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アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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あの日から3年~福島は今、どうなっているか

2014年05月27日 23時50分38秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
  

 5月25日の日曜日14時から、大阪・西成の「ふるさとの家」という社会福祉法人の事務所で、「あの日から3年~福島は今、どうなっているか」という講演会があるのをネットで知り、私も飛び入りで聞きに行って来ました。講演会を主催したのは、震災後に地元・西成の居酒屋有志が集まって被災地支援を始めた「西成青い空カンパ」という団体です。その団体が、福島県飯舘(いいたて)村の酪農家・長谷川健一(はせがわ・けんいち)さんと、フリージャーナリストの守田敏也(もりた・としや)さんという二人の方をお招きして、福島の今の現状について語ってもらいました。
 上の写真が会場の「ふるさとの家」と、その時に入口に貼られていた講演会の案内チラシです。講演会はその建物の中の談話室で行われました。50名も入れば満員となる談話室には人があふれ、建物の外の庭にまで椅子を広げて熱心に話を聞いておられる人もいました。

 
 

 左上写真が開演前の様子。右上が第一部の講演で、長谷川さんが飯舘村の現状をお話されている所です。尚、第一部、第二部とも現地の映像を交えてお話されましたが、携帯では逆光でうまく撮れなかったので、映像の写真をブログに載せる際には、後述の写真集「飯舘村」掲載分で映像と同じ物の中から選んで載せました。

 

 飯舘村は福島原発から北西に30キロ以上も離れた山間の村です。人口6千人余りの農山村で、地元の牛は飯舘牛として高値で取引されていましたが、それも原発事故で全てダメになってしまいました。しかも酷い事に、最初は30キロ以上も離れているという事で避難指示も出なかったのに、1ヶ月も経ってから計画的避難地域に指定され、全村避難を強いられたのです。実は風向きの関係で高濃度の放射能に汚染されていたのを国もスピーディー(SPEEDI:緊急時迅速放射能影響予測システム)のデータで知っていながら、被害を小さく見せて賠償額を減らす為に、問題が表沙汰になるまで被曝の事実を隠していたのです。その為に、村民や原発近くから避難してきた人が、1ヶ月近くも高濃度の放射能に被曝させられました。
 左上の写真は売り物にならなくなり(とさつ)場に送られる牛。長谷川さんが飼っていた乳牛です。牛は嫌がってなかなか車に乗ろうとしない。そりゃあそうですよね家族同然に育ててきたのだから。それを「ごめんね、ごめんね」と泣きながら無理やり輸送車に押し込めようとする家族。他にも、見捨てられて餓死した牛を野生化した豚が食い散らかし骨だけになった姿や、無人の厩舎に牛の霊を供養する卒塔婆がひっそり立てかけられている様子など、とても正視できない映像が映し出されました。右上が無人になった飯舘村のビニールハウス(だった所)。雑草が2メートルもの高さに生い茂っています(2011年8月撮影)。

 

 では飯舘村の人がどれだけ被曝させられたのか。それが県民健康調査で示された上記二つの表で、いずれも原発事故発生から4ヶ月間の調査データです。
 左上が年間5ミリシーベルト以上被曝させられた人数を市町村別に集計した表で、原発直下の浪江町(右から二番目の棒グラフ)でも100名位なのに、人口6千人余りの飯舘村(一番右の最も突出した分)で800名以上も。最も多い人で15ミリシーベルト。ちなみにチェルノブイルでは5ミリシーベルト以上の地域は強制避難です。
 右上はその住民の被曝分布図。どれぐらいの人がどれ位被曝したのかが示されています。それによると、飯舘村よりはるかに原発に近い県北部(相馬市や南相馬市など)の住民でも9割以上が2ミリシーベルト未満なのに(上から二番目の棒グラフ)、飯舘村では2ミリシーベルト未満は僅か3割。5ミリシーベルト以上被曝させられた人も4割近く(一番上の突出分)。これでは村丸ごとレントゲン室に放り込まれたような物です。国が汚染の事実を知っておきながら1ヶ月も放置した為に。
 それもただ何もしなかった訳ではなく、御用学者を次から次へと村に呼び寄せ、「安心です、余り心配しなさんな、子どもは外に出しても大丈夫、病は気から、放射能も心配性の人の所にやって来る」と、村の公民館などでさんざん嘘を振りまかせた挙句の結果です。その御用学者の中でも特に有名なのが長崎大教授の山下俊一。こいつは今も県の健康アドバイザーの肩書で、地元の福島県立医大とつるんで嘘の安全宣言を広めています。
 国や県だけではありません。飯舘村の村長や村議会も、嘘の安全宣伝に積極的に加担しています。事故前までは年間1ミリシーベルトだった一人あたりの放射線規制値を、5ミリシーベルトや県に至っては20ミリシーベルトにまで引き上げようとしているのです。旧ソ連のチェルノブイリですら、5ミリシーベルト以上の地域は強制移住の対象にしたのに。「故郷への帰還促進を願う村長の思い」とも取れなくもないが、それで被曝を広めたのでは、殺人に手を貸しているのも同然ではないか。

 原発事故の後、その影響を隠蔽したのは民主党政権で当時の首相は菅や野田でした。その後再び政権に復帰した自民党の安倍も「原発はコントロールされている」と大嘘をかまして福島を見殺しにしています。自民も民主も同じ穴のムジナでしかない。今も原子炉には近づく事すら出来ず、中の様子も皆目分からず、それでも爆発だけはさせまいと、ただやみくもに注水しているだけなのに。その水が汚染水となって、急ごしらえのタンクから今も漏れ出し海に流れているというのに。その汚染された海から蒸発して雲になり山に降った雨で更に国土が汚染されているというのに。オリンピックだアベノミクスだと浮かれている場合じゃないだろう!
 「除染すれば良い」?アホか。除染なんて、自分とこの庭の土だけを剥ぎ取り他所の土と入れ替えて、「一時的に」放射能の数値を下げて誤魔化しているだけじゃないか。剥ぎ取った土は正規の貯蔵施設もないままに「仮・仮置き場」に野ざらしにしたままで、三年しか耐用年数の無い袋の裂け目からは土が再びあふれ出て来ているというのに。安倍は集団的自衛権行使で「国民の命を守る」と言ったが、福島をわざと見殺しにしておいて、戦争準備にばかりかまけて。奴にとっては国民の命なぞ、ただの鉄砲玉にしか過ぎないのだろう!
 福島県内や関東の各地にモニタリングポストというものが設置されています。放射能を自動的に測定する装置で、飯舘村の中にも置かれています。「そこの周辺だけ」土を入れ替え徹底的に除染されました。だからポストの周辺だけ土の色が違います。お陰様で、「ポストの周辺に限っては」放射線量は年間1ミリシーベルトと、他の地方と同じ位にまで下がりました。ところが、ポストから10歩離れて放射線量を測ったら、とたんに3ミリ、5ミリシーベルトと、どんどん線量が跳ね上がります。しかも「面的除染」と言って、とにかく掃き清めるなり土を入れ替えるなりして、除染面積を広げさえすれば良い。それで実際に線量が下がらなくても構わない。除染するのも住宅地や農地や道路沿いだけで、背後の山林までとても手が回らない。山林にたまった放射能が再び流れ出て来ても、モニタリングポスト周辺の数値さえ低ければそれで良い。もしそれで白血病やガンや内臓疾患で住民がバタバタ亡くなって行っても、疫学調査もやらず、ひたすらポスト周辺の低い数値だけを証拠として出せば、事故との因果関係も闇に葬る事が出来る。後はひたすら「もう安心だから、故郷に帰れるから」と宣伝すれば良い。人の命よりも原発、国威発揚、金儲け。これが今、福島ひいては日本全国で起こっている事の全てです。たかが漫画にしか過ぎない「美味しんぼ」があれだけ叩かれるのも、福島の実態がバレるのが怖いからです。

 

 長谷川さんはその中でも孤軍奮闘されています。事故直後に村役場に出向き、既に村が40ミリシーベルトもの放射能で汚染されている事を知り、役場の箝口令(かんこうれい=口封じ)を蹴って住民に事実を知らせ、おざなりな「面的除染」なんかではなく山林も含めた徹底除染を要求し、県のアリバイ的な健康調査に対しても「私は山下俊一のモルモットにはならない」と大書して調査票を白紙で突き返し(左上写真)、孤独死を防ぐ為に集落単位での移住を訴え、村内の帰還困難区域(住民以外の立入禁止)にも見廻り隊を組織して被曝覚悟で出掛け・・・。もう頭が下がります。
 その背景には仲間の死に対する無念の思いがあります。福島では震災や原発事故で被災し、家族が引き裂かれ生活も奪われ心の拠り所を失った方の自殺や突然死が相次いでいます。2011年に長谷川さんの知人酪農家が首にロープをかけ、右上写真の白い干し草ロールから飛び降りて亡くなりました。「原発さえなければ」との書置きを白チョークで厩舎の板壁に残して。

  

 第一部の長谷川さんの講演が終わった後、会場の書籍販売コーナーで(左上写真)。前述の写真集もここで売っていました。長谷川健一さんご自身の写真集「飯舘村」(七つ森書館・刊)です。ここで1冊千円で買いました。長谷川さんの講演DVD「飯舘のさけび」も買いたかったのですが、流石に3千円となるとちょっと手が出ませんでした(右上写真)。

 

 第二部は16時半から、守田さんが福島の現況について話して下さいました。左上写真がその時の様子です。その中で特に印象深かったのが住民同士による分断・対立の話です。同じ震災・原発事故の被災者でありながら、避難や原発の是非を巡って、互いに対立させられているのです。同じ家族の中でも、お爺さんは「国や県の言う事を信じろ、もうマスクも不要だ」、お婆さんは「マスクぐらいさせれば」、お父さんは「通学路が汚染されているので学校へは車で送り迎えしてあげる」、お母さんは「送迎どころか一刻も早く福島から逃げ出さないといけない」。「その中で僕は一体どうすれば良いの?」という様な事例がそこかしこで起こっています。小学校の正門の前で見ていても、マスクせずに来る子、マスクして来る子、車で送り迎えしてもらっている子、もう既に他県に転校してしまった子と、見事に分かれてしまっています。

 その中で行政はどんどん安全宣伝を広め、原発事故の被害をできるだけ小さく見せよう、隠せる物は全て隠そうとしています。原発を推進した国や県・東電その他の電力企業や原子炉メーカーの責任を不問にしたまま。
 その最も象徴的な例が「放射能の中、マスクをして屋外の校庭で運動会の玉入れ」の写真でしたが、今はその学校ではそんな写真は撮れないのだそうです。みんなもうマスクもしなくなったから。福島市内の何の変哲もない駐車場や線路際の草むらや側溝でも、線量計を近づけたら針が振り切れて測定不能になり、測定中も頭がクラクラ、ガンガンすると言うのに。実際、測定していた守田さんたちも、その後も鼻血こそ出なかったものの、スタッフ全員が原因不明の筋肉痛や倦怠感に襲われたそうです。右上写真の放射能拡散図でも明らかなように、福島原発から飛散した放射能は、北西の風に乗って飯舘村を経て福島市に流れ着いた後、東北新幹線や東北自動車道に沿う形で、郡山(こおりやま)市から南の栃木県の方に流れています。実際、守田さんが福島に新幹線で入られた時も、栃木県から福島県に入ったあたりから、新幹線の車内でも線量計の値がどんどん上がって行ったそうです。電車内でもそうなのですから、そこに長年に渡って住んでおられる住民は一体どうなるのか。

 以上、字数の関係もあり、相当端折って記事を書きました。この後も講演会は18時前まで続き、その後に近くの居酒屋で打ち上げとなった様ですが、私は明日も早朝から仕事という事もあり、16時半の第二部終了で退席させてもらいました。
 先日、福井県おおい町の大飯(おおい)原発3、4号機の運転差し止め訴訟で原告勝訴の「画期的」な判決が出ましたが、その判決内容も「いくら経済が大事だと言っても人命には変えられない」という至極「当たり前」の内容でした。いくら「国あっての物種」だと言っても、国民が滅んでしまったらもはや国もクソもありません。国家も経済も国民の為にあるのに、その肝心の国民を蔑(ないがしろ)にし、原発企業やワタミみたいなブラック企業で使い捨てし、戦争の弾除けにする事しか考えていないような国なら、そんな国なぞ滅んでしまったほうがマシです。こんな事を書くと早速「反日」だの「非国民」だのと言い立てる輩が湧いてくるご時世ですが、私に言わせれば、人を人と思わない原発推進派やブラック企業擁護派こそ、よっぽど「反日」「非国民」です。もう二度と、福島の悲劇を繰り返してはならない。今、福島で起こっている事が、いつ何時、大飯原発やその他の原発で起こるとも限らないのだから。そうなったら、もう日本は終わりです。もはや仕事や遊びどころではなくなります。琵琶湖の水も汚染され、水道の水も飲めなくなるのだから。そういう思いで会場を後にしました。
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転載:「金儲けより人命優先」という「当然」の事が書かれた「画期的」判決の要旨全文(NPJ)

2014年05月26日 18時36分17秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
大飯原発3、4号機運転差止請求事件判決要旨

主文

1  被告は、別紙原告目録1記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏内に居住する166名)に対する関係で、福井県大飯郡おおい町大島1字吉見1-1において、大飯発電所3号機及び4号機の原子炉を運転してはならない。

2  別紙原告目録2記載の各原告(大飯原発から250キロメートル圏外に居住する23名)の請求をいずれも棄却する。

3  訴訟費用は、第2項の各原告について生じたものを同原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

理由

1 はじめに

 ひとたび深刻な事故が起これば多くの人の生命、身体やその生活基盤に重大な被害を及ぼす事業に関わる組織には、その被害の大きさ、程度に応じた安全性と高度の信頼性が求められて然るべきである。このことは、当然の社会的要請であるとともに、生存を基礎とする人格権が公法、私法を間わず、すべての法分野において、最高の価値を持つとされている以上、本件訴訟においてもよって立つべき解釈上の指針である。

 個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。

2 福島原発事故について

 福島原発事故においては、15万人もの住民が避難生活を余儀なくされ、この避難の過程で少なくとも入院患者等60名がその命を失っている。家族の離散という状況や劣悪な避難生活の中でこの人数を遥かに超える人が命を縮めたことは想像に難くない。さらに、原子力委員会委員長が福島第一原発から250キロメートル圏内に居住する住民に避難を勧告する可能性を検討したのであって、チェルノブイリ事故の場合の住民の避難区域も同様の規模に及んでいる。

 年間何ミリシーベルト以上の放射線がどの程度の健康被害を及ぼすかについてはさまざまな見解があり、どの見解に立つかによってあるべき避難区域の広さも変わってくることになるが、既に20年以上にわたりこの問題に直面し続けてきたウクライナ共和国、ベラルーシ共和国は、今なお広範囲にわたって避難区域を定めている。両共和国の政府とも住民の早期の帰還を図ろうと考え、住民においても帰還の強い願いを持つことにおいて我が国となんら変わりはないはずである。それにもかかわらず、両共和国が上記の対応をとらざるを得ないという事実は、放射性物質のもたらす健康被害について楽観的な見方をした上で避難区域は最小限のもので足りるとする見解の正当性に重大な疑問を投げかけるものである。上記250キロメートルという数字は緊急時に想定された数字にしかすぎないが、だからといってこの数字が直ちに過大であると判断す’ることはできないというべきである。

3 本件原発に求められるべき安全性

(1)  原子力発電所に求められるべき安全性

 1、2に摘示したところによれば、原子力発電所に求められるべき安全性、信頼性は極めて高度なものでなければならず、万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。

 原子力発電所は、電気の生産という社会的には重要な機能を営むものではあるが、原子力の利用は平和目的に限られているから(原子力基本法2条)、原子力発電所の稼動は法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由(憲法22条1項)に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである。しかるところ、大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。かような危険を抽象的にでもはらむ経済活動は、その存在自体が憲法上容認できないというのが極論にすぎるとしても、少なくともかような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差止めが認められるのは当然である。このことは、土地所有権に基づく妨害排除請求権や妨害予防請求権においてすら、侵害の事実や侵害の具体的危険性が認められれば、侵害者の過失の有無や請求が認容されることによって受ける侵害者の不利益の大きさという侵害者側の事情を問うことなく請求が認められていることと対比しても明らかである。

 新しい技術が潜在的に有する危険性を許さないとすれば社会の発展はなくなるから、新しい技術の有する危険性の性質やもたらす被害の大きさが明確でない場合には、その技術の実施の差止めの可否を裁判所において判断することは困難を極める。しかし、技術の危険性の性質やそのもたらす被害の大きさが判明している場合には、技術の実施に当たっては危険の性質と被害の大きさに応じた安全性が求められることになるから、この安全性が保持されているかの判断をすればよいだけであり、危険性を一定程度容認しないと社会の発展が妨げられるのではないかといった葛藤が生じることはない。原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは、福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては、本件原発において、かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり、福島原発事故の後において、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。

(2)  原子炉規制法に基づく審査との関係

 (1)の理は、上記のように人格権の我が国の法制における地位や条理等によって導かれるものであって、原子炉規制法をはじめとする行政法規の在り方、内容によって左右されるものではない。したがって、改正原子炉規制法に基づく新規制基準が原子力発電所の安全性に関わる問題のうちいくつかを電力会社の自主的判断に委ねていたとしても、その事項についても裁判所の判断が及ぼされるべきであるし、新規制基準の対象となっている事項に関しても新規制基準への適合性や原子力規制委員会による新規制基準への適合性の審査の適否という観点からではなく、(1)の理に基づく裁判所の判断が及ぼされるべきこととなる。

4 原子力発電所の特性

 原子力発電技術は次のような特性を持つ。すなわち、原子力発電においてはそこで発出されるエネルギーは極めて膨大であるため、運転停止後においても電気と水で原子炉の冷却を継続しなければならず、その間に何時間か電源が失われるだけで事故につながり、いったん発生した事故は時の経過に従って拡大して行くという性質を持つ。このことは、他の技術の多くが運転の停止という単純な操作によって、その被害の拡大の要因の多くが除去されるのとは異なる原子力発電に内在する本質的な危険である。

 したがって、施設の損傷に結びつき得る地震が起きた場合、速やかに運転を停止し、運転停止後も電気を利用して水によって核燃料を冷却し続け、万が一に異常が発生したときも放射性物質が発電所敷地外部に漏れ出すことのないようにしなければならず、この止める、冷やす、閉じ込めるという要請はこの3つがそろって初めて原子力発電所の安全性が保たれることとなる。仮に、止めることに失敗するとわずかな地震による損傷や故障でも破滅的な事故を招く可能性がある。福島原発事故では、止めることには成功したが、冷やすことができなかったために放射性物質が外部に放出されることになった。また、我が国においては核燃料は、五重の壁に閉じ込められているという構造によって初めてその安全性が担保されているとされ、その中でも重要な壁が堅固な構造を持つ原子炉格納容器であるとされている。しかるに、本件原発には地震の際の冷やすという機能と閉じ込めるという構造において次のような欠陥がある。

5 冷却機能の維持について

(1) 1260ガルを超える地震について

 原子力発電所は地震による緊急停止後の冷却機能について外部からの交流電流によって水を循環させるという基本的なシステムをとっている。1260ガルを超える地震によってこのシステムは崩壊し、非常用設備ないし予備的手段による補完もほぼ不可能となり、メルトダウンに結びつく。この規模の地震が起きた場合には打つべき有効な手段がほとんどないことは被告において自認しているところである。

 しかるに、我が国の地震学会においてこのような規模の地震の発生を一度も予知できていないことは公知の事実である。地震は地下深くで起こる現象であるから、その発生の機序の分析は仮説や推測に依拠せざるを得ないのであって、仮説の立論や検証も実験という手法がとれない以上過去のデータに頼らざるを得ない。確かに地震は太古の昔から存在し、繰り返し発生している現象ではあるがその発生頻度は必ずしも高いものではない上に、正確な記録は近時のものに限られることからすると、頼るべき過去のデータは極めて限られたものにならざるをえない。したがって、大飯原発には1260ガルを超える地震は来ないとの確実な科学的根拠に基づく想定は本来的に不可能である。むしろ、①我が国において記録された既往最大の震度は岩手宮城内陸地震における4022ガルであり、1260ガルという数値はこれをはるかに下回るものであること、②岩手宮城内陸地震は大飯でも発生する可能性があるとされる内陸地殻内地震であること、③この地震が起きた東北地方と大飯原発の位置する北陸地方ないし隣接する近畿地方とでは地震の発生頻度において有意的な違いは認められず、若狭地方の既知の活断層に限っても陸海を問わず多数存在すること、④この既往最大という概念自体が、有史以来世界最大というものではなく近時の我が国において最大というものにすぎないことからすると、1260ガルを超える地震は大飯原発に到来する危険がある。

(2) 700ガルを超えるが1260ガルに至らない地震について

ア 被告の主張するイベントツリーについて

 被告は、700ガルを超える地震が到来した場合の事象を想定し、それに応じた対応策があると主張し、これらの事象と対策を記載したイベントツリーを策定し、これらに記載された対策を順次とっていけば、1260ガルを超える地震が来ない限り、炉心損傷には至らず、大事故に至ることはないと主張する。

 しかし、これらのイベントツリー記載の対策が真に有効な対策であるためには、第1に地震や津波のもたらす事故原因につながる事象を余すことなくとりあげること、第2にこれらの事象に対して技術的に有効な対策を講じること、第3にこれらの技術的に有効な対策を地震や津波の際に実施できるという3つがそろわなければならない。

イ イベントツリー記載の事象について

 深刻な事故においては発生した事象が新たな事象を招いたり、事象が重なって起きたりするものであるから、第1の事故原因につながる事象のすべてを取り上げること自体が極めて困難であるといえる。

ウ イベントツリー記載の対策の実効性について

 また、事象に対するイベントツリー記載の対策が技術的に有効な措置であるかどうかはさておくとしても、いったんことが起きれば、事態が深刻であればあるほど、それがもたらす混乱と焦燥の中で適切かつ迅速にこれらの措置をとることを原子力発電所の従業員に求めることはできない。特に、次の各事実に照らすとその困難性は一層明らかである。

 第1に地震はその性質上従業員が少なくなる夜間も昼間と同じ確率で起こる。突発的な危機的状況に直ちに対応できる人員がいかほどか、あるいは現場において指揮命令系統の中心となる所長が不在か否かは、実際上は、大きな意味を持つことは明らかである。

 第2に上記イベントツリーにおける対応策をとるためにはいかなる事象が起きているのかを把握できていることが前提になるが、この把握自体が極めて困難である。福島原発事故の原因について国会事故調査委員会は地震の解析にカを注ぎ、地震の到来時刻と津波の到来時刻の分析や従業員への聴取調査等を経て津波の到来前に外部電源の他にも地震によって事故と直結する損傷が生じていた疑いがある旨指摘しているものの、地震がいかなる箇所にどのような損傷をもたらしそれがいかなる事象をもたらしたかの確定には至っていない。一般的には事故が起きれば事故原因の解明、確定を行いその結果を踏まえて技術の安全性を高めていくという側面があるが、原子力発電技術においてはいったん大事故が起これば、その事故現場に立ち入ることができないため事故原因を確定できないままになってしまう可能性が極めて高く、福島原発事故においてもその原因を将来確定できるという保証はない。それと同様又はそれ以上に、原子力発電所における事故の進行中にいかなる箇所にどのような損傷が起きておりそれがいかなる事象をもたらしているのかを把握することは困難である。

 第3に、仮に、いかなる事象が起きているかを把握できたとしても、地震により外部電源が断たれると同時に多数箇所に損傷が生じるなど対処すべき事柄は極めて多いことが想定できるのに対し、全交流電源喪失から炉心損傷開始までの時間は5時間余であり、炉心損傷の開始からメルトダウンの開始に至るまでの時間も2時間もないなど残された時間は限られている。

 第4にとるべきとされる手段のうちいくつかはその性質上、緊急時にやむを得ずとる手段であって普段からの訓練や試運転にはなじまない。運転停止中の原子炉の冷却は外部電源が担い、非常事態に備えて水冷式非常用ディーゼル発電機のほか空冷式非常用発電装置、電源車が備えられているとされるが、たとえば空冷式非常用発電装置だけで実際に原子炉を冷却できるかどうかをテストするというようなことは危険すぎてできようはずがない。

 第5にとるべきとされる防御手段に係るシステム自体が地震によって破損されることも予想できる。大飯原発の何百メートルにも及ぶ非常用取水路が一部でも700ガルを超える地震によって破損されれば、非常用取水路にその機能を依存しているすべての水冷式の非常用ディーゼル発電機が稼動できなくなることが想定できるといえる。また、埋戻土部分において地震によって段差ができ、最終の冷却手段ともいうべき電源車を動かすことが不可能又は著しく困難となることも想定できる。上記に摘示したことを一例として地震によって複数の設備が同時にあるいは相前後して使えなくなったり故障したりすることは機械というものの性質上当然考えられることであって、防御のための設備が複数備えられていることは地震の際の安全性を大きく高めるものではないといえる。

 第6に実際に放射性物質が一部でも漏れればその場所には近寄ることさえできなくなる。

 第7に、大飯原発に通ずる道路は限られており施設外部からの支援も期待できない。

エ 基準地震動の信頼性について

 被告は、大飯原発の周辺の活断層の調査結果に基づき活断層の状況等を勘案した場合の地震学の理論上導かれるガル数の最大数値が700であり、そもそも、700ガルを超える地震が到来することはまず考えられないと主張する。しかし、この理論上の数値計算の正当性、正確性について論じるより、現に、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来しているという事実を重視すべきは当然である。地震の想定に関しこのような誤りが重ねられてしまった理由については、今後学術的に解決すべきものであって、当裁判所が立ち入って判断する必要のない事柄である。これらの事例はいずれも地震という自然の前における人間の能力の限界を示すものというしかない。本件原発の地震想定が基本的には上記4つの原発におけるのと同様、過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析という手法に基づきなされたにもかかわらず、被告の本件原発の地震想定だけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

オ 安全余裕について

 被告は本件5例の地震によって原発の安全上重要な施設に損傷が生じなかったことを前提に、原発の施設には安全余裕ないし安全裕度があり、たとえ基準地震動を超える地震が到来しても直ちに安全上重要な施設の損傷の危険性が生じることはないと主張している。

 弁論の全趣旨によると、一般的に設備の設計に当たって、様々な構造物の材質のばらつき、溶接や保守管理の良否等の不確定要素が絡むから、求められるべき基準をぎりぎり満たすのではなく同基準値の何倍かの余裕を持たせた設計がなされることが認められる。このように設計した場合でも、基準を超えれば設備の安全は確保できない。この基準を超える負荷がかかっても設備が損傷しないことも当然あるが、それは単に上記の不確定要素が比較的安定していたことを意味するにすぎないのであって、安全が確保されていたからではない。したがって、たとえ、過去において、原発施設が基準地震動を超える地震に耐えられたという事実が認められたとしても、同事実は、今後、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しても施設が損傷しないということをなんら根拠づけるものではない。

(3) 700ガルに至らない地震について

ア 施設損壊の危険

 本件原発においては基準地震動である700ガルを下回る地震によって外部電源が断たれ、かつ主給水ポンプが破損し主給水が断たれるおそれがあると認められる。

イ 施設損壊の影響

 外部電源は緊急停止後の冷却機能を保持するための第1の砦であり、外部電源が断たれれば非常用ディーゼル発電機に頼らざるを得なくなるのであり、その名が示すとおりこれが非常事態であることは明らかである。福島原発事故においても外部電源が健全であれば非常用ディーゼル発電機の津波による被害が事故に直結することはなかったと考えられる。主給水は冷却機能維持のための命綱であり、これが断たれた場合にはその名が示すとおり補助的な手段にすぎない補助給水設備に頼らざるを得ない。前記のとおり、原子炉の冷却機能は電気によって水を循環させることによって維持されるのであって、電気と水のいずれかが一定時間断たれれば大事故になるのは必至である。原子炉の緊急停止の際、この冷却機能の主たる役割を担うべき外部電源と主給水の双方がともに700ガルを下回る地震によっても同時に失われるおそれがある。そして、その場合には(2)で摘示したように実際にはとるのが困難であろう限られた手段が効を奏さない限り大事故となる。

ウ 補助給水設備の限界

 このことを、上記の補助給水設備についてみると次の点が指摘できる。緊急停止後において非常用ディーゼル発電機が正常に機能し、補助給水設備による蒸気発生器への給水が行われたとしても、①主蒸気逃がし弁による熱放出、②充てん系によるほう酸の添加、③余熱除去系による冷却のうち、いずれか一つに失敗しただけで、補助給水設備による蒸気発生器への給水ができないのと同様の事態に進展することが認められるのであって、補助給水設備の実効性は補助的手毅にすぎないことに伴う不安定なものといわざるを得ない。また、上記事態の回避措置として、イベントツリーも用意されてはいるが、各手順のいずれか一つに失敗しただけでも、加速度的に深刻な事態に進展し、未経験の手作業による手順が増えていき、不確実性も増していく。事態の把握の困難性や時間的な制約のなかでその実現に困難が伴うことは(2)において摘示したとおりである。

エ 被告の主張について

 被告は、主給水ポンプは安全上重要な設備ではないから基準地震動に対する耐震安全性の確認は行われていないと主張するが、主給水ポンプの役割は主給水の供給にあり、主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿であって、そのことは被告も認めているところである。安全確保の上で不可欠な役割を第1次的に担う設備はこれを安全上重要な設備であるとして、それにふさわしい耐震性を求めるのが健全な社会通念であると考えられる。このような設備を安全上重要な設備ではないとするのは理解に苦しむ主張であるといわざるを得ない。

(4) 小括

 日本列島は太平洋プレート、オホーツクプレート、ユーラシアプレート及びフィリピンプレートの4つのプレートの境目に位置しており、全世界の地震の1割が狭い我が国の国土で発生する。この地震大国日本において、基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりにも楽観的といわざるを得ない。

6 閉じ込めるという構造について(使用済み核燃料の危険性)

(1) 使用済み核燃料の現在の保管状況

 原子力発電所は、いったん内部で事故があったとしても放射性物質が原子力発電所敷地外部に出ることのないようにする必要があることから、その構造は堅固なものでなければならない。

 そのため、本件原発においても核燃料部分は堅固な構造をもつ原子炉格納容器の中に存する。他方、使用済み核燃料は本件原発においては原子炉格納容器の外の建屋内の使用済み核燃料プールと呼ばれる水槽内に置かれており、その本数は1000本を超えるが、使用済み核燃料プールから放射性物質が漏れたときこれが原子力発電所敷地外部に放出されることを防御する原子炉格納容器のような堅固な設備は存在しない。

(2) 使用済み核燃料の危険性

 福島原発事故においては、4号機の使用済み核燃料プールに納められた使用済み核燃料が危機的状況に陥り、この危険性ゆえに前記の避難計画が検討された。原子力委員会委員長が想定した被害想定のうち、最も重大な被害を及ぼすと想定されたのは使用済み核燃料プールからの放射能汚染であり、他の号機の使用済み核燃料プールからの汚染も考えると、強制移転を求めるべき地域が170キロメートル以遠にも生じる可能性や、住民が移転を希望する場合にこれを認めるべき地域が東京都のほぼ全域や横浜市の一部を含む250キロメートル以遠にも発生する可能性があり、これらの範囲は自然に任せておくならば、数十年は続くとされた。

(3) 被告の主張について

 被告は、使用済み核燃料は通常40度以下に保たれた水により冠水状態で貯蔵されているので冠水状態を保てばよいだけであるから堅固な施設で囲い込む必要はないとするが、以下のとおり失当である。

ア 冷却水喪失事故について

 使用済み核燃料においても破損により冷却水が失われれば被告のいう冠水状態が保てなくなるのであり、その場合の危険性は原子炉格納容器の一次冷却水の配管破断の場合と大きな違いはない。福島原発事故において原子炉格納容器のような堅固な施設に囲まれていなかったにもかかわらず4号機の使用済み核燃料プールが建屋内の水素爆発に耐えて破断等による冷却水喪失に至らなかったこと、あるいは瓦礫がなだれ込むなどによって使用済み核燃料が大きな損傷を被ることがなかったことは誠に幸運と言うしかない。使用済み核燃料も原子炉格納容器の中の炉心部分と同様に外部からの不測の事態に対して堅固な施設によって防御を固められてこそ初めて万全の措置をとられているということができる。

イ 電源喪失事故について

 本件使用済み核燃料プールにおいては全交流電源喪失から3日を経ずして冠水状態が維持できなくなる。我が国の存続に関わるほどの被害を及ぼすにもかかわらず、全交流電源喪失から3日を経ずして危機的状態に陥いる。そのようなものが、堅固な設備によって閉じ込められていないままいわばむき出しに近い状態になっているのである。

(4) 小括

 使用済み核燃料は本件原発の稼動によって日々生み出されていくものであるところ、使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要するということに加え、国民の安全が何よりも優先されるべきであるとの見識に立つのではなく、深刻な事故はめったに起きないだろうという見通しのもとにかような対応が成り立っているといわざるを得ない。

7 本件原発の現在の安全性

 以上にみたように、国民の生存を基礎とする人格権を放射性物質の危険から守るという観点からみると、本件原発に係る安全技術及び設備は、万全ではないのではないかという疑いが残るというにとどまらず、むしろ、確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに初めて成り立ち得る脆弱なものであると認めざるを得ない。

8 原告らのその余の主張について

 原告らは、地震が起きた場合において止めるという機能においても本件原発には欠陥があると主張する等さまざまな要因による危険性を主張している。しかし、これらの危険性の主張は選択的な主張と解されるので、その判断の必要はないし、環境権に基づく請求も選択的なものであるから同請求の可否についても判断する必要はない。

 原告らは、上記各諸点に加え、高レベル核廃棄物の処分先が決まっておらず、同廃棄物の危険性が極めて高い上、その危険性が消えるまでに数万年もの年月を要することからすると、この処分の問題が将来の世代に重いつけを負わせることを差止めの理由としている。幾世代にもわたる後の人々に対する我々世代の責任という道義的にはこれ以上ない重い問題について、現在の国民の法的権利に基づく差止訴訟を担当する裁判所に、この問題を判断する資格が与えられているかについては疑問があるが、7に説示したところによるとこの判断の必要もないこととなる。

9 被告のその余の主張について

 他方、被告は本件原発の稼動が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、当裁判所は、極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。

 また、被告は、原子力発電所の稼動がCO2排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが、原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって、福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害、環境汚染であることに照らすと、環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。

10 結論

 以上の次第であり、原告らのうち、大飯原発から250キロメートル圏内に居住する者(別紙原告目録1記載の各原告)は、本件原発の運転によって直接的にその人格権が侵害される具体的な危険があると認められるから、これらの原告らの請求を認容すべきである。

福井地方裁判所民事第2部

 裁判長裁判官 樋口英明

    裁判官 石田明彦

    裁判官 三宅由子

http://www.news-pj.net/diary/1001
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アベ紙芝居のサル芝居

2014年05月25日 00時45分51秒 | 戦争法ではなく平和保障法を
 

 今の憲法の下では、日本は自国を守る為の最小限度の防衛力しか持てない事になっていますが、それを「他国を守る為にも使えるようにしよう」と言うのが「集団的自衛権」の考え方です。5月15日に安倍首相がマスコミの前で、上記2事例のパネルを掲げてその必要性を力説したそうですが(首相官邸HP参照)、全然説明になっていません。

 まず左の「邦人輸送中の米輸送艦の防護」パネルの例えから。「第三国で紛争が起こった際に、日本や米国の民間人を乗せた米国の輸送艦が攻撃を受けても、日本の自衛隊は今のままでは防護(護衛)にも向かえない。防護できるようにする為にも集団的自衛権が必要だ」と言いたいのでしょうが、少し考えるだけでも、この説明にはおかしな点が一杯あります。

 まず第一に、なぜ輸送艦(軍艦)なのか。パネルの図では日本も米国も部外者でしょう。両国とも、紛争の攻撃国でも被攻撃国でもない、ただの第三国にしか過ぎません。その第三国が自国民を救出するのに、なぜ軍艦を差し向けなければならないのか。別に軍艦で乗り込まなくても、民間の船舶か民間機で救出すれば良いでしょう。紛争当事国がそれを故意に攻撃する事はまずないはずです。そんな事しても紛争当事国には何の得にもなりませんから。下手すれば国際法違反の責任を問われ、更なる制裁を招きかねない。
 逆に、そんな紛争地帯に軍艦で乗り込んだら、自分たちも敵として攻撃されかねない。例えば、今、南シナ海の西沙・南沙諸島の領有権を巡って、中国・ベトナム・フィリピンの間で紛争になっていますが、もしその紛争が拡大して在留邦人を救出しなければならなくなった時に、わざわざ自衛隊の軍艦を差し向けますか。在留邦人はベトナムにもフィリピンにも中国にも大勢いるのに、そんな事をしていたずらに紛争をこじらせでもしたら、一体誰が在留邦人の生命・財産確保に責任を持つのでしょうか。
 輸送自体は民間船舶か民間機にまかせて、それでも不安なら自衛隊機を数機護衛につければそれで済む話でしょう。それなら別に何も集団的自衛権なぞ持ち出さなくても、個別的自衛権(専守防衛)だけで対処できる筈です。自国の輸送船・輸送機の護衛に止まるのですから。護衛につけるのは別に自衛隊機ではなく海上保安庁の巡視艇でも構わない。その場合はもはや自衛権ではなく警察権の行使だけで済みます。マスコミの記者も、「立憲主義が」云々と回りくどい質問をするくらいなら、なぜこの端的な矛盾を安倍に突き付けないのでしょうか。

 そして第二に、なぜこんな場合も、いちいち米軍や米国政府ばかり引き合いに出すのか。この図では救出対象は在留邦人と米国人だけになっていますが、実際の現場では米国人ではなく中国人の場合だってあり得る訳です。現に海難救助の現場では日本の海上保安庁の巡視艇が中国人の漂流者を救助したりしているのですから。マレーシアの航空機が離陸後消息を絶った時も、日本の自衛隊を始め、ASEAN・中国・オーストラリア等多くの国々が捜索活動に加わりました。アルジェリアにある日本企業の石油施設がイスラム原理主義のテロリストに襲撃された時も、米国だけでなく、アルジェリア政府を始め、フランス・EU等多くの国が救出に動いてくれました。本来、人命救助に国籍なぞ関係ないはずです。
 それが、相手国が中国やASEAN・EUの場合なら集団的自衛権なんて話には全然ならないのに、なぜ米国の時だけこの話になるのか。

 また第三に、なぜ今、集団的自衛権なのか。安倍首相は、二言目には北朝鮮のミサイルや中国の軍拡を例に挙げて、国際紛争が激化した事を集団的自衛権を行使する口実にしようとしていますが、これも矛盾しています。なぜなら、今より昔の東西冷戦時代の方が、国際緊張ははるかに激しかったのですから。当時はキューバ危機などで、常に核戦争勃発の危険と隣り合わせでした。日本の周辺でも、朝鮮戦争・ベトナム戦争・台湾海峡危機・中ソ対立・中越紛争などが身近に起こっていました。その中で、沖縄の米軍基地からは連日のようにB52爆撃機が飛び立ち、当時の北ベトナムを空爆していました。日本はベトナム戦争では第三国どころか立派な参戦国でした。
 その頃から比べたら、むしろ今の方がよっぽど平和じゃないですか。ベトナム戦争が終結し、東西冷戦も中ソ対立もなくなり、南北朝鮮も国連加盟を果たし、今や中国やベトナムも開放経済政策で、西側諸国との結びつきをますます強めている。日本や台湾の企業が大挙して中国に進出し、日本にも多くのアジア人が観光や働きにやって来るようになりました。その中で、たとえ北朝鮮やアルカイダが時々暴れたとしても、一体どれほどの影響があるのか。今の中国に、本気で日本や米国と戦争をする気があると思っているのか。今、中国が領土紛争で周辺国に強気に出ているのも、日本が尖閣国有化や靖国参拝で余計に紛争をこじらせたせいもあるのではないでしょうか。今の北朝鮮なんて、かつてのポルポト政権やイラクの旧フセイン政権みたいなものでしょう。今のアルカイダやタリバンにしても、せいぜいイタリアのマフィアに毛が生えた程度のものでしかない。そんなものの為に、なぜ集団的自衛権を行使しなければならないのか。

 いずれにしても、人命救助だけが目的なら、何も集団的自衛権なぞ持ち出さなくても、個別的自衛権だけで十分対処できます。それをわざわざ、第三国の紛争に自衛隊や米軍を絡ませるのは、本当は人命救助なぞどうでも良くて、米国が介入する紛争に加担して、米国に忠義立てしたいだけなのでしょう。イラク戦争の時のように。
 邦人救出というのも、戦争に介入する口実にしたいだけなのでしょう。「自国民救出、居留民保護」といえば聞こえが良いですが、実際はそれが植民地支配や侵略戦争を始める口実となってきた事は、古今東西の歴史を見ればもう一目瞭然です。戦前日本の台湾出兵、シベリア出兵、満州事変、日華事変しかり。19世紀から20世紀にかけての、米国による米西戦争やハワイ併合、中南米侵略、ベトナム戦争しかり。ソ連のチェコスロバキア・アフガニスタン侵略しかり。今のロシアによるクリミア半島占領しかりで。

 これは右の「駆け付け警護」パネルの例えでも言える事です。「第三国にPKO要員として参加した日本のNGO関係者が武装集団に襲われても、PKO参加中の自衛隊部隊ですら憲法9条の制約の為に警護に駆け付けられない」、その制約をクリアする為に、今までは「憲法上使えない」と封印してきた集団的自衛権を今後は行使できるようにしたいと。
 
 でも、そもそもPKO(国連平和維持活動)って、紛争が終息した後に、和平を実効あるものにする為に、国連の名前で選挙監視団や停戦監視団として、その国の復興や自立を助ける為に参加するものでしょう。東チモールやモザンビーク、シリアのゴラン高原で今行われているように。そのもっとも成功した例が東チモールです。東チモールで民族独立運動が勝利して、せっかくポルトガルの植民地から独立するも、隣国のインドネシアが介入して自国領に一方的に併合してしまった。その苦難の末に、PKOの力も借りて、ようやく独立して自立の道を歩み始めた。その独立の手助けを日本の自衛隊もPKOとして参加して行っている。別に集団的自衛権があろうが無かろうが、そんな事とは何の関係もなく。他国のPKO部隊に何かあった時も、別に自衛隊がいちいち出しゃばらなくとも、他国や国連に任せば良いだけの話です。

 それで今問題になっているのは、失敗したPKOでしょう。なぜ失敗に終わったかと言うと、紛争終結、和平達成とは名ばかりの、イラク戦争の時みたいに大国が介入して、覇権争い、勢力圏争いの代理戦争みたいな形になって、その隠れ蓑として利用されるだけの「偽物PKO」に終始したからでしょう。
 その最も代表的な例がアフガニスタンです。アフガニスタンの例は、正確にはPKOですらない、単に国連のお墨付きを得た多国籍軍(ISAF:国際治安支援部隊)による支配ですが。その多国籍軍が、タリバン政権を倒してからも誤爆ばっかりやった為に民衆からすっかり信用を失ってしまい、今やタリバンの攻勢の前に風前の灯になりつつある。それは誰の責任か。誤爆ばっかりやらかして、タリバンを生んだ貧困や民族対立の解消には全然手を付けず、軍閥を甘やかしただけに終わった米国やNATO(北大西洋条約機構)加盟諸国の責任でしょうが。
 その責任もきっちり取らさず、ケツ吹きだけをなぜ押し付けられなければならないのか。現にアフガニスタン現地で医療活動に携わっているNGO「ペシャワール会」の中村哲医師も、「自衛隊なぞ来たら自分たちも侵略の加担者として攻撃されるようになる。集団的自衛権の行使なんてとんでもない」と、反対しているにも関わらず。

 それ以前に、「NGOを集団的自衛権行使の口実にする資格がそもそも安倍にあるのか?」と私は思っているのですが。戦争前からイラクの子どもたちを支援してきた高遠菜穂子さんたちに対して、安倍などイラク戦争に賛成した米国追従の政治家が一体どういう態度を取ったか。中村哲さんと同じような理由でイラク戦争に反対したからと言って、思いっきりバッシングしたくせに。その安倍が、PKOや集団的自衛権の行使を正当化する為に、NGOを隠れ蓑に使う資格なぞ一切ない!我々はこんなチンケな紙芝居(パネル)に騙されるほどバカじゃない!
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転載:「美味しんぼ」問題に関する編集部見解(週刊ビッグコミック・スピリッツHP)

2014年05月20日 20時38分39秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
ビッグコミック スピリッツ 2014年 6/2号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小学館


 「美味しんぼ」問題に関する編集部見解が「ビッグコミック・スピリッツ」最新号(6/2日付第25号)に出たので読みましたが、結構まともな内容でした。少なくともマスコミ報道にある様な「政府に屈服」というイメージとは全然違います。「風評被害を気にする余り、少数意見の封殺に繋がる様な事があってはならない」という事もちゃんと書かれていました。編集部に寄せられた意見の紹介も結構バランスが取れていた様に思います。「美味しんぼ」肯定派・否定派それぞれの見解が紹介され、読者が比較検討する際に非常に有益な教材になり得ると感じました。
 「美味しんぼ」の内容についても、過去に色々問題があった事も知りました。「美味しんぼ」に書いてあるからと言って、決してそれだけで信用してはならないと思います。それでは「お上の言う事は全て正しい」とする立場の単なる裏返しに過ぎなくなってしまいます。たとえ、漫画を描くに当って原子力の事を色々調べたとしても、当該分野については門外漢にしか過ぎない漫画家の描いた作品ですから、そこには誤った記述や舌足らずな表現もあるかも知れません。でも、「福島の真実を明らかにしたい」という目的さえ明確であれば、「鼻血」描写については許容範囲だと思います。流石にその次の号の「大阪のガレキ焼却で住民被害」表現については、私も作者の勇み足だったかも知れないとは思いましたが。
 でも、それならそれで、国や大阪府・市も、科学的データを出して反論すればそれで済む話です。作者の雁屋氏も、それに対して意見があるならまた反論すれば良い。それを見て正否を判断するのは、あくまでも読者であり有権者なのだから。それを、まるで「寝た子を起こすな」と言わんばかりの、風評被害を口実に頭ごなしに封殺しようとする今の風潮は明らかに行き過ぎです。そんな事では何も言えなくなってしまいます。また、いくらそんな事をしても逆に余計に不信を招くだけです。
 当該の編集部見解は「ビッグコミック・スピリッツ」HPにも掲載されていてネットでも読めますが、今後また同種の問題が出てきた時にも非常に参考になると思いますので、当ブログでも参考資料として全文を保存しておく事にしました。「同種の問題」というのは何も原発問題だけに限りません。かつての水俣病国賠訴訟やイラク日本人人質事件の時にも同種のバッシングがはびこりました。今の生活保護バッシングも根底にある構造はみな同じです。生保バッシングやヘイトスピーチ垂れ流しで民主国家としての信用を思いっきり地に貶め、鼻血なんかとは到底比べ物にならない程の風評被害をまき散らす輩に、「福島差別」を云々する資格なぞこれっぽっちもありません。各人がその様な不当なバッシングを跳ね返しメディア・リテラシーを養って行く上でも、この編集部見解から学び取れる事は多々あるように思います。

編集部の見解

 このたびの「美味しんぼ」の一連の内容には多くのご批判とご抗議を頂戴しました。多くの方々が不快な思いをされたことについて、編集長としての責任を痛感しております。掲載にあたっては、福島に住んでいらっしゃる方が不愉快な思いを抱かれるであると予測されるため、掲載すべきか検討いたしました。
 震災から三年が経過しましたが、避難指示区域にふるさとを持つ方々の苦しみや、健康に不安を抱えていても「気のせい」と片付けられて自身の症状を口に出す事さえできなくなっている方々、自主避難に際し「福島の風評被害をあおる、神経質な人たち」というレッテルを貼られてバッシングを受けている方々の声を聞きます。人が住めないような危険な地区が一部存在していること、残留放射性物質による健康不安を訴える方々がいらっしゃることは事実です。
 その状況を鑑みるにつけ、「少数の声だから」「因果関係がないとされているから」「他人を不安にさせるのはよくないから」といって、取材対象者の声を取り上げないのは誤りであるという雁屋 哲氏の考えかたは、世に問う意義があると編集責任者として考えました。「福島産」であることを理由に検査で安全とされた食材を買ってもらえない風評被害を、小誌で繰り返し批判してきた雁屋氏にしか、この声は取り上げられないだろうと思い、掲載すべきと考えました。事故直後盛んになされた残留放射性物質や低線量被曝の影響についての議論や報道が激減しているなか、あらためて問題提起をしたいという思いもありました。
 今号掲載の特集記事には、識者の方々と当事者代表である自治体の皆様からも厳しいご批判をいただいております。医学的、科学的知見や因果関係の有無についてはさまざまな論説が存在し、その是非については判断できる立場にありません。山田 真先生から頂戴した「『危険だから逃げなさい』と言ってもむなしい」というお話には胸を衝かれました。遠藤雄幸村長の「対立構図をつくってはいけない」というお話からは、「美味しんぼ」についてツイッター等で展開された出口のない対立を思いました。識者の方々、自治体の皆様、読者の皆様からいただいたご批判、お叱りは真摯に受け止め、表現のあり方について今一度見直して参ります。
 最後になりますが、避難指示区域からの長期避難で将来に不安を覚える方々、自主避難によって生活困窮に陥ったり不当な非難を浴びたりしている方々への一層の支援は必要ないでしょうか。健康不安を訴える方々が、今なおいらっしゃるのはなぜでしょうか。小さなお子さんに対して、野呂美加様のお話にある「保養」を、もっと大きな取り組みとすることは考えられないでしょうか。このたびの「美味しんぼ」をめぐる様々なご意見が、私たちの未来を見定めるための穏当な議論へつながる一助となることを切に願います。

 「週刊ビッグコミックスピリッツ」編集長 村山 広


(追記―関係者の声より)

 上記「編集部の見解」(以下、見解と略す)の中で言及された3名の関係者の意見もこちらで紹介しておきます。但し、概して非常に長文の意見が多い為、ここでは「見解」で触れられた部分のみの紹介に止めます。それぞれの意見については当該雑誌の公式HP(記事本文のリンクからアクセス)にもその全文が掲載されていますので、そちらも併読していただければ助かります。

山田 真(医師、子どもたちを放射能から守る全国小児科医ネットワーク代表)
(前略)
 「避難すべき」と言うのは簡単ですが、現実には難しい問題を抱えている。私も2011年の終わり頃までは避難すべきと言っていましたが、今、福島では避難したいけれど様々な事情で避難できない人が多いから、その人たちに「ここにいるのは危険だから逃げなさい」と言ってもむなしいのです。国に対して避難したい人が避難できるよう要求し、また避難先で安心して暮らせるよう条件整備をすることを求め、戦っていく必要があります。
(後略)

遠藤雄幸(川内村村長)
(前略)
 県外に避難した住民が、「福島は危ないから避難しろ」と言う。戻った住民が、「故郷を捨てたのか」と問う。「避難する・しない」、「戻る・戻らない」の対立構図をつくらないために、善意の押し付けや過激な干渉はできる限り控えてほしい。そこで生活している多くの住民がいること、避難を余儀なくされている村民がいることを忘れないでほしいと思います。目に見えない放射線は、仲が良かった隣近所の人たちを仲違いさせ、親子・夫婦関係までギクシャクさせる。コミュニティーまで崩壊させる。被災者同士がそれぞれ批判し合う姿に心が痛みます。
(後略)

野呂美加(NPO法人「チェルノブイリへのかけはし」代表)
(前略)
 ベラルーシでは、年間総被曝量が1ミリシーベルトに満たない汚染地域でも内部被曝を鑑みて、子どもたちを国家の事業として保養に出しています。保養させた子どもたちの尿検査をすると、体内の放射性物質が著しく減少します。まずは、国民の健康診断をして、数年間は管理をすべきだし、旧ソ連にならって、せめて子どもたちを安全な地で保養させたり、安全なものを食べさせたりするべきだと思います。
(後略) 
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ブラック企業も住めば都

2014年05月16日 23時29分48秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1) (モーニングKC)
クリエーター情報なし
講談社


 福島原発を扱った漫画のうちで「美味しんぼ」を先日取り上げました。次に、私が読んだもう一つの漫画「いちえふ」の方を取り上げようと思います。「いちえふ」を書いたのは、竜田一人(たつた・かずと)という仮名の、福島第一原発(通称:1F=いちえふ)で収束作業に携わっていた原発作業員です。漫画では彼が働いていた福島の現場労働の描写から始まります。それによると、作業員はまず早朝に前進拠点のJビレッジに集まり、タイベックというつなぎの防護服に着替え、二重の靴下に靴カバー、全面マスクの完全装備で、そこから会社のバスや車に便乗して原発の各作業現場に向かいます。その着替えの様子や、作業員のIDカードや車両通行証、APD(放射線線量計)やガラスバッジなどの携行品の扱いなどの説明が、作業員目線で詳しく描かれています。
 いわく、休憩室や免震棟の扉は、外気の侵入を防ぐ為に二重扉になっており、係員によって開け閉めされる。中の空気も空気清浄機によって安全に保たれている。それらの建物から一旦外に出たら、休憩時間や急病人搬送などの緊急時以外は、勝手に中には戻れないようになっている。トイレも勝手には行けないので、必ず作業に入る前に済ませておかなければならない。
 また、それぞれの現場に合わせて放射線量の上限が決められ、その5分の1の線量に達するたびにAPDのアラームが鳴る仕組みになっている。5回のアラームで上限に達してしまうので、作業チームのうち誰か一人でも4回目のアラームが鳴れば、もうそこで次のチームと交代しなければならない。それに加え重装備なので、作業はなかなかはかどらない。作業員にとっては、放射能よりも熱中症の危険の方が、より身近な脅威となっている。全面マスクなぞも、余りきつく締めると頭痛に見舞われたりするので、締める際はほどほどのきつさに抑えなければならない・・・といった事が詳細に描かれています。
 そういう意味では、外からはなかなか分からない「いちえふ」の作業を知る上では、非常によく出来た漫画だと思います。絵のタッチなぞも、とても素人とは思えないほど上手く描けているように感じました。

 しかし、その一方で、反原発運動に対する作者の反感がそこかしこに現れているのも如実に感じました。いわく、「今回の事故について放射線について自分なりに調べてみれば 一部のマスコミや「市民団体」が騒ぐ程のものではないと分かったし」(24ページ)とか、「休憩所にはスポーツドリンクなどの冷蔵庫もある」「昨年(2012年)夏にどこかの週刊誌が「冷たい水が飲めるのは東電社員だけ」なんて書いてたが意図的な誇張だ」(32ページ)とか、休憩室で作業員が心筋梗塞で一人亡くなった時も、休憩中の作業員総出で救護に当たったのに、一方的に被曝や救急体制の不備のせいにされた(33ページ)とか、そういう表現が随所に登場します。
 もちろん、興味本位で作業員をまるで3Kのルンペンのように差別するのは論外ですが、ではこの作者も、何の根拠も示さず「放射線の影響は騒ぐ程ではない」と一方的に決めつけ、「一部のマスコミや「市民団体」」という表現で、反原発運動をまるで偏った特殊なものであるかのように差別的な目で見ているという意味では、「どっちもどっち」だと思いました。
 その後の「冷たい水」云々の件も、確かに冷たい水は東電社員も下請け作業員も飲めますが、賃金は圧倒的に前者の方が高く、被曝の危険も後者の方が圧倒的に高いのに、その決定的な差を見ずに表面的な事象だけで「差別なぞ存在しない」と言い張った所で、ただ単に自分で自分を慰めているだけではないですか。
 心筋梗塞の件も、被曝との因果関係が現時点で完全に立証された訳ではありませんが、広島・長崎やチェルノブイリの例からも、それがガンや白血病と並んで死因の多くを占める事が経験的に知られています。そういう面も含めて総合的に観る事をせずに、自分の思い込みだけで話を進めています。

 そのくせ、「いちえふ」の下請け作業員として今の会社に採用されるまでは、内定は形だけで会社自体がドロンしてしまっていたり、いざ福島まで来ても仕事を全然紹介してもらえず、タコ部屋みたいな所に押し込められて寮費や食事代だけ天引きされたり、6次下請けでどんどん賃金が間でピンハネされ自分たちは日給8千円程度にしかならなかったり・・・といったエピソードが次から次へと出てきます。私なぞは、これらの問題の方が、むしろ「わしらも冷たい水が飲める」事よりもはるかに重大だと思いますが。
 結局、この漫画で言わんとしているのは、「ブラック企業も住めば都」という事でしかない。何の事はない。「奴隷根性」や「諦め」を煽っているだけではないですか。

 

 確かに、原発とは全然無関係の、私のバイト先の職場でも、こういう事はありますよ。
 給料は安いし、社員もボンクラだし、まともに考えたらとてもやっとれんが、でも、どうにか食べて行けるだけの給料はもらえて、食堂の飯もそこそこ旨い。休みも一応週二日はあるし、残業もそんなには無い。上を見たらキリがない。
 また、俺らは俺らなりに一生懸命仕事しているのに、外から「ド底辺企業」みたいに言われたら腹も立つ。
 そういう意味では、この竜田一人の職場は、私の職場の問題でもあるのです。私が当初「美味しんぼ」よりも先にこの「いちえふ」の方を取り上げようと思ったのも、正しくそんな理由からでした。

 でも、そこだけに止まっていたら、もう人間としてお終いではないでしょうか。この際はっきり言いますが。
 仕事を一生懸命するのは当たり前の事です。別に「いちえふ」だけに限った事ではありません。しかし、「上から言われた事をただ言われた通りにするだけが仕事だ」と言うのであれば、その程度の事ならサルでもします。ただ「上から言われた事をただ言われた通りにする」だけでなく、「ド底辺」な現状も同時に変えようとする所にこそ、サルにはない人間としての値打ちがあるのに。
 賃金ピンハネや労災、被曝労働を減らそう。農漁業や観光、その他の産業も興して、危険な原発にばかり頼らなくても良いようにしよう。そうして、もうこれ以上、第二、第三の「いちえふ」を生まない様にしよう・・・そう考えてこそ、人間としての値打ちがあるのではないでしょうか。

 この漫画を読んで真っ先に思い浮かんだのが、黒井勇人の「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かも知れない」(新潮文庫)です。あの話のあらすじも、「ブラック企業も住めば都」という点ではこの「いちえふ」と同じです。でも、「ブラック会社に」云々の方では、少なくとも主人公のマ男は最後には引きこもりから抜け出す事が出来ました。そこから、やがて会社もいつかは変える事が出来るかも知れないという希望も、かすかではあるが同時に感じ取る事も出来ました。しかし、「いちえふ」では誰も何も変わらない。事故の責任を取らない政府・東電の体質も、その東電の言いなりでしかない下請け企業の体質も、それに何ら疑問を持たずギャンブルや酒に明け暮れるだけの作業員の体質も。竜田一人から仕事とギャンブルを取ったら、後はもう何も残らないのじゃないですかね。
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どの口がそれを言う!(怒)>自民ブーメラン

2014年05月14日 18時53分02秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
選択的避難の権利/北海道へ自主避難した人の声 参院12/2


 今、鼻血の件で「美味しんぼ」を叩いている自民党政権の消費者相や環境相が、野党議員時代にどう言って当時の民主党政権を攻撃していたか。どう言う失言をやらかしていたか。こいつらにとっては、原発事故という政災・人災のせいで、福島からの避難を強いられた人達の苦しみも、只の政争の具でしかないのだろう。

美味しんぼ:鼻血問題で森担当相「差別や偏見を助長する」
毎日新聞 2014年05月13日 12時06分

 「週刊ビッグコミックスピリッツ」(小学館)に連載中の漫画「美味(おい)しんぼ」で、福島第1原発を訪問した主人公らが鼻血を出す場面が描かれたことについて、森雅子消費者担当相は13日、閣議後の記者会見で言及。「放射能と鼻血との因果関係があるかのように誤解される記載だった」としたうえで、「影響力の大きさを考えると、福島県民と子供たちの根拠のない差別や偏見を助長するようなことについては大変、遺憾だ」と述べた。
 森担当相は「漫画は子供も読む。その影響を考えると、科学的な根拠をしっかり示した正確な情報を政府としては発信したい」と話した。

http://mainichi.jp/select/news/20140513k0000e040218000c.html

180-参-東日本大震災復興特別委…-8号 平成24年06月14日

○森まさこ君(自民党)
 今、佐藤委員が言ったことについても、遡及的な支援ということについても副大臣に働きかけていく、その根拠にこの法律もなっていくという理解をしております。
 さらに、例えば今福島県内では十八歳までの子どもたちは医療費が無料でございます。しかし、今年十九歳の子どもはどうかというと、無料ではございません。原発事故のときには十八歳であった、しかし今年は十九歳である、そういう子どもに関しても今後は医療費が無料になることができていくというのが私たち野党の立法の趣旨でございます。
 先ほど言ったように、様々な声がありまして、これから子どもが結婚適齢期になったときに、二十代、三十代のときに、もし病気になったらどうするんですかというような心配する親御さんの声があります。これに関しては、今までのこの国会での政府答弁ですと、残念ながら、大臣は東京電力に裁判してくださいということでした。それですと、被害者の方が、子どもたちの方が、この病気は原発事故によるものなんですよということを立証しなければいけない。これはほとんど無理でございます。そういったことがないように、この法律で守っていくものというふうに私は理解しています。
 例えば、具体的にこんな心配の声をお寄せいただいています。子どもが鼻血を出した、これは被ばくによる影響じゃないかと心配なんだけれども、それを診察してもらった、検査してもらった、そのお金はどうなるんですかということです。次にまた、今なかなか屋外の運動ができておりません。それで、実際に走ったときに、足が弱くなっていて転んでしまった、骨折をした、そのような医療費はどうするんでしょうかというような声があります。そのようなものについても、私ども野党の案を起案したときには、原則として含まれていくというふうに考えてはおります。
 現実に、南相馬の市立病院の及川副院長のお話を聞きますと、統計データを取ると、子どもたちの肥満が進んでいる、子どもたちの中に糖尿病が出ている、ストレスによる障害も見られるということでございます。ですので、原則として医療費の支援の対象にしていくと、そういった点が今後効果が期待できる点だというふうに思います。

http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-1708.html


美味しんぼ:石原環境相、鼻血描写に不快感
毎日新聞 2014年05月09日 11時09分(最終更新 05月09日 12時39分)

 小学館(本社・東京)の週刊誌「ビッグコミックスピリッツ」の漫画「美味(おい)しんぼ」に、東京電力福島第1原発を訪れた主人公らが鼻血10+件を出す場面が描かれた問題について、石原伸晃10+件環境相は9日の閣議後記者会見で「その描写が何を意図して、何を訴えようとしているのか全く理解できない」と不快感を示した。
 この問題を巡っては、地元自治体の福島県双葉町が小学館に抗議文を送るなど波紋が広がっている。石原環境相は、昨年末に3年ぶりに出荷を再開した福島の特産物「あんぽ柿」に触れ、「地元の産品の販売に協力してもらっている。(風評被害が発生すると)取り返しがつかない」と述べた。

http://mainichi.jp/select/news/20140509k0000e040190000c.html


石原幹事長、失言「再犯」 福島原発を「福島第1サティアン」
J-CASTニュース 2012/9/13 17:40

自民党総裁選挙に出馬を表明している石原伸晃幹事長が2012年9月13日朝、生出演していた「朝ズバ!」(TBS系)でとんでもない言い間違いをした。福島第1原発のことを、「福島第1サティアン」と発言したのだ。
サティアンといえば、オウム真理教の施設名だ。事故収束に向け、震災から1年半が経った今も懸命の努力が続く原発をよりにもよってサティアンと言い間違えるとは――しかも、石原幹事長は以前にもまったく同じ言い間違いを番組でしており、「再犯」だった。

言い間違いに気づく様子もなくドヤ顔
石原幹事長はこの日、次期総裁有力候補として同番組に登場し、自らのビジョンについて語っていた。「東日本の被災地を歩いて、(総裁選出馬への)使命感を感じた」などと話し、出演者からも「真っ先に被災地に入ってくださり、信頼感は大きい」などと持ち上げられていたが、問題発言はその直後、放射線で汚染された表土などの処理方法をめぐる話題の中で飛び出した。
福島県内で小学校で汚染表土が処理のあてもなく放置されている現状を、悲憤に満ちた表情で語っていた石原幹事長は、力強くこう言い切った。
「それ(表土)をどっかに運ぶ、運ぶところは私は、『福島原発の第1サティアン』というところしかないと思います」
言い間違えたことに気づく様子も一切なく、石原幹事長はいわゆる「ドヤ顔」で、なおも政府対応の拙さを批判し続ける。スタジオもそれには触れず、そのまま話題は次に移った。
しかも、この間違いはこれが初めてではない。2011年6月6日放送の「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日系)に出演した際にも、石原幹事長はまったく同じ議論をする中で、
「福島第一原発の『サティアン』のあるところにしか持っていけませんよ!」
とはっきり言い放っているのだ。当時はほとんど騒ぎになっていなかったが、日ごろから言っているのでもない限りこんな間違いはできないのではないか。(後略)

http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=5P7akIYekC0J&p=%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BC%B8%E6%99%83+%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3&u=www.j-cast.com%2F2012%2F09%2F13146358.html%3Fp%3Dall


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風評被害を口実にした言論弾圧を許すな!

2014年05月12日 22時43分28秒 | 福島の犠牲の上に胡坐をかくな
美味しんぼ 110 (ビッグコミックス)
クリエーター情報なし
小学館


 一週間ほどブログ更新が滞っていました。実はこの間、鼻血描写で今問題になっている「美味しんぼ」と、元福島原発作業員の手による「いちえふ」という、いずれも福島原発問題を取り上げた二つの漫画を読み比べていました。今回のブログにも、当初はその読み比べの感想を書こうと思っていました。
 しかし、「美味しんぼ」の中で、主人公が福島取材中に鼻血を出す場面があり、それが風評被害を煽るという事で環境省までが乗り出す騒ぎになっている事を知り、急遽予定を変更して、「美味しんぼ」からまず取り上げる事にしました。

 そもそも「風評被害を煽る」と言うが、本当に「美味しんぼ」作者の雁屋哲氏は、そんな事を意図してこの漫画を描いたのでしょうか。そう思われた方は、週刊ビッグコミック・スピリッツに連載中の、当該描写のみを見て判断しているのではないでしょうか。その方は、今回の連載に連なる単行本の方の、小学館「美味しんぼ110・福島の真実1」も是非お読みになって下さい。それを読まれたら、そんな「人気取りの為に奇をてらう」かの様な生半可な気持ちで、雁屋氏がこの漫画を描いた訳ではない事がお分かりになると思います。

 ここでは、その単行本のあらすじをかいつまんで紹介しておきます。
 東西新聞のグルメ記者・山岡士郎が福島の被災地取材を思い立ち、帝都新聞との共同企画の形で話が始まります。その共同企画を持ち込んだのが、山岡の実の父親で今までも山岡とは色々確執があった海原雄山なのですが、その点についてはここでは触れません。
 この中でまず登場するのが、会津若松でアイガモ農法を実践している須藤さんの話です。須藤さんは、田んぼでアイガモを飼育し、害虫や雑草を食べさせる事で、農薬や除草剤を使わずにお米を作って来ました。福島原発事故の際も、地形の関係で会津盆地にはそんなに放射性物質は飛散しませんでした。ところが同じ福島産というだけで、放射能不検出の須藤さんのお米も売れなくなってしまったのです。山岡たちもその窮状を救うべく、共同企画でアイガモ米の購入を訴える事になりました。

 この風評被害はアイガモ米だけでなく、喜多方・山都周辺の「もてなしそば」や船引町のエゴマ栽培の取材でも直面します。それどころか、有機農業のネットワークを立ち上げても、ようやく軌道に乗りかけてきた所で原発事故に遭ってしまった為に、せっかくの有機大豆も食用には回せず肥料として使う他なかったり、元の農薬を多用した農業に戻ってしまう人が後を絶たないといった話も登場します。
 その一方で、原発から流入した汚染水の為に、太平洋岸の漁業が壊滅してしまい、魚市場や景勝地・松川浦の復興が全然進まなかったり、被災者同士で魚市場で朝市を行ったりといった話も紹介されます。

 その中でも最も痛ましかったのが、飯館村に伝わる凍(し)み餅などの郷土料理がもう二度と食べれなくなる話です。飯館村と言えば、最初は政府や県の宣伝を信じて安全だと思っていたのが、実際は放射能の雲がモロ上空に押し寄せて来ていた事が分かり、事故から三ヶ月も経ってから全村避難を強いられた所です。福島市に避難していた飯館村の人々の計らいで、山岡たちが郷土料理に舌鼓を打つ事になりますが、この郷土料理も昨年収穫した原材料を使って作ったものでした。既に故郷の飯館村も今は無く、原材料が尽きた時点で郷土料理も消滅してしまうのです。この事に、最初は舌鼓を打っていた山岡たちも、次第にやるせない気持ちになっていきます。この場面では、あの強面で有名な海原雄山ですら、悲しみの余り思わずもらい泣きしてしまいます。



 そんな話の中で、たった一コマ、山岡が鼻血を出す場面が出たからといって、それがなぜ風評被害を煽る事になるのか。私には全然理解できません。この取材は一回きりではありません。足かけ一年かけて、何度も現地に取材に行くのです。放射線濃度を測定する為に国や県が設置したモニタリング・ポストが、なぜ予め除染されコンクリートで固められた土の上に据えられているのか。これでは、在るがままの状態で測定すると言う、モニタリングの意味が全くないじゃないですか。そんな中では、鼻血を出す人がいても一向に不思議ではありません。
 低線量放射能の害については、実は今も未解明の部分が多いのです。放射能の影響を指摘する学者もいれば、それを否定する学者もいる。その中で、架空の主人公がフィクションとして鼻血を出したとしても、一体何が問題なのか。そんな事すら書けないなら、もはや何も書けなくなってしまう。

 確かに、この「福島の真実」シリーズには、実在の人物や団体も数多く登場します。アイガモ米の須藤さんや、「エゴマ」「もてなしそば」「凍み餅」や、福島県有機栽培ネットワークなども、いずれも実在の人物・食材・団体名です。そういう意味では、最初から最後まで全てフィクションである事が自明の、他の「美味しんぼ」シリーズ場合以上に、表現には注意が必要でしょう。でも、その程度の事で、なぜ石原伸晃や橋下徹までがノコノコしゃしゃり出て来て、ここまで雁屋氏を叩かなければならないのか。
 それがいかに異常な事かは、「ミナミの帝王」「ナニワ金融道」や「ゴルゴ13」などの漫画と比べたら良く分かります。あれらの漫画も、主人公たちやその活躍の場は確かに架空の設定にはなっていますが、背景となる多重債務の問題や国際情勢はいずれも現実を題材としたものです。実在の国や人物や団体も多数登場します。その中ではサラ金風刺や大国批判の場面も一杯出てきます。でも、それに対して、大手サラ金や米国大使館がいちいち抗議声明を出したでしょうか。

 原発問題に限っても、あの鼻血程度の事は、別に「美味しんぼ」だけに限らず、小林よしのりの「脱原発論」や、現役官僚によるとされる匿名の告発小説「原発ホワイトアウト」にも一杯出てきます。小林よしのりなぞは、その著書の中で「原発推進は核兵器製造が狙いだ」とあけすけに語っています。それらがなぜお咎めなしで、「美味しんぼ」だけが叩かれなければならないのか。
 「風評被害を煽り被災者を傷つけた」と批判されるが、それを言うなら、「津波は天罰だ」と言い放った右翼ボケ老人(石原慎太郎)こそ一体どれだけの人間を傷つけたか。この様な右翼ボケ老人の暴言は放置して、なぜ「美味しんぼ」だけが叩かれなければならないのか。実際は風評被害なんて口実にしか過ぎず、本当は「美味しんぼ」の口を封じたいだけではないか。当ブログは雁屋哲氏と「美味しんぼ」を断固擁護します。そして、このような陰湿な言論弾圧とは徹底的に闘います。
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架空の建国記念日よりもメーデーこそ祝日に!

2014年05月06日 22時28分20秒 | ヘイトもパワハラもない世の中を


 やっとGW(ゴールデン・ウィーク)が終わりました。まあ私には関係ない話ですが。
 私のバイト先は某スーパーの物流センターなので、GWは逆に普段よりも忙しいのです。特に4月30日は特売品の入荷が殺到し、商品をさばくのに大わらわでした。
 当然、GWだからと言って、世間と同じ様には休めません。私の会社では社員もバイトも、会社が組んだ勤務シフトに沿って、交替で休みを取ります。毎月20日には次月度の公休日が決まるので、事前に休みたい日が分かっている人は、前の月の10日位までに会社に休暇届を出す決まりになっています。例えば5月21日からのシフトの中で、5月31日の土曜日に休みが欲しい場合は、5月10日までに届け出る事になります。しかも、うちの会社の場合は、土・日曜日でも平日と同じ扱いですから、休む場合は定休(公休)で休むか有休で休むかも自分で決めなければなりません。有休の残日数が少なかったり、通勤交通費(各月度とも20日以上出勤しないと支給されない)が惜しい人は、有休ではなく定休で申告する事になります。定休にすれば出勤日数は減りませんから。
 ちなみに、私のGW期間中の休みは上記写真のカレンダーの赤丸印の日でした。そのうちの有休は5月3日の1日だけで(母の三回忌)、後の4月27日、28日、5月3日、5日、9日、11日、16日、20日は全て定休です。4月27~28日は連休になっていますが、これも勤務シフトの都合で一方的に決められただけで、別にこちらから事前に希望した訳ではなかったので、結局どこにも旅行には行かずじまいでした。私にとっては競馬の「春の天皇賞」がGWの最大のイベントでしたw。

 だから、祝日と言っても全然有難味がないし、下手すると曜日の感覚も無くなってくるので、日本には一体どれだけ祝日があるのだろうと軽い気持ちで調べていくうちに、意外な事が分かってきました。「国民の祝日に関する法律」(祝日法、昭和23年法律第178号)には、その第2条で下記の祝日が定められています。

 ●元日(1月1日):年のはじめを祝う。
 ●成人の日(1月の第2月曜日):おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
 ●建国記念の日(政令で定める日=2月11日):建国をしのび、国を愛する心を養う。
 ●春分の日(春分日):自然をたたえ、生物をいつくしむ。
 ●昭和の日(前の昭和天皇の誕生日=4月29日):激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
 ●憲法記念日(5月3日):日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
 ●みどりの日(5月4日):自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
 ●こどもの日(5月5日):こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
 ●海の日(7月の第3月曜日):海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
 ●敬老の日(9月の第3月曜日):多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
 ●秋分の日(秋分日):祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。
 ●体育の日(10月の第2月曜日):スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
 ●文化の日(11月3日):自由と平和を愛し、文化をすすめる。
 ●勤労感謝の日(11月23日):勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
 ●天皇誕生日(12月23日):今の天皇の誕生日を祝う。

 この祝日のほとんどが皇族の誕生日や天皇家の家内行事にちなんだ日だという事が分かりました。
 架空の神話物語(記紀伝説)に基づく「建国記念の日」(昔の紀元節)や、「昭和の日」「天皇誕生日」(昔の天長節)は言うまでもなく、それとは無関係だと思っていた「春分・秋分の日」もそれぞれ春季と秋季の皇霊祭にちなんだ日だし、「海の日」も「海開き」ではなく明治天皇が東北巡礼から船で横浜に帰ってきた日との事でした。「文化の日」も昔の明治節(明治天皇の誕生日)だし、「勤労感謝の日」も昔の新嘗祭(にいなめさい:天皇家がその年の五穀豊穣を祝った)だし・・・。天皇誕生日だけならまだ「日本の象徴」として許せるとしても、ここまで天皇中心だと、「一体この国は本当に主権在民の民主国家なのか?この国の主人公は一体誰なのか?」と思いたくなります。
 「みどりの日」に至っては、昔の昭和時代の天皇誕生日(4月29日)を、天皇の代替わりで誕生日が変わった為に「みどりの日」と改称したのを、更にGWの連休確保の為だけに5月4日に移動し、天皇は生物学がお好きというだけで「みどりの日」と・・・環境保護と何の関係もない事が分かりました。

 特に「建国記念の日」なんて全く無意味です。今から2700年近く前の2月11日に、初代の神武天皇が橿原神宮で即位したのにちなんで設けた祝日だそうですが、邪馬台国の卑弥呼の時代ですら今から1800年近くも前なのに、それより更に900年も前の石器時代に、橿原神宮なんて存在する筈がありません。だから史実に基づく「建国記念日」ではなく「建国記念の日」でお茶を濁しているのです。そもそも、15代目の仁徳天皇ぐらいまでは、実在したかどうかさえ定かではないのに。今の大阪・堺にある仁徳天皇陵も、あれが本当に仁徳天皇の墓かどうか怪しい物です。宮内庁が未だに天皇陵の発掘調査を拒んでいるのも、本当の史実が明らかになるのを怖れているからではありませんか。
 本当に日本の歴史に思いを馳せ、今の日本を民主国家として世界にアピールしたいのなら、こんな架空の神話や天皇家の私的家内行事に基づく何チャラの日や何チャラ祭なぞではなく、戦後再出発の原点となった8月15日の終戦記念日や、反核平和の原点となった広島・長崎原爆慰霊の日や、防災と脱原発の必要性を思い起こさせてくれた3月11日こそ、「国民の祝日」(祝日と言うのが語弊があるなら記念日でも可)にすべきだと思います。

 そのくせ、国際労働デーとして今や80ヶ国以上で祝日となっているメーデーが未だに祝日ではありません。普段は土日も祝日も休めず、労働組合に入りたくても組合すらない非正規雇用や派遣のバイトにとっては、せめて5月1日のメーデーぐらいは全国一律に休みにしてもらわないと引き合いません。実際、会社に組合もない職場では、個人で地域労組や合同労組に加入している組合員は、組合の行事一つに参加するだけでも大変なのですから。普段はあれだけ「国民の団結」とか「絆」が大事だとか言っておきながら、なぜ労働者の団結に背を向けるのか。また、アベノミクスであれだけデフレ脱却を言っておきながら、非正規のバイトにはなぜ休みもまともに取らそうとしないのか。デフレ脱却なんて、アベノミクスでわざわざ無理にバブルを演出しなくても、一週間ぐらいみんな休みにして、数万円ほど賃上げすれば直ぐにでも実現出来ます。それが直ぐには無理だとしても、一年間のうちでたった一日ぐらい休めなくて、どうやって生活向上が図れるのか。
 「最近の若者は労働組合なぞには関心が無い」と言う意見をよく耳にしますが、本当は無関心なのではなく「知らない」だけでは。そもそも、メーデーにも参加出来ずに、どうやって労働組合について知る事が出来ますか。大企業や官公庁の少なくない組合が会社や当局べったりの御用組合に成り下がり、あるいはただの親睦会のような名前だけのイベント組合に成り下がってしまったのも、政府や会社や組合幹部がこれら非正規労働者を切り捨て、参加させないようにして、自分たちの保身しか考えなくなったからです。それを打ち破る為にも、まずは、せめてメーデーぐらいは誰でも参加できるようにしなければなりません。単に「勤労に感謝する」とか言う抽象的なお題目ではなく、自らの権利要求で生活向上を勝ち取る為に。メーデーのきっかけとなった19世紀米国シカゴ労働者のゼネストから百年以上も経つのに、未だに八時間労働の原則が反故にされ、過労死されられる人が後を絶たない現状を変える為にも。
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