雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

古代ブログ 19 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 7 伊場木簡の「若倭部

2017年12月21日 19時47分08秒 | 遠州古代史

古代ブログ 19 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 7 伊場木簡の「若倭部」 

< 再録 > 「遠州の遺跡・寺社 49 伊場木簡の「若倭部」
2011年02月18日 05時16分53秒 | 遠州古代史

 浜松市東伊場の弥生から律令にいたる複合遺跡「伊場遺跡」で出土した「伊場木簡」の中に、「若倭部」の名前が現れています。

 伊場木簡では、若倭部の姓をもつ人名は24例に達し、宗宣部(そがべ)・語部(かたりべ)のそれぞれ10例を倍以上上回っています。
 (『静岡県史 通史編1 原始・古代』静岡県、p469)

 その中に「已亥年五月十九日渕評竹田里若倭部連老末呂」と書かれた木簡があります。

 「已亥年」とは699年(文武三年)であり、「渕評」とは、伊場遺跡にあった「評役所」と推定されています。

 つまり、古代の「若倭部」は、浜松市の伊場遺跡付近と、浜北市の宮口から浜松市の有玉にかけてと二カ所に拠点を持っていたか、それとも伊場遺跡付近から浜北市宮口付近まで広い範囲に分布していたかということになります。

 「若倭部」は、『万葉集』という古代文献と、伊場木簡という古代の直接文字史料と、神社名という現代に残る資料と、3つの系統で確認されていることになるのです。

 (2005年1月17日「遠江と古代史の森」にupを再録)

 写真は、宮口の若倭神社の現在の姿です。」

 以上は再録。
 『万葉集』4321に「主帳丁(ふみひとのよぼろ)麁玉郡若倭部身麻呂」のうたが載っている。

 わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影(かご)さへ見えて 世に忘られず

 この「若倭部」と「若倭神社」についての研究が、夏目隆文『萬葉集の歴史地理的研究』宝蔵館、1977年、355ページ、「第2部第2章 幻の「若倭神社」は実在する」(p233~241)に書かれているので、参照して欲しい。

 夏目隆文さんが推定する若倭神社は、浜北区宮口字新屋の八幡神社です。ぼくも、ほぼ間違いないと思います。