小平市の図書館には「本の福袋」というイベントがある。職員がテーマを決めて選んだ本を、中身が分からないように貸し出す。普段手に取らないような本との新しい出会いを演出する狙いという。正月休みの読書にと年末に行われ、今年で3回目だ。英字新聞に包まれて「中学年向け」で「地図を見ながら日本を旅しよう」という袋を借りることにした。
包みの中の3冊はどれも絵や写真がふんだんに使われている大判の本である。その中の一つ岩崎書店の「伊能忠敬」は掘り出し物だった。発行は2016年と新しく、著者は児童文学作家の国松俊英とある。忠敬という人物について詳しく解説したこの本を見て読んで、言い知れぬ感銘を受けた。最たるものは49歳で隠居が認められた忠敬が、天文学や暦学を思い切りやりたいと家督を長男にゆずり50歳で江戸に出たことである。
忠敬は1745年千葉県九十九里町で生まれた。幼名を三治郎という。寺小屋にも通い算術が好きで、夜になるとよく星を眺めていた。17歳のときに香取市の古い大きな商家の伊能家の婿養子となり名前を忠敬に改める。伊能家の商売に力をそそぎ、36歳で名主(村長)となった。38歳のとき浅間山が大噴火し、天候不順で大凶作となる。たくわえた米やお金を困っている人に分け与えた。
下総の国から江戸の深川黒江町(門前仲町)に移り住んで入門したい先生をさがした。50歳の忠敬は幕府の暦局(れききょく)に勤める19歳年下の高橋至時(よしとき)に弟子にして欲しいと頼み、その熱意が認められて天文学を学べることになる。55歳の1800年に幕府から蝦夷地測量の許可をもらう。奥州街道と蝦夷地東南岸の測量を皮切りに、伊能隊は17年かけて測量の旅を続けた。72歳のときに間宮林蔵から蝦夷地の測量記録を受け取る。73歳で死去、浅草源空寺の高橋至時の墓の隣に葬られる。