










前回の記事で、私の職場では、ベトナム人に続いてネパール人のバイトが増えている事について触れました。私の職場は、某大手スーパーの物流センターです。私はそこの物流センター業務を請け負っている会社の契約社員です。そのセンターでは、日本人だけでなく外国人のバイトも大勢います。日中はまだ日本人のバイトの方が多いですが、夜勤の時間帯になると、外国人バイトの方が日本人よりも多くなります。これまでは外国人のほとんどがベトナム人留学生でしたが、最近ではネパール人留学生が増えて来ました。
なぜベトナム人だけでなくネパール人のバイトが増えて来たのか?一つは、前回の記事でも明らかにしたように、ベトナム人だけでは人手不足の穴埋めが出来なくなったからです。少子高齢化の進む日本では、幾ら募集をかけても、日本人の若いバイトはなかなか来なくなりました。特に物流センターのような、低賃金で肉体労働が主体の職場では、なおさらその傾向が強いです。そこで、外国人の技能実習生や留学生を大量に雇うようになりました。
技能実習生や留学生と言っても、実際はただの人手不足の穴埋めです。日本では外国人の移民を制限しているので、単なる出稼ぎ目的だけでは、外国人は職に就く事が出来ません。その為に、職業訓練や日本語習得の為に、日本にやって来て、学費や生活費を稼ぐために、一定の範囲内で外国人もバイトが出来るようにしました。建前上は職業訓練や日本語習得の為ですが、実際は出稼ぎ目的です。だから、留学生でもピンキリです。中には日本語がほとんどしゃべれないバイトも少なくありません。
しかし、そんな外国人でも、仕事に慣れると戦力になります。今や、若いベトナム人の方が、年寄りの日本人よりもよっぽど戦力になります。しかし、最近はそのベトナム人も、なかなか来なくなりました。安い賃金で、就労時間に制限のある日本よりも、もっと好待遇で就労時間の制限のない他の国に流れるようになったからです。そこで、ベトナム人に代わってネパール人が、その穴埋めに使われるようになりました。これがネパール人バイト急増の一つの理由です。(上記のグラフ参照)
但し、ネパール人バイトが増えた理由はそれだけではありません。ネパールならではの特殊事情も、バイト急増の背景にはあります。この国では80年代末まで国王の独裁政治が続きました。その後、90年代の立憲革命で絶対王制から立憲君主制に移行します。しかし、その後も与野党が政争に明け暮れる政治が続きました。その間隙を縫って、地方では「ゲリラ戦で農村から都市を包囲する」毛沢東主義の革命戦略を掲げるマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)が次第に台頭。やがて内戦に勝利し、王制から連邦共和制への転換を勝ち取ります。しかし、その後も政情不安が続き、失業率は30パーセントを超えるまでに。職を求めて多くの国民が日本を始め海外に流出。これがネパール人バイト急増のもう一つの理由です。(上記のNHK・BSドキュメンタリー番組の解説参照)
私はこれを見て、「共産党の中でもさらに時代遅れの、武装闘争至上主義のマオイストが、何故ネパールでは内戦に勝利出来たのか?」疑問に思い、調べました。そうしたら、マオイストが掲げる男女平等思想が、身分差別のカースト制の重圧に苦しむ女性の心をつかんだ事が分かりました。アフガニスタンやイランでは女性蔑視のタリバンやイスラム原理主義勢力が台頭する中で、ネパールではそれよりも「進歩的」な思想を掲げた集団が革命を成し遂げたのです。この中で、マイオスト自身も、武器を捨て、より民主的な議会主義の政党に変わっていきました。でも、長期のゲリラ戦で培われた闘争至上主義は、議会政党になっても、そう簡単には変わりませんでした。他の政党と同じように、民衆を置き去りにして、政争に明け暮れるようになってしまったのです。
この中で、現代の日本は一体どういう役割を果たしているのか?本来なら、平和憲法を掲げる日本こそが、ネパールの戦後復興や民主主義、国民生活の向上や人権確立に、多大な貢献が出来るのではないでしょうか?しかし現状は、せっかく職を求めて日本に来たネパール人を、低賃金の捨て駒として酷使するだけの、単なる「貧困ビジネス」の提供者になり下がってしまっています。このままではネパール人も、今のベトナム人と同じように、日本に見切りをつけて、もっと賃金や労働条件の良い他の国に移住するようになるでしょう。
確かに、マオイストも、ネパールという国自体も、まだまだ未熟です。しかし、女性兵士の割合が40パーセントにもなるマオイスト。それに対し、女性国会議員の割合がいまだ10パーセントに満たない日本。60年代には政党も禁止されて、まともな選挙もなかったのに、民主選挙で平和的に連邦共和国に移行出来たネパール。それに対し、いまだに天皇陛下万歳から抜け出せず、不便な元号制度やLGBT差別も克服出来ない日本。それを考えると、未熟なのは一体どちらか?
暗い話題ばかりでも何ですので、明るい話題も一つ。私の住む大阪でも、ネパール料理のレストランが続々と開店しています。今日はその一つ、南海本線住ノ江駅前にある「ニサ」というインド・ネパール料理のレストランに、昼食を食べに行って来ました。注文したのはAランチ。今日の日替わりカレー(チキンとナスのカレー)にサラダ、ナン、ドリンクが付いて700円。カレーの辛さは甘口・普通・中辛・辛口・激辛の5種類から選べます。ドリンクも、チャイ(ミルク紅茶)・ラッシー(ヨーグルト飲料)・コーヒーのアイスやホット、コーラなどから好きな物を選べます。私は普通の辛さのカレーに、ホットのチャイを選びました。ナンは大きく食べごたえがありました。
私は食べた後に、「ダルバートはないのか?」店員に聞きました。そうしたら「ない。そんな物作っても売れないから」と返されてしまいました。ダルバートというのは、豆のスープにご飯、野菜炒めの食事です。日本で言えばご飯、味噌汁、納豆・漬物に相当する、ネパール料理の定番です。でも、今の日本人には地味すぎて、余り人気はないのでしょう。日本でも、私たちが普段食べる味噌汁や納豆よりも、めったに食べれない寿司や天ぷらの方が、美味しくて異国情緒も味わえるので、外国人には人気があります。(上の絵がダルバートです)
私の会社でもそれは同じです。食堂メニューにベトナム風うどんのフォーを載せても、誰も注文しません。だから最近では、日本の焼きそばとほとんど変わらない物を、「ベトナム風焼きそば」として提供しています。日本人と同じように箸を使い、日本人好みの料理も多いベトナムですら、そんな感じなのに、その上、箸も使わず(スプーンで食べる)、牛肉も食べない(ほとんどがヒンズー教徒だから)ネパール人が増えたら、会社は一体どうするつもりでしょうか?労働者を単なる「捨て駒」としか見ない国では、どんな国の人を雇っても、また同じ愚を犯す事になるでしょう。(最後はまた暗くなってしまいました。スミマセン)







昨日2月11日に高津宮(こうづみや)の献梅祭に行って来ました。高津宮は大阪市内の谷町九丁目駅近くにあります。上町台地の高台にある神社で、高津神社とも呼ばれ、梅や桜の名所としても知られています。私は2年前の冬にもここに来た事があります(当時の記事)。昨日はここで献梅祭が行われ、茶菓が振舞われると聞き、早速行ってみる事にしました。
駅を出て、千日前通りの一本北の筋を左に曲がり、180メートルほど坂を下ると高津宮の鳥居の前に出ます。鳥居をくぐって参道を行くと、やがて梅之橋という石橋に行き当たります。今は橋だけが残っていますが、昔はこの橋の下を梅川という川が流れ、今の道頓堀川に繋がっていたそうです。
梅之橋のそばには献梅碑や梅ノ井という井戸の跡があります。天王寺から谷町にかけてのこの付近一帯は、上町台地の谷間から湧き出る井戸があちこちにありました。今はもうその井戸のほとんどが涸れてしまいましたが、その井戸を復活しようという工事も境内で行われていました。
高津宮の本殿。祭神は仁徳天皇です。井戸掘りの工事現場も本殿のすぐ近くにあります。
「民家からかまどの煙が立ち上るまでは税を免除した」という仁徳天皇の故事にちなんで、大阪市の歌が制定されました。その大阪市歌の碑が本殿の横にある絵馬殿の前に建っています。
1番 高津の宮の昔より よよの栄を重ねきて 民のかまどに立つ煙 にぎわいまさる大阪市 にぎわいまさる大阪市
2番 なにわの春のあさぼらけ 生気ちまたにみなぎりて 物みな動くなりわいの 力ぞ強き大阪市 力ぞ強き大阪市
3番 東洋一の商工地 咲くやこの花さきがきて よもに香りを送るべき 務(つとめ)ぞ重き大阪市 務ぞ重き大阪市
物価高騰に苦しむ庶民そっちのけで、防衛費倍増や福祉予算削減、消費税値上げに突き進む岸田首相、都構想で大阪市廃止をもくろんだ吉村・大阪府知事や松井・大阪市長にこそ、是非聴かせてやりたい歌です。
献梅祭(春祭)斎行の案内文。その案内文によると、渡来人の王仁(わに)博士が、仁徳天皇に次の和歌を梅の枝に添えて奉った故事にちなんで、毎年2月11日に行われるようになったとあります。
難波津に さくやこの花 冬こもり 今は春べと さくやこの花(難波津に咲いたよ、この花が。冬の間はこもっていたが、春になったので咲いたよ、この花が)
梅花奉献の様子です。前に座っておられるのは神職の方と氏子さんでしょうか?
献梅祭でいただいた梅昆布茶と梅まんじゅう。どちらも大変美味しかったです!
献梅祭の後は富亭(とみてい)カフェでほうじ茶と氏子ロールセットをいただきました。富亭カフェは高津宮の境内にある神社直営の喫茶店で、800円の氏子ロールセットが名物です。2年前の冬に来た時は、ロールケーキだけ注文して、出されたほうじ茶と一緒にいただきました。昨日はコーヒーとセットでいただきました。
富亭は落語の「高津の富くじ」にちなんで名付けられたそうです。宿代を踏み倒して富くじ(宝くじ)を買った人が千両当てたという話が落語に出て来ます。大阪の護国神社なんかと比べたら、非常に庶民的な神社です。だからでしょうか、2月11日の建国記念の日も、護国神社が「天皇陛下万歳」一色になるのとは対照的に、梅花奉献でお菓子が振舞われたりするのは。競馬的中のお祈りもすれば良かった!w
本殿の前を左に行くと絵馬殿があります。昔はここから大阪湾が一望できたそうです。その眺望を見るための遠眼鏡を売る商売もはやったそうです。ビル群に囲まれた今となっては想像も付きませんが。
絵馬殿の両隣は坂になっています。左の方が相合坂(あいおいざか)。別名、縁結びの坂とも呼ばれています。横の説明板によると、明治後期、氏子の土地奉納により今のような坂ができた。横から見ると二等辺三角形で男女が両方から同時に登り、頂点でピタリと出会うと相性が良いと言われているそうです。
相合坂とは反対側の、絵馬殿の右側にある坂が西坂(縁切り坂)。明治初期まで坂の形状が三下り半になっていて俗に縁切り坂と呼ばれていました。今は諸々の悪縁を絶つ坂としてひそかに知られている(昔は離縁状を三下り半の形式で書いていた)そうです。
高津宮の本殿、社務所や末社(本殿付属の神社)の高倉稲荷神社の右隣は崖になっていて、崖に三つのお社と陰陽石が祀られています。白菊社(野の神)、千年社(商業の神)、常高社(つねたかしゃ、山の神)の三社で、これらを総称して谷末社(たにまっしゃ)と呼ぶそうです。男根、女陰をかたどった自然石の陰陽石も、子孫繁栄、商売繁盛の神様として崇拝されてきたと、横の説明板にありました。崖の上から見下ろすと、確かにお社が三つありました。どれがどの神社か分かりませんでしたが、大阪市内に居ながら、まるで山中の深い谷底にいるような気分が味わえました。気分転換には持って来いの場所です。
先程の崖沿いに小道が高津宮の裏まで続いていて、梅見の散歩道になっています。その奥には高津公園が広がっています。ここも梅見の名所です。私が来た時は、高津公園の梅はある程度咲いていましたが、小道の方の梅はまだチラホラとしか咲いていませんでした。






























