用事が済んで、前から気になって居た甲府駅前散歩する為の途中下車です。
車で中央道を走って原村では甲府駅前なのど探索に寄り道する事は殆どありません。と、言うより思い浮かばずに通過してしまいます。今回は往きはあずさを利用して、帰りは甲府からかいじを利用したので良いプチ散歩に成ったみたいです。
1 甲府に向かう車窓からの甲斐駒ケ岳とコブの様な摩利支天です。甲斐駒ヶ岳は独特の形状をしていますので見分けがつき易く好きな山です。別荘からの帰路で鉢巻道路から小淵沢インタチェンジに向かう8%の下り坂の正面に見えるのがこちらの甲斐駒ヶ岳です。大きく見えてフロントガラス越しに見得る姿と同じです。
2 甲府駅北口で出会った広場に立つ武田信虎(武田信玄の父親)の銅像です。銅像を見て貧相に見えたそうです。いつもイメージしている武田信玄公だと勘違いしたようです。
3 藤村記念館とあったので、島崎藤村かと思ったら藤村記念館(ふじむら)記念館でした。甲府市藤村記念館は国指定の重要文化財です。
富士の国やまなしのHPからの引用です。
藤村記念館は、明治8年に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に建てられた睦沢学校校舎です。
昭和41年、藤村式旧睦沢学校校舎保存委員会の手によって武田神社境内に移築復元され、「藤村記念館」として甲府市に寄贈されました。翌年には国の重要文化財に指定され、長い間、郷土の民俗・歴史・教育・考古資料の展示館として市民・県民に親しまれてきました。
そして平成22年10月1日甲府駅北口に移転し、交流ガイダンス施設として新たに開館しました。
この建築様式は、山梨県令藤村紫朗が奨励したとされる擬洋風建築で、県内では、藤村式建築と呼ばれています。
4 旧睦沢学校校舎です。移築・移築を経て平成22年に甲府駅北口広場で進められていた移築復元修理工事が完成しました。
次に頂いた甲府市藤村記念館のリーフレットから一部引用させて頂きます。
外観のデザインや構造に明治初期の洋風手法が顕著に表現されています。
この建物の様式は、当時の山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて建てられた建築物)で、藤村紫朗にちなんで藤村建築と呼ばれ、外面のデザインや構造に明治初期の洋風手法が表現された価値ある建造物です。
5 躑躅ヶ崎の館の模型がありました。(藤村記念館内に展示)
信玄公の街・甲府(甲斐府中)から引用です。
◎甲府の名前は、永正十六年(一五一九)、武田信虎がこの地に館をおき「甲斐府中」と定めたことにはじまる。府中とは、政治を行う場所のこと。武田氏の館は現在の武田神社の地で、躑躅(つつじ)ヶ崎にあったことから「躑躅ヶ崎の館」と呼ばれた。
◎信玄は、甲府に館がおかれた二年後、館の北東の要害城(積翠寺)で誕生した。父は信虎、母は大井夫人。誕生の地には「産湯の井戸」が残される。これより甲府は、信虎・信玄・勝頼と、武田三代六十余年の栄華の地となる。
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7 甲府で新婚時代を過ごした太宰治と赤毛のアンを翻訳した村岡花子です。
8 藤村記念館の建築途中(骨組み)の模型です。
9 花の枝付状態から桜ではなく枝垂れ梅のようです。
10 気になっていた 甲州夢小路と時の鐘です。
11 山手渡櫓門です。甲府城北側の出入り口にあたる山手御門とは、山手門と山手渡櫓門の総称で、甲府城(舞鶴城)にあった三つの出入り口(追手御門=南側、柳御門=西側、山手御門=北側)の一つです。
12 山手門を場内から見た姿です。
13 山手渡櫓門の二階の展示室です。
14 展望スペースから舞鶴城公園です。
15 鯱がありました。
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18 時の鐘の左側に見えるのが甲府駅です。
19 昔、人々に時を知らせていた「時の鐘」は、日々の暮らしを区切る中心的な手段でした。
甲府の城下町にも鐘楼が建立されましたが火災で焼失しました。
現在、甲府駅北口甲州夢小路にある「時の鐘」は、市民の幸福と発展とともに甲府を訪れる多くの方々のご多幸を記念して、141年の時を経て平成25年(2013年)に新造されました。
20 甲州夢小路です。
21 線路側からみた、甲州夢小路です
22 甲州夢小路にある明治舘です
23 内松陰門(うちまつかげもん)です。
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25 鉄門の城内側から見た姿です。
26 同じく鉄門(くろがね)の外側から見た姿です。天守曲輪から本丸に通じる南側の門です。
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28 武徳殿です。
29 甲府城内にある謝恩碑です。まるでオベリスクの様な姿です。
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31 車窓から見た稲荷櫓です。
32 この列車に乗って帰宅しました。
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