雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 2020年8月19日(水) 「俳句の日」です

2020年08月19日 22時31分01秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年8月19日(水) 「俳句の日」です




 今日も暑いので、午前は2階にいたけど、午後は1階の台所に降りた。居場所を変えるのは則子さんにお願いしてパソコンや付属品を運んでもらわないといけない。


 だから何かするのに、ボクはすぐできるというわけではない。


 本日は8月19日なので「俳句の日」だそうです。


真夏にはショパンが涼しいね協奏曲1番

猛暑の庭にアブラゼミが落ちている


青い銀河とオレンジの花 断片 4 帰郷と出会い ① 20200819

2020年08月19日 08時15分18秒 | 雨宮日誌

青い銀河とオレンジの花 断片 4 帰郷と出会い ① 20200819


 浜松へ帰ろうと思ったとき、自分の青春時代はこれで終わりかと思った。ところが、まったくそうではなく、それからが自分にとっての本当の青春時代の始まりだった。


 名古屋勤労市民生協の仕事を辞めて、浜松の実家へ帰っては来たのは1976年(昭和51年)の4月だった。


 自分の荷物は主に本や家具だが、名古屋から市民生協の仕事用のトラック「ホーマー」を借りて浜松まで運び、いったん名古屋に戻り、自分の愛車、中古でたしか10万円くらいで買った小さな軽自動車「ホンダZ」で自宅に戻った。自宅には車1台しか駐車スペースがなかったので、南部にいる親戚のKさんの空き地に置かせてもらい、そのうち業者にタダで引き取ってもらった。


 「ぶらぶらしてるなら、本屋の仕事手伝え」と父に言われて、当面、他の予定はなかったので、少しの小遣いをもらって、本屋の仕事を手伝い始めた。


 実家は松城町の、昔の動物園入り口、今の美術館入り口の前にあった。父が『落葉松(からまつ)』に書いたように、坂道の横にある小さな三角スペースだったが、それまで借家生活だった雨宮家にとっては初めての持ち家だった。


 三角地なので、父が知恵をこらして設計したのだと思うが、1階の前面の3分の2くらいが本屋の店舗で、左に車庫があった。元からの車庫ではなく、ここに新町から引っ越してから、車を新しく買った時に、家を改造してぎりぎり普通車が1台入る車庫を作ったのだ。


 だから車を出し入れするのに細心の運転が必要で、しかも右側を車庫にこするくらいの感じで入れて、やっと運転手が左側からでれるという状況だった。


 映画「2001年宇宙の旅」で冒頭の、「美しく青きドナウ」がバックで流れるシーン、細い宇宙船が地球上空に浮かぶ宇宙ステーションの入り口に侵入するあのシーンのようなものだ。


 元は玄関だった部分を、後から車庫に改造したため、本屋の営業時間以外は、家へ出入りするのに、車の横の1人通れるだけの空間を通って出入りした。1階は本屋の部分とその奥の、父と母の居間兼食堂、居間から外へ通じる廊下、トイレ、台所、お風呂場、小さな客間から成っていた。


 2階は3部屋あり、真ん中の部屋は客間にしていて、階段に近い部屋は妹が、奥の部屋は5年間いなかったボクが使わせてもらうことになった。階段を登り切った左に扉があって、物干しに出ることができた。物干しからは同じ高さくらいの坂道へ直接降りることもできる近さだった。1度も降りたことはなかったが。


 昔は大家族だったし、この頃には兄も名古屋で結婚して家へ戻らないので、父と母と妹とぼくという4人家族だった。
 


過去現在未来のメモリーノート 90 組織論③ 組織や個人を2分法で見るな 20200818

2020年08月18日 21時26分52秒 | 雨宮日誌


過去現在未来のメモリーノート 90 組織論③ 組織や個人を2分法で見るな 20200818


このごろ特に思うこと。


 組織や個人や現象や事件を「正義か不正か」「正しいか誤りか」「官僚制か民主制か」「善人か悪人か」「AかBか」の2分法または3分法または形式論理学で論じる人がいること。


 これはもちろん「弁証法論理学」つまり「AでBでC」で論じるべき。つまり限りなく精細なスペクトルがあるのを見るべきと感じる。


 日本共産党も、すべての組織も、「100%官僚制か100%民主制か」ではなく、その混合物だとボクは思う。


 プロレタリアートや革命はつねに正しいのではないと思う。


 


雨宮日記 2020年8月17日(月) 本日41.1度、日本1

2020年08月17日 21時05分23秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年8月17日(月) 本日41.1度、日本1


 うれしくないが浜松が日本1。というか日本最悪。本日41.1度。


 暑いなかで扇風機2台まわしてビデオ編集。被爆者の証言紙芝居「たーちゃんのヒロシマ」のビデオ版を完成。これからDVDにする。


 2階と玄関の部屋にエアコンを入れたいので電気屋さんに見に来てもらう。たぶん9月に入るかどうか。


 明日から少しは涼しくなって欲しい。


 今日は夕方になってすこしセミが鳴いた。



雨宮日記 2020年8月16日(日) 日本でいちばん暑い浜松

2020年08月16日 21時48分28秒 | 雨宮日誌






雨宮日記 2020年8月16日(日) 日本でいちばん暑い浜松


 びっくりしたのは浜松市天竜区船明(ふなぎら)が全国トップで40.9度、同じく浜松市中区が40.2度。異常な超夏です。


 おかげでボクは昼閒は午前も午後も台所ですごし生き抜きました。


 今日は、ほとんどセミが聞こえない。たぶん暑すぎてセミも鳴く元気がないのか。蚊がほとんど見えないのも同じか。



雨宮日記 2020年8月15日(土) 敗戦の日

2020年08月15日 20時04分08秒 | 雨宮日誌


雨宮日記 2020年8月15日(土) 敗戦の日


 「終戦の日」といっているが「敗戦の日」だと思う。


 今日も浜松は全国のトップを切って暑い。「全国のトップを切」らなくていいんだけど、船明で39.7度。あと0.3度で40度になってしまう。


 今日はさすがに命が惜しくなり、午後、1階の台所へパソコンを下ろして作業をそこでやった。


 いまは午後8時、2階のいつもの自分の部屋にもどったが、明日は朝から夜まで台所にいるつもりです。


 



雨宮日記 2020年8月14日(金) 父の往診日 

2020年08月14日 20時34分14秒 | 雨宮日誌




雨宮日記 2020年8月14日(金) 父の往診日 


 浜松は37度?(天竜区?)。


 則子さんお寺へお盆でいってくる。お盆なのにおしょうさんはいず、何か異常事態なのかわからない。


 父の往診日なので夕方、佐藤町の先生来てくれる。父の今後のことを話す。とにかく始まり。


 父「ぜんぶ済んだ?」


 則子さん「うーん…」


 ボクの独り言「ぜんぶ済んだといえるのは、いつのことか」


 「終わり良ければすべて良し」とも言いますね、でもその終わりというのはいつのことか。



新・本と映像の森 345 佐多稲子『渓流』講談社文庫、1974年

2020年08月14日 10時15分38秒 | 雨宮日誌


  
新・本と映像の森 345 佐多稲子『渓流』講談社文庫、1974年


 254ページ、定価240円。浜松市立図書館蔵書。


 原書は1963年7月より12月まで雑誌『群像』に掲載。1964年1月講談社より刊行。


 著者は戦前からの小説家。日本共産党員だったが1964年10月、除名された(このことにつていては別途書くつもりです)。


だから著者にとっては共産党除名直前の長編小説となる。では「自分が除名になるかもしれない」という予兆はあるか?あろといえばある。


 でもボクが読んだ感じでは「これから自分が大それたことをする」という高揚感はなぜか無い。


 小説が扱う期間は1950年から1955年までの5年間、とくに著者が「50年問題」による共産党の分裂で一方の側から除名されてからそれが解かれるまでの時間だ。


 「解説」で長谷川啓さんは「端的にいうならば、共に、生の第一義に置く“関係”が崩壊に瀕した時の自立、「くれない」は夫からの、「渓流」はパルタイからの自立である。」(p229)と言っている。


ボクは「自立?孤立ではないか」と感じた。


 自立には孤立の側面が不可避的にともなう。連帯には癒着の側面が不可避的に伴う。
そのことを忘れないようにしたい。


 だいたいにおいて主人公安川友江さんの行動と思考はボクにもよくわかり、だいたい賛同できる。


 ただ具体的に共産党員安川友江さんの細胞会議(いまでは支部会議という)の場面がまったくないのはなぜかわからない。


 もう一つは「文学団体」の論争で一方の旗頭の宮本顕治さんの作品内の名前すらあげていないのは不自然です。安川友江さんは宮本顕治さんの党と文学団体とのかけもちを批判しているが、当時の執筆物の検証が欲しい。


 最後に蛇足になるが、たぶん中野重治さんの作品内名「田村康治」は、中野重治さんの長編小説『甲乙丙丁』の主人公「田村」に接続しているのだろうか。





ことばと詩 36 則子さん語録 ① 「捨てるのは大変よ」 20200813

2020年08月13日 21時11分27秒 | 雨宮日誌
ことばと詩 36 則子さん語録 ① 「捨てるのは大変よ」 20200813


 妻の則子さんの語録、その1 「捨てるのは大変よ」


 たしかに、たとえば「夫を捨てるのは大変よ。いやそうじゃない。


 2階の隅にある「タンスを捨てるのは大変よ」。


 いま雨宮家ではいろいろ捨てるのに労働しています。



雨宮日記 2020年8月12日(水) 暑いよー

2020年08月12日 15時50分38秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年8月12日(水) 暑いよー  暑いよー.午後はパソコンの部屋が西日があたって暑くなるので、ボクは退避する。  きのう新しいHDD4テラを2つ買った。自分の文書ファイルや写真ファイルの整理を始める。たぶん1テラ以上になると思う。  本や紙とちがってスペースはとらないが、もしかしてこれがいちばん命よりも大事なのかもしれない。

雨宮日記 2020年8月11日(火) 父について深い相談

2020年08月11日 19時52分34秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 2020年8月11日(火) 父について深い相談  ビデオ編集日。やっと7月19日の総がかり行動浜松のビデオ編集をする。完成できず次回に回す。映像編集について、いろいろ相談。  夜、則子さんと父の介護について深い判断。いくつか具体化していきたい。

年譜 雨宮智彦 第0.5版 20200809 B

2020年08月10日 18時30分25秒 | 雨宮日誌
年譜 雨宮智彦 第0.5版 20200809 B


 2000年(平成12年) 


2000.11. 9 逆転勝訴判決(東京高裁822号法廷)
ただちに労働省へ控訴するなの申し入れ
2000.11. 労働省は控訴せず、勝訴確定


 2001年(平成13年)  50才


 1月14日  浜松労災打ち切り撤回裁判勝利祝賀会<浜松・王府>
 9月 1日  ☆アメリカで9・11航空機同時多発テロ


 2003年(平成15年)  52才


  冬    浜松市議選・村松幸久選対に入る
 3月 則子さん、たんぽぽ保育園園長をやめ退職
     12月21日 HP「ピース浜松」開設


 2004年(平成16年)  53才


 3月 7日 「美しく安全な中田島を 遠州灘海岸のゴミと浸食を考えるシンポジウム」       坂巻幸雄・しまづ幸広・鈴木善二郎・馬塚丈司
 8月    労災裁判誌『なのはな』完成


 2005年(平成17年)  54才


 1月 1日 天宮智彦HP「遠江と日本 古代史の森」開設
 1月17日 「遠江と日本 古代史の森」に「遠江の「若倭部」」アップ
11月    浜松市平和委員会の役員を降りる(2014年秋に復帰)


 2006年(平成18年)  55才


 5月   「資本論全文を読む会」(月2回)を火曜・日曜の2コース始める


 2007年(平成19年)  56才


       母光子逝去


 2008年(平成20年)  57才


 4月 2日 「遠江と日本 古代史の森」の最終ページ「遠江古代史日記1 昨年12       月に「浜松市文化財分布図」を発売」アップ
11月 2日 ホームページ「核兵器も戦争もない平和な世界を Peace浜松 ー        もう殺さないで これ以上地球を汚さないで ー」(fc2)最終更新


 2009年(平成21年)  58才


11月11日 「雨宮智彦のブログ 歴史・人間・自然・宇宙・日誌」開始、最初の記事       が「遠州古代史1 浜松の神社の方向性」


 2011年(平成23年)  59才


 1月 6日 「里山ブログ」開始
 3月 4日 ブログ「里 かしのきとワインの日々 さと山と街を愛する日々の思をつ       づるダイアリー」の開始に協力
 3月11日 東日本大震災。マグニチュード9.0。
 8月  日 「里山」より別れて撤退を決め別れをつげる
 8月    則子「笠井 共生センター」を退職
 8月末   放射線測定器「堀場PA-1000」到着(上島の小西商店で12万円)
 8月21日 長女結婚式
 秋  智彦と則子、「浜岡原発永久停止裁判」第4次原告団に加わる


 2012年(平成24年)  60才


 1月23日月 ブログ「浜岡原発永久停止裁判 第4次原告団・弁護団・「静岡県西       部の会」共同ブログ」が立ち上がる
 3月23日金 HP(旧)「ピース浜松」(FC2)を閉鎖


 2013年(平成25年)  61才


 5月末   智彦、長く勤務した職場(深夜配送労働)を退職


 2014年(平成26年)  62才


 秋    浜松市平和委員会役員に復帰。事務局長代理になる


 2015年(平成27年)  63才


 冬    ビデオチーム復活
11月   信和、日本平和大会in富士山<御殿場市>に参加。ビデオ撮影


 2016年(平成28年)  64才


 2月27日 土 浜岡原発パンフ完成。編集長として編集に当たる
 5月 6日 金 深夜11時半ごろ、脳出血。則子と救急車で精霊住吉病院へ
 8月  日   リハビリ病院を退院、自宅へ
 8月27日 65才になり国民年金をもらい始める


 2017年(平成29年)  65才


     ビデオ編集を自宅で復活


 2018年(平成30年)  66才


 3月 1日 初めて浜松外に外出。ビキニデー集会<焼津>でビデオ撮影
 5月30日 平和行進通し行進者に浜松基地ガイド
 7月  日 大西広講演会<福祉交流センター>でビデオ撮影
 7月22日 日 浜松市平和委員会総会(不参加)で理事に復帰
 9月30日 日 台風で初めて停電。19時間後に復旧


 2019年(平成31年)  67才


 3月 1日 ビキニデー集会<焼津>でビデオ撮影
 
 2020年(平成31年)  68才


 1月    父、在宅診療に移る
 3月 1日 ビキニデー集会、コロナウイルス危機で中止


 < 以下不明 >



年譜 雨宮智彦 第0.5版 20200809 A

2020年08月10日 18時22分58秒 | 雨宮日誌
年譜 雨宮智彦 第0.5版 20200809   A

 < まだ不充分 >

 1951年(昭和26年) 


 8月27日 山口県光市で誕生。父・節三、母・光子(旧姓・安藤)。兄・由利夫。


 1952年(昭和27年)  1才


 ◇山口県から父の実家の浜松市新町91番地(林泉書房)に移住


 1957年(昭和32年)  6才


 4月    東小学校に入学


 1958年(昭和33年)  7才


 3月    林泉書房、新町から松城町(動物園前に)へ引っ越す
       元城小学校に転校


 1964年(昭和39年) 


 4月    浜松中部中(わが家の向かい)に入学




 1967年(昭和42年) 


 4月    浜松北高校に入学。地学部天文班に入る


 1970年(昭和45年) 


 4月    静岡大学受験に落ちる。宅浪。
       雨宮家、井口陸平さんのすすめで「赤旗日曜版」をとりはじめる


 1971年(昭和46年)  20才


 4月    名古屋大学文学部に入学。名古屋市昭和区川勝町に下宿
       「赤旗」日刊紙を自分からとりはじめる
 6月    日本民主青年同盟に加盟


 1972年(昭和47年)  21才


 4月    日本共産党に入党


 1973年(昭和48年)  22才


     名古屋勤労市民生協に就職。相生山店精肉部に勤務
    大学を中退




 1976年(昭和51年)  25才


  3月    名古屋から浜松に戻る
  4月    松城町の自宅に住み「林泉書房」を手伝い始める
        合唱団美樹のうたごえ喫茶<旧名鉄ホテルの位置>に出会う


 ◇合唱団美樹に入団


 1977年(昭和52年) 


 ◇浜松市平和委員会に入会


 1978年(昭和53年) 


 4月 1日 たんぽぽ保育園開園、伊藤則子は開園から勤務


 1979年(昭和54年) 


 2月11日 伊藤則子と結婚式<旧労政会館>
 2月    新婚旅行。京都へ1泊、沖縄へ。基地と城(グスク)を見て回る


 1980年(昭和55年) 


10月    浜松市平和委員会の機関紙「青い地球」を創刊(当初、手書き)


 1984年(昭和59年) 


 春~夏   日本原水協と日本平和委員会の激動


 1987年(昭和62年) 


 8月    仕事中に車にまきこまれる事故で足を傷め遠州病院に入院
11月    則子さん早産しかけて遠州病院に入院


 1989年(昭和64年・平成1年) 


 1月24日 ☆小野田さん、静岡地裁に鍼灸打ち切り撤回を求め提訴
 3月16日 ☆小野田第1回、原告冒頭陳述、傍聴18人
 6月10日 ☆「小野田さんの労災・はりきゅう打ち切り裁判を勝利させる会」結成        <労政>52人


 1990年(平成2年) 


 1月24日  ☆安藤さん・杉浦喜美子さん・杉山朱美さん、静岡地裁に労災全面打ち          切りで提訴
 5月12~13日 松城の家を売り、中山町のアパートに仮転居
(中山町87-2 中山コーポ301)
 5月14日  ☆小野田第7回公判、全面・小野田併合審理開始
 5月25日金 松城の家、引き渡し日
 6月21日  ☆「浜松労災打ち切り連絡会」発足(略称:連絡会)
12月     十軒町607-1の新居に引っ越す


 1991年(平成3年)


 8月23日  ☆「静岡県西部争議団連絡会(略称:西部争議連)」結成


 1993年(平成5年) 


 4月10日 土 鳳来寺つげの弾薬庫問題で浜松市平和委青年学生部現地調査
 4月30日 則子さん、たんぽぽ保育園園長になる
 5月18日 ☆連絡会を「浜松労災打ち切り撤回裁判に勝利する会」(略称:勝利する        会)に改組


 1997年(平成9年) 


       則子、浜松市原水協(原水爆禁止浜松市協議会)事務局長に選出
       智彦、それまでの事務局長から事務局次長に選出


 1998年(平成10年) 


 2月    ☆最終準備書面作成のための弁護団等合宿<サンビーチ江ノ島>
 3月 5日 ☆第37回、最終準備書面(188頁)提出、結審の予定だったが結審延        期
 5月21日 ☆第41回、結審
 9月24日 ☆判決予定延期


 1999年(平成11年) 


 2月 4日 ☆「浜松労災打ち切り撤回裁判の勝利をめざす決起集会」<静岡市労政会        館>、70人
 3月18日 ☆判決予定延期
 4月15日 ☆静岡地裁で全面打ち切り不当判決・敗訴
 4月27日 ☆東京高裁に控訴
 8月27日 「灰木最終処分場に反対する会」結成準備会<福祉文化会館>


青い銀河とオレンジの花 記憶 1 「知らんと死んだにゃ用はない」 20200808

2020年08月08日 19時45分39秒 | 雨宮日誌
青い銀河とオレンジの花 記憶 1 「知らんと死んだにゃ用はない」 20200808  今でも覚えていることばだが、直接にボクのおおばあちゃん(つまり祖母の母親)から聞いたものか、それとも家族からおおばあちゃんのよく使うことばとして聞いたのかはさだかではない。  おおばちゃんは長生きで90何才で亡くなった。  「知らんと死んだにゃ用はない」というのが常用語だったそうである。  ボクは今でも共感しますね。