だから、藤原氏が第三章の末尾で、「もちろん民主主義、自由、平等には、それぞれ一冊の本になるほどの美しい論理が通っています。だから世界は酔ってしまったのです。論理とか合理に頼りすぎてきたことが、現代世界の当面する苦境の真の原因と思うのです。」(p94)と言うときも、その洞察に思わず微笑せざるをえないし、また、それに続く第四章で、その苦境の「一つの解決策として」「日本人が古来から持つ「情緒」あるいは伝統に由来する「形」」を藤原氏は提示しておられるけれども、(p95)それらが、現代世界の「苦境」を根本的に解決する能力も可能性もないことについては、ここではこれ以上に論証するつもりはない。
ただ、この藤原氏の主張が、「情緒の過剰」と「論理と合理の欠乏」という日本人の民族としての根本的な弱点を拡大再生産することにつながらないことを願うばかりである。ここで「自然に対する繊細な感受性」や「世界一の庭師」や「茶道、華道、書道」などの伝統文化に藤原氏が誇りを持ち、それらにアイデンティティーを見出すのはもちろん自由であるが、その文化の反面は「ひよわな花」と形容されることも知るべきだろう。
また、現代日本の市民社会が退廃しているからという理由で、第五章で「武士道精神の復活」を主張され、志されること自体は、もちろん悪いことではないし、それなりに意義のあることかもしれない。しかし、もはや江戸時代の鎖国社会に後戻りもできない現代日本において、「近代的合理主義の欧米の精神や文化」の否定的な側面を「批判」するということは、そういうことではないと思う。
確かに、武士道の精神であれ、きっちりそれを日本人が実行できれば、それは欧米の「平均的な」モラル以上ぐらいは達成できるかもしれない。しかし、藤原氏が、この「武士道の精神」を「つまらない論理ばかりに頼っている世界の人々に伝えてゆかなければならない」と言って、「武士道の精神」から「論理と合理の精神」を排除するとき、この「武士道」の行き着く先は、先の世界大戦でのインパール作戦の悲劇の再演にしかならないだろう。
そして引き続く第六章で、「なぜ「情緒と形」が必要であるか」、その理由も説明しておられるが、ここでは、それにいちいち反論する意思も暇もないけれども、ただ、部分的には真実が語られているからこそ、この本が広く受け入れられていることになっている事は認めてよいと思う。
しかし、藤原氏が「情緒と形」という言葉で表現されている人間の「感性」という能力は、「悟性」や「理性」よりも低い動物的な能力であること、その分を弁えて、日本人の美しく素晴らしい繊細な「情緒と形」を主張するのでなければ、それは「おのれ誉め」にしかならず、それはすぐに「自惚れ」に転化することを知っておくべきだろう。それに、藤原氏は伝統やユーモアを重んじるイギリスの国柄やその美しい田園風景を評価され、イギリスの政治家のモラルの高さも認めておられるけれども、このイギリスも西欧の一国として、一面は近代的合理主義の精神の国であったはずである。「論理」と「情緒」は両立するし、させるべきものである。論理なき情緒は動物の情緒でしかない。
そして、藤原氏が「人間中心主義というのは欧米の思想です。欧米で育まれた論理や合理は確かに大事です。しかし、その裏側には拭いがたく「人間の傲慢」が張り付いています。」(p152)というとき、それは日本人が欧米人程度の傲慢さも持ちえないということでもある。それに傲慢であればあるほど謙虚さも深い。
また「閉塞感、虚脱感には、人間中心主義により自然が対立関係に陥った事実が深く影響」(p153)しているというとき、対立や分裂のない調和は、子供の調和でしかないし、対立や分裂が大きいだけ、快復した調和は深いということもある。一般に藤原氏に、こうした弁証法的な認識のないことが思考の弱点をなしていると思う。
「繊細な美的感受性の国」(p97)日本の現実の自然破壊(湾岸のコンクリート化や森林伐採を見よ)や風俗産業における女性の人身売買の現実は、「人間中心主義」の欧米よりも日本では深刻であるという事実を藤原氏はどのように説明されるだろうか。日本のパチンコ文化や都市景観の現実を見れば、日本人の「情緒と形」の精神の実際の現象形態がどういうものであるかがわかるだろう。果樹の良し悪しは、その結ぶ実によって分かると言うではないか。
藤原氏のように、「第二章で(自身の)論理の無力を説き、第四章で、それに代わるものとしての「情緒と形」を述べる」(p185)ことによって、果たして目的とする「国家の品格」が取り戻せるかどうか。
家族や友人たちとの人間関係において「論理」を優先するのは、おそらくアメリカなどの多民族の新興国であって、イギリスや日本のような多少なりとも伝統のある国ではその愚かさを国民は知っている。
そうではなく、国家のレベルで品格を取り戻すためには、政治や経済活動の公共の領域において、何が善で何が悪か、高い倫理と論理にもとづく正義(法)を回復してゆくことである。その論理を主張するということは、もちろん「口角泡を飛ばす」ことなどではなくて(修道院の奥で行われる、静かで情熱的な論争がある)、自由や民主主義の哲学についての深い理解と高い論理的な構築力によって、より完成された立憲君主国を建設してゆくことによってである。
もし藤原氏が「自由と民主主義」を疑うのなら、それに代わる武士道の精神にもとづく「品格ある国家」がどのようなものかを具体化してゆく必要があるだろう。
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