駿 府 は 96 か 町

駿府はちぃっと覇気がないけぇが,御所(ごせ)っぽくていいじゃん【ごせっぽい≒平穏でせいせいしている様】

ただいま工事中

2009年12月07日 21時00分00秒 | 街かどのメヌエット




年末ということは、年度末(3月末日)まで
残された日時があまりないということです。

会計年度独立の原則とかいう法則に拘束されているお役所では
何が何でも3月末までに工事を完了をさせなければならなず
したがって、今の時期、あちこちで工事が行われているということのようです。




ところでこちらの工事では
現場に下記のようなパースが掲示されていました。

民間の工事ではよくあることですが
役所の工事では大変めずらしいことのように思われます。

完成予想図を掲示することで
工事に対する理解をしてもらえるということに
役所もようやく気がついたということでしょうか(笑)




↓ 塀で囲まれた場所がこのように変身するかと思えば、工事で通路が狭くなっていても妙に納得がゆく


葉なしのイチョウ並木の話

2009年12月06日 06時30分00秒 | 街かどのラプソディー
↓ 駿府城址二ノ丸(駿府公園1番)



静岡市内でもイチョウの葉が黄色く色づいてきて、公園内ではイチョウの黄葉を見ることができます。 


↓ 昭和通り(常磐町一丁目8番地附近)



でも街中の街路樹のイチョウは剪定されてしまっているので、ほとんど葉が残っていません。
 
静岡市では市街地の街路樹は秋から初冬にかけて剪定をして
枝を大幅に落としてしまうのが通例となっているようです。
 
これは、多分近隣住民から落ち葉に対する苦情が絶えないことからなのでしょう。
 
'60年代ぐらいまでは、自分の家の前はたとえ公道であっても
毎朝清掃するのが言わば当り前だったのですが
そんな習慣もすっかりすたれてしまったので、仕方がないのかもしれません。


↓ 駿府城址外堀・追手門附近(追手町9番街区)



したがて、この駿府城追手門附近のイチョウの街路樹も例外とせず、剪定されてしまったのでしょう。
せめて、この場所ぐらいはイチョウの黄葉を見られるようにするくらいの配慮をしてもいいと思うのですが・・・

ふたつの富士山

2009年12月04日 20時00分00秒 | 街かどのメヌエット

 ↓ これは、12月2日の静岡県庁展望室からの本物の富士山



 ↓ こちらは、同じ日の華道家の假屋崎省吾氏による「生け花富士」
 FDAの機内紙の表紙に使うため、静岡県庁展望室で実際の富士山を見て
 静岡県特産のお茶やワサビの花などを使い富士山を表現したものです。
 なお、作品は長持ちしないという理由から一般公開はされず、現場には写真が掲示してありました。
 これは、その写真を撮影したものです。





 ↓「生け花富士」の代わりに展示されていた假屋崎省吾氏の作品


静岡張子「首振りの虎」

2009年12月02日 05時30分00秒 | 駿府のバラード
▽ 早朝の「人宿町(ひとやどちょう)商店街通り」(町名で言うと七間町・人宿町二丁目・梅屋町)
 東海道は七間町通りから直角に折れてこの通りへ入り、さらに2丁(2ブロック)先で
 左に直角に折れて新通(しんとおり)へと入る。


 駿府城下は東海道沿いの人宿町商店街通り
この通りに10月のえびす講(横田町)で売られる祝い鯛で有名な沢屋があります。

 沢屋は安政元
(1854)年の創業と言われ、だるまなども作る老舗ですが
2010年用の年賀切手に採用されているトラは
この沢屋で作られている静岡張子「首振りの虎」なのだそうです。

年賀切手は年賀はがきほどは使われないとは言え
新年に静岡の張り子のトラのデザインの切手を張った年賀状が全国に配達されると思うと
 ちょいと喜ばしい気分です。


▽ 採用されたことを伝える新聞記事(部分)

「戸田茂睡生誕之地」の碑

2009年12月01日 10時00分00秒 | 路傍のいしぶみ (碑)
ここは、追手町(おうてまち)10番街区、駿府城四ツ足御門跡のすぐ裏手
と言うより、早い話が新中町ビルの裏手の
旧静岡市中央保健所跡(現在は市立静岡病院の敷地内)です。

ここに1940年に建てられた「戸田茂睡生誕之地」という碑(いしぶみ)があります。


ここにあることは、以前から気が付いていたのですが
「戸田茂睡(とだ もすい)」という人を知りませんでしたので
(だいたいが「茂睡」の読み方さえ分りませんでした。)
格別関心を持つことなくやりすごしていました。

それが、図書館で静岡新聞社発行の「静岡県歴史人物事典」を
たまたま見ていたところ戸田茂睡が目にとまり
江戸初期の歌人として存外有名な人だと分ったしだいです。

それによる要旨は
駿府城主徳川忠長の家臣、渡辺監物の第6子として1629年駿府で生まれ
忠長が改易された際、父子ともども下野国、黒羽に流され
後に放免されて伯父である江戸の戸田藤右衛門の養子となり
戸田家を継ぎ和歌を好み風雅を愛した。
近世和歌の改革運動に先鞭をつけ
近世随筆文学の先覚者としても有名
「紫の一本」「若紫」「隠家百首」「梨本集」などを著し
 1706年に亡くなり、墓は台東区浅草二丁目の浅草寺奥山庭苑内にある。
と言うことです。

今までやり過ごしていた碑も
そういうことが分った後であらためて見てみると
なにやらありがたいものに見えてきます。(笑)
また、もし忠長が改易されなかったら
駿府で一生をすごしたのかもしれませんね。

   ↑
こちらは、近くの新中町ビル横のフウの木です。
やはり大概は緑のままか、単なる枯葉状態のいずれかですが
一枝だけやや赤くなっているものがありました。
暖かい静岡の市街地ではこの程度が限界なのかもしれません。