駿府城築城のころ、三河の渥美郷から多くの瓦職人が
駿府に集められたという話はよく知られています。
かつては南安東村であった谷津山近くには「瓦場町(かわらばちょう)」という町があり
この町では今でも「渥美」姓の家が多いようです。
(1935年、南安東の小字(こあざ)であった「瓦場」を町名に採用。)
もちろん、ここで瓦用の土が採られ瓦が焼かれていたのでしょう。
(最初はここで土を採り、城下の車町で瓦を焼かせたとか)
一方、北安東村であった熊野神社(現;安東一丁目6番4号)近くにも
「瓦場屋敷」という小字(こあざ)が存在していたようです。
安東村(北安東村と大岩村が合併し安東村となった)は、
1929年に静岡市に合併しているのですが
1932年には「(大字)北安東(字)瓦場屋敷」といった従前の呼称は廃止されています。
駿府城下にならった安東一丁目(現在の住居表示町名の安東一丁目とは範囲が異なる)という「町名」に変更され
「小字」は管理されなくなってしまっています。
(現在は「町」と「大字」の明確な定義の差異はないようですが、
このころは静岡市に合併のつど、城下の駿府市中の例にならったいわゆる「町名」に変更されていたようです。)
したがって、この「瓦場屋敷」という小字の正確な場所は
大昔の公図を見るか地元の古老にでも聞かないかぎり分からないでしょう。
『この北安東村の瓦場屋敷でも瓦が焼かれていたのだが
瓦の納入の際の不都合により職人たちが処分されてしまったため
この地区の瓦焼きは早期に廃止になってしまった。』
という話があるようですが、真偽のほどは分かりません。
ところで、熊野神社のすぐ裏手には、昔から粘土屋さんがありました。
(現在、建物は残っているが20年ほど前に城東町60番11号に移転)
ここに粘土屋があったということは
現在はともかく過去には良質な粘土が採れたということではと思われます。
1300年以上前からあったという熊野神社あたりを歩くとき
もしかしたらこのあたりが瓦屋の屋敷跡だったのではと想像をたくましくし、
過去の歴史に思いをはせるのもおもしろいのではと思います。
そんなことを考えるのはお前だけだと言われそうですが(笑)
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だから瓦場町というと、「渥美さん集落」という認識がありましたが、元々三河に多いはずの渥美姓が何故瓦場町に多いのかは長年の謎でした。
でも、上のブログを読んで、その理由がやーっとわかりました。ありがとうございます♪
ある土地を見て歩く時、その地の古の姿を思いうかべるということはよくあることだと思います。少なくとも私は色々面白おかしい想像をしてしまいます。(あ、歴史を振り返るポイントがあおい君さんと全然違うかも)(爆)
意外と知られていなかったりしますね。
こういうことは、言われてみるとなるほどと妙に納得したりします
でも、まだまだ世の中、知らないことの方が多いのではと思っています。
わたしは、静岡市内、特に葵区の街中でふたをされた川を見る事ができないのならば、せめてその上を歩いてみたいと思うことがあります。
静銀本店裏から伊勢丹裏にかけての細い道は、このあたりの道にしては、やや屈曲しているのですが、ここを流れていた川を戦後になって蓋をしてそのまま道路にしたからではと、ここを通るたびに想像しながら歩いています。(笑)