政治のありようは、その国民の鏡
「法律というものは、うまく履行すれば個人の犠牲を強いることなく──精神的な労働か肉体的な労働かを問わず、──働いて成果を得る喜びを人々に与えることができる。しかしどんなに厳しい法律でも、怠け者を働き者にしたり、浪費家を倹約家にしたり、大酒のみを禁酒家にすることはできない。
そのような変革は、一人一人の行動、節約意識、自制心をもってしか達成できないものだ。つまり先にすべきは、権利の強化ではなく、習慣の改善なのである。一国の政治のありようは、その国民を鏡に映したものに過ぎない。国民よりレベルが高い政治は、必ず国民のレベルにまで引きずり降ろされる。逆に国民よりレベルが低い政治ならば、国民のレベルにまで引き上げられるだろう。水が低きに流れる自然の理と同じである。
国の法律や政治も、国民全体のレベルにふさわしいところに落ち着いてゆくものなのだ。例えて言うなら、品格のある国民のもとでは政治も品格のあるものになり、無知で堕落した国民のもとでは政治も堕落する。事実、これまでの歴史を見れば、国家の価値や強さは、体制のあり方ではなく、国民の質によって決まってきた。」
サムウェル・スマイルズ『自助論』第一章 運命を切り開く自助の精神 NATIONAL AND INDIVIDUAL(国家と個人)
http://goo.gl/NI8AOs
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決して深くはないかも知れないけれども、英国の堅実で実証的な伝統的な哲学が象徴的に述べられている。国家について哲学的に考察する時にも、アダム・スミスやロック、ホッブス、ミル、バーク、ベーコン、そして、このスマイルズなど、英国の国家学の伝統と蓄積も不可欠の前提であるにちがいない。国家学の体系のどこに位置づけられるべきか。
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この国民性と政治との関係の問題は、宗教改革と政治革命との関係として捉え直すことも出来る。宗教改革による国民の精神的自立なき政治革命が民主主義国家体制にとって愚行であるとされるのも、その根拠はここにあるといえる。宗教改革なき政治革命の事例として取り上げることのできるのは、フランス革命、ロシア革命、中国文化革命、日本の戦後民主主義、イラク・アメリカ戦争など。
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