビッグビジネスの、絶好のチャンスなので、勿論成功させたい。しかしその一方で、時には華々しい国家対立の演出もしてみせる必要がある。中国も日本もその事で、国内の不満の捌け口をそちらに振り向ける事が出来ますから。
そういう意味では、先の中国産冷凍餃子事件とも、構造は非常によく似ています。予め落とし所を決めた上で、日中両国のネットウヨク同士の対立を華々しく演出し、その中で只管自分たちは被害者を装う事で、それぞれの政権浮揚に繋げる。ここまで来れば、もう完全な出来レースです。
だから、チベット人権問題の火に油を注ぐ事になるのも承知の上で、中国は聖火防衛隊なるものを敢えて大々的に組織して、これ見よがしに世界に見せつけているのでしょう。そして日本も、産経新聞を筆頭に、その傍若無人ぶりを大々的に報道する事で、「平和だの公平だの糞食らえだ」「中国の傍若無人に対抗するには、日本もある程度、傍若無人になるしかないんだ」とばかりに、御用愛国心の醸成に躍起となっているのでしょう。しかし、ここまで来ると、本来チベット問題が拠って立つべき筈の、人権・民族平等・国際連帯といった観点は、もう物の見事に欠落してしまっています。
勿論言うまでもない事ですが、チベットなどの中国国内の民族・人権問題は、これは出来レースなんかではありません。れっきとした人権問題です。そしてそれに取り組むNGOや市民たちも、決してこんなヘイトスピーカーばかりではない事も承知しています。右翼はその中では寧ろ少数派でしょう。かと言って左翼でもない、そのどちらにも属さない普通の人たちが、ミクシィや2ちゃんねるでの議論を基に、「チベットを救え」の一点で立ち上がったというのが、実際の所だと思います。
その中に右翼が左翼がいても、勿論一向に構いません。「チベットを救え」の一点で団結して行動している限りでは。しかし、以上述べた長野での一部支援者の動きを見ていると、どうしてもある種の危惧を抱かざるを得ません。
チベット問題支援者が、右でも左でもない人たちが主流であるが故に、行過ぎた排外主義や差別的言動に対しても、同じ支援者という事でついつい脇が甘くなり、声の大きい方に引きずられ、気がついた時には、かつて見られた運動の広がりや一般大衆の支持は急速に色褪せ、右一色の偏狭な運動に変質してしまっていた、という事にならなければ良いのですが。
例えば、中国サポーターもチベット問題支援者も、どちらも「先に挑発し暴力を振るってきたのは相手の方だ」と主張しています。また、そもそもチベット支援NGOのセーブ・チベット・ネットワーク(STN)は、無意味な混乱を避けるという理由で、長野への組織動員は見送り、5月の胡錦濤来日に抗議行動の照準を合わせていた筈では無かったのか(当該団体HP参照)。それらも含めて、当時の現場の状況をここで改めて検証してみたいと思います。
●世界最低の国、日本([mixi]アリ@freetibetさん)
(引用開始)
当日、ニポンの警察官たちは、上層部からの命令によって、中国人たちだけに沿道での応援を許し、チベットを支援している人たちをすべて強制的に排除していたのです。実際には、チベットを支援している人たちもたくさんいたのに、警察が彼らをすべて排除して、中国人だけを沿道に並ばせていたのです。そして、現場を取材に来たTBSテレビの取材陣も、最初から「中国寄りの取材をするように」との指示があったのか、チベットを支持する人たちに対して、信じられないような態度をとっているのです。
(中略)
交差点で中国人と僕らが入り乱れた。
突然Mちゃんが顔面を殴られた。
僕は殴った中国人のババアを捕まえて、目の前の警察に言った。
「こいつ殴ったぞ!!」
警察は何もしなかった。
ババアが俺の手を噛んだ。手から血が出た。
警察と目が合った。
警察は何もしなかった。
ババアが僕の顔面を殴ってきた。
周りのチベットーサポーターが、「おい、警察、現行犯だろ、捕まえろよ!!!!」 と言ったのに、警察は何もしなかった。
(引用終了)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=787996903&owner_id=2071143
上記は、チベット支援者がミクシィ内で公表した日記の一部です。当時の状況も動画でアップされています。当該日記はURLをクリックしてもミクシィ登録者にしか閲覧出来ませんが、転載可という事で「きっこの日記」やAMLでもその内容が取り上げられていますので、ご覧になれない人はそちらを参照して下さい。中国サポーターの異常な熱狂ぶりと、日本警察の及び腰の警備ぶりが、白日の下に晒されています。
しかし、上記の「中国寄りの取材」という部分については、どうでしょうか。「チベット支援者の強制排除」というのは確かにその通りですが、マスコミに流れた映像を見る限りでは、寧ろ逆に「中国・チベット双方の支援者同士の衝突」や「中国サポーターの残虐性」、「周辺住民の困惑」を、これでもかと言う位、取り上げていたのではなかったのか。そして、もう一方の当事者であるチベット支援者についても、映し出されたのはチベット旗と当たり障りのない「フリー・チベット」のプラカードばかりで、「ゴミはゴミ箱へ、支那人は帰れ!」(YouTube参照)といった排外主義丸出しのものは、寧ろ巧妙に隠蔽されていたのではなかったか。
下記のレポートを読むと、どうしてもそういう疑念が拭えないのです。しかし、こちらの方の情報は、マスメディアには殆ど流れる事はありませんでした。
●聖火の長野に現れた醜い「ニセモノ」(オーマイニュース)
(引用開始)
橋爪記者 「一部の日本人がチベットの国旗を掲げて、『中国は出て行け』などの主張をしていたり中国人を挑発したりして、こぜりあいになっていたんですが(その動画はこちら)、チベット人を支援する立場から見て、いかがですか?」
高橋さん 「そんなことがあったんですか。私たちは決して暴力的なことはしません。『チベットに自由を、宗教の自由を、教育の自由を、本当の自由を、フリーチベット!フリーチベット!』と言っていました」
(中略)
チベット旗を掲げて行動していた人々の中には、たとえば「支那人たちに厳命する」などと書かかれた看板を掲げた人もいた。チベット人グループとともに行動していた理由について、メディア記者らを前に「単純に中国が嫌いなだけだ!」と言い放った男性すらいた(その動画はこちら)。
記者がスタート地点で見かけた一団は、中国人に向けて「帰れ!」「糾弾!」と叫びつつも、笑顔だった。まるで“市民運動的なパフォーマンス”を趣味にしている人々のようにさえ見えた。
(引用終了)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080427/24068
●4.26長野聖火リレー抗議アクション報告 - 若者たちとともに「中国サポーター」も右翼も圧倒した(アジア連帯講座)
(引用開始)
私たち(注:アジア連帯講座の人たち)が横断幕と虹旗、ゲバラ旗を掲げると「ゲバラは共産主義やん!」と言ってくる。「ゲバラはソ連や中国を批判しているからいいんだよ」と言うと「へぇ、そうなんですか」と簡単に納得していた。そうして、中国国旗とは違う赤旗が、唯一本翻った。若者たちは、「右」とか「左」以前の政治信条以前に、とにかく中国政府によるチベット民衆虐殺に抗議したい、抑圧を止めたいと強い思いをもっている若者たちだった。
(中略)
この盛り上がりを見て職業右翼や差別排外主義のレイシスト集団たちもこの公園に集まりだす。職業右翼が便乗しようとして「日本は中国と国交を断絶せよ~」と叫ぶと、若者たちは「オレは自分は"右"だと思ってるけど、それは違うだろ」「国交断絶なんて無理だし」「中国の人たちにも分かってもらいたいんだよ」と次々と声を上げる。若者たちは自分たちでシュプレヒコールもあげていたが、どんなに興奮しても差別的・排外主義的なことは絶対に言わない、あるいは職業右翼の排外的な扇動には絶対に乗せられることはなかった。
(中略)
そのとき、私たちの前で右翼が萩本(注:聖火走者の萩本欽一)に向けて何かを投げたが、若者たちが「暴力反対!」「くだらないことやってんな!」と叫んでいたことまでは、やはりテレビには映らない。しかし実は、右翼たちはアジア連帯講座の横断幕の影から「聖火ランナー」に投擲するためのトマトを大量に用意していたが、このような若者たちと私たちの振る舞いが姑息で卑劣な右翼に投擲を断念させていたのだ。
(引用終了)
http://solidarity.blog.shinobi.jp/Entry/230/
以上の情報を見る限りでは、中国・チベット双方の支援者たちの「どちらにも問題あり」と言わざるを得ません。少なくとも、日本のマスメディアが流す「悪いのは全て中国サポーター」と言わんばかりの報道は、事実を必ずしも正確に反映したものではないのでは。
確かに、中国サポーターの傍若無人ぶりについては、ここで改めて言うまでもありません。この事は既にマスコミも大きく取り上げているので、ここでは次の点だけ指摘しておきます。
かつて中国は「第三世界のリーダー」として「全世界の被抑圧人民・民族の解放」を旗印に掲げた時期がありましたが、今や中国はそんな旗印などとっくに投げ捨てて、自身が抑圧者として振舞っているではないですか。外国資本と結託して国内の少数民族や労働者・農民を抑圧し、この長野でも、交通規制を無視して傍若無人の振舞を行いました。次のリレー中継地である韓国ソウルでも、全く同様の振舞だったと聞いています。
今や彼の人たちを突き動かしている心情は、「被抑圧人民・民族の解放」でも「プロレタリア国際主義」でもなく、只の「中華ナショナリズム」「中国版・靖国史観」とも言うべきものではないですか。
他方で、チベット支援者の方も、その一部に、チベット人権とは縁もゆかりも無い、「単に中国人差別や反共のネタとして、それらの問題に便乗しているだけの人たち」を抱えている事も事実です。ユーチューブの動画にも頻繁に登場するこれらの人たちは、どう見ても元からチベット人権問題に取り組んで来られた人たちとは思えません。横柄な物言い・仕種や恫喝的なシュプレヒコールの仕方からして、これはどう見ても街宣右翼・ヤクザ右翼でしょう。そして、その周囲を固めているのは、恐らく当該右翼団体構成員とそれに付和雷同するネットウヨクの面々でしょう。
これらの人たちは、チベットの民族・人権問題を、「中国人vs日本人」の民族・国家対立の問題に摩り替えようと、躍起になっているだけなのです。それは、これらの人たちが在日コリアンその他の在日外国人やアイヌ・琉球の人たちを、日頃からどう扱っているかを見れば、自ずと明らかです。入管体制強化や外国人排斥を叫びたてるこれらの人たちが、チベットの民族自決権侵害にだけ偽りの涙を流すのは、正しく噴飯者以外の何物でもありません。彼の人たちが、中国民主化を主張する中国人に対しても、取り囲んで「支那人帰れ!」と罵倒を浴びせたのも(「四トロ同窓会二次会掲示板」参照)、当然の成り行きでしかありません。
自分達とは意見の異なる人たちに対して、今まで散々「反日」だの「売国奴」だのと罵ってきた彼の人たちが、当の自分たちが国家権力から弾圧されて初めて「世界最低の国、日本」に気付いた所で、私からすれば「今頃何言ってんねん」でしかない訳で。
そして、日本の警察。チベット問題NGO「国境なき記者団」の事務局長が「抗議行動を容認した日本政府の民主的な対応を称賛」し、「中国の若者はこの日の経験から民主主義の何たるかを知ってもらいたい」(産経新聞)と述べた一方で、上記のミクシィの日記には日本警察の及び腰ぶりも書かれていています。一体どちらが本当なのでしょうか。私は、これは「たとえ当人の主観がどうであれ、客観的に見ればどちらも結局はヤラセでしかない」と思っています。
つまり、こういう事です。日本も中国も、今の経済グローバリズムの現状を考えると、本気で事を構える気は更々無い。北京オリンピックも、中国にとっては国威発揚、日本にとってはビッグビジネスの、絶好のチャンスなので、勿論成功させたい。しかしその一方で、時には華々しい国家対立の演出もしてみせる必要がある。中国も日本もその事で、国内の不満の捌け口をそちらに振り向ける事が出来ますから。
そういう意味では、先の中国産冷凍餃子事件とも、構造は非常によく似ています。予め落とし所を決めた上で、日中両国のネットウヨク同士の対立を華々しく演出し、その中で只管自分たちは被害者を装う事で、それぞれの政権浮揚に繋げる。ここまで来れば、もう完全な出来レースです。
だから、チベット人権問題の火に油を注ぐ事になるのも承知の上で、中国は聖火防衛隊なるものを敢えて大々的に組織して、これ見よがしに世界に見せつけているのでしょう。そして日本も、産経新聞を筆頭に、その傍若無人ぶりを大々的に報道する事で、「平和だの公平だの糞食らえだ」「中国の傍若無人に対抗するには、日本もある程度、傍若無人になるしかないんだ」とばかりに、御用愛国心の醸成に躍起となっているのでしょう。しかし、ここまで来ると、本来チベット問題が拠って立つべき筈の、人権・民族平等・国際連帯といった観点は、もう物の見事に欠落してしまっています。
勿論言うまでもない事ですが、チベットなどの中国国内の民族・人権問題は、これは出来レースなんかではありません。れっきとした人権問題です。そしてそれに取り組むNGOや市民たちも、決してこんなヘイトスピーカーばかりではない事も承知しています。右翼はその中では寧ろ少数派でしょう。かと言って左翼でもない、そのどちらにも属さない普通の人たちが、ミクシィや2ちゃんねるでの議論を基に、「チベットを救え」の一点で立ち上がったというのが、実際の所だと思います。
その中に右翼が左翼がいても、勿論一向に構いません。「チベットを救え」の一点で団結して行動している限りでは。しかし、以上述べた長野での一部支援者の動きを見ていると、どうしてもある種の危惧を抱かざるを得ません。
チベット問題支援者が、右でも左でもない人たちが主流であるが故に、行過ぎた排外主義や差別的言動に対しても、同じ支援者という事でついつい脇が甘くなり、声の大きい方に引きずられ、気がついた時には、かつて見られた運動の広がりや一般大衆の支持は急速に色褪せ、右一色の偏狭な運動に変質してしまっていた、という事にならなければ良いのですが。
・くいだおれ:大阪・ミナミの名物料理店、7月閉店へ(毎日新聞)
http://mainichi.jp/photo/news/20080409k0000m040121000c.html
・「くいだおれ」7月閉店、道頓堀のシンボル60年(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080409p101.htm
・「もう限界」大阪名物・くいだおれ閉店、時代の変化に勝てず(JANJAN)
http://www.news.janjan.jp/area/0804/0804094562/1.php
・大阪名物くいだおれ
http://www.cui-daore.co.jp/top.html
・くいだおれ(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%A0%E3%81%8A%E3%82%8C
大阪・ミナミの道頓堀にある老舗レストラン「くいだおれ」が、この7月で閉店します。何でも、不況の長期化に伴う客単価の減少や、嗜好の変化による客離れによって、閉店の止む無きに至ったのだとか。
そのニュースが流れたのは確か4月の10日過ぎで、「くいだおれ」人形の前には黒山の人盛りが出来ていました。店の前も長蛇の列で、とてもじゃないが店内に入る気にはなれませんでした。その喧騒もようやく静まり、やっと今日初めて店内に入る事が出来ました。
そして食べた感想ですが、予想した通り、”期待外れ”でした。あの店はビルの中が割烹・和食・居酒屋・洋食のフロアに分かれていて、私はその中の1階の洋食・レストランのフロアで「くいだおれオムライス」を食べたのですが、味と言い店内の造りや雰囲気と言い、かつての百貨店内の大衆食堂と変わらないのです。つまり、何の特徴も無いのです。確かに拙くは無い。しかしそれだけでは、オムライスを家で作って食べた方が遥かに安上がりです。何もわざわざ外食する必要などありません。これでは客離れが起こるのも頷けます。
かつての百貨店の食堂が相次いで閉店せざるを得なかったのも、偏に時代の変化に取り残されたからでしょう。核家族化・少子化・共働き・個食化がこれだけ年々進んできたのにも関わらず、十年一日の如く「ファミリーレストラン・大衆食堂」折衷型のコンテンツに固執していたのでは、そりゃあ客も次第に先細りになりますて。
オムライス・カレー・定食類が大体900円台で、うどん類は600円台、フライ・ハンバーグ中心のグリル定食が1800円台。そして、その定食も、エビフライ定食・唐揚げ定食と、揚げ物が中心で、うどんも、きつね・こぶ・エビフライ入りうどんの3種類のみ。うどんは、昆布ダシによる甘めの味付けが特徴の、典型的な大阪うどん。食後のコーヒーなどのセットメニューも一切無し。これが、洋食・レストラン類の基本的なメニュー・価格設定です。
これでは、周辺の飲食店には到底太刀打ちできません。今日びファミレスでも、昼のランチはもう少しマシなものが出ます。最近は讃岐うどんの店もあちこちに出来ています。1000円以内でも、もっと美味しい物を食べられる所が、探せば幾らでもあります。
私は最初、この老舗の経営不振には、不況や核家族化・個食化の影響も然る事ながら、最近富に問題になってきている日本人の味覚異常の問題(調味料漬け、マヨラーの出現など)も絡んでいるのかな、と思っていました。新世界の「いづみ食堂」が閉店の止む無きに至ったのも、同じ理由からでしたから。
しかし、それでも「まいどおおきに食堂」の様に、薄味の「昔ながら」路線を打ち出しながらも、店舗のリニューアルや効率化を進める事で、堅実な経営を維持しているチェーン店もあります。また「自由軒」の様に、敢えてレトロ路線に徹する事で、逆に周辺との差別化に成功している事例すらあります。
「くいだおれ」の場合は、そのどちらでもありませんでした。味もコンテンツも全く昔のままで、敢えて言うならば「グリコのオマケ」路線とも言うべきものでした。誰でもあのキャラメルの味を知っている「江崎グリコ」ならそれでも構わないのですが、如何せん「くいだおれ」は「江崎グリコ」ほど知名度は高くはありません。
「くいだおれ」の経営不振も、案外そこら辺の事が影響しているのではないでしょうか。何十年に渡って、中途半端な「グリコのオマケ」路線を墨守してきた故に、「まいどおおきに食堂」の様な経営効率化にも、「自由軒」の様な周辺との差別化にも、転身するチャンスを逸してしまったのではないか、と思うのですが。有体に言えば「くいだおれ人形に頼りすぎ、その上に胡坐をかき過ぎた」のではないかと。如何に「くいだおれ人形」が大阪の象徴だったとしても、所詮キャラクターはキャラクターでしかありません。肝心なのはキャラクターの扱いではなく、味や経営手法の刷新である筈なのに。
折角、大阪ミナミの一等地に古くから店を構え、客寄せパンダの「くいだおれ人形」もあるのですから、知名度としてはピカイチです。そういう他の店には無い有利な条件もあるのですから、若し経営者として本気で再建する気構えがあるのなら、もっと色んな手立てが思い浮かんで来る筈なのですが。
http://mainichi.jp/photo/news/20080409k0000m040121000c.html
・「くいだおれ」7月閉店、道頓堀のシンボル60年(読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080409p101.htm
・「もう限界」大阪名物・くいだおれ閉店、時代の変化に勝てず(JANJAN)
http://www.news.janjan.jp/area/0804/0804094562/1.php
・大阪名物くいだおれ
http://www.cui-daore.co.jp/top.html
・くいだおれ(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%A0%E3%81%8A%E3%82%8C
大阪・ミナミの道頓堀にある老舗レストラン「くいだおれ」が、この7月で閉店します。何でも、不況の長期化に伴う客単価の減少や、嗜好の変化による客離れによって、閉店の止む無きに至ったのだとか。
そのニュースが流れたのは確か4月の10日過ぎで、「くいだおれ」人形の前には黒山の人盛りが出来ていました。店の前も長蛇の列で、とてもじゃないが店内に入る気にはなれませんでした。その喧騒もようやく静まり、やっと今日初めて店内に入る事が出来ました。
そして食べた感想ですが、予想した通り、”期待外れ”でした。あの店はビルの中が割烹・和食・居酒屋・洋食のフロアに分かれていて、私はその中の1階の洋食・レストランのフロアで「くいだおれオムライス」を食べたのですが、味と言い店内の造りや雰囲気と言い、かつての百貨店内の大衆食堂と変わらないのです。つまり、何の特徴も無いのです。確かに拙くは無い。しかしそれだけでは、オムライスを家で作って食べた方が遥かに安上がりです。何もわざわざ外食する必要などありません。これでは客離れが起こるのも頷けます。
かつての百貨店の食堂が相次いで閉店せざるを得なかったのも、偏に時代の変化に取り残されたからでしょう。核家族化・少子化・共働き・個食化がこれだけ年々進んできたのにも関わらず、十年一日の如く「ファミリーレストラン・大衆食堂」折衷型のコンテンツに固執していたのでは、そりゃあ客も次第に先細りになりますて。
オムライス・カレー・定食類が大体900円台で、うどん類は600円台、フライ・ハンバーグ中心のグリル定食が1800円台。そして、その定食も、エビフライ定食・唐揚げ定食と、揚げ物が中心で、うどんも、きつね・こぶ・エビフライ入りうどんの3種類のみ。うどんは、昆布ダシによる甘めの味付けが特徴の、典型的な大阪うどん。食後のコーヒーなどのセットメニューも一切無し。これが、洋食・レストラン類の基本的なメニュー・価格設定です。
これでは、周辺の飲食店には到底太刀打ちできません。今日びファミレスでも、昼のランチはもう少しマシなものが出ます。最近は讃岐うどんの店もあちこちに出来ています。1000円以内でも、もっと美味しい物を食べられる所が、探せば幾らでもあります。
私は最初、この老舗の経営不振には、不況や核家族化・個食化の影響も然る事ながら、最近富に問題になってきている日本人の味覚異常の問題(調味料漬け、マヨラーの出現など)も絡んでいるのかな、と思っていました。新世界の「いづみ食堂」が閉店の止む無きに至ったのも、同じ理由からでしたから。
しかし、それでも「まいどおおきに食堂」の様に、薄味の「昔ながら」路線を打ち出しながらも、店舗のリニューアルや効率化を進める事で、堅実な経営を維持しているチェーン店もあります。また「自由軒」の様に、敢えてレトロ路線に徹する事で、逆に周辺との差別化に成功している事例すらあります。
「くいだおれ」の場合は、そのどちらでもありませんでした。味もコンテンツも全く昔のままで、敢えて言うならば「グリコのオマケ」路線とも言うべきものでした。誰でもあのキャラメルの味を知っている「江崎グリコ」ならそれでも構わないのですが、如何せん「くいだおれ」は「江崎グリコ」ほど知名度は高くはありません。
「くいだおれ」の経営不振も、案外そこら辺の事が影響しているのではないでしょうか。何十年に渡って、中途半端な「グリコのオマケ」路線を墨守してきた故に、「まいどおおきに食堂」の様な経営効率化にも、「自由軒」の様な周辺との差別化にも、転身するチャンスを逸してしまったのではないか、と思うのですが。有体に言えば「くいだおれ人形に頼りすぎ、その上に胡坐をかき過ぎた」のではないかと。如何に「くいだおれ人形」が大阪の象徴だったとしても、所詮キャラクターはキャラクターでしかありません。肝心なのはキャラクターの扱いではなく、味や経営手法の刷新である筈なのに。
折角、大阪ミナミの一等地に古くから店を構え、客寄せパンダの「くいだおれ人形」もあるのですから、知名度としてはピカイチです。そういう他の店には無い有利な条件もあるのですから、若し経営者として本気で再建する気構えがあるのなら、もっと色んな手立てが思い浮かんで来る筈なのですが。
若いうちはワーキングプアとして散々こき使われた挙句に、年老いれば老いたで、まるで「このごく潰しが、早よ死ね」と言わんばかりの如く扱いを受ける。こんな国に一体誰がした。
少し前に、我が家の親父・お袋の所にも、後期高齢者医療保険の被保険者証が送られてきました。私もそれを実際に目の当たりにして、「何と薄っぺらい保険証なのか」と、呆れ果てました。普通、保険証というのは、国保にしろ社保にしろ、二つ折りになっていて、中に受診・受給履歴の記入欄があるものでしょう。但し、実際には殆ど診察券の予約欄で事足りますので、保険証の方に何か書かれる事はめったに無いですが。
この一事を以ってしても、国・厚労省がお年寄りの人たちをどう見ているかが、垣間見えます。実際、世間でも、4月に入り、75歳以上のお年寄りの所にこの薄っぺらい保険証が送りつけられてきて、この4月から保険料の天引きが始まった途端に、全国で怒りの声が噴出して、役所の窓口はその対応に追われ、仕事が手につかない状態になっています。
次に紹介するのは、「しんぶん赤旗」4月20日付投書欄に掲載された、大阪府堺市在住の75歳男性からの、「お粗末な広報 説明が破たん」と題する投書です。短い文章なので、原文をそのまま引用します。
(引用開始)
「長寿医療制度(後期高齢者医療制度)が始まりました」という厚生労働省の「政府広報」が、「毎日」(17日付)に載りました。その内容がお粗末で、あまりにバカらしくてペンを執りました。
その1、「新しい保険証を大事にして下さい」―小さくて薄っぺらで、吹けば飛ぶような保険証を送ってきて、大事にしてとは。高齢者の命はこれくらいと言わんばかりです。政府こそ「高齢者の命を大事にしてください」と言いたいです。
その2、「治療内容も変わりません」―医療費を削りたくて、この制度にしたのです。変わらないなどと、ごまかさないでください。医師も「上限があって、必要な検査もできす、説明のしようがない」(16日放送「NHKクローズアップ現代」)と言っていました。
その3、「(保険料の年金からの天引きは)お支払の手間と徴集費用を抑える仕組みです」―冗談じゃありません。天引きを頼んだ覚えはありません。問答無用でやって、手間が省けるとは何たる言い草ですか。結局は、取りはぐれないための仕組みです。
説明不足というより、説明が破たんしています。後期高齢者医療制度は廃止するしかありません。
(引用終了)
正にこの投書子の言う通りです。後期高齢者医療制度の薄っぺらな保険証は、前回エントリーで言及した日払い派遣ワーカーに渡される小さな薄っぺらい作業確認票を思い起こさせます。この作業確認票も、定期券ぐらいの大きさの薄っぺらい紙切れで、そこに派遣先担当者の印鑑を押してもらって派遣会社に提出しなければ、働いた分の日当が出ない事になっています。厚労省は、流石に派遣会社みたいに「紛失したらもうそれで終わり」とまでは露骨には言いませんが、何のことは無い、やっている事は全く同じです。
国がお年寄りを厄介者扱いしているのは、「何故、75歳以上の老人を今までの保険から切り離すのか」との野党議員の質問に対して「残存能力が劣るから」と答えた厚労相・舛添要一の答弁(残存能力の低い奴は生きてる資格が無いてか!人を機械の部品扱いするな!)や、「後期」の名称が余りにも不人気なので取って付けた様に「長寿」と言い換える白々しさからも、充分に窺い知る事が出来ます。
「治療内容は変わらない」とか「治療費の本人負担は1割のみでえ従来と変わらず」という国の言い分も、「病院の窓口で払う時の治療費だけに限れば」という事でしかありません。国が医療機関に払う後期高齢者一人当たりの診療報酬の上限を月6千円までとし、それを超える場合は、やれ「主治医の承認が必要だ」とか「後は保険では賄わないから実費で負担せよ」と言っているのですから。
第一、今までは扶養家族として扱われ、保険料を払わずに済んでいたお年寄りからも、別に保険料を取り立て、更に残りの家族からも国保や社保の保険料を取り立てておきながら、「医療費負担が従来と変わらない」などと、よくも言えたものです。医療費の負担は今以上に増えます。
後期高齢者医療制度の仕組みは、概ね次の様なものです。
●75歳以上の人を「後期高齢者」と呼び、ほかの世代と切り離した医療保険制度に加入させ、診療報酬も現役世代とは別建てにする。
●保険料は、75歳以上の「全員」から徴収し、滞納すれば保険証を取り上げる。年金額が月1万5000円以上の人は年金から「天引き」される。
●しかも、医療費が増えたり後期高齢者の人口が増加するたびに、保険料は自動的に値上げされる仕組みになっている。謂わば保険料のスライド制である。「負担増が嫌なら粗診粗療に甘んじろ」という事だ。
●外来診療は、複数の医療機関を受診させないように「主治医」を一人に決め、保険で賄われる医療費の範囲も定額制(月6千円上限)に。健診受診も任意の対象者のみに。
●入院は、「退院支援計画」を作って退院させた医療機関への報酬を増やし、病院からの追い出しを促進。
●終末期は、延命治療の意志を事前に確認。患者や家族に治療中止を強制することにつながりかねない。
●65―74歳の高齢者(前期高齢者)も国保料を年金から天引き。
●70-74歳の患者の窓口負担を1割→2割に引き上げ。
●制度の運営主体は、市町村議の互選で選ばれる「広域連合」。市町村が行うのは保険料の徴収事務のみ。市町村主体の従来の国保と比べても、更に住民の声が届きにくくなる。
つまり、75歳以上のお年寄り(後期高齢者)を、それまでの公的医療保険から切り離し、差別的に囲い込み、「医療費が際限なく上がっていく痛みを後期高齢者が自ら自分の感覚で感じ取っていただ」き(厚労省担当官僚の洩らした言葉)、高齢者にとことん肩身の狭い思いを味あわせ、医者に掛かりにくくする事で、国の医療費を抑えるのが、この制度の狙いなのです。医療費が上がる原因は、もっと別の所にあるにも関わらず。
医療費が上がる原因は、診療報酬の偏りにあります。今の診療報酬は、医師の医療行為に対する点数は低く抑え、薬漬けにすればするほど点数が上がる形になっています。病院経営や医師の労働環境は悪化する一方で、製薬会社・民間保険業界や厚生官僚・族議員だけが甘い汁を吸う仕組みになっているのです。だから、人口千人当たりの医師数がイタリア4.2人、ドイツ3.4人に対して日本2.0人と、日本の医療水準が、OECD諸国30ヶ国中27位の低位にあるのです。
そして、より根源的には、福祉に金を回さず道路やダムや大企業減税や軍備にばかり金をつぎ込む、今の政治の問題に帰着します。市井の医者が暴利を貪っている訳でも何でもないのです(一部の悪徳医師は除いて)。若し医者が暴利を貪っているのであれば、医師不足や「お産・救急難民」の問題が、これだけ世間を騒がせる様な事態には成りません。いずれにしても、これは政治の貧困ともいうべきものであり、高齢者には何の責任もありません。
そうであるにも関わらず、国は、二言目には「社会の高齢化・少子化」を言い募り、「自助努力」だとか「国にばかり頼るな」と喧伝します。しかし、その「自助」や「共助」の基盤となる国民生活を破壊してきたのは、一体誰なのか。規制緩和・雇用破壊で大量のネットカフェ難民を生み出したのは、一体誰なのか。自分たちの生存すら脅かされている中では、「自助」や「共助」なぞ、したくても出来ないというのが、実情ではないか。
後期高齢者医療制度は「姥捨て山」制度だと言うのは、確かにその通りです。しかし、これは単に75歳以上の後期高齢者だけに限った問題ではありません。元を質せば、全て今の行政や政治の在り方に起因する問題です。つまり、現役世代も含めて、我々全員に関わる問題なのです。政府は、国民に偉そうに、くだらない道徳教育や愛国心の説教を垂れる前に、やるべき最低限の仕事をちゃんとしろ。これは単なる「姥捨て山」制度なんかではない。「棄民政策」そのものだ。
(参考資料)
・後期高齢者医療制度、負担と給付はどうなるか(全国保険医団体連合会)
http://hodanren.doc-net.or.jp/iryoukankei/seisaku-kaisetu/080403kourei.html
・保健福祉介護保険の情報サイト「ウェル」>後期高齢者医療保険特集ページ
http://www.wel.ne.jp/bbs/view.aspx?bbsid=12
・高齢者の生活は、社会が支えなければなりません!(茨城県医師会)
http://www.ibaraki.med.or.jp/?act=Topics&mode=Details&topics_no=134
・後期高齢者医療制度(長寿医療制度)ってなに?(大阪府保険医協会)
http://osaka-hk.org/koukikoureisya.html
・後期高齢者医療制度の冷酷(正・続・続々)(road to true)
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/88.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/89.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/91.html
・怒りと悲しみの後期高齢者医療制度(正・続)(同上)
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/92.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/93.html
・平成の姥捨山 元凶はコイツらだ!(日刊ゲンダイ)
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-02036576/1.htm
・後期高齢者医療制度・厚労省の言い訳1
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/info02d_89.pdf
・後期高齢者医療制度・厚労省の言い訳2
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/info02d_90.pdf
・医療クライシス最前線(週刊プレイボーイ)
http://homepage2.nifty.com/kasida/social-matter/frame-iryoucrisis.htm
※記事添付画像は、後期高齢者医療制度の撤回を求める茨城県医師会のポスター。
少し前に、我が家の親父・お袋の所にも、後期高齢者医療保険の被保険者証が送られてきました。私もそれを実際に目の当たりにして、「何と薄っぺらい保険証なのか」と、呆れ果てました。普通、保険証というのは、国保にしろ社保にしろ、二つ折りになっていて、中に受診・受給履歴の記入欄があるものでしょう。但し、実際には殆ど診察券の予約欄で事足りますので、保険証の方に何か書かれる事はめったに無いですが。
この一事を以ってしても、国・厚労省がお年寄りの人たちをどう見ているかが、垣間見えます。実際、世間でも、4月に入り、75歳以上のお年寄りの所にこの薄っぺらい保険証が送りつけられてきて、この4月から保険料の天引きが始まった途端に、全国で怒りの声が噴出して、役所の窓口はその対応に追われ、仕事が手につかない状態になっています。
次に紹介するのは、「しんぶん赤旗」4月20日付投書欄に掲載された、大阪府堺市在住の75歳男性からの、「お粗末な広報 説明が破たん」と題する投書です。短い文章なので、原文をそのまま引用します。
(引用開始)
「長寿医療制度(後期高齢者医療制度)が始まりました」という厚生労働省の「政府広報」が、「毎日」(17日付)に載りました。その内容がお粗末で、あまりにバカらしくてペンを執りました。
その1、「新しい保険証を大事にして下さい」―小さくて薄っぺらで、吹けば飛ぶような保険証を送ってきて、大事にしてとは。高齢者の命はこれくらいと言わんばかりです。政府こそ「高齢者の命を大事にしてください」と言いたいです。
その2、「治療内容も変わりません」―医療費を削りたくて、この制度にしたのです。変わらないなどと、ごまかさないでください。医師も「上限があって、必要な検査もできす、説明のしようがない」(16日放送「NHKクローズアップ現代」)と言っていました。
その3、「(保険料の年金からの天引きは)お支払の手間と徴集費用を抑える仕組みです」―冗談じゃありません。天引きを頼んだ覚えはありません。問答無用でやって、手間が省けるとは何たる言い草ですか。結局は、取りはぐれないための仕組みです。
説明不足というより、説明が破たんしています。後期高齢者医療制度は廃止するしかありません。
(引用終了)
正にこの投書子の言う通りです。後期高齢者医療制度の薄っぺらな保険証は、前回エントリーで言及した日払い派遣ワーカーに渡される小さな薄っぺらい作業確認票を思い起こさせます。この作業確認票も、定期券ぐらいの大きさの薄っぺらい紙切れで、そこに派遣先担当者の印鑑を押してもらって派遣会社に提出しなければ、働いた分の日当が出ない事になっています。厚労省は、流石に派遣会社みたいに「紛失したらもうそれで終わり」とまでは露骨には言いませんが、何のことは無い、やっている事は全く同じです。
国がお年寄りを厄介者扱いしているのは、「何故、75歳以上の老人を今までの保険から切り離すのか」との野党議員の質問に対して「残存能力が劣るから」と答えた厚労相・舛添要一の答弁(残存能力の低い奴は生きてる資格が無いてか!人を機械の部品扱いするな!)や、「後期」の名称が余りにも不人気なので取って付けた様に「長寿」と言い換える白々しさからも、充分に窺い知る事が出来ます。
「治療内容は変わらない」とか「治療費の本人負担は1割のみでえ従来と変わらず」という国の言い分も、「病院の窓口で払う時の治療費だけに限れば」という事でしかありません。国が医療機関に払う後期高齢者一人当たりの診療報酬の上限を月6千円までとし、それを超える場合は、やれ「主治医の承認が必要だ」とか「後は保険では賄わないから実費で負担せよ」と言っているのですから。
第一、今までは扶養家族として扱われ、保険料を払わずに済んでいたお年寄りからも、別に保険料を取り立て、更に残りの家族からも国保や社保の保険料を取り立てておきながら、「医療費負担が従来と変わらない」などと、よくも言えたものです。医療費の負担は今以上に増えます。
後期高齢者医療制度の仕組みは、概ね次の様なものです。
●75歳以上の人を「後期高齢者」と呼び、ほかの世代と切り離した医療保険制度に加入させ、診療報酬も現役世代とは別建てにする。
●保険料は、75歳以上の「全員」から徴収し、滞納すれば保険証を取り上げる。年金額が月1万5000円以上の人は年金から「天引き」される。
●しかも、医療費が増えたり後期高齢者の人口が増加するたびに、保険料は自動的に値上げされる仕組みになっている。謂わば保険料のスライド制である。「負担増が嫌なら粗診粗療に甘んじろ」という事だ。
●外来診療は、複数の医療機関を受診させないように「主治医」を一人に決め、保険で賄われる医療費の範囲も定額制(月6千円上限)に。健診受診も任意の対象者のみに。
●入院は、「退院支援計画」を作って退院させた医療機関への報酬を増やし、病院からの追い出しを促進。
●終末期は、延命治療の意志を事前に確認。患者や家族に治療中止を強制することにつながりかねない。
●65―74歳の高齢者(前期高齢者)も国保料を年金から天引き。
●70-74歳の患者の窓口負担を1割→2割に引き上げ。
●制度の運営主体は、市町村議の互選で選ばれる「広域連合」。市町村が行うのは保険料の徴収事務のみ。市町村主体の従来の国保と比べても、更に住民の声が届きにくくなる。
つまり、75歳以上のお年寄り(後期高齢者)を、それまでの公的医療保険から切り離し、差別的に囲い込み、「医療費が際限なく上がっていく痛みを後期高齢者が自ら自分の感覚で感じ取っていただ」き(厚労省担当官僚の洩らした言葉)、高齢者にとことん肩身の狭い思いを味あわせ、医者に掛かりにくくする事で、国の医療費を抑えるのが、この制度の狙いなのです。医療費が上がる原因は、もっと別の所にあるにも関わらず。
医療費が上がる原因は、診療報酬の偏りにあります。今の診療報酬は、医師の医療行為に対する点数は低く抑え、薬漬けにすればするほど点数が上がる形になっています。病院経営や医師の労働環境は悪化する一方で、製薬会社・民間保険業界や厚生官僚・族議員だけが甘い汁を吸う仕組みになっているのです。だから、人口千人当たりの医師数がイタリア4.2人、ドイツ3.4人に対して日本2.0人と、日本の医療水準が、OECD諸国30ヶ国中27位の低位にあるのです。
そして、より根源的には、福祉に金を回さず道路やダムや大企業減税や軍備にばかり金をつぎ込む、今の政治の問題に帰着します。市井の医者が暴利を貪っている訳でも何でもないのです(一部の悪徳医師は除いて)。若し医者が暴利を貪っているのであれば、医師不足や「お産・救急難民」の問題が、これだけ世間を騒がせる様な事態には成りません。いずれにしても、これは政治の貧困ともいうべきものであり、高齢者には何の責任もありません。
そうであるにも関わらず、国は、二言目には「社会の高齢化・少子化」を言い募り、「自助努力」だとか「国にばかり頼るな」と喧伝します。しかし、その「自助」や「共助」の基盤となる国民生活を破壊してきたのは、一体誰なのか。規制緩和・雇用破壊で大量のネットカフェ難民を生み出したのは、一体誰なのか。自分たちの生存すら脅かされている中では、「自助」や「共助」なぞ、したくても出来ないというのが、実情ではないか。
後期高齢者医療制度は「姥捨て山」制度だと言うのは、確かにその通りです。しかし、これは単に75歳以上の後期高齢者だけに限った問題ではありません。元を質せば、全て今の行政や政治の在り方に起因する問題です。つまり、現役世代も含めて、我々全員に関わる問題なのです。政府は、国民に偉そうに、くだらない道徳教育や愛国心の説教を垂れる前に、やるべき最低限の仕事をちゃんとしろ。これは単なる「姥捨て山」制度なんかではない。「棄民政策」そのものだ。
(参考資料)
・後期高齢者医療制度、負担と給付はどうなるか(全国保険医団体連合会)
http://hodanren.doc-net.or.jp/iryoukankei/seisaku-kaisetu/080403kourei.html
・保健福祉介護保険の情報サイト「ウェル」>後期高齢者医療保険特集ページ
http://www.wel.ne.jp/bbs/view.aspx?bbsid=12
・高齢者の生活は、社会が支えなければなりません!(茨城県医師会)
http://www.ibaraki.med.or.jp/?act=Topics&mode=Details&topics_no=134
・後期高齢者医療制度(長寿医療制度)ってなに?(大阪府保険医協会)
http://osaka-hk.org/koukikoureisya.html
・後期高齢者医療制度の冷酷(正・続・続々)(road to true)
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/88.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/89.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/91.html
・怒りと悲しみの後期高齢者医療制度(正・続)(同上)
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/92.html
http://sky.ap.teacup.com/sinzituitiro/93.html
・平成の姥捨山 元凶はコイツらだ!(日刊ゲンダイ)
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/gendai-02036576/1.htm
・後期高齢者医療制度・厚労省の言い訳1
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/info02d_89.pdf
・後期高齢者医療制度・厚労省の言い訳2
http://www.mhlw.go.jp/bunya/shakaihosho/iryouseido01/pdf/info02d_90.pdf
・医療クライシス最前線(週刊プレイボーイ)
http://homepage2.nifty.com/kasida/social-matter/frame-iryoucrisis.htm
※記事添付画像は、後期高齢者医療制度の撤回を求める茨城県医師会のポスター。
「人間飼い殺し・使い捨て」とも言うべき事態が、この日本で深く静かに進行している様な気がしてなりません。今日はとりあえず、登録型(スポット)派遣について、自分の周囲の例を挙げておきます。
まず、登録型派遣という働き方についての説明から。派遣でのバイトには、大別して常用型派遣(特定労働者派遣)と登録型派遣(一般労働者派遣)という二つの働き方があります。前者は、毎日いつも決まった派遣先で働くものを指します。それに対して後者は、派遣会社に名前を登録して不定期に仕事が回ってきた時だけ働くものを指します。これが別名「スポット派遣」とか「日払い派遣」と呼ばれる働き方(働かされ方)です。
私が現在勤務しているのは某スーパーの物流センターで、そこの業務請負会社でレギュラーのバイトとして働いているのですが、そこにも、私が雇われている業務請負会社の社員・バイトとは別に、先述の「スポット派遣」で回されてきたバイトが居ます。彼らスポット派遣のバイトは、忙しい日だけ私の職場に出勤してきます。その出勤シフトもまちまちで、週に数日忙しい日には必ず来て私達とほぼ同じ業務をこなす人たちも居れば、月に数回か甚だしきは数ヶ月に何回かだけ来て、当日だけ仕事をして帰る人も居ます。
当然、両者の間には仕事の習熟度に大きく差が出ます。何度も来ている人間はそれだけ仕事に慣れ、次第に会社からも重宝される様になります。それに引き換え、偶にしか来ない人間はいつまでたっても新人と変わらず、次第に職場でもお荷物扱いされる様になります。
勿論、その様になるのは、確かに個人の資質に因る所も大きいのです。そういう人は押しなべて他力本願で覇気がありません。こちらから仕事を教えてもなかなか自ら覚えようとせず、何度も同じ事を聞いて来ます。こちらとしても、そういう人には初歩的な作業しか任せられないので、そういう人はいつまで経っても仕事が覚えられません。謂わば悪循環です。
これは確かに当人の自己責任に因る所も大きいと思います。しかし話をよくよく聞いてみると、必ずしもそれだけが原因ではない事が、改めて分かってきました。スポット派遣の彼の場合も、「明日もこちらに出勤してくれ」と言われて来たのに、いざ当日業務終了後に派遣会社に電話を入れたら、急に明日からまた違う現場に行けと指示されたりするのです。何とその派遣会社は、会社の都合で勝手に派遣先を変更しておきながら、当人には電話一本も入れず、「明日の予定はそちらから聞いて来い」という態度なのです。
スポット派遣のバイトは、過去に私も何回かした事がありますが、何度も派遣会社に電話を入れなければなりません。まず出勤前日に「明日出勤します」コール。当日自宅を出る時に「これから出勤します」コール。待ち合わせの集合場所につくと、誰かが点呼をとって会社に「全員揃いました」コール。そして当日業務終了後は、自分の出勤カード(作業確認票)に派遣先担当者の認印かサインを貰って(それを派遣会社に提出しないと給料が出ない)会社に「業務終了」コールと、何度も派遣会社に電話を入れなければならないのです。その分の電話代も全て個人負担です。
私は今までその理由を、派遣会社が自社のバイトを信用していないからだと思っていました。実際、私のそれまでの経験からしても、派遣バイトの中には当日欠勤・無断欠勤者も少なくないのです。来て数日で急に連絡がつかなくなったバイトも何人も居ます。だから、「その当日欠勤・無断欠勤防止の為に何度も会社に電話を入れさせているのか」と、今までは思っていたのですが、実はそれだけでなく、「会社側が業務変更の連絡をサボる為に、個人に責任転嫁しているのもあるのではないか」、という気すらして来ました。
そんな形で、ある日はAの現場へ、またある日は全く違うBの現場へと、機械の部品みたいにコロコロ転送させられていたら、仕事にも愛着など湧かないし、湧かないから自ら覚えようともしない人間が出てくるのも、ある意味当然なのではないかと思います。勿論そうでない人も一杯居ます。そういう人はやがてスポット派遣から足を洗い、もっと割りの良いバイトにもありつけるでしょう。後に残るのは、それが出来ない「カス」ばかりとなり、そういう人はいつまで経ってもスポット派遣から足を洗えないのです。
ここで私が敢えて「カス」とキツイ言葉を使ったのは、そういう搾取の仕組みに気付いて自分から抜け出すなり抗うなりしなければ、誰も助けてはくれず、最後には自分で自分の首を絞める事にしかならない事に、当人自身が早く気付いて欲しいからです。権利とか法律と言うものは、自分たちが自らを守る武器として使いこなせなければ、所詮は絵に描いた餅でしかありません。それが分からない限り、いつまで経っても「ただのカス」として、資本家に好い様にこき使われた挙句に、最後には使い捨てられるだけです。
今日、私はその派遣バイトの彼に聞いてみました。「いつまでスポット派遣を続けるつもりか」と。そして、「今のままでは、自分も仕事やっていても全然面白く無いだろう」「今のままでは、いつまで経っても食っていけないし、仕事も覚えられないぞ」「いい加減、スポット派遣なんかではなく、社員でもバイトでも何でも良いから、もっと割りの良い仕事を探せ」と言う事も。グッドウィルの給与ピンハネ(データ装備費)の話もして、「安っぽいフリーペーパーに満載のスポット派遣求人など使わずに、それよりはまだ多少ともマトモな求人誌(アイデム・タウンワークなど)か、出来ればハローワークで仕事を探せ」「労基法の初歩的な内容ぐらい常識として知っておくべきだ」という事もアドバイスしておきました。しかし彼、ちょっとは考えていたみたいでしたが、果たしてどこまで私の言う事を理解してくれたやら。
(関連資料)
・登録型労働者と常用型労働者
http://www.bekkoame.ne.jp/~tk-o/HelloWork/hakenntr.htm
・ネットカフェ⇔日払い工場使い捨て切符(ウーツー(CDレビューア))
http://ameblo.jp/uhtwogh/entry-10028299832.html
・「日雇い派遣」の全面禁止 民主、労派法改正案提出へ(朝日新聞)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200802140336.html
・2/8 派遣法改正し"労働者保護法"に 志位委員長が質問/衆院予算委員会(全編)(YouTube)
http://jp.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs
・連合:「日雇い派遣禁止」の運動方針決める(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080125k0000m040161000c.html
・グッドウィルのデータ装備費 @ まとめウィキ
http://www34.atwiki.jp/gw-200/pages/1.html
まず、登録型派遣という働き方についての説明から。派遣でのバイトには、大別して常用型派遣(特定労働者派遣)と登録型派遣(一般労働者派遣)という二つの働き方があります。前者は、毎日いつも決まった派遣先で働くものを指します。それに対して後者は、派遣会社に名前を登録して不定期に仕事が回ってきた時だけ働くものを指します。これが別名「スポット派遣」とか「日払い派遣」と呼ばれる働き方(働かされ方)です。
私が現在勤務しているのは某スーパーの物流センターで、そこの業務請負会社でレギュラーのバイトとして働いているのですが、そこにも、私が雇われている業務請負会社の社員・バイトとは別に、先述の「スポット派遣」で回されてきたバイトが居ます。彼らスポット派遣のバイトは、忙しい日だけ私の職場に出勤してきます。その出勤シフトもまちまちで、週に数日忙しい日には必ず来て私達とほぼ同じ業務をこなす人たちも居れば、月に数回か甚だしきは数ヶ月に何回かだけ来て、当日だけ仕事をして帰る人も居ます。
当然、両者の間には仕事の習熟度に大きく差が出ます。何度も来ている人間はそれだけ仕事に慣れ、次第に会社からも重宝される様になります。それに引き換え、偶にしか来ない人間はいつまでたっても新人と変わらず、次第に職場でもお荷物扱いされる様になります。
勿論、その様になるのは、確かに個人の資質に因る所も大きいのです。そういう人は押しなべて他力本願で覇気がありません。こちらから仕事を教えてもなかなか自ら覚えようとせず、何度も同じ事を聞いて来ます。こちらとしても、そういう人には初歩的な作業しか任せられないので、そういう人はいつまで経っても仕事が覚えられません。謂わば悪循環です。
これは確かに当人の自己責任に因る所も大きいと思います。しかし話をよくよく聞いてみると、必ずしもそれだけが原因ではない事が、改めて分かってきました。スポット派遣の彼の場合も、「明日もこちらに出勤してくれ」と言われて来たのに、いざ当日業務終了後に派遣会社に電話を入れたら、急に明日からまた違う現場に行けと指示されたりするのです。何とその派遣会社は、会社の都合で勝手に派遣先を変更しておきながら、当人には電話一本も入れず、「明日の予定はそちらから聞いて来い」という態度なのです。
スポット派遣のバイトは、過去に私も何回かした事がありますが、何度も派遣会社に電話を入れなければなりません。まず出勤前日に「明日出勤します」コール。当日自宅を出る時に「これから出勤します」コール。待ち合わせの集合場所につくと、誰かが点呼をとって会社に「全員揃いました」コール。そして当日業務終了後は、自分の出勤カード(作業確認票)に派遣先担当者の認印かサインを貰って(それを派遣会社に提出しないと給料が出ない)会社に「業務終了」コールと、何度も派遣会社に電話を入れなければならないのです。その分の電話代も全て個人負担です。
私は今までその理由を、派遣会社が自社のバイトを信用していないからだと思っていました。実際、私のそれまでの経験からしても、派遣バイトの中には当日欠勤・無断欠勤者も少なくないのです。来て数日で急に連絡がつかなくなったバイトも何人も居ます。だから、「その当日欠勤・無断欠勤防止の為に何度も会社に電話を入れさせているのか」と、今までは思っていたのですが、実はそれだけでなく、「会社側が業務変更の連絡をサボる為に、個人に責任転嫁しているのもあるのではないか」、という気すらして来ました。
そんな形で、ある日はAの現場へ、またある日は全く違うBの現場へと、機械の部品みたいにコロコロ転送させられていたら、仕事にも愛着など湧かないし、湧かないから自ら覚えようともしない人間が出てくるのも、ある意味当然なのではないかと思います。勿論そうでない人も一杯居ます。そういう人はやがてスポット派遣から足を洗い、もっと割りの良いバイトにもありつけるでしょう。後に残るのは、それが出来ない「カス」ばかりとなり、そういう人はいつまで経ってもスポット派遣から足を洗えないのです。
ここで私が敢えて「カス」とキツイ言葉を使ったのは、そういう搾取の仕組みに気付いて自分から抜け出すなり抗うなりしなければ、誰も助けてはくれず、最後には自分で自分の首を絞める事にしかならない事に、当人自身が早く気付いて欲しいからです。権利とか法律と言うものは、自分たちが自らを守る武器として使いこなせなければ、所詮は絵に描いた餅でしかありません。それが分からない限り、いつまで経っても「ただのカス」として、資本家に好い様にこき使われた挙句に、最後には使い捨てられるだけです。
今日、私はその派遣バイトの彼に聞いてみました。「いつまでスポット派遣を続けるつもりか」と。そして、「今のままでは、自分も仕事やっていても全然面白く無いだろう」「今のままでは、いつまで経っても食っていけないし、仕事も覚えられないぞ」「いい加減、スポット派遣なんかではなく、社員でもバイトでも何でも良いから、もっと割りの良い仕事を探せ」と言う事も。グッドウィルの給与ピンハネ(データ装備費)の話もして、「安っぽいフリーペーパーに満載のスポット派遣求人など使わずに、それよりはまだ多少ともマトモな求人誌(アイデム・タウンワークなど)か、出来ればハローワークで仕事を探せ」「労基法の初歩的な内容ぐらい常識として知っておくべきだ」という事もアドバイスしておきました。しかし彼、ちょっとは考えていたみたいでしたが、果たしてどこまで私の言う事を理解してくれたやら。
(関連資料)
・登録型労働者と常用型労働者
http://www.bekkoame.ne.jp/~tk-o/HelloWork/hakenntr.htm
・ネットカフェ⇔日払い工場使い捨て切符(ウーツー(CDレビューア))
http://ameblo.jp/uhtwogh/entry-10028299832.html
・「日雇い派遣」の全面禁止 民主、労派法改正案提出へ(朝日新聞)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200802140336.html
・2/8 派遣法改正し"労働者保護法"に 志位委員長が質問/衆院予算委員会(全編)(YouTube)
http://jp.youtube.com/watch?v=6I_NTfz3RNs
・連合:「日雇い派遣禁止」の運動方針決める(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/today/news/20080125k0000m040161000c.html
・グッドウィルのデータ装備費 @ まとめウィキ
http://www34.atwiki.jp/gw-200/pages/1.html
アムネスティ日本が、先日の最高裁による「立川テント村事件」不当判決に対して、憂慮する旨の声明を出しています。その声明全文を下記に転載しておきます。
しかしまあ、NGOから「司法機関が国際人権基準の何たるかを理解していない」とか「良心の囚人」とか指摘されるとは、日本もつくづく落ちぶれたものです。たかが映画一つ上映するにも、いちいち身体を張らなければならないのですから。いくら上辺だけ先進国や民主国家を装っても、現状がこれではね。実際の所は、形だけは議会制民主主義でも国内で野党や少数民族を弾圧しまくっているイスラエル・トルコ・シンガポール辺りとも、そんなに変わらないのでは。
こんな日本が、いくら北朝鮮・中国やミャンマーの人権状況を論った所で、ドイツ・フランス・カナダや北欧諸国辺りからすれば、「目糞、鼻糞を笑う」か、せいぜい「下見て暮らせ傘の下」ぐらいにしかなりませんね。実際、言論・表現の自由にまつわる事件で、斯くも最高裁判決が、悉く下級審判決を覆して政府御用の内容になるのでは、「三権分立はあくまで建前だけで、実際には全然機能していない」と思われても仕方ありません。これでは、ムシャラフ政権が権勢を誇っていた頃のパキスタンとも、幾らも変わらないのでは。
ハンセン病訴訟や原爆被爆者認定訴訟にしても、この場合は国が世論を気にして控訴せず原告と和解に向けて歩みだし始めたから、まだしも良かったものの、若しそうでなければ、最高裁は今も政府御用の判決を出し続け、原告は塗炭の苦しみを味わい続けている事でしょう。
(転載開始)
2008/4/11 - 日本 : 「立川テント村事件」の最高裁判決を懸念
本日、最高裁第二小法廷は、いわゆる「立川テント村事件」に対して有罪とする判決を出した。アムネスティ日本は、本判決は日本における表現の自由を脅かすものであり、国際人権基準をないがしろにするものであるとして非難する。
そもそも、政府と異なる意見を表明する自由を確保することこそが、国際人権諸基準および国内法の最高規範である憲法が規定する、表現の自由の本質である。したがって、本件のように、政治的意見を表明するビラの配布は、それが平和的に行われるものである限り正当な権利の行使であり、社会が受容すべきものである。日本政府には、こうした政治的意見の表明を受容する義務があり、国際人権基準を遵守し、最大限その実現に努めるべき責任がある。平和的な意見表明に対して、他者の権利の侵害などを口実として制約を課してはならない。
今回の判決は、政府と異なる意見に対する弾圧そのものであり、有罪判決それ自体が、国際人権基準に対する重大な挑戦である。アムネスティ日本は、人権を保障する義務について、日本の法執行機関および司法機関が理解していない点を強く懸念する。この点については、すでに自由権規約委員会などの条約機関からも、再三にわたり、国際人権基準についての正確な理解を欠いている旨が指摘されている。日本政府は、条約諸機関からの改善勧告を誠実に実施し、法執行機関および司法機関の職員が国際人権基準を十分に理解できるよう、具体的な措置を講じるべきである。
今回の事件に見られるような国家による人権侵害、表現の自由の侵害を防ぐために、国際人権基準に基づき、独立した国内人権機関による救済措置や、条約機関に対する個人通報手続などが設けられなければならない。こうした点も条約諸機関からたびたび指摘されている。しかしながら日本政府は、これらの勧告も実施しておらず、個人通報制度も受託していない。アムネスティ日本は、日本政府が速やかに個人通報制度を規定する自由権規約第一選択議定書に加入すること、ならびに国際基準に基づく独立した国内人権機関を設置するよう、強く求めるものである。
立川での事件以後、政治的な内容を持つビラを住居に配布した個人が逮捕・起訴される事件が相次いだ。そうした取り締まりは、国内での政治的意見表明や社会的な活動を萎縮させている。そうした状況の中で出された今回の判決は、日本国内における表現の自由を後退させるものであるとアムネスティは考える。
背景情報:
日本国内ではじめて良心の囚人として認定された3人の逮捕、拘禁は、自衛隊のイラク派遣をめぐって厳しい意見対立が生じていた時期に起こった。
逮捕後、3人の良心の囚人は、弁護人の立会いがない中で毎日8時間の取り調べを受けた。そうした取り調べの様子を記録する録音、録画などは行われなかった。また、拘禁中、外部との接見交通も制約され、弁護人以外との面会が認められなかった。しかも、別件による逮捕を加えたため、75日間の長きに渡って代用監獄に拘禁されていた。また拘禁中、しばしば暴言や性的、精神的な虐待にあたる言動があったとも伝えられる。
第一審の東京地裁八王子支部は、2004年に表現の自由を保障する観点から無罪とした。しかし、検察側の控訴を受けた東京高裁は、2005年12月、住居侵入罪を適用し、罰金刑を言い渡した。
アムネスティ・インターナショナル日本声明
2008年4月11日
(転載終了)
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=467
ついでに、同じくアムネスティによる4月10日付「死刑執行抗議声明」にもリンクを張っておきます。但し予めことわっておきますが、私は死刑存廃の是非自体については判断を決めかねています。しかしそれでも、鳩山法相になってからの「トコロテン式」とも言うべき死刑執行のやり方については全く賛成出来ません。
況してや、無罪を主張して再審請求も出ている事案にまで死刑執行の承認を与えるとは、とても正気の沙汰とは思えません。若しこの事案が実は冤罪事件だったと後日判明した場合は、法相はどういう形で責任を取るのでしょうか。
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=466
しかしまあ、NGOから「司法機関が国際人権基準の何たるかを理解していない」とか「良心の囚人」とか指摘されるとは、日本もつくづく落ちぶれたものです。たかが映画一つ上映するにも、いちいち身体を張らなければならないのですから。いくら上辺だけ先進国や民主国家を装っても、現状がこれではね。実際の所は、形だけは議会制民主主義でも国内で野党や少数民族を弾圧しまくっているイスラエル・トルコ・シンガポール辺りとも、そんなに変わらないのでは。
こんな日本が、いくら北朝鮮・中国やミャンマーの人権状況を論った所で、ドイツ・フランス・カナダや北欧諸国辺りからすれば、「目糞、鼻糞を笑う」か、せいぜい「下見て暮らせ傘の下」ぐらいにしかなりませんね。実際、言論・表現の自由にまつわる事件で、斯くも最高裁判決が、悉く下級審判決を覆して政府御用の内容になるのでは、「三権分立はあくまで建前だけで、実際には全然機能していない」と思われても仕方ありません。これでは、ムシャラフ政権が権勢を誇っていた頃のパキスタンとも、幾らも変わらないのでは。
ハンセン病訴訟や原爆被爆者認定訴訟にしても、この場合は国が世論を気にして控訴せず原告と和解に向けて歩みだし始めたから、まだしも良かったものの、若しそうでなければ、最高裁は今も政府御用の判決を出し続け、原告は塗炭の苦しみを味わい続けている事でしょう。
(転載開始)
2008/4/11 - 日本 : 「立川テント村事件」の最高裁判決を懸念
本日、最高裁第二小法廷は、いわゆる「立川テント村事件」に対して有罪とする判決を出した。アムネスティ日本は、本判決は日本における表現の自由を脅かすものであり、国際人権基準をないがしろにするものであるとして非難する。
そもそも、政府と異なる意見を表明する自由を確保することこそが、国際人権諸基準および国内法の最高規範である憲法が規定する、表現の自由の本質である。したがって、本件のように、政治的意見を表明するビラの配布は、それが平和的に行われるものである限り正当な権利の行使であり、社会が受容すべきものである。日本政府には、こうした政治的意見の表明を受容する義務があり、国際人権基準を遵守し、最大限その実現に努めるべき責任がある。平和的な意見表明に対して、他者の権利の侵害などを口実として制約を課してはならない。
今回の判決は、政府と異なる意見に対する弾圧そのものであり、有罪判決それ自体が、国際人権基準に対する重大な挑戦である。アムネスティ日本は、人権を保障する義務について、日本の法執行機関および司法機関が理解していない点を強く懸念する。この点については、すでに自由権規約委員会などの条約機関からも、再三にわたり、国際人権基準についての正確な理解を欠いている旨が指摘されている。日本政府は、条約諸機関からの改善勧告を誠実に実施し、法執行機関および司法機関の職員が国際人権基準を十分に理解できるよう、具体的な措置を講じるべきである。
今回の事件に見られるような国家による人権侵害、表現の自由の侵害を防ぐために、国際人権基準に基づき、独立した国内人権機関による救済措置や、条約機関に対する個人通報手続などが設けられなければならない。こうした点も条約諸機関からたびたび指摘されている。しかしながら日本政府は、これらの勧告も実施しておらず、個人通報制度も受託していない。アムネスティ日本は、日本政府が速やかに個人通報制度を規定する自由権規約第一選択議定書に加入すること、ならびに国際基準に基づく独立した国内人権機関を設置するよう、強く求めるものである。
立川での事件以後、政治的な内容を持つビラを住居に配布した個人が逮捕・起訴される事件が相次いだ。そうした取り締まりは、国内での政治的意見表明や社会的な活動を萎縮させている。そうした状況の中で出された今回の判決は、日本国内における表現の自由を後退させるものであるとアムネスティは考える。
背景情報:
日本国内ではじめて良心の囚人として認定された3人の逮捕、拘禁は、自衛隊のイラク派遣をめぐって厳しい意見対立が生じていた時期に起こった。
逮捕後、3人の良心の囚人は、弁護人の立会いがない中で毎日8時間の取り調べを受けた。そうした取り調べの様子を記録する録音、録画などは行われなかった。また、拘禁中、外部との接見交通も制約され、弁護人以外との面会が認められなかった。しかも、別件による逮捕を加えたため、75日間の長きに渡って代用監獄に拘禁されていた。また拘禁中、しばしば暴言や性的、精神的な虐待にあたる言動があったとも伝えられる。
第一審の東京地裁八王子支部は、2004年に表現の自由を保障する観点から無罪とした。しかし、検察側の控訴を受けた東京高裁は、2005年12月、住居侵入罪を適用し、罰金刑を言い渡した。
アムネスティ・インターナショナル日本声明
2008年4月11日
(転載終了)
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=467
ついでに、同じくアムネスティによる4月10日付「死刑執行抗議声明」にもリンクを張っておきます。但し予めことわっておきますが、私は死刑存廃の是非自体については判断を決めかねています。しかしそれでも、鳩山法相になってからの「トコロテン式」とも言うべき死刑執行のやり方については全く賛成出来ません。
況してや、無罪を主張して再審請求も出ている事案にまで死刑執行の承認を与えるとは、とても正気の沙汰とは思えません。若しこの事案が実は冤罪事件だったと後日判明した場合は、法相はどういう形で責任を取るのでしょうか。
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=466
5月1日のメーデーと5月3日の憲法記念日、この前後の時期を指して、便宜的に「憲法旬間」と呼ぶ事もあるそうな。余り馴染みの無い言葉ですが、検索したら確かに少しヒットしました。昨今はGW前半の4月29日の「昭和の日」にメーデーを済ませてしまう労組も少なくないですが、それならそれで「憲法旬間」の範囲も更に広がろうというもの。「昭和の日」に、改めて天皇の戦争責任や天皇制存続の是非について考えてみる事も含めて。
今年の憲法旬間は、その前後の時期も含めて見ると、近年にも況して色んなニュースやイベントが目白押しの様な気がします。まずは、その中で私が注目しているモノを幾つか。
■9条世界会議の開催
何と言ってもまずはこれでしょう。かつて旧掲示板で「日本の中で9条を守れと言っているだけではダメだ、9条を米国や中国・北朝鮮にも輸出しろ!」と息巻いていた人がいましたが、このイベントなぞ正にその趣旨を体現したものでしょう。謂わば「憲法14条・25条世界輸出」の「世界社会フォーラム」と双璧を為す取組みです。
メーン・イベントが2008年5月4~5日に東京・幕張メッセで開催されると共に、広島・大阪・仙台その他でもそれと連動して同様のイベントが持たれます。大阪では5月6日に北港の舞洲アリーナで開催されます(添付画像のチラシ参照)。5月度の出勤シフトはまだ未定ですが、流通業界にとってGWは年末・年始と並ぶかき入れ時。この日も多分出勤日になるでしょうが、何とか有休を取って参加するつもりです。ソウル・フラワー・ユニオンの歌は是非聴きたい。
・9条世界会議
http://whynot9.jp/first/
・9条世界会議・関西
http://www.geocities.jp/article9kansai/index.html
・憲法改正「反対」43%、「賛成」を上回る…読売世論調査(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080116-907457/news/20080408-OYT1T00041.htm
■映画「靖国 YASUKUNI」の劇場公開
全国のトップを切って、大阪・十三(じゅうそう)の映画館「第七芸術劇場」で、5月10日から映画「靖国 YASUKUNI」の劇場公開が始まります。これも何としても見に行くつもりです。右翼の奴ら、裏から手を回して、出演者の靖国刀の刀匠に在る事無い事焚きつけて、映画そのものを無きものにしようと画策している様ですが、卑怯な事をするものです。第七劇場やその他の映画館も、こんなクソ右翼反動勢力の圧力に屈する事無く、是非とも上映を成功させて欲しいものです。
そもそも、あの映画の何処が一体「反日」なのか。「映画監督が中国人だから」か。しかし、在日歴も長く、日本語も独学で完璧にマスターし、三島由紀夫のファンでもあるという監督の、一体何処が。右翼の鈴木邦男も絶賛している映画の、一体何処が「反日」なのか。そして仮に「反日」映画であったとしても、それの何処が悪いのか。
また、「政治的」映画だいう批判もある様ですが、それの何処が悪いのか。凡そこの手のドキュメンタリー映画で、「政治的でない」ものなぞありません。靖国に限らず、どんなテーマを取り上げるにしても、社会的事象を取り上げる限り、政治とは全く無縁では在り得ないからです。そもそも一宗教法人にしか過ぎない靖国神社が、何の権利があって映倫の審査員みたいに偉そうに振舞うか。映画ぐらい自由に見せろ。頑張れ第七劇場、こんな下らない恫喝なんかに負けるな!
・大阪・第七芸術劇場の映画「靖国 YASUKUNI」作品紹介
http://www.nanagei.com/movie/data/219.html
・とんでもない事になった!(鈴木邦男をぶっとばせ!)
http://kunyon.com/
・『靖国』上映中止騒動、李監督は「理解しがたい」(オーマイニュース)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080411/23322
・映画「靖国 YASUKUNI」公式サイト
注:何故か、ずっと閲覧出来ない状況が続いています。
http://www.yasukuni-movie.com/
■日本の文化人がチベット問題で声明発表
これも特筆すべきニュースです。日本の文化人65氏が、チベット問題に関して、ダライラマ14世と中国政府首脳との直接対話を求める声明を発表しました。「中国政府がチベット本国でチベット人民に加えている、激しい人権弾圧に対して、深い憂いと強い憤りと悲しみを覚える」立場から、両者に対して、無条件で対話を呼びかけています。呼びかけ人の中には、「9条の会」などにもコメントをお寄せいただいている方も大勢居られます。
確かに、この声明文については、「北京オリンピック・ボイコットやチベット独立支持、中国共産党批判の立場が明確でない」という事で、「物足りない」という人も中には居られるかもしれません。しかし、要求を「無条件での対話開始」一本に絞る事で、当の中国政府も含め「誰もその内容には反対出来ない」力を持つ事になった、という事も逆に言えるのではないでしょうか。この取組みも、「日本国憲法の世界輸出」を体現したものであると言えます。
・14世ダライ・ラマ法王と中国政府首脳との直接対話を求める声明文(龍村仁HP)
http://gaiasymphony.com/tibet.html
・【ライブ配信予告】チベット・キャンドルマーチ in 渋谷(オーマイTV)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080409/23383
■立川テント村弾圧事件で最高裁が不当判決
最後に取り上げるのは、この悪いニュース。イラク反戦団体「立川テント村」が2004年に自衛隊官舎で撒いたイラクからの撤兵を訴えるビラ配布に、最高裁が一審逆転有罪の不当判決を下しました。
この事件と言い、マンションでの共産党のビラ配布弾圧と言い、弾圧の構造は映画「靖国 YASUKUNI」の上映妨害や「日の丸・君が代」強制の理屈と全く同じです。最初のうちこそ、言論・表現の自由や内心の自由への弾圧と受け取られない様に、「官舎・マンション管理人の承諾の有無」や「内心の自由とは別個の服務規程違反」、(先の靖国映画の例では)「国の文化後援の在り方」などが問題だと巧妙に言い立てながら、取り巻きの右翼暴力団やネットウヨクを使って、「言論・表現・思想」そのものを問題にする。そうして外堀を埋めながら、次第に言論を萎縮させて、「反日だからケシカラン」云々と、今度は思想そのものを攻撃して来る。こうして、政党結成やストライキもまかりならない戦前の産業報国会や大政翼賛会みたいな体制が出来上がっていくのです。
これは見方を変えれば、政府・自民党・財界・右翼反動勢力の「最後の悪あがき」と見る事も出来ます。後期高齢者医療制度への怒りの広がりや、イージス艦衝突事故や道路特定財源問題での政府・与党の迷走ぶりを見ても分かる様に、自民党政治は今やかつてない危機に直面しています。彼の人たちに残された手段は、もはや「国民の運動を何が何でも弾圧・懐柔する事」しかありません。弾圧を跳ね返して自民党政治に止めを差す事が出来るか、それとも弾圧に負けて、今後の日本を、戦前の治安維持法下の時代や、今の中国・北朝鮮、911以後の愛国者法で言論が規制されている今の米国みたいな国にしてしまうのか、それが今、問われているのです。
・立川・反戦ビラ弾圧救援会HP
http://www011.upp.so-net.ne.jp/tachikawatent/index.htm
・[AML 19062] (転載)不当判決を認めない宣言
不当判決否認の呼びかけ。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-April/018573.html
今年の憲法旬間は、その前後の時期も含めて見ると、近年にも況して色んなニュースやイベントが目白押しの様な気がします。まずは、その中で私が注目しているモノを幾つか。
■9条世界会議の開催
何と言ってもまずはこれでしょう。かつて旧掲示板で「日本の中で9条を守れと言っているだけではダメだ、9条を米国や中国・北朝鮮にも輸出しろ!」と息巻いていた人がいましたが、このイベントなぞ正にその趣旨を体現したものでしょう。謂わば「憲法14条・25条世界輸出」の「世界社会フォーラム」と双璧を為す取組みです。
メーン・イベントが2008年5月4~5日に東京・幕張メッセで開催されると共に、広島・大阪・仙台その他でもそれと連動して同様のイベントが持たれます。大阪では5月6日に北港の舞洲アリーナで開催されます(添付画像のチラシ参照)。5月度の出勤シフトはまだ未定ですが、流通業界にとってGWは年末・年始と並ぶかき入れ時。この日も多分出勤日になるでしょうが、何とか有休を取って参加するつもりです。ソウル・フラワー・ユニオンの歌は是非聴きたい。
・9条世界会議
http://whynot9.jp/first/
・9条世界会議・関西
http://www.geocities.jp/article9kansai/index.html
・憲法改正「反対」43%、「賛成」を上回る…読売世論調査(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080116-907457/news/20080408-OYT1T00041.htm
■映画「靖国 YASUKUNI」の劇場公開
全国のトップを切って、大阪・十三(じゅうそう)の映画館「第七芸術劇場」で、5月10日から映画「靖国 YASUKUNI」の劇場公開が始まります。これも何としても見に行くつもりです。右翼の奴ら、裏から手を回して、出演者の靖国刀の刀匠に在る事無い事焚きつけて、映画そのものを無きものにしようと画策している様ですが、卑怯な事をするものです。第七劇場やその他の映画館も、こんなクソ右翼反動勢力の圧力に屈する事無く、是非とも上映を成功させて欲しいものです。
そもそも、あの映画の何処が一体「反日」なのか。「映画監督が中国人だから」か。しかし、在日歴も長く、日本語も独学で完璧にマスターし、三島由紀夫のファンでもあるという監督の、一体何処が。右翼の鈴木邦男も絶賛している映画の、一体何処が「反日」なのか。そして仮に「反日」映画であったとしても、それの何処が悪いのか。
また、「政治的」映画だいう批判もある様ですが、それの何処が悪いのか。凡そこの手のドキュメンタリー映画で、「政治的でない」ものなぞありません。靖国に限らず、どんなテーマを取り上げるにしても、社会的事象を取り上げる限り、政治とは全く無縁では在り得ないからです。そもそも一宗教法人にしか過ぎない靖国神社が、何の権利があって映倫の審査員みたいに偉そうに振舞うか。映画ぐらい自由に見せろ。頑張れ第七劇場、こんな下らない恫喝なんかに負けるな!
・大阪・第七芸術劇場の映画「靖国 YASUKUNI」作品紹介
http://www.nanagei.com/movie/data/219.html
・とんでもない事になった!(鈴木邦男をぶっとばせ!)
http://kunyon.com/
・『靖国』上映中止騒動、李監督は「理解しがたい」(オーマイニュース)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080411/23322
・映画「靖国 YASUKUNI」公式サイト
注:何故か、ずっと閲覧出来ない状況が続いています。
http://www.yasukuni-movie.com/
■日本の文化人がチベット問題で声明発表
これも特筆すべきニュースです。日本の文化人65氏が、チベット問題に関して、ダライラマ14世と中国政府首脳との直接対話を求める声明を発表しました。「中国政府がチベット本国でチベット人民に加えている、激しい人権弾圧に対して、深い憂いと強い憤りと悲しみを覚える」立場から、両者に対して、無条件で対話を呼びかけています。呼びかけ人の中には、「9条の会」などにもコメントをお寄せいただいている方も大勢居られます。
確かに、この声明文については、「北京オリンピック・ボイコットやチベット独立支持、中国共産党批判の立場が明確でない」という事で、「物足りない」という人も中には居られるかもしれません。しかし、要求を「無条件での対話開始」一本に絞る事で、当の中国政府も含め「誰もその内容には反対出来ない」力を持つ事になった、という事も逆に言えるのではないでしょうか。この取組みも、「日本国憲法の世界輸出」を体現したものであると言えます。
・14世ダライ・ラマ法王と中国政府首脳との直接対話を求める声明文(龍村仁HP)
http://gaiasymphony.com/tibet.html
・【ライブ配信予告】チベット・キャンドルマーチ in 渋谷(オーマイTV)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20080409/23383
■立川テント村弾圧事件で最高裁が不当判決
最後に取り上げるのは、この悪いニュース。イラク反戦団体「立川テント村」が2004年に自衛隊官舎で撒いたイラクからの撤兵を訴えるビラ配布に、最高裁が一審逆転有罪の不当判決を下しました。
この事件と言い、マンションでの共産党のビラ配布弾圧と言い、弾圧の構造は映画「靖国 YASUKUNI」の上映妨害や「日の丸・君が代」強制の理屈と全く同じです。最初のうちこそ、言論・表現の自由や内心の自由への弾圧と受け取られない様に、「官舎・マンション管理人の承諾の有無」や「内心の自由とは別個の服務規程違反」、(先の靖国映画の例では)「国の文化後援の在り方」などが問題だと巧妙に言い立てながら、取り巻きの右翼暴力団やネットウヨクを使って、「言論・表現・思想」そのものを問題にする。そうして外堀を埋めながら、次第に言論を萎縮させて、「反日だからケシカラン」云々と、今度は思想そのものを攻撃して来る。こうして、政党結成やストライキもまかりならない戦前の産業報国会や大政翼賛会みたいな体制が出来上がっていくのです。
これは見方を変えれば、政府・自民党・財界・右翼反動勢力の「最後の悪あがき」と見る事も出来ます。後期高齢者医療制度への怒りの広がりや、イージス艦衝突事故や道路特定財源問題での政府・与党の迷走ぶりを見ても分かる様に、自民党政治は今やかつてない危機に直面しています。彼の人たちに残された手段は、もはや「国民の運動を何が何でも弾圧・懐柔する事」しかありません。弾圧を跳ね返して自民党政治に止めを差す事が出来るか、それとも弾圧に負けて、今後の日本を、戦前の治安維持法下の時代や、今の中国・北朝鮮、911以後の愛国者法で言論が規制されている今の米国みたいな国にしてしまうのか、それが今、問われているのです。
・立川・反戦ビラ弾圧救援会HP
http://www011.upp.so-net.ne.jp/tachikawatent/index.htm
・[AML 19062] (転載)不当判決を認めない宣言
不当判決否認の呼びかけ。
http://list.jca.apc.org/public/aml/2008-April/018573.html
・「残業代など不払い」 バイト3人が「すき家」刑事告訴(朝日新聞)
http://www.asahi.com/job/news/TKY200804080324.html
・働く者の権利守ろう/残業代法律通り払え/「すき家」に抗議宣伝/首都圏青年ユニオン(しんぶん赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-10/2008041005_01_0.html
・「週刊東洋経済」に「すき家」の偽装雇用問題(レイバーネット)
http://www.labornetjp.org/news/2008/1202824210781staff01
・上記新聞記事の詳細について記した首都圏青年ユニオンのHP
http://www.seinen-u.org/index.html
昨年、大手牛丼チェーンの「すき家」で働くアルバイトが、労働組合「すき家ユニオン」を結成して解雇を撤回させ、未払いだった残業代も払わせる事に成功した、というニュースがありました。やがて「すき家」の他の店舗でも、バイトが労組に加入して未払い分の残業代を請求する動きが出てきました。しかしそれに対して会社側は、当時の和解条項もそっちのけに、何と「ここで働く従業員は業務委託契約で働いている人間だ、従って我が社が雇った人間ではないから残業代は払わない、団交にも応じない」と言い出しました。それで裁判になっているのだと。
業務委託契約というのは、この場合で言うと、個人が企業から仕事を受注して働く「個人請負」の様なものです。赤帽・軽急便・バイク便や、個人営業のタクシー、コンビニなどのフランチャイズがその典型で、個人は自営業者として扱われます。企業との関係で言えば、個人はあくまで取引先・下請先の一つでしかない。当然、企業との間に雇用関係は生じません。
では何故、その「自営業者」を、「すき家」の名前でアルバイト募集の広告を出して採用し、社会保険にも加入させたのか? 誰でも直ぐに思い浮かぶこの疑問に、「すき家」は何らまともに答える事が出来ません。こんな「偽装個人請負」の見え透いた嘘を、よくも平然とつけたものです。
しかし、キャノンの「偽装請負」やマクドナルドの「名ばかり管理職」といい、「偽装・違法何でも在り」の日本資本主義の状況からすると、こういう見え透いた嘘も堂々とつきかねない状況です。
派遣法の規制逃れの為に実際には派遣労働者として働かせながら恰も業務請負契約で働かせているかの様に取り繕う「偽装請負」や、実際には部下も権限も何もない形だけの管理職にしておいて残業代を出し渋る「名ばかり管理職」や、あの悪名高いホワイトカラー・エグゼンプションにしても、まだ一応は、企業と従業員との間には雇用関係があります。従って、従業員が業務中に労災に遭えば企業は管理責任を問われます。しかし「個人請負」になればもう、企業と従業員との間には何の雇用関係も無くなります。従業員が業務中に労災にでも遭おうものなら、逆に「下請けの不始末」として切り捨てる口実にもされかねません。
資本家側からすれば、これぞ雇用規制緩和、労働ビッグバンの行き着く先、究極の姿ではないですか。そう考えると、「偽装請負」や「偽装管理職」も、企業と従業員の関係を、最終的にはこの様な「個人請負」の関係に持って行く為の、過渡的な雇用形態ではないか、という気すらしてきます。
・【労働環境】増える「個人請負」という名の過酷な偽装雇用(東洋経済):2ちゃんねるでも話題に。
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1202996665/-100
・労働現場にはびこる「三つの偽装」の実態
http://www.h7.dion.ne.jp/~mm-nd/to216/toyo08.html
・請負/偽装請負/偽装雇用
http://www.arsvi.com/d/uo01.htm
しかし幾ら何でも、流石にこんな直ぐばれる嘘はつかないだろうとは思いますが、そこで気になったのが「契約社員」という言葉です。「アルバイトに毛が生えたもの」ぐらいの意味合いでよく使われる言葉ですが、実際その定義は曖昧模糊としています。実は私も、雇用契約書の上では「契約社員」という身分なのです。その契約書には「身分:契約社員」とあり、「二ヶ月毎の自動更新契約」の形で、賃金・勤務時間・休日・給与支払日その他の事が記載されています。
その「契約社員」という言葉については、私も別段気にも留めずに、今まで何気なく使ってきましたが、よく考えてみればこれもおかしな言葉です。企業と従業員の間には、社員であれパート・バイトであれ、必ず雇用(労働)契約が伴います。直接雇用関係には無いアウトソーシング従業員の場合でも、派遣・請負契約の形で、自分の所属する派遣・請負企業を仲立ちとして、親企業との間には何らかの利害関係が生じます。つまり、どんな働き方であっても、当該企業の関係者である限り、そこには何らかの形で契約関係が生じます。わざわざ「契約」社員とことわらなければならない理由なぞ、本来は何も無い筈です。
以上、少し気になったので一応調べてみました。それによると、「契約社員」という言葉にははっきりした定義は無く、非正規雇用従業員一般の意味合いで使われているに過ぎない事が分かりました。どちらにしろ、正確な用語ではないし、寧ろ誤解を招きかねない様な言葉なので、余り使わない方が良いのかも知れません。
・契約社員とは...労基法の適用あり、あまり、呼称に惑わされないようにしよう(労働安全情報センター)
http://labor.tank.jp/sonota/keiyakusyain.html
「すき家」の件に話を戻すと、会社側の出方としては、傘下に名ばかりの派遣会社か請負会社をでっち上げて、バイトを丸ごとそちらに移籍させるつもりなのかも知れません。「すき家」本体としては、「その偽装アウトソーシング企業から人を受け入れているに過ぎない」という形にする。若し労使紛争で団交という事態になっても、実体も当事者能力もないアウトソーシング企業が相手では、全然埒が開かないという事になるのは、もう目に見えています。でも、そういう偽装は、遅かれ早かれ必ずばれます。建造物の耐震偽装や食品の品質偽装の様に。雪印みたいになりたくなければ、そんな見え見えの嘘なぞ最初からつかない事です。
※添付画像は上記「しんぶん赤旗」記事のもの。
http://www.asahi.com/job/news/TKY200804080324.html
・働く者の権利守ろう/残業代法律通り払え/「すき家」に抗議宣伝/首都圏青年ユニオン(しんぶん赤旗)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-04-10/2008041005_01_0.html
・「週刊東洋経済」に「すき家」の偽装雇用問題(レイバーネット)
http://www.labornetjp.org/news/2008/1202824210781staff01
・上記新聞記事の詳細について記した首都圏青年ユニオンのHP
http://www.seinen-u.org/index.html
昨年、大手牛丼チェーンの「すき家」で働くアルバイトが、労働組合「すき家ユニオン」を結成して解雇を撤回させ、未払いだった残業代も払わせる事に成功した、というニュースがありました。やがて「すき家」の他の店舗でも、バイトが労組に加入して未払い分の残業代を請求する動きが出てきました。しかしそれに対して会社側は、当時の和解条項もそっちのけに、何と「ここで働く従業員は業務委託契約で働いている人間だ、従って我が社が雇った人間ではないから残業代は払わない、団交にも応じない」と言い出しました。それで裁判になっているのだと。
業務委託契約というのは、この場合で言うと、個人が企業から仕事を受注して働く「個人請負」の様なものです。赤帽・軽急便・バイク便や、個人営業のタクシー、コンビニなどのフランチャイズがその典型で、個人は自営業者として扱われます。企業との関係で言えば、個人はあくまで取引先・下請先の一つでしかない。当然、企業との間に雇用関係は生じません。
では何故、その「自営業者」を、「すき家」の名前でアルバイト募集の広告を出して採用し、社会保険にも加入させたのか? 誰でも直ぐに思い浮かぶこの疑問に、「すき家」は何らまともに答える事が出来ません。こんな「偽装個人請負」の見え透いた嘘を、よくも平然とつけたものです。
しかし、キャノンの「偽装請負」やマクドナルドの「名ばかり管理職」といい、「偽装・違法何でも在り」の日本資本主義の状況からすると、こういう見え透いた嘘も堂々とつきかねない状況です。
派遣法の規制逃れの為に実際には派遣労働者として働かせながら恰も業務請負契約で働かせているかの様に取り繕う「偽装請負」や、実際には部下も権限も何もない形だけの管理職にしておいて残業代を出し渋る「名ばかり管理職」や、あの悪名高いホワイトカラー・エグゼンプションにしても、まだ一応は、企業と従業員との間には雇用関係があります。従って、従業員が業務中に労災に遭えば企業は管理責任を問われます。しかし「個人請負」になればもう、企業と従業員との間には何の雇用関係も無くなります。従業員が業務中に労災にでも遭おうものなら、逆に「下請けの不始末」として切り捨てる口実にもされかねません。
資本家側からすれば、これぞ雇用規制緩和、労働ビッグバンの行き着く先、究極の姿ではないですか。そう考えると、「偽装請負」や「偽装管理職」も、企業と従業員の関係を、最終的にはこの様な「個人請負」の関係に持って行く為の、過渡的な雇用形態ではないか、という気すらしてきます。
・【労働環境】増える「個人請負」という名の過酷な偽装雇用(東洋経済):2ちゃんねるでも話題に。
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1202996665/-100
・労働現場にはびこる「三つの偽装」の実態
http://www.h7.dion.ne.jp/~mm-nd/to216/toyo08.html
・請負/偽装請負/偽装雇用
http://www.arsvi.com/d/uo01.htm
しかし幾ら何でも、流石にこんな直ぐばれる嘘はつかないだろうとは思いますが、そこで気になったのが「契約社員」という言葉です。「アルバイトに毛が生えたもの」ぐらいの意味合いでよく使われる言葉ですが、実際その定義は曖昧模糊としています。実は私も、雇用契約書の上では「契約社員」という身分なのです。その契約書には「身分:契約社員」とあり、「二ヶ月毎の自動更新契約」の形で、賃金・勤務時間・休日・給与支払日その他の事が記載されています。
その「契約社員」という言葉については、私も別段気にも留めずに、今まで何気なく使ってきましたが、よく考えてみればこれもおかしな言葉です。企業と従業員の間には、社員であれパート・バイトであれ、必ず雇用(労働)契約が伴います。直接雇用関係には無いアウトソーシング従業員の場合でも、派遣・請負契約の形で、自分の所属する派遣・請負企業を仲立ちとして、親企業との間には何らかの利害関係が生じます。つまり、どんな働き方であっても、当該企業の関係者である限り、そこには何らかの形で契約関係が生じます。わざわざ「契約」社員とことわらなければならない理由なぞ、本来は何も無い筈です。
以上、少し気になったので一応調べてみました。それによると、「契約社員」という言葉にははっきりした定義は無く、非正規雇用従業員一般の意味合いで使われているに過ぎない事が分かりました。どちらにしろ、正確な用語ではないし、寧ろ誤解を招きかねない様な言葉なので、余り使わない方が良いのかも知れません。
・契約社員とは...労基法の適用あり、あまり、呼称に惑わされないようにしよう(労働安全情報センター)
http://labor.tank.jp/sonota/keiyakusyain.html
「すき家」の件に話を戻すと、会社側の出方としては、傘下に名ばかりの派遣会社か請負会社をでっち上げて、バイトを丸ごとそちらに移籍させるつもりなのかも知れません。「すき家」本体としては、「その偽装アウトソーシング企業から人を受け入れているに過ぎない」という形にする。若し労使紛争で団交という事態になっても、実体も当事者能力もないアウトソーシング企業が相手では、全然埒が開かないという事になるのは、もう目に見えています。でも、そういう偽装は、遅かれ早かれ必ずばれます。建造物の耐震偽装や食品の品質偽装の様に。雪印みたいになりたくなければ、そんな見え見えの嘘なぞ最初からつかない事です。
※添付画像は上記「しんぶん赤旗」記事のもの。
前号エントリーの続きです。
あれから、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」(岩波新書)を買って読みました。その前に予め断っておきますが、この本は、単に集団自決についてのみ書かれたものではありません。60年代末から70年代初頭にかけての沖縄復帰直前の時期に、沖縄と日本との関係を、著者の視点で捉え直したルポルタージュです。
そこには、復帰直前の国政選挙への初参加の日程が与党自民党の党内事情優先で決定された事や、革新勢力の中にも、例えば「本土の沖縄化に反対する」という当時のスローガンの中に、沖縄を異端視し差別する思想が根深く潜んでいる事、命懸けで米軍の銃剣支配と対峙している全軍労のストライキを「基地労働者と基地周辺飲食業者との対立」としか捉える事が出来ない本土マスコミの無理解などが書かれています。その様な、沖縄と(大江や私も含めた)本土との住民の間に横たわる溝の一例として、くだんの集団自決の話が登場するのです。
(引用開始)
このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が肉体の奥深いところを、息もつまるような力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい》と語っていたという記事を思い出す時である。(同著208ページ)
(引用終了)http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/697.html
その守備隊長というのは、差し詰め「海軍よもやま物語」の様な感覚で、かつての戦地を訪れたのではないでしょうか。その表現が言い過ぎであるならば、硫黄島やサイパンの墓参訪問団と言い換えても良いです。いずれにしても、そこにあるのは「自分たちはよく頑張った、住民もよく協力してくれた」という思いが殆どで、実際にそこの住民がどんな思いで死んで(殺されて)いったのかという事は、二の次三の次でしかありません。だから、1970年春に「もうおりがきた=ほとぼりが冷めた」と判断し、のうのうと戦地を訪れようとしたこの守備隊長は、那覇空港で現地の青年たちによる予想外の抗議の声に直面し、埠頭ではフェリーへの乗船を拒否され、星条旗をつけた米国の民間船でこそこそ来訪を済ますしかなかったのでしょう。
但し、その一方で、渡嘉敷島の集団自決跡に立つ慰霊碑には、下記の記述がある事もまた事実です。この慰霊碑の碑文を書いたのは靖国擁護派の作家・曽野綾子ですが、その記述をも一面の事実として受け入れざるを得なかった島民には、私たちには想像もつかないような内心忸怩たる思いがあるに違いありません。
(引用開始)
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数ヶ所に集結したが、翌28日、敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。(渡嘉敷村のHPより)
(引用終了)http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdf
実際、明治以来の沖縄においては、本土への同化政策や皇民化教育は熾烈を極めました。例えば、学校内では方言の使用が一切禁じられ、違反した生徒には「方言札」というものを首からぶら下げさせて見せしめにする様な事まで行われました。その結果、沖縄県民は、差別から逃れるためにも、自ら進んで同化政策を受け入れざるを得ない心理状況に追い詰められたという一面があります。それに島の共同体の一員としての同調圧力や戦争による集団パニックが加わって、慰霊碑の碑文にもある様に「自らの手で自決する道を選んだ」のでしょう。
集団自決を拒否して逃げおおせた島民も少なくなかった一方で、自決してしまった島民も少なくなかったのは、確かに事実でしょう。しかしその上っ面だけを見て、普段は誰憚る事なく方言を使う一方で、公式の場では標準語の使用を強制され自らも積極的に喋れる様になろうと努力した(させられた)島民の、その強いられた部分だけを殊更強調し、また美徳であるかのように言いなすのは、大きな間違いです。少なくとも、実際は靖国派(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会)が喧伝するような、こんな下記の様な奇麗事では一切なかった筈だ。
(引用開始)
慶良間での集団自決は、「家族での(無理)心中」と受け止めるのが、最も自然にも思われるのであり、そのような言葉で表現したときに、なおいっそう、同胞に起きた「極めて日本人的な悲劇」として我々も了解でき、悲惨ではありながらも強いメッセージを残す民族的史実として、この事件を心と歴史に刻みつけることが可能になると思われるのである。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面より)
(引用終了)http://osj.jugem.jp/?eid=25
しかし、一体全体、「極めて日本人的な悲劇」とか「悲惨ではありながらも強いメッセージを残す民族的史実」とか、そんな奇麗事で片付けられる事だったのでしょうか。現代の自分たちの周囲に実際にある、より具体的な事例に置き換えてみると、その出鱈目さがはっきりします。
例えば昨今、サラリーマンの過労死自殺が問題になっていますが、若し自分がその自殺した夫の妻や子供であった場合に、こんな勝手な理屈で片付けられたとしたら、どうでしょう。確かに、経営者が「自殺しろ」と命令した訳ではありません。そういう事を平気で口にする経営者も少なくないですが、そういう経営者もそれを文書に残すようなヘマはしないでしょう。但し、それで追い詰められて亡くなっても、直接の死因はあくまで自殺や心筋梗塞・脳溢血であり、経営者が「死ね」と命令した訳ではない。
また、実際にはそんな職場など自分の方から見限って辞めるなり、憲法・法律・権利を武器にしぶとく抵抗するという選択肢もあるのに、そうせずに自殺する道を選んだとします。それらの自殺や職業病による死亡が、実際には経営者によるパワー・ハラスメントや長時間労働、グローバル資本の搾取、政府の新自由主義経済政策に因るものである事は、はっきりしています。しかし、これらも靖国派の論理では「会社という閉鎖的な共同体社会の中で同化政策に飼いならされた末の集団パニック」として、「自己責任」の一語で以って片付けられるのでしょう。それどころか「会社に忠誠を尽くした証」にもされかねません。しかしそれでは、自殺した当人や残された遺族や従業員は堪ったものではありません。
先日の大江氏側勝訴の大阪地裁判決も、そういう至極当然の論理に立ったものに過ぎません。それに異を唱える靖国派の連中は、<過労死を告発する労働者に対して「誰が自殺しろと言った」と居直る経営者>と同じです。これらの人たちは、ニコンやそれと結託した派遣会社によって殺された上段勇二さんや、トヨタによって殺された内田健一さんの遺族に対しても、果たして同じ様な言葉が吐けるのでしょうか。
誰が好き好んで本心から「死にたい」なぞと言うものか。「愛する家族を守るために」と遺書に書き残して死んでいった特攻隊員も、そう無理やり自分に言い聞かせて死んでいったに過ぎない。本当はみんな少しでも生きたかったのだよ。それは、戦時中の沖縄・広島・長崎・南京・フィリピン・アウシュビッツでも、現代のアフガン・イラク・パレスチナ・北朝鮮でも、また日本の過労死・パワハラ横行職場でも、何処の誰でもみんな同じです。
そういう人間としての本当の思いを、さも重箱の隅をつつく様な感じで悉く否定した末に、集団自決軍命削除の教科書検定意見に対する全県的な抗議の声も踏みにじって、「君の為にこそ死にに行く」だの「強いメッセージを残す民族的史実」だのと言い募って美化する事の方が、よっぽど死者に対する冒涜です。またそれは今生きている私たちに対する冒涜でもあります。
この裁判は、単なる過去の戦争責任の所在を巡るだけで終わるものでもなければ、沖縄と本土との関係だけに留まるものでもありません。現代に生きる私たちにも、直接身に降りかかってくる問題でもあると考えます。靖国派の言う「日本人的な悲劇」だの「民族的史実」とかいう美辞麗句の裏に隠された真の狙い(国家・資本の為には死をも厭わぬ人間の育成)を見抜けなければ、今度は現代の私たちが、かつての沖縄県民と同じ悲劇を、また同じ様に味わう事になるのです。
(関連資料)
・15年戦争資料 @wiki 抜粋「沖縄ノート」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/694.html
・大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会
http://okinawasen.web5.jp/
・沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
・沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(鳥飼行博研究室)
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html
あれから、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」(岩波新書)を買って読みました。その前に予め断っておきますが、この本は、単に集団自決についてのみ書かれたものではありません。60年代末から70年代初頭にかけての沖縄復帰直前の時期に、沖縄と日本との関係を、著者の視点で捉え直したルポルタージュです。
そこには、復帰直前の国政選挙への初参加の日程が与党自民党の党内事情優先で決定された事や、革新勢力の中にも、例えば「本土の沖縄化に反対する」という当時のスローガンの中に、沖縄を異端視し差別する思想が根深く潜んでいる事、命懸けで米軍の銃剣支配と対峙している全軍労のストライキを「基地労働者と基地周辺飲食業者との対立」としか捉える事が出来ない本土マスコミの無理解などが書かれています。その様な、沖縄と(大江や私も含めた)本土との住民の間に横たわる溝の一例として、くだんの集団自決の話が登場するのです。
(引用開始)
このような報道とかさねあわすようにして新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいっても米軍の攻撃下で住民を陣地内に収容することを拒否し、投降勧告にきた住民はじめ数人をスパイとして処刑したことが確実であり、そのような状況下に、「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。僕が肉体の奥深いところを、息もつまるような力でわしづかみにされるような気分をあじわうのは、この守備隊長が、かつて《おりがきたら、一度渡嘉敷島に渡りたい》と語っていたという記事を思い出す時である。(同著208ページ)
(引用終了)http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/697.html
その守備隊長というのは、差し詰め「海軍よもやま物語」の様な感覚で、かつての戦地を訪れたのではないでしょうか。その表現が言い過ぎであるならば、硫黄島やサイパンの墓参訪問団と言い換えても良いです。いずれにしても、そこにあるのは「自分たちはよく頑張った、住民もよく協力してくれた」という思いが殆どで、実際にそこの住民がどんな思いで死んで(殺されて)いったのかという事は、二の次三の次でしかありません。だから、1970年春に「もうおりがきた=ほとぼりが冷めた」と判断し、のうのうと戦地を訪れようとしたこの守備隊長は、那覇空港で現地の青年たちによる予想外の抗議の声に直面し、埠頭ではフェリーへの乗船を拒否され、星条旗をつけた米国の民間船でこそこそ来訪を済ますしかなかったのでしょう。
但し、その一方で、渡嘉敷島の集団自決跡に立つ慰霊碑には、下記の記述がある事もまた事実です。この慰霊碑の碑文を書いたのは靖国擁護派の作家・曽野綾子ですが、その記述をも一面の事実として受け入れざるを得なかった島民には、私たちには想像もつかないような内心忸怩たる思いがあるに違いありません。
(引用開始)
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数ヶ所に集結したが、翌28日、敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。(渡嘉敷村のHPより)
(引用終了)http://www.vill.tokashiki.okinawa.jp/pdf/jiketsu05.pdf
実際、明治以来の沖縄においては、本土への同化政策や皇民化教育は熾烈を極めました。例えば、学校内では方言の使用が一切禁じられ、違反した生徒には「方言札」というものを首からぶら下げさせて見せしめにする様な事まで行われました。その結果、沖縄県民は、差別から逃れるためにも、自ら進んで同化政策を受け入れざるを得ない心理状況に追い詰められたという一面があります。それに島の共同体の一員としての同調圧力や戦争による集団パニックが加わって、慰霊碑の碑文にもある様に「自らの手で自決する道を選んだ」のでしょう。
集団自決を拒否して逃げおおせた島民も少なくなかった一方で、自決してしまった島民も少なくなかったのは、確かに事実でしょう。しかしその上っ面だけを見て、普段は誰憚る事なく方言を使う一方で、公式の場では標準語の使用を強制され自らも積極的に喋れる様になろうと努力した(させられた)島民の、その強いられた部分だけを殊更強調し、また美徳であるかのように言いなすのは、大きな間違いです。少なくとも、実際は靖国派(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会)が喧伝するような、こんな下記の様な奇麗事では一切なかった筈だ。
(引用開始)
慶良間での集団自決は、「家族での(無理)心中」と受け止めるのが、最も自然にも思われるのであり、そのような言葉で表現したときに、なおいっそう、同胞に起きた「極めて日本人的な悲劇」として我々も了解でき、悲惨ではありながらも強いメッセージを残す民族的史実として、この事件を心と歴史に刻みつけることが可能になると思われるのである。(沖縄集団自決冤罪訴訟最終準備書面より)
(引用終了)http://osj.jugem.jp/?eid=25
しかし、一体全体、「極めて日本人的な悲劇」とか「悲惨ではありながらも強いメッセージを残す民族的史実」とか、そんな奇麗事で片付けられる事だったのでしょうか。現代の自分たちの周囲に実際にある、より具体的な事例に置き換えてみると、その出鱈目さがはっきりします。
例えば昨今、サラリーマンの過労死自殺が問題になっていますが、若し自分がその自殺した夫の妻や子供であった場合に、こんな勝手な理屈で片付けられたとしたら、どうでしょう。確かに、経営者が「自殺しろ」と命令した訳ではありません。そういう事を平気で口にする経営者も少なくないですが、そういう経営者もそれを文書に残すようなヘマはしないでしょう。但し、それで追い詰められて亡くなっても、直接の死因はあくまで自殺や心筋梗塞・脳溢血であり、経営者が「死ね」と命令した訳ではない。
また、実際にはそんな職場など自分の方から見限って辞めるなり、憲法・法律・権利を武器にしぶとく抵抗するという選択肢もあるのに、そうせずに自殺する道を選んだとします。それらの自殺や職業病による死亡が、実際には経営者によるパワー・ハラスメントや長時間労働、グローバル資本の搾取、政府の新自由主義経済政策に因るものである事は、はっきりしています。しかし、これらも靖国派の論理では「会社という閉鎖的な共同体社会の中で同化政策に飼いならされた末の集団パニック」として、「自己責任」の一語で以って片付けられるのでしょう。それどころか「会社に忠誠を尽くした証」にもされかねません。しかしそれでは、自殺した当人や残された遺族や従業員は堪ったものではありません。
先日の大江氏側勝訴の大阪地裁判決も、そういう至極当然の論理に立ったものに過ぎません。それに異を唱える靖国派の連中は、<過労死を告発する労働者に対して「誰が自殺しろと言った」と居直る経営者>と同じです。これらの人たちは、ニコンやそれと結託した派遣会社によって殺された上段勇二さんや、トヨタによって殺された内田健一さんの遺族に対しても、果たして同じ様な言葉が吐けるのでしょうか。
誰が好き好んで本心から「死にたい」なぞと言うものか。「愛する家族を守るために」と遺書に書き残して死んでいった特攻隊員も、そう無理やり自分に言い聞かせて死んでいったに過ぎない。本当はみんな少しでも生きたかったのだよ。それは、戦時中の沖縄・広島・長崎・南京・フィリピン・アウシュビッツでも、現代のアフガン・イラク・パレスチナ・北朝鮮でも、また日本の過労死・パワハラ横行職場でも、何処の誰でもみんな同じです。
そういう人間としての本当の思いを、さも重箱の隅をつつく様な感じで悉く否定した末に、集団自決軍命削除の教科書検定意見に対する全県的な抗議の声も踏みにじって、「君の為にこそ死にに行く」だの「強いメッセージを残す民族的史実」だのと言い募って美化する事の方が、よっぽど死者に対する冒涜です。またそれは今生きている私たちに対する冒涜でもあります。
この裁判は、単なる過去の戦争責任の所在を巡るだけで終わるものでもなければ、沖縄と本土との関係だけに留まるものでもありません。現代に生きる私たちにも、直接身に降りかかってくる問題でもあると考えます。靖国派の言う「日本人的な悲劇」だの「民族的史実」とかいう美辞麗句の裏に隠された真の狙い(国家・資本の為には死をも厭わぬ人間の育成)を見抜けなければ、今度は現代の私たちが、かつての沖縄県民と同じ悲劇を、また同じ様に味わう事になるのです。
(関連資料)
・15年戦争資料 @wiki 抜粋「沖縄ノート」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/694.html
・大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会
http://okinawasen.web5.jp/
・沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://blog.zaq.ne.jp/osjes/
・沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑(鳥飼行博研究室)
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html
「第二次大戦末期の沖縄における住民集団自決が、当時の軍の命令・関与によるものか否か」を巡って争われていた裁判(沖縄集団自決訴訟)で、3月28日に大阪地裁が軍の関与を認めた判決を下しました。この裁判は、軍の命令・関与を認めた大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」の記述に対して、当時の日本軍守備隊長とその関係者が名誉毀損を訴えて起こしたものです。それに対して大阪地裁は、「集団自決に旧日本軍が深くかかわったと認められる」として、守備隊長ら原告側の請求棄却(つまり大江氏側の勝訴)の判決を下したのです。
全く以って当然の判決です。マスコミの論調も、安倍・靖国派を擁護する産経新聞は別格として、それ以外のメディアの多くは、この判決の内容を、ほぼ妥当なものとして評価しています。沖縄住民の集団自決は軍の命令・関与が無ければ起こりえなかった事は、(1) 軍の命令・関与無しに、一般住民が軍の武器である手榴弾で自決出来る筈が無い、(2) 集団自決が起こったのは全て軍が駐屯した島に限られている―の二点からも明らかです。この住民集団自決は、安倍・靖国派が言うような「殉国美談」などでは断じて無く、寧ろ「強制集団死」とも言うべきものでした。
そもそも、安倍・靖国派が「集団自決は殉国美談だ」と本心から思うのであれば、「当時の軍がどうであれ、兎に角俺は自決命令なぞ下してはいない」と言い逃れなぞするのではなく、堂々と「俺がお国の事を思って命令したんだ」と言えば良いのです。そして、住民証言を引用したに過ぎない大江氏や「沖縄ノート」出版社の岩波書店に対してでは無く、証言者本人やその証言を掲載した「沖縄戦記・鉄の暴風」出版社の沖縄タイムス社を直接訴えるのが筋です。
ところが、証言者や原著出版社には手をつけず、その証言を引用したにしか過ぎない大江氏サイドを殊更目の敵にして、恫喝紛いの名誉毀損訴訟を起こしたのは何故か? それは、最初から住民全体を敵に回すのは巧妙に避けながら、まずは知名度の高い作家の評判を落す所から初めて、そうして個別撃破でこそこそ陰で圧力を掛け続ける事で、じわりじわりと言論の萎縮効果を狙っているからでしょう。表向きは「言論弾圧の意図は無い」なぞと言いながら、映画「靖国」の国内上映を裏で握り潰すやり方と全く同じで、やり口が余りにも汚すぎます。
そこまでしてまで、戦争犠牲者を無理から「殉国美談」の主人公に仕立て上げようとしている安倍・靖国派ですが、彼らがそうすればするほど、彼らの論理(歴史観・戦争観)のアナクロ(時代錯誤)ぶりが、逆に浮き彫りになって来るのです。
まず靖国派の歴史観のアナクロぶりについて。安倍・靖国派は、過去の侵略戦争を合理化する際に、必ずこう言うでしょう。「当時の戦争は自存自衛の戦いだったのだ」「日本が朝鮮・台湾を植民地化しなければ、逆に日本が欧米の植民地になっていたのだ」と。要するに「あいつが泥棒しているのに自分もして何が悪い」という居直りの論理です。だから今でも日清・日露戦争を、そこから100年以上経った21世紀の今日になってもまだ美化し続けるのです。
しかし、そんな「居直り強盗の論理」が誰憚る事無く通用したのは、せいぜい第一次大戦の頃までなのです。第一次大戦後は、もうその様な19世紀的な侵略政策は通用しなくなっていました。ソ連の誕生、中国革命の進展、国際連盟の設立、アジア・中東・アイルランド・メキシコなどにおける民族解放運動の発展や、民族自決・戦争違法化・生存権・男女平等・普通選挙権・8時間労働制・社会保障の考え方が世界的に広がる中で、英・米・仏などの宗主国側も、19世紀的な帝国主義から現代に近いやり方に(植民地の政治的独立は認めた上で経済的に引き続き支配しようとする今の新植民地主義的なやり方に)、次第に変えつつありました。
そんな中で日本だけが、相変わらず征韓論・台湾出兵や日清・日露戦争の時と同じ様に、国内では国民の権利を制限し、アジアには軍拡・侵略一辺倒で臨んでいました。だから、次第に欧米からもアジアからも孤立して、最後は暴発・自滅するしか無かったのです。
そして、第二次大戦の敗戦を機に、ようやく主権在民の民主国家として再生の足がかりを掴んだのもつかの間、今度は東西冷戦の激化に伴うGHQの心変わりによって、軍拡・侵略一辺倒時代の政治家・軍人・軍国主義者(つまり安倍・靖国派)が追放を逃れ復活を遂げ、今度は米国のポチとして、表向きは民主主義を装いながら今も隠然たる勢力を保持しているのです。
そうであるならば、そんな世界の趨勢から孤立した無益な戦いにアジア民衆や日本国民を巻き込んだ事に対して、自分が直接命令を下そうがそうでなかろうが、そんな事には関係なく、戦争遂行者(日本軍将兵)としての自戒の念がまず先にあって然るべきです。それが何ですか、「他人の事は知らないが俺は自決など命令していない」という論理で言い逃れするとは。己の名誉回復だけが全てであって、戦争犠牲者の事なぞハナから念頭にないのです。未練たらしい事甚だしいという他ありません。
次いで靖国派の戦争観のアナクロぶりについて。現代の戦争においては、靖国派が称揚する様な「殉国・愛国心」なぞ、実際は戦争遂行者にとっても「無用の長物」でしか無いのです。
これはイラク戦争を見れば分かります。この戦争は、表向きこそ米国がイラクのフセイン政権に対して仕掛けたものですが、実際に末端でそれを遂行しているのは、ブラックウォーターなどの民間軍事会社に雇われた傭兵たちなのです。戦争請負会社のリクルーターたちが、食い詰めた貧民たちを全世界から口八丁手八丁でかき集めて来て、戦争ロボットに仕立て上げているのです。そして貧民たちも、実際は愛国心なんかではなく、ただただ今日明日の糧を得るために、戦争という業務を担わされているのです。
米軍も、その実態は戦争請負会社の傭兵と似たり寄ったりなのです。国防総省のリクルーターたちが、貧困地区の高校に出入りして、(建前上は兵役終了と引き換えに付与される事になっている)大学進学奨学金や米国市民権をエサに、ヒスパニック・黒人系貧困層や不法移民家族の生徒たちを軍に勧誘し、それでも足りない分は全世界から国籍を問わず貧困層をかき集めて、アフガン・イラクの戦場に誘っているのです。イラク戦争が「戦争民営化」の典型例とされる所以です。そこでは愛国心や殉国美談は、あくまでもそういう詐欺的な宣伝文句を取り繕う為の飾りとして、有効に使われているのです。
しかし現実は、戦争リクルーターが言う様な甘いものではありませんでした。貧民が戦争で得た物は、友人の惨たらしい死体、戦地で自分たちに向けられた憎しみに満ちた眼差し、戦争後遺症やPTSDでボロボロになった自身の身体・精神、戦争で疲弊した国内の経済・生活、軍関係以外にはまともな就職口がない求人状況などだけでした。実際、米国内のホームレスの約4分の1が退役軍人であると言われています。甘い汁を吸ったのは、戦争成金やそれと結びついた政治家だけでした。
以上、いくつか例に出して安倍・靖国派のアナクロぶりを指摘してきましたが、この程度の事は、日本や米国の近現代史を少しでもまともに調べ、現代の軍産複合体の実態や、戦争とグローバリズムの関係、戦争と格差社会の関係を少しでもまともに調べたら、誰でも直ぐに分かる事なのですが。歴史や戦争を「神話や物語や美談」としてしか理解できない「戦争好きの戦争知らず」な人々だから、こんなアナクロな認識しか持てないのでしょう。或いは、戦争やグローバリズムの実態を何もかも知った上で、現実から目を逸らさせる為に、殊更「神話や物語や美談」に話を摩り替えているのかも。寧ろそう考えたほうが分かりやすい。
(関連記事)
・沖縄集団自決は日本軍の強制=大阪地裁(朝鮮日報)
http://www.chosunonline.com/article/20080329000029
・史実に沿う穏当な判断(沖縄タイムス・社説)
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080329.html#no_1
・沖縄ノート訴訟 過去と向き合いたい(中日新聞・社説)
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008032902099210.html
・沖縄集団自決訴訟 論点ぼかした問題判決だ(産経新聞・主張)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080329/trl0803290218000-n1.htm
・大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判の争点
http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
・関連エントリー:琉球新報号外・写真集「沖縄のうねり」から改めて学ぶ
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/c/411c42bddf58b8548fe6fbe26e7473ca
・米軍へ6000人抗議/地位協定の改定訴え(沖縄タイムス)
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803241300_01.html
・沖縄県民集会前日に配布された「被害者批判」のチラシ(ニッポンを改造するBYかんすけ)
http://blogs.yahoo.co.jp/b_z_fun_seiji_3/17365075.html
・映画「靖国 YASUKUNI」上映中止反対!みせてくれ!(土曜の夜、牛と吠える。青瓢箪)
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080331/1206973156
・[書籍紹介]生存権を奪うことで、若者を軍と戦争へと供給する「経済的徴兵制」を見事に描写 『ルポ 貧困大国アメリカ』(JCA)
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm
全く以って当然の判決です。マスコミの論調も、安倍・靖国派を擁護する産経新聞は別格として、それ以外のメディアの多くは、この判決の内容を、ほぼ妥当なものとして評価しています。沖縄住民の集団自決は軍の命令・関与が無ければ起こりえなかった事は、(1) 軍の命令・関与無しに、一般住民が軍の武器である手榴弾で自決出来る筈が無い、(2) 集団自決が起こったのは全て軍が駐屯した島に限られている―の二点からも明らかです。この住民集団自決は、安倍・靖国派が言うような「殉国美談」などでは断じて無く、寧ろ「強制集団死」とも言うべきものでした。
そもそも、安倍・靖国派が「集団自決は殉国美談だ」と本心から思うのであれば、「当時の軍がどうであれ、兎に角俺は自決命令なぞ下してはいない」と言い逃れなぞするのではなく、堂々と「俺がお国の事を思って命令したんだ」と言えば良いのです。そして、住民証言を引用したに過ぎない大江氏や「沖縄ノート」出版社の岩波書店に対してでは無く、証言者本人やその証言を掲載した「沖縄戦記・鉄の暴風」出版社の沖縄タイムス社を直接訴えるのが筋です。
ところが、証言者や原著出版社には手をつけず、その証言を引用したにしか過ぎない大江氏サイドを殊更目の敵にして、恫喝紛いの名誉毀損訴訟を起こしたのは何故か? それは、最初から住民全体を敵に回すのは巧妙に避けながら、まずは知名度の高い作家の評判を落す所から初めて、そうして個別撃破でこそこそ陰で圧力を掛け続ける事で、じわりじわりと言論の萎縮効果を狙っているからでしょう。表向きは「言論弾圧の意図は無い」なぞと言いながら、映画「靖国」の国内上映を裏で握り潰すやり方と全く同じで、やり口が余りにも汚すぎます。
そこまでしてまで、戦争犠牲者を無理から「殉国美談」の主人公に仕立て上げようとしている安倍・靖国派ですが、彼らがそうすればするほど、彼らの論理(歴史観・戦争観)のアナクロ(時代錯誤)ぶりが、逆に浮き彫りになって来るのです。
まず靖国派の歴史観のアナクロぶりについて。安倍・靖国派は、過去の侵略戦争を合理化する際に、必ずこう言うでしょう。「当時の戦争は自存自衛の戦いだったのだ」「日本が朝鮮・台湾を植民地化しなければ、逆に日本が欧米の植民地になっていたのだ」と。要するに「あいつが泥棒しているのに自分もして何が悪い」という居直りの論理です。だから今でも日清・日露戦争を、そこから100年以上経った21世紀の今日になってもまだ美化し続けるのです。
しかし、そんな「居直り強盗の論理」が誰憚る事無く通用したのは、せいぜい第一次大戦の頃までなのです。第一次大戦後は、もうその様な19世紀的な侵略政策は通用しなくなっていました。ソ連の誕生、中国革命の進展、国際連盟の設立、アジア・中東・アイルランド・メキシコなどにおける民族解放運動の発展や、民族自決・戦争違法化・生存権・男女平等・普通選挙権・8時間労働制・社会保障の考え方が世界的に広がる中で、英・米・仏などの宗主国側も、19世紀的な帝国主義から現代に近いやり方に(植民地の政治的独立は認めた上で経済的に引き続き支配しようとする今の新植民地主義的なやり方に)、次第に変えつつありました。
そんな中で日本だけが、相変わらず征韓論・台湾出兵や日清・日露戦争の時と同じ様に、国内では国民の権利を制限し、アジアには軍拡・侵略一辺倒で臨んでいました。だから、次第に欧米からもアジアからも孤立して、最後は暴発・自滅するしか無かったのです。
そして、第二次大戦の敗戦を機に、ようやく主権在民の民主国家として再生の足がかりを掴んだのもつかの間、今度は東西冷戦の激化に伴うGHQの心変わりによって、軍拡・侵略一辺倒時代の政治家・軍人・軍国主義者(つまり安倍・靖国派)が追放を逃れ復活を遂げ、今度は米国のポチとして、表向きは民主主義を装いながら今も隠然たる勢力を保持しているのです。
そうであるならば、そんな世界の趨勢から孤立した無益な戦いにアジア民衆や日本国民を巻き込んだ事に対して、自分が直接命令を下そうがそうでなかろうが、そんな事には関係なく、戦争遂行者(日本軍将兵)としての自戒の念がまず先にあって然るべきです。それが何ですか、「他人の事は知らないが俺は自決など命令していない」という論理で言い逃れするとは。己の名誉回復だけが全てであって、戦争犠牲者の事なぞハナから念頭にないのです。未練たらしい事甚だしいという他ありません。
次いで靖国派の戦争観のアナクロぶりについて。現代の戦争においては、靖国派が称揚する様な「殉国・愛国心」なぞ、実際は戦争遂行者にとっても「無用の長物」でしか無いのです。
これはイラク戦争を見れば分かります。この戦争は、表向きこそ米国がイラクのフセイン政権に対して仕掛けたものですが、実際に末端でそれを遂行しているのは、ブラックウォーターなどの民間軍事会社に雇われた傭兵たちなのです。戦争請負会社のリクルーターたちが、食い詰めた貧民たちを全世界から口八丁手八丁でかき集めて来て、戦争ロボットに仕立て上げているのです。そして貧民たちも、実際は愛国心なんかではなく、ただただ今日明日の糧を得るために、戦争という業務を担わされているのです。
米軍も、その実態は戦争請負会社の傭兵と似たり寄ったりなのです。国防総省のリクルーターたちが、貧困地区の高校に出入りして、(建前上は兵役終了と引き換えに付与される事になっている)大学進学奨学金や米国市民権をエサに、ヒスパニック・黒人系貧困層や不法移民家族の生徒たちを軍に勧誘し、それでも足りない分は全世界から国籍を問わず貧困層をかき集めて、アフガン・イラクの戦場に誘っているのです。イラク戦争が「戦争民営化」の典型例とされる所以です。そこでは愛国心や殉国美談は、あくまでもそういう詐欺的な宣伝文句を取り繕う為の飾りとして、有効に使われているのです。
しかし現実は、戦争リクルーターが言う様な甘いものではありませんでした。貧民が戦争で得た物は、友人の惨たらしい死体、戦地で自分たちに向けられた憎しみに満ちた眼差し、戦争後遺症やPTSDでボロボロになった自身の身体・精神、戦争で疲弊した国内の経済・生活、軍関係以外にはまともな就職口がない求人状況などだけでした。実際、米国内のホームレスの約4分の1が退役軍人であると言われています。甘い汁を吸ったのは、戦争成金やそれと結びついた政治家だけでした。
以上、いくつか例に出して安倍・靖国派のアナクロぶりを指摘してきましたが、この程度の事は、日本や米国の近現代史を少しでもまともに調べ、現代の軍産複合体の実態や、戦争とグローバリズムの関係、戦争と格差社会の関係を少しでもまともに調べたら、誰でも直ぐに分かる事なのですが。歴史や戦争を「神話や物語や美談」としてしか理解できない「戦争好きの戦争知らず」な人々だから、こんなアナクロな認識しか持てないのでしょう。或いは、戦争やグローバリズムの実態を何もかも知った上で、現実から目を逸らさせる為に、殊更「神話や物語や美談」に話を摩り替えているのかも。寧ろそう考えたほうが分かりやすい。
(関連記事)
・沖縄集団自決は日本軍の強制=大阪地裁(朝鮮日報)
http://www.chosunonline.com/article/20080329000029
・史実に沿う穏当な判断(沖縄タイムス・社説)
http://www.okinawatimes.co.jp/edi/20080329.html#no_1
・沖縄ノート訴訟 過去と向き合いたい(中日新聞・社説)
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2008032902099210.html
・沖縄集団自決訴訟 論点ぼかした問題判決だ(産経新聞・主張)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/080329/trl0803290218000-n1.htm
・大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判の争点
http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/souten.html
・関連エントリー:琉球新報号外・写真集「沖縄のうねり」から改めて学ぶ
http://blog.goo.ne.jp/afghan_iraq_nk/c/411c42bddf58b8548fe6fbe26e7473ca
・米軍へ6000人抗議/地位協定の改定訴え(沖縄タイムス)
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200803241300_01.html
・沖縄県民集会前日に配布された「被害者批判」のチラシ(ニッポンを改造するBYかんすけ)
http://blogs.yahoo.co.jp/b_z_fun_seiji_3/17365075.html
・映画「靖国 YASUKUNI」上映中止反対!みせてくれ!(土曜の夜、牛と吠える。青瓢箪)
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080331/1206973156
・[書籍紹介]生存権を奪うことで、若者を軍と戦争へと供給する「経済的徴兵制」を見事に描写 『ルポ 貧困大国アメリカ』(JCA)
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/book-hinkontaikoku.htm