駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

「戸田茂睡生誕之地」の碑

2009年12月01日 10時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
ここは、追手町(おうてまち)10番街区、駿府城四ツ足御門跡のすぐ裏手
と言うより、早い話が新中町ビルの裏手の
旧静岡市中央保健所跡(現在は市立静岡病院の敷地内)です。

ここに1940年に建てられた「戸田茂睡生誕之地」という碑(いしぶみ)があります。


ここにあることは、以前から気が付いていたのですが
「戸田茂睡(とだ もすい)」という人を知りませんでしたので
(だいたいが「茂睡」の読み方さえ分りませんでした。)
格別関心を持つことなくやりすごしていました。

それが、図書館で静岡新聞社発行の「静岡県歴史人物事典」を
たまたま見ていたところ戸田茂睡が目にとまり
江戸初期の歌人として存外有名な人だと分ったしだいです。

それによる要旨は
駿府城主徳川忠長の家臣、渡辺監物の第6子として1629年駿府で生まれ
忠長が改易された際、父子ともども下野国、黒羽に流され
後に放免されて伯父である江戸の戸田藤右衛門の養子となり
戸田家を継ぎ和歌を好み風雅を愛した。
近世和歌の改革運動に先鞭をつけ
近世随筆文学の先覚者としても有名
「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などを著し
 1706年に亡くなり、墓は台東区浅草二丁目の浅草寺奥山庭苑内にある。
と言うことです。

今までやり過ごしていた碑も
そういうことが分った後であらためて見てみると
なにやらありがたいものに見えてきます。(笑)
また、もし忠長が改易されなかったら
駿府で一生をすごしたのかもしれませんね。

   ↑
こちらは、近くの新中町ビル横のフウの木です。
やはり大概は緑のままか、単なる枯葉状態のいずれかですが
一枝だけやや赤くなっているものがありました。
暖かい静岡の市街地ではこの程度が限界なのかもしれません。