ブログ開設から93日目です。
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アクセスの量が多ければいいということではないです。
問題は、人生の生き方の質なので。
量ではありません。
日本古代史の学習1 「魏志倭人伝」の伊都国は女王国の北
邪馬台国「近畿説(奈良県説)」や箸墓「卑弥呼の墓」説によれば、北九州の伊都国は、女王国(邪馬台国)の東になります。
その邪馬台国「近畿説(奈良県説)」では、邪馬台国と敵対して戦争をしていた狗奴国は東海地方の愛知県名古屋市付近にあったされています。
しかし、この説では『三国志』「魏志倭人伝(正確には「魏志」「東夷伝倭人条」)」が書いている方角を無視しています。
まず「倭人伝」では、こう書かれています。
「末蘆(まつろ)国に至る。四千余戸あり・・東南陸行五百里にして伊都国に到る・・千余戸あり。世々王あるも、皆女王国に統属す。郡使の往来常に駐(とど)まる所なり。東南奴国に至る百里・・二万余戸あり。東行不弥国に至る百里・・南、投馬国に至る水行二十日・・五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月」と。
つまり、伊都国からの道順ですが「順次式」で読むと、伊都国の百里東南に奴国、奴国の百里東に不弥国、不弥国の南に投馬国、投馬国の南に邪馬壱国ということになります。
「邪馬壱国」というのは「邪馬台国」と解釈されて訳されている『三国志』「魏志・当遺伝・倭人条」の中国語原文です。この訳語問題については、別途考えます。
別の解釈の「放射式」読み方では、伊都国を基点にして、伊都国の東に不弥国、伊都
国の東南に奴国、伊都国の南に投馬国と邪馬壱国という方角になります。
いずれにしろ、倭国の首都である「女王国」=「邪馬壱国(邪馬台国)」が北九州の伊都国の南にあるという方向は変わりません。
どうしても「邪馬台国=近畿説」にしたいなら、「卑弥呼の墓=箸墓」にしたいなら「魏志倭人伝」の原文を改定して、すべて「南」を「東」に替えないといけなくなります。
それは、論理的にも、感覚的にも、無理に無理を重ねることではないでしょうか。
この項は『季刊 邪馬台国84号』の編集部論文「卑弥呼の墓=箸墓古墳説について」のp46からp47の指摘によります。
原文は、手に入れやすい岩波文庫の石原道博編訳『中国正史日本伝(1)新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・随書倭国伝』によりました。
2009年第79刷で、定価は500円です。