訪問したのは本山龍池山大雲院ですが、自分の感覚では特徴的な祇園閣に訪問したつもりです。円山公園から高台寺方向に歩いて来ると目に留まるのが祇園の山鉾(山車)の様な感じの特徴的な姿です。
哲学の道とか京都には色々の小径があります。その中でも京都的と感じる大好きな小径です。一般的にねねの道と言われるところです。
祇園閣と言えば大倉喜八郎ですが、連想ゲームでホテルオオクラの大倉集古館を思い出します。どちらも伊藤忠太によるものだそうです。
祇園閣
大雲院の本堂の背後には、高い石組に二層の楼を載せ、屋根の銅柱には鶴が翼を広げた高さ三十六メートルの塔が聳え立っています。それはあたかも、この寺院の仏塔かと見紛うばかりです。事実、現在では、下層入口の正面にしつらえた寵の中には阿弥陀如来が安置され、第三層の天井には青銅製の十二支動物薄型彫刻が取付けられ、中心から青銅製の燈籠が吊るされています。さらに、第一層から第二層にかけての壁面には敦煌の壁画が幾つか模写されているなど、仏塔に準ずる建物と言えるかもしれません。(HPからの引用です。)
1 こちらから入場します。京都モダン建築祭の係員の方の指示に従い。
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4 圓山地蔵尊です。
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鐘楼
1868年に発せられた「神仏分離令」により、1871年に不要となった北野天満宮の鐘楼を移設しました。豊臣秀頼が寄進したものと伝えられる名建築です。鐘は八坂神社から移設されました。(HPから引用です。)
8 鐘楼の全体像です。
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本堂
1973年に鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、2階建ての本堂を建立し、この地を寺地としました。内部に本尊・阿弥陀如来坐像を寺町四条の旧本堂から移設安置しています。
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11 本堂脇から木々の間から見えた旧眞葛荘です。
旧眞葛荘
1927年に大倉喜八郎の別荘として建設。純木造ですが、寝室のみは鉄筋コンクリート造です。八角形の応接間が書院造りの中にユニークさを放っています。
12 シーサーかはたまた西洋の大聖堂に乗っているガーゴイルか?
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14 今回の大きな目的の一つの祇園閣へ
17 祇園閣の正面扉の見返しところの鶴です。(HPから借用)
18 HPから借用した祇園閣内部です。
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20 阿吽の狛犬です。こちらも伊東忠太の作品です。
21 本堂です。
22 阿吽の狛犬です。
23 写真撮影の良いスッポットはありませんでした。見にくいですが、てっぺんには鶴が乗っています。
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大倉喜八郎は、明治維新から大正に至る間、政府、軍部の物資調達を柱に、一代で大倉財閥を築き上げたことで知られています。その活動の場は東京でしたが、京都には惹かれるものがあったのかもしれません。晩年を京都で送るために別荘として眞葛荘を建設。間もなく生誕90歳を記念して建設され1927年に完成したとされているのが祇園祭の鉾をイメージした祇園閣です。大倉喜八郎の幼名は鶴吉、のちに鶴彦と称し、晩年は鶴翁と呼ばれたということで、屋根にそびえる銅柱には金箔を五回押した鶴が羽を広げ、正面入口の銅扉の見返しには大きな二羽の鶴が。これらは大倉喜八郎自身の象徴と言われています。また、この祇園閣は屋根が銅板葺であることが特徴で、京都の金閣、銀閣に並び銅閣とも称されています。基本は鉄筋コンクリート造で、石組に二層の楼を載せた三層構造です。石材も多用され、万成石、黃龍石、紅龍石などが随所に使用されています。下層の入口の左右に緩やかな石敷の階段を配し、壁面には敦煌の壁画が模写されています。途中に青銅製の奇獣の照明器具が有り、設計者の妖怪フリークとしての嗜好が見て取れます。
設計は、平安神宮や明治神宮、築地西本願寺なども手掛けた東京帝国大学工学部教授の伊東忠太によるものです。
大倉喜八郎と伊東忠太との関わりは強く、東京でも大倉集古館の設計を手掛けています。大倉集古館は祇園閣と同時期に竣工した美術館で、大倉喜八郎と嫡子の喜七郎が蒐集した美術工芸品を収蔵する日本最初の財団法人の私立美術館です。
建物は詳細にわたり祇園閣と相通じるところがあり、両者を比べてみるのも良いでしょう。
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