ここは、追手町(おうてまち)10番街区、駿府城四ツ足御門跡のすぐ裏手
と言うより、早い話が新中町ビルの裏手の
旧静岡市中央保健所跡(現在は市立静岡病院の敷地内)です。
ここに1940年に建てられた「戸田茂睡生誕之地」という碑(いしぶみ)があります。
ここにあることは、以前から気が付いていたのですが
「戸田茂睡(とだ もすい)」という人を知りませんでしたので
(だいたいが「茂睡」の読み方さえ分りませんでした。)
格別関心を持つことなくやりすごしていました。
それが、図書館で静岡新聞社発行の「静岡県歴史人物事典」を
たまたま見ていたところ戸田茂睡が目にとまり
江戸初期の歌人として存外有名な人だと分ったしだいです。
それによる要旨は
駿府城主徳川忠長の家臣、渡辺監物の第6子として1629年駿府で生まれ
忠長が改易された際、父子ともども下野国、黒羽に流され
後に放免されて伯父である江戸の戸田藤右衛門の養子となり
戸田家を継ぎ和歌を好み風雅を愛した。
近世和歌の改革運動に先鞭をつけ
近世随筆文学の先覚者としても有名
「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などを著し
1706年に亡くなり、墓は台東区浅草二丁目の浅草寺奥山庭苑内にある。
駿府城主徳川忠長の家臣、渡辺監物の第6子として1629年駿府で生まれ
忠長が改易された際、父子ともども下野国、黒羽に流され
後に放免されて伯父である江戸の戸田藤右衛門の養子となり
戸田家を継ぎ和歌を好み風雅を愛した。
近世和歌の改革運動に先鞭をつけ
近世随筆文学の先覚者としても有名
「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などを著し
1706年に亡くなり、墓は台東区浅草二丁目の浅草寺奥山庭苑内にある。
と言うことです。
今までやり過ごしていた碑も
そういうことが分った後であらためて見てみると
なにやらありがたいものに見えてきます。(笑)
また、もし忠長が改易されなかったら
駿府で一生をすごしたのかもしれませんね。
↑
こちらは、近くの新中町ビル横のフウの木です。
やはり大概は緑のままか、単なる枯葉状態のいずれかですが
一枝だけやや赤くなっているものがありました。
暖かい静岡の市街地ではこの程度が限界なのかもしれません。