古代ブログ 29 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 16の補足 北区都田町の「平八稲荷」 その②
「古代ブログ 28 浜松の遺跡・古墳・地名・寺社 16 北区都田町の「平八稲荷」と豊川稲荷の謎 <81の再録>」を書きました。
手元にある地元の戦前から民俗雑誌「土のいろ」の復刻版に「平八稲荷」のことが掲載されています。
『土のいろ 集成 第12巻』(ひくまの出版、1988年10月)の「復刊 第二十五号=通巻108号 昭和40年8月発行」のp78~79に、富田準作著「平八稲荷」が掲載されています。
簡単に言うと、今から約700年前に中国から九州に帰る寒巌禅師という人が海上で霊感を受けて彫り上げた彫刻が稲荷ダキニ天である。
それから5代のちの寒蔵和尚が浜松へ来て開いた寺が普済寺だ。
さらに80年経って普済寺が戦乱で炎上、稲荷ダキニ天は人間の姿に変化し、いまの都田の地に移住し、平八と称して世をすごした。
平八稲荷が建てられたのは、1936年、昭和11年11月11日のことである。それは蛇屋や骨董屋へたたりがあったためそれをはらうためということである。
詳しいことは、これから調べてみるが、おもしろい話だ。
いったい寒巌禅師は九州のどこにいたのだろう。寒蔵和尚は、なぜ浜松へ、それも普済寺へ来たのだろう。戦乱で普済寺が焼け落ちたのは、いつの話か。
ほかの「平八伝説」をみると、どう考えても、この「平八伝説」は異質です。別系統のものと考えるべきでしょう。
信憑性も問題になるように思います。もっと調べてみようと思います。