夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

2009年03月07日 | 国家論

 

自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

hishikaiさんは、英国保守主義の三原理として、伝統主義と有機体主義と政治的懐疑主義を取りあげられていますが、たしかにこれらの原理は国家における真理を実現してゆくうえでとても大切だと思います。

とくに、このことは太平洋戦争に敗北した結果として、GHQによって制定された日本国憲法に見られる今日の病弊を考えるうえでとても重要な観点だと思います。と言うのも、現行の日本国憲法がその欠陥ゆえに、わが国社会に引き起こしている問題のすべてが、この英国保守主義の三原理、伝統主義、有機体主義、政治的懐疑主義を欠いていることに起因していると考えられるからです。

日本国憲法には、国家を一つの有機体として捉える観点は存在していませんし、日本の過去を「封建主義」の名の下に一蹴してしまって伝統主義のかけらもありません。また、ドグマと化した「平和主義」を狂信的に信奉する日本の憲法第九条擁護論者たちの多くは、自己の思想信条や信念を相対化する能力も、政治的懐疑主義のもつ謙虚さをも、いささかも持ち合わせていない人たちが大半だからです。

東京大学などで教鞭をとっている憲法学者たちにも、浅学な私の知るかぎりにおいても、英国保守主義の三原理の観点から憲法を論じる学者はいないと思います。憲法学者の樋口陽一氏に代表されるように、その多くはフランス革命の系譜を引く大陸系の実定憲法論者たちであり、現行日本国憲法が、あたかも不磨の大典のように、何らの懐疑的な精神もなく信仰されているように思われます。

hishikaiさんが英国保守主義の三原理として取りあげておられる観点を、別な角度から論じるとすれば、それは自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)との違いとしても取りあげることができると思います。

ご承知のように現在のイギリスにおいては憲法は成文化されていません。しかし、憲法が成文化されているか否か、軟性憲法であるか硬性憲法であるかという違いは本質的な問題ではなく、憲法の概念にとってもっとも重要なことは、その憲法が自然憲法(Verfassung)であるか、単なる実定憲法(Konstitution)であるかだと思います。

マッカーサーによって日本国民に与えられた日本国憲法は、たしかに、先の明治期に伊藤博文たちによって起草された大日本帝国憲法よりも、国民主権や国民の人権擁護、自由の規定においてははるかに進んだものでした。しかし、権利の行使や自由と民主主義について12歳のBOYである日本国民自身の自覚と感情は、かならずしも現行日本国憲法の水準に達しておらず、そのために大阪府や夕張市などの日本の地方都市に多く見られるように地方自治の形骸化を、民主主義の変質と堕落を招くことになっています。

それは何よりも現行日本国憲法が、伝統や文化から切り離された「作られた憲法」、実定憲法(Konstitution)であることから来ています。ヘーゲルも言っているように、憲法は「決してたんに作られるものではないからであり、それは数世紀にわたる労作であり、一国民において発展せしめられているかぎりの理念であり理性的なるものの意識」(法の哲学§274)が具体化されたものであるべきはずです。まして現行日本国憲法のように、日本の伝統文化にも無知なGHQの三流の進歩的知識人によって、二週間か三週間の一月足らずの間に作り上げられるようなものが憲法ではありえないからでです。

成文化された硬性のものか、あるいはイギリスの憲法のように不文憲法であるかを問わず、憲法は国民の伝統的精神によってつらぬかれた無条件に神聖で恒久的なものであってはじめて理性的な憲法といえるのだと思います。現行日本国憲法のように、マッカーサー憲法の翻訳にすぎない悟性的憲法では、とうてい国家としての日本国の永遠性も理性(ヌース)も体現したものではありえないのです。現在の日本国が、数学者の藤原正彦氏の言われるような品格無き国家だとすれば、それは日本国憲法が「国民の形而上学」とは無縁のところで成立したものだからだと思います。


『法の哲学』ノート§272(国家体制、憲法)

http://anowl.exblog.jp/8428820

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

http://anowl.exblog.jp/8437531/

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20051214

 

 

 


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2 コメント

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 (らくだ)
2009-03-09 01:02:11
日本という国は、文化的に言えば、輸入によって成立し、成立している雑種文化です。
漢字は中国から輸入されたものでした。仏教もその発祥の地からではなく、中国経由で取り入れ、今ではまったく独自な発展を遂げています。江戸時代には蘭学が最先端の学問とされ、明治維新後は食文化から服装に至るまで洋風化されました。

現行の日本国憲法はGHQによって押しつけられたものにすぎず、よってこれは日本という国家の脆弱さを示すと言われます。
外から何かを取り入れることは、いつも必ずそのものの独自性や自主性をそぐことになるのでしょうか?

漢字や仏教にはじまり、食文化・服装ですら、元来は輸入したものでありながら、今では日本独自の様態を見せているように思われます。
現行の日本国憲法がたとえ輸入・翻訳になるとしても、日本人が日本人の心性に従って運用し、日本という国の方向性を自らの手で開拓する限り、一国の尊厳を脅かすほどの脅威にはなり得ないように思います。
そもそもあなたが依って立つ「憲法」の概念や、「国家」の概念、ヘーゲル哲学ですら、輸入学問ではありませんか。
輸入された道具で輸入した道具を批判しても、日本国という現実の存在を相手にしては、何らの生産性ももたないように思います。
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らくだ様へ ()
2009-10-13 11:31:20

上記のらくだ様のコメントに対するご返事は、下の記事において述べておきました。ご参照ください。

http://blog.goo.ne.jp/aowls/d/20090309

http://anowl.exblog.jp/9441645/
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