雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 12月25日(日) 全国的に雪のクリスマスと30万ヒット達成

2011年12月25日 21時09分17秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月25日(日) 全国的に雪のクリスマスと30万ヒット達成

 太平洋側でも雪の降っているところがあります。浜松でもさっき、午後7時頃、名古屋の方から来る雲で、すこし雪が降りました。風が冷たかったです。いまはやんで、☆が出ています。

 夕食のあと、次女が買ってきてくれたケーキを食べました。メリー、クリスマス。

 いま午後9時11分ですが、アクセスカウンターを見たら「300185」で「30万ヒット達成しました。いつも見に来て下さる方、いままで見て頂いた方、ありがとうございます。これから未来に、見に来て下さる方のためにも、充実したブログにしていこうと思います。これからも、よろしくお願いします。

 いま則子さんはテレビでスケートを見ています。

 ぼくは10時からNHKテレビで「津浪」の特集を見る予定です。

雨宮日記 12月24日(土) 年賀状も出したし、今日はパブコメ書き

2011年12月25日 21時02分21秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月24日(土) 年賀状も出したし、今日はパブコメ書き

 今年はなんともう雨宮夫婦の年賀状「初春新報 35号」(25日までに郵便局に年賀状が元旦に届く)百通未満を出してしまいました。毎年、年末年始は年賀状印刷とあて名書きで追われるので、今年は楽です。

 今日は26日までに出さなければいけない浜松市へのパブリックコメント「家庭ごみの制度統一について」の意見を書きました。

 細かく割って、けっきょく10項目、A4版で2ページになりました。則子さんは「どう書けばいいの」と悩んでいましたので、書かないかもしれません。こういう場合、代筆はしませんので。

 日本海側は寒波で大雪です。


浜松・放射線量測定情報 自宅定点 12月23日(金)、24日(土)

2011年12月24日 21時12分07秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 自宅定点 12月23日(金)、24日(土)

 12月23日(金)15時35分、自宅駐車場A地点、安定後10回測定、天気晴れ、寒い、微風

 平均値 0,050μSv/h
 最大値 0.052μSv/h
 最小値 0.048μSv/h

 12月24日(土)クリスマス・イブ 自宅駐車場A地点、安定後10回測定、天気晴れ、風強い
 
 平均値 0.047μSv/h
 最大値 0.051μSv/h
 最小値 0.044μSv/h

 全国的なデータでは、日本海側で22日から23日に、放射線量がすこし増えています。太平洋側は変動がないようです。

 つまり、まだ福島第1原発からの放射性物質の放出は止まっていないんですね。どこが「収束」なんでしょうか。

 

雨宮日記 12月23日(金) 冬至の日、則子さんは掛川へ原告団会議

2011年12月23日 22時26分00秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月23日(金) 冬至の日、則子さんは掛川へ原告団会議

 冬至の日です。朝は非常に寒いのに「旗日」だからか、道路は車が多くて、とくに代行運転が多くて後ろにぴたっとついてあおるので、かなりたびたび、左へよけて「お先へどうぞ」としました。
 
 そういうときにお礼の合図をしてくれる車があるとうれしいですが、やはりあまりないですね。

 家へ帰って、寝て午後起きると、すでに則子さんは、浜岡原発裁判の第1次から第4次までの原告が集まる会議に浜松の事務局として出かけました。

 午後6時頃帰ってきましたので、その前に父と夕食をあるもので暖めて食べてしまいました。

 帰って来て、いろいろ話を聞きました。東海道線で眠り込んでしまい、金谷駅まで行ってしまって、会議の場所についたのは始まる2分前だったそうです。

 「知らない人が半分以上」と言ってました。

 第1次から第4次までの静岡地裁浜松支部に提訴した原告団の全体の連絡会と県段階での支援組織を作ることで合意しました。

 ブログを作ることも提案し、承認されましたので、1月1日くらいに開きたいと思います。

 

 

原発ニュース 12月 男性も女性も原発反対が多数派に

2011年12月23日 21時35分31秒 | 地震・原発・津波・防災情報
原発ニュース 12月 男性も女性も原発反対が多数派に

 家でとっている「朝日新聞」の12月12日号の(3)面に「原発利用「反対」57% 世論調査」という小さな4段の記事が載っていましたので紹介します。

 男女合わせた全体で、今年4月でも反対は3割、賛成は5割で、それが全体として6月下旬に初めて反対が賛成を上回りました。

 以後、反対は少しづつ増えて10月に48%になりましたが、12月にさらに増えて57%に、賛成は10月までずっと30数%台ですが、12月に初めて30%になりました。

 これまで賛成が多かった男性も10月に反対38%、賛成47%でしたが、12月に反対が49%、賛成43%と逆転しました。

 将来の脱原発については賛成が77%、放射性物質への不安は67%です。



浜松・放射線量測定情報 12月21日(水) 果てしなき監視決意

2011年12月22日 05時42分24秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 12月21日(水) 果てしなき監視決意

 浜松市中区十軒町、雨宮自宅のコンクリ駐車場A地点。今日の放射線量、午後2時25分。20回表示後の10回を測定。

 平均値 0.051 μSv/h
 最大値 0.053 μSv/h
 最小値 0.047 μSv/h

 小松左京さんの小説「果てしなき流れの果てに」でいうと、どこまで、測定するのか、ですけど。

 ① 浜岡原発も福井の原発群もすべて停止するまで
 ② なにか重大事故があって浜松から逃げないといけなくなるまで
 ③ ぼく(雨宮智彦)が病気や事故や老齢化で測定できなくなるまで

 何年続くのか、あるいは何十年続くのか、ぼくは今、60才ですので、最大限であと20年ですか?

 このgooの無料ブログが、いつまで続くのか、いつまで無料なのか、ということもありますね。

 毎日測定、当分は続けます。


 

本と映像の森 180 NHKラジオ深夜便で、さだまさしさん「母を語る」

2011年12月22日 05時18分42秒 | 本と映像の森
本と映像の森 180 NHKラジオ深夜便で、さだまさしさん「母を語る」

 さだまさしさんの作る歌は曲調としては好きなのですが、「関白宣言」が嫌いだったので、何となくじっくり聞きそびれていました。

 NHK第1ラジオ深夜便で、さださんの「母を語る」という番組を運転しながら聴いて、かなり感動しました。

 「いのちの理由」という歌も,感動。「私が生まれてきたわけは」と始まり、4連目で「私がうまれてきたわけは、愛しいあなたに出会うため」です。

 ジーンとしました。僕が生まれてきたわけは、則子さんに出会うためだったんだ!

 さださんは長崎育ちで、来年還暦の60才です。ということは、僕とほぼ同じ、1つ年下です。

、3才8ヶ月からバイオリンを習い始め、かなり器用で早熟な子どもだったのでしょうね、中学生でコンクールに入選、高校から単身で東京へ下宿しますが、音楽大学の受験に学力で失敗、両親の希望とは違って大学法学部に入りますが、大学を健康も害して挫折、中退して長崎にひとり帰ります。

 ところが帰った長崎で昔の仲間と出会い、音楽グループ「グレープ」を結成して出したレコードが大ヒットして音楽の世界に旅立ちます。

 これって、名古屋に行って大学を中退して、浜松の家にしばらく帰って,沖縄に行こうと思っていたけど、浜松で則子さんに出会ってしまったぼくと同じですね。

 さだ「なにが同じだ?」

 あの70年代初めの時代の感覚は、あれから40年たった今では、なんだか夢のような気分ですが、一度は理論的に問い直さないといけないのでしょうね。

 ぼくの則子さんも、浜松で保育園の保母になってから、なぜか滋賀県の障害児施設に転職、そして伊豆の駿豆学園という障害児施設へ移ってから、浜松へ戻ってきた時に、ぼくに出会ってしまったのでした。

 だから、さださんと時代的には並行したお話です。

 雨宮夫婦の話は、また書きたいと思いますが、さださんの歌をもっと聞きたいと思います。


 

雨宮日記 12月20日(火) 何度、三浦橋を則子さんと渡ったかな

2011年12月21日 05時22分58秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月20日(火) 何度、三浦橋を則子さんと渡ったかな

 二人でいっしょに出かける時は、自宅からマイカー(「あるとないとでは大違い」という「スズキ・アルト」)で出かけるか、遠鉄電車の曳馬駅から電車で出かけるか、あるいは遠鉄タクシーでいくか、の3つぐらいです。

 今日は、夜の会議に二人で参加するので、自宅から午後6時20分頃に二人で歩いてでかけました。

 ここに引っ越してきてから、20数年、何回、この三浦橋を渡ったでしょうか。

 こういう冬は、甲高いヒドリガモの声や、低いカルガモの声を聴きますが、今日は、あまり聞こえません。

 曳馬駅で遠鉄電車に乗って、遠州病院駅で降りて、東へ歩き、北へ歩き「はままつ共同法律事務所」のビルの3階にある会議室で、浜岡原発裁判の原告団の打ち合わせに参加しました。

 狭い会議室をいっぱいにした20人くらいが参加する、すごく白熱した会議で、ぼく(雨宮智彦)と彼女(雨宮則子さん)は、原告団事務局になりそうです。

 則子さん、いいよね?

 則子さんは「智彦くん、突っ走らないように」と言ってますが。

浜松・放射線量測定情報 12月20日(火)午後 自宅定点A地点

2011年12月21日 05時18分35秒 | 地震・原発・津波・防災情報
浜松・放射線量測定情報 12月20日(火)午後 自宅定点A地点

 12月20日(火)14時08分、自宅駐車場A地点。晴れ、風あり。20回経過後、10回計測。
  平均値 0.050
  最大値 0.054
  最小値 0.045

 

雨宮日記 12月19日(月) 「金正日さん急死」の2、独裁者と独裁体制

2011年12月21日 04時59分26秒 | 雨宮日誌
雨宮日記12月19日(月)「金正日さん急死」の2、独裁者と独裁体制

 金正日さん急死の報道で、新聞を見て、テレビを見て(まだネットはきちんと検索していませんが、一部で「死亡原因の疑惑説」も出ているようです)感じたことは、強硬な軍事的独裁者としての金正日さんについては詳しく報道していますが、それを下から支えた「独裁体制」についての分析を見ていません。

 「先軍体制」という言葉は出ていますが、その本当の意味についてマスコミでは出ていないように想います。

 そして「階級成分」「敵対階級」という言葉を考えない北朝鮮論は無意味であると想います。
 
 「先軍体制」「階級成分」「敵対階級」については、前回に述べた萩原遼さんの『金正日 隠された戦争』文春文庫、を参照してください。

 同書を読むと、ソ連・東欧の「偽りの社会主義体制」の崩壊、とくに北朝鮮と仲の良かったルーマニア・チャウシェスク夫妻の処刑の意味と、北朝鮮が「金王朝」の生き残りをかけた「核兵器保持の公表」(核兵器開発ではありません)の意味がわかるように思います。

 ただ、この「金王朝」「社会主義」を看板にしていた(最近はどうなのかわかりません)「封建王朝」は、僕たちと無関係なのではなく、たとえば戦前の絶対主義的天皇制・戦後のオウム教団、連合赤軍など,命をそまつにした諸団体を考えることが不可欠だと思います。

 そして僕が思うのは、こういう北朝鮮の体制を支えている中国の「体制」というのはほんとうに「社会主義をめざしている」と言えるのかどうか、です。

 それは中国の体制が,スターリンさんや毛沢東さんの呪縛からどこまで逃れられるかどうか、ということだと思うのですが。もしかしたら、無理ではないか、とも感じます。

 そんなことはない!という反論は歓迎します。

 
 

雨宮日記 12月19日(月) 衝撃の「金正日さん急死」

2011年12月20日 05時02分36秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月19日(月) 衝撃の「金正日さん急死」

 僕が知ったのは夕方のニュースをテレビでつけたら、いきなり「金正日(きむじょんいる)」さん死亡の番組でした。

 ここ数年、脳梗塞などの報道もあり、映像でも顔がやせこけた映像で確かに健康ではない!でも、独裁者の致命的な欠点である「代わりはいない」から、病気でも死にそうでも「現地指導」に行かなければいけない。独裁者は可哀相ですね。

 まだ詳細な報道は検討していませんが、「移動中の列車で」いきなりの急死で「急性心筋梗塞」という報道です。人間は、みんな死ぬと心臓が止まります。

 だって、医師団はついていなかったのか?医療は尽くされたのか?

 金正日さんのお父さんの金日成さんも急死でした。金日成さんは、医師団もいない「別荘」で夜中の午前2時に急死しました。

 2代続けて急死というのは、どうなんでしょうか。

 可能性としては、① ほんとうに医師がまにあわなかった病死、② 病気あるいは発作を放置して死亡、③ クスリや銃器を使った暗殺、でしょうか。

 まあ実在性としては①でしょうけど、もしかしたら…という推理小説ができてしまうのが、独裁国家なのですね。

 金日成さんの場合には、ジャーナリストの萩原さんが『金正日 隠された戦争』(文春文庫、在庫有ります)でリアルに追求しています。これが正しいかどうかは、ぼくは検討資料がないので賛否は保留しておきますが、絶対に読むべき本としてお勧めです。はぎわらさんの本が正しいと言っているのではないですよ。検討資料として読んで、自分で判断しなさいということです。



 
 

本と映像の森 179 NHKラジオ深夜便で野口雨情さんのこと

2011年12月19日 05時14分15秒 | 本と映像の森
本と映像の森 179 NHKラジオ深夜便で野口雨情さんのこと

 12月19日(月)早朝の午前4時からのNHkラジオ「深夜便」で、詩人の野口雨情さんのお孫さんの野口ふじこさん(漢字は不明)のお話を聞きました。

 有名な「しゃぼん玉」の歌詞は、実は野口雨情さんの娘さんが幼いときに亡くなって、そのことから人間の命のはかなさ、尊さを歌った歌詞なのだそうです。

 ネットで検索すると諸説いろいろ別れているようです。

 そう言われれば、そうかな、とも思います。素敵な解釈ではないかと。

 シャボン玉飛んだ
 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで
 こわれて消えた

 シャボン玉消えた
 飛ばずに消えた
 産まれてすぐに
 こわれて消えた

 風、風、吹くな
 シャボン玉飛ばそ

 (著作権は1995年に失効していますので、コピー自由です)

 すごい衝撃的だったのは、野口ふじこさんは、茨城県の海岸にある野口雨情さんの生家を守っていたのですが、あの3月11日の日、朝から出かける用事があったのに、なぜか、家を空けてはいけないという衝動にかられて、その予定を断ってしまったそうです。

 その生家は1階に野口雨情さんの残した文献や資料をおいてあって、2階はふじこさんが住んでいたようです。

 その運命の日、午後2時46分大地震で、慌ててFMラジオを付けたふじこさんの耳に、「津浪が来ます」というアナウンサーの声が。
 
 ふじこさんは、1階にある雨情さんの資料を必死でぎりぎりまで2階に運んで放り投げ、を繰り返し、最後に最重要な雨情さんの手紙をリュックに背負って、必死で裏山に逃げました。

 ふじこさんは無事で、生家はさいわい、一階だけが高さ1.5mの津浪でやられましたが、2階に運んだ資料は「全体の80数%」無事だったそうです。

 なんなんでしょうね。ぼくは、そういうことって、あるのかもしれないと思いますが、そんなことは「科学的」ではないと、青筋立てて批判する人もいるでしょうね。

 ぼくは「わからない」ことは「わからない」というのが科学的な態度だと思いますが。

 今日の番組を聴いて思ったのは、野口雨情さんは「日本のゴーリキー」かもしれない、ということ。「船頭小唄」は「おれは河原の枯れススキ」という詩ですが、まさにゴーリキーの「どんぞこ」の世界ですよね。

 もっと野口雨情さんのことを探索したいです。
 
 蛇足ですが、野口雨情さんは、浜松にも来ていて「曳馬の萩」という題で「スイッチョ」のことを書いています。


 
 





雨宮日記 12月16日(金)夜 寒い夜の仕事に則子さんが心配して

2011年12月17日 05時29分31秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月16日(金)夜 寒い夜の仕事に則子さんが心配して

 今日は夜、寒波ですごく冷える天気予報で、午後11時過ぎ、仮眠から起きて下へ降りていったら、則子さんが「起きれた?今日は冷えるから、その格好じゃだめよ」と。

 「温かいお茶持って行きたいけど」
 「時間ある?」
 「事務所にいったあとで寄るから玄関に置いといて」
 「いいよ、置いておく」

 こういう細かな心配というか、心配り、基本的にはすごくうれしくてジーンとします。則子さんが3才年上だし、姉と弟みたいな感じで、ぼくも基本的生活能力ないので、則子さんに頼っています。則子さんには「ぼくより先に死なないでね」とお願いしています。

 仕事にでかけて、その途中、家に寄って玄関を開けたら、則子さんが起きてきました。ありがとう。

 則子さんに感謝して,今日の仕事を始めました。

 
 

原発ニュース 12月16日、なんと「収束宣言」「冷温停止宣言」だって?

2011年12月17日 05時09分51秒 | 地震・原発・津波・防災情報
原発ニュース 12月16日(金)、なんと「収束宣言」「冷温停止宣言」だって?

 野田さん(注:日本の首相)が「収束宣言」「冷温停止宣言」しました。

 「冷温停止」というのがホンマかいなと気になって(我が家の十軒町には「本間」さんという家がたくさんあります)、すこし政府や東電や市民のネットを検索してみました。

 わかったのは、政府は原子炉圧力容器の底の温度を測って、それが100度を切り、誤差を20度として80度以下になったら「冷温停止」だとしていることです。

 つまり、溶け落ちた核燃料自体の温度を測っているのではないのです。それどころか、原子炉内が高濃度の放射能で立ち入れないのだから、そもそも溶けた核燃料がどこに、どれくらい、どういう状態であるのかも、実際には確認していないのです。

 そもそも圧力容器の底をどうやって測っているのか、ということもありますが。実際に測っているとしても、これは「圧力容器底部冷温宣言」であって「溶融核燃料冷温宣言」ではありません。

 事態は、多くの科学者・ジャーナリストなどが指摘しているとおりだと思います。

 ① まだ溶融露出した核燃料の具体的な位置や状態も温度もわからない
 ② 原子炉は放射能が漏れているままで閉鎖できていない
 ③ 冷却用に注水している水はどこで漏れているかわからない
 ④ まだ原子炉は高濃度放射能で近づける状態ではない

 これで「冷温停止」とは?

 たぶん、圧力容器と格納容器のどこかで、溶けた核燃料が折り重なって,外側は注水した水で温度が低下して固体になって、中はまだ高温でドロドロ・・ではないですか?

 中まで冷えてればいいですけどね。

 こういう場合に、放射性元素の崩壊熱でどうなるか、という専門家の科学的予測が欲しいですけど、まだ見付けていません。

 野田さんは「収束宣言」ではなくて、これで安心だから、もう明日から福島原発のニュースを新聞に載せるな、テレビで流すな、という「終息宣言」をしたかったのでしょうね。

 これを書いて(打って)いて、なんだか無性に怒りがこみ上げてきました。午前5時半で則子さんも寝ていて話ができないので、自分のなかでぐるぐる循環して、野田さんに抗議文を出したくなりました。

 これを見ているあなた!とにかく自分で行動しましょう!

 雨宮夫妻の行動の3原則
 
 ① やるべきことをやる
 ② やれることをやる
 ③ やりたいことをやる

 

 

雨宮日記 12月15日(木) 則子さんは自死した木村さんの判決へ

2011年12月16日 04時59分55秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 12月15日(木) 則子さんは自死した木村さんの判決へ

 今日は、昼間、静岡地裁で、7年前に小学校の教員になった年に、勤務して半年でうつ病から自死に追い込まれた木村百合子さん(当時24才)の裁判の判決でした。

 ずっと支援する会のニュースを則子さんに郵送してもらっていたので、ぼくも読んでいました。

 経過から言うとこうなります。

 木村さんは、新任で磐田の小学校4年生のクラス担任になりました。ずっとなりたいと思っていた教師生活は、思ったより過酷で、とくに生徒のトラブルが多発して、判決では「立て続けに強いストレスにさらされ、適切な支援も受けられかなった」と。

 つまり、問題・トラブルだけではなく、周囲の同僚・先輩・学校からの「適切な支援」が受けられなかったということです。

 判決は「支援という方向での検討が一切見受けられないことは大きな問題」と指摘しています。「支援」どころか、先輩や管理職から「おまえの指導が悪い」的な、心ない批判を受けていたのです。

 夏休みのあと、緊張の秋の始まり、保護者の苦情が引き金になって、木村さんは楽になりたいと、車内で焼身自死に追い込まれました。

 この4年間、則子さんも僕も航空自衛隊浜松基地自衛官人権裁判の支援をしていたので、木村さんの裁判は気になっていたのですが傍聴にはいけず、最終の判決に、則子さんがやっと参加しました。

 台所のメモに「4時半頃帰ります」とあるんだけど、中谷家の夕食時刻の5時半にも姿はないので、しかたなく則子さんの作った煮物を温めて、あるおかずを並べて、なかったお汁をタマネギとネギで作って、父と2人で食事しました。

 午後6時前から、テレビをあちこちチャンネルを変えて、ニュースを探ったのですが、ヒットする前に玄関がガチャッとして、則子さんがやっと帰って来ました。

 「ごめん、遅くなって。夕食作るね」というので

 「夕食はもう2人で食べた。どっち_?!」

 「勝ったのよ」

 うわ!すごい!夫婦2人で抱き合って喜びました。

 「テレビのニュースを探すから、見付けたら呼ぶからね」

 あ!これだ!

 見ると、見ると裁判所に入っていくおなじみの映像。旧知の塩沢弁護士や県評の橋本さんの顔が見えます。

 法定内を写す映像を見てびっくりしました。右側の被告席に誰もいない!なんていう被告でしょうか。

 被告は「地方公務員災害補償基金静岡支部」と言います。

 教師も生徒も生きているときに守られないし、死んでも守られないんじゃないでしょうか。

 すごく切ないです。悲しいです。

 命を守ろうとする人がすこしはいることを、確認できた今日の判決でした。

 こういう動きを拡げていきたいと思います。

 人間と命を守ることが基本で、ぼくたち二人がずっとやってきた原水協の運動も、生態系と環境をまもる「ごみかん」の運動も、これから始める原発反対の運動も、同じ地平から出ていると思います。

 強制する気もありませんが、賛同してくださる方、いいねと思って下さる方と、論議して、やれることをやっていきたいです。